パイの追悼と余り物のスープ
夜明け前の霧が晴れない内にその湖に行くと、えもいわれぬような美しい湖面の花園が見られるのだそうだ。
そんな話をしたのは、第二席と三席の魔物で、場所はリーエンベルクの会食堂である。
しかし、その話を聞いたネアが、少しも目を輝かせなかったので、ウィリアムとアルテアは思わず顔を見合わせてしまったらしい。
どこか呆然とした様子の魔物達の視線を受け、ディノが気遣わし気にこちらを見る。
「ネア、………湖面の花はあまり好きではないのかい?」
「………むぅ。私の生まれ育った世界では、絶対に近付いてはいけない危険な光景ですが、こちらの世界では良いものなのでしょうか?」
「おっと、そうだったのか?」
「そのようなものが見えた場所に行くと、綺麗な姿をした悪いものに捕まって、水の底に引きずり込まれるのが一般的だとされていましたし、亡くなる前に見がちな光景だと言われたりもしていました」
「泉の系譜ならその方向もあり得るが、霧の湖であればそちらの系譜だ。寧ろ祝福だぞ?」
警戒心の強い乙女が少しも喜ばなかった理由を知ってほっとしたのか、アルテアがどこか得心したようにそう教えてくれる。
ウィリアムにも安堵の様子が見えるのは、そんな湖へのお誘いがあったのは、ネアの怒りを鎮める為だったからだろう。
「むぐぐ……………」
なのでネアは、少しばかり思案させて貰うことにした。
ただの美しい風景へのお誘いであればすぐさま頷くばかりだが、これは、本日お届けされる筈だったのに、よりにもよって廃棄されてしまった鶏肉のトマトクリーム煮込みが入ったパイへの追悼抗議なのだ。
美味しく食べて貰える筈だったパイの為にも、安易に頷いてパイ惨殺犯たちを許してはいけないのである。
そして、そんな伴侶の懊悩に気付いたのか、困ったように優しく微笑んだのはディノだ。
そっと手を伸ばして頭を撫でて貰い、ネアは水紺色の瞳を見上げる。
「ネア、………きっと君の好きなものだと思うよ。出掛けてきてはどうだい?」
「ぐる…………。パイを殺した罪を贖うに相応しいご招待かどうか、考えていたのですよ」
「うん。君は、食べ物を粗末にするのは嫌なのだよね」
「……………ふぁい。悪さをしてウィリアムさんを怒らせたアルテアさんもいけませんし、アルテアさんが食べ物入りだと見て取れる箱を持っているのに、終焉の魔物さん感を出したウィリアムさんもいけません。…………バターたっぷりのパイを使い、トマトクリームを使った煮込みも入っていたのですから、失われたお料理がどれだけ貴重なものなのかを理解するべきです…………」
それが、事の発端であった。
本日は使い魔からのパイが届く日だったので、ネアがうきうきしながら待っていたところ、手ぶらで訪れたアルテアがそんな経緯を説明し、パイの急逝を告げたのである。
ウィリアムを伴ったのは犯人を連行したつもりであったらしいが、そちらの言い分も聞き、ネアはどちらも犯人であるという結論を下したのだ。
結果として、ネアは怒り狂った。
とは言えそれは使い魔を酷使するご主人様の我が儘ではなく、手間と材料のかかっている素晴らしいパイの無念を思っての正当なる怒りである。
食べ物は、大切にしなければならないものだ。
世界には様々な価値観とてあるだろうが、こちらの領域では、とても大切な規約なのである。
「わーお。相当怒ってるぞ…………」
荒ぶるネアに怯えてしまい、少し離れた位置から怖々と見守っていたノアがぽそりと呟き、ネアはきりりとしたまま頷いた。
多くの場合、問題というものには必ず落としどころがあるのだが、ネアという穏やかで慈悲深い乙女にすら、どうしても許せないということがある。
そして時には、このように、哀れなパイの為に戦ったりもするのであった。
「中には、美味しいトマトクリームの煮込みも入っていたのですよ!」
「ったく。もう一度作ってやる。それでいいな?」
「ぐるるる!」
「アルテア………。ネアは、食べられなくなってしまったパイがあることが、悲しいのだと思うよ」
少しも空気を読まない使い魔を威嚇すると、ディノが、怒り狂う伴侶を宥めるようにアルテアを諫めてくれる。
そんな様子をなぜかじっと見ていたウィリアムが、ふっと何かに気付いたように白金色の瞳を瞠った。
そしてなぜか、こちらに歩いてくると体を屈め、ネアの両手を取る。
まるで、騎士の誓いのような仕草ではないか。
「……………ネア。今回の事は、俺にも責がある。大事なパイを駄目にしてしまってすまなかった。折角の美味しいものを駄目にしたのは、まずかったよな」
「………そうなのですよ?」
「ああ。もう二度とそんな事がないように、もし、次にアルテアをどうにかする必要があれば、ネアに届ける食べ物を何も持っていないかどうか確かめてからにしよう」
「失われたパイへも、きちんとお悔やみの気持ちを持っています?」
「ああ、勿論だ。食べ物を無駄にするのはいけないからな」
「……………おい。ここまで上辺だけの謝罪もないぞ……?」
「はは、あなたはどうだか知りませんが、俺は、素直に反省しているというだけですよ」
「言っておくが、あの土地もそろそろ切り捨て時だ。健やかな枝葉だろうが、伸びる方向がまずければ剪定の必要があるのは致し方ないだろうが」
「やりようの問題だと、考えた事は?…………あなたが使った呪いは、場合によっては疫病の門に格納する必要がある」
返すウィリアムの声は冷え冷えとしていたが、アルテアは赤紫色の瞳を酷薄に細め、ふっと嘲笑うような表情になった。
そんな表情をすれば、如何にも残忍な魔物という感じではある。
だがしかし、こちらの魔物はまだ、パイへの追悼の意を示していなかった。
「言っておくが、剪定は必要な措置だが、それに支払う労力は俺の持ち出しだ。先々の憂いを無償で払ってやる程に、慈悲深くはないんでな」
「だとすれば、今回の件は、そのままあなたの持ち出しだという結論になりそうですね」
「ほお?あの土地の軽薄さと自由を取り違えた連中に、無責任な希望を持たせたのはお前じゃなかったのか?」
「それは、所詮誰の手にもあるものでしょう。身を滅ぼすにせよ、気付かずに断崖から落ちるにせよ、生きているからには当然手にするべき権利でもある」
「であれば、権利には責任が伴うという顛末だ。どんな理由であれ、ただ目障りだというだけで充分だろう」
冷ややかに言い捨て、視線を戻したアルテアがぎくりとしたような顔になった。
それは勿論、権利と責任の果てとして、蔑ろにされたご主人様がじっとりとした目で自分を見ていたからだろう。
「……………作り直してやる。それでいいだろう」
「トマトクリーム煮込みのパイだったのですよ………?」
「言っておくが、お前の餌付けは、慈善活動みたいなものだぞ?……だいたい……………っ?!」
ここでなぜか、窓の方を見たアルテアが青ざめたので、ネアは、またしても注意散漫な使い魔を威嚇する為に足を踏み鳴らした。
「トマトクリームの煮込み入りのパイだったのです!」
「っ?!ここでその名称を連呼するな………!!…………くそ、……………俺が悪かった。いいか、二度とトマトクリームの煮込みのパイを粗末にはしないと誓ってやる。それでいいな?」
「………ぐる」
「…………………………今回の件は、俺にも責任があった」
「もう、二度としません?」
「ああ。食べ物の運搬中は、…………特にトマト関係の料理には、細心の注意を払う」
そう誓った眼差しがあまりにも真剣だったので、ネアはもういいだろうかと頷きかけ、おやっと眉を持ち上げて首を傾げた。
(……………どうして、トマト関係だけに絞られたのだろう?)
こちらからしてみれば、食材というのは平等に尊いものだ。
かつて貧困に喘いだ人間はどうしても、お気に入りだが手に入れ難かった高価な食材は贔屓してしまうが、とは言え、本来は全てを大事にしてこそのお料理担当の使い魔である。
「……………トマト関連だけではなく、どんな食材も尊いのです」
しかし、ネアがそう重ねて言えば、なぜかアルテアは絶望にも近い目でこちらを見るではないか。
そしてなぜか、その直後に、しゃりんという澄んだ音がした。
「ありゃ………」
「む?……………何か聞こえました」
「………どこからか、祝福が付与されたようだね。……………トマトの祝福……のようだけれど」
「……………わーお。ってことはまさか、また近くにいたのかな。……………あ、そう言うことか」
「ノアベルト?何でこっちを見るのか分からないが、俺は単純に、自分の行いを反省しただけだぞ?」
「ウィリアムは腹黒いからなぁ………」
「……………まさか、今の答えで正解なのかよ……………」
「むむ。なぜかアルテアさんが、がくりと座り込みました……。そして、トマトさんの祝福というと、最近貰ったものと同じようなものなのでしょうか?」
「同じ個体からのものだろう。君の考え方を気に入って、祝福を増やしてくれたようだね」
「まぁ!どんな祝福なのですか?」
ネアは、わくわくしてディノに尋ねてみたのだが、万象の魔物にもその詳細は分からないらしい。
それは、正体を掴ませないような得体の知れない魔術という事だからではなく、付与されたのが、靴の中に小石が入らないというような程度の、日常の中で小さな活躍を見せるようなささやかな祝福だからなのだそうだ。
ふむふむと頷き、ネアは、そんな時にとても心強い家族の一人に、魔術観測を行って貰う事にした。
元より、そのような細やかな魔術を紐解くのは、人間の方が向いているのである。
暫くしたのち、その判断を下してくれたのはエーダリアだ。
執務が終わるのを待って観測依頼をしたところ、何があったのだろうかと慄きながらも、きちんと道具を持ち込んできて調べてくれた。
「……………トマトを粗末にした者に、望む制裁を与えられる祝福だそうだ」
「ほわ、……………思っていたものと違いました」
「え、それって、…………本当に細やかな祝福に入るのかなぁ……?」
「制裁を与えてしまうのだね………」
「おい、俺は謝罪してやったぞ。こっちを見るな」
「ネア、先に謝罪をしたのは俺だっただろう?アルテアと一緒に見比べないでくれ」
何かに気付いたのか、二人の魔物が慌てたようにこちらを見る。
しかし、人間というものは、たいそう権力に弱い生き物であった。
突然大きな力を与えられてしまった人間は、得てして、その力に溺れるものである。
それはネアのような清廉な人間でも例外ではなく、ネアは、トマトの何某から授かった祝福を実際に使ってみたくなってしまった。
何しろこちらの人間は、本来は、魔術というものが使えないのだ。
それが今は、制裁という名目で高位の魔物に何かを強要出来るらしい。
「望む制裁を与えられる………のですね」
「ネア、…………念の為に言っておくが、このような祝福を使って、滅多な事はしないようにするのだぞ」
「こりゃ、手にした力を使おうとしてる感じかな………。え、どうしよう?」
「おや、こちらに支障がないのであれば、さして問題もないでしょう」
「わーお………」
「ヒルド…………」
「ネア、二人とも謝っていたのだから、あまり重たい制裁を科してはいけないよ?」
「……………決めました」
ここで、すっかり権力に溺れたネアのその言葉に、とても恐ろしい存在でもある筈の魔物達は途方に暮れたような目でこちらを見た。
それぞれにはっとするような美貌の魔物がそんな表情をすると、そっと背中に手を当てて励ましてやりたくなってしまう労しさだが、ここから先は、必要な慰謝料のようなものなのだ。
実は反省さえしていればいいと考えていた過去の自分を容易く葬り、身勝手な人間は、これから行う事こそが正しいのだと思い込んでしまっていた。
「健やかな料理を一つ殺してしまったのですから、私の厨房にあるそろそろ何かに使おうと思っていた残り物と、トマトを使って美味しい料理を作って下さい!なお、その作業はお二人で、協力して行うのですよ」
「……………は?」
「……………おっと。そうきたか」
「加えて、クリーム系のものを失ったので、私はそちらの領域のものが望ましいと考えています!」
「ご主人様……………」
「ありゃ。案外平和的に解決したぞ……………」
「ネア。くれぐれも、二人の予定は考慮してやるようにするのだぞ……」
「あら、作り終えれば、帰って構わないのですよ?」
「わーお。僕の妹は、邪悪だなぁ……」
「では、私は飲み物の準備をして参りましょう」
「ヒルド…………」
かくして、ウィリアムとアルテアは、邪悪な人間の指示により、二人で協力して料理をすることになった。
ネアの厨房の保冷庫にある、残り物の野菜やチーズのかけらなどを余すことなく使い作られたのは、トマトとチーズのキッシュに、余り物のスープである。
他に、パイも捧げておかねばならないと警戒したらしい使い魔から、棘豚とローズマリーの白葡萄酒煮込みのパイも足され、気を利かせたリーエンベルクの料理人達が本日の昼食を空けてくれたことにより、小さな食事会の席が設けられた。
ネアが、端っこまでグラッセにしてしまうつもりだった人参も、煮込んでくたくたにする筈だったセロリも、その全てが野菜の旨味たっぷりのトマトのクリームスープになり、一欠片も残さずお腹に入った。
育ち過ぎた香草はすり潰してディップソースになり、かりかりに焼いたパンに塗っていただくのだ。
並んで料理をする魔物達は、渋々だが連携せねばならずにいる内に、心も落ち着いたらしい。
ネアは、ちびふわにしてきりんタオルの入った籠に入れる必要なく済んだことに満足しながら、美味しい昼食を堪能した。
「あぐ!………隅々まで美味しい、素敵なお昼ですね」
「うん。これでもう、悲しくはないかい?」
「はい。大事なものの全てがきちんとお鍋の中で一つになりましたので、私がぺろりと食べてしまいますね。………ディノ、デザートの梨もとても美味しいですよ?」
「………ずるい。食べさせてきた」
「むぅ。儚いですねぇ」
テーブルには、とても遠い目で食事をしているウィリアムとアルテアもいたが、人の頭がトマトに見えるようにならずに済んだと小さく呟いていたので、このような甘い措置でトマトの障りから逃してくれた乙女には、より多くの感謝を捧げてもいいだろう。
ほんの数刻前に、選択の魔物の手入れを受け、死者の行列に蹂躙されて滅びた土地が、この世界のどこかにある。
けれどもそれは、ネアにとっては見知らぬどこかで、その土地で喪われた者達の怨嗟や絶望があったとて、与り知らぬことなのだった。
かつて、誰にも見付けて貰えなかった怪物は、見付けてくれた家族だけが幸せで健やかであればいいと考える生き物である。
なので、美味しいスープを丁寧に飲み干し、ぷはっと幸せな溜め息を吐いた。
家族が揃い過ごせる食卓は、穏やかで素敵な時間であるばかり。
他の感慨など、抱く筈もないのであった。