黒蜻蛉と硝子の小箱
ネアはその日、リーエンベルク前の並木道をノアと歩いていた。
なぜノアと歩いているのかと言えば、詳細は謎の魔物の会議が行われており、ディノがそちらに参加しているので、予定していた限定のクリームチーズケーキを食べに行く行事に付き合って貰っていたからだ。
お喋りをしながら歩いていた二人は、歩道を横断する毛玉妖精を踏まないように立ち止まった。
もわもわした水色の毛玉妖精は、最近はネアにも判別がつくようになったのだが、水の系譜のものだろう。
同じ水色でも、霧や鉱石の系譜の毛玉とは少し色味が違うのが特徴である。
(……………そう言えば)
「今更ですが、ノアは会議に参加しなくて良かったのですか?」
「うん。僕の場合は、…………今回はほら、………あまり会わない方がいい相手が出席してるからさ」
「さては、昔の恋人さんなのでは………」
「何でなのかなぁ。時々、随分前に別れた筈の女の子も刺そうとするからね。夏休みも近いし、今は刺されたら困るから回避しておかないとね」
「むむぅ。………今は、恋人さんとのお別れの際には、最新の注意を払っています?」
「ありゃ………。大丈夫だと………思うよ」
「とても自信がなさげなので、どうか自分の身を守って下さいね」
大きな木の枝葉の影で、ちかりと光ったのは結晶化した部分だろうか。
本日のウィームは、夏らしい陽気であった。
きらきらとした木漏れ日が落ちていたりもするが、雲一つない青空というのはたいへんに稀であるので、雲が少しかかるくらいの青空がウィーム流だといえよう。
今日は、少し離れた空にしっかりめに雲がかかっているので、もしかすると夕方頃には雨が降るかもしれない。
それでも、こうして覗く青空には夏だなという感じがして、ネアは、先程お腹に入れたばかりの素敵な夏雫の果実と夏毛牛のクリームチーズケーキの素晴らしさを思う。
夏毛牛とは、夏毛の牛という意味合いで、雪深く長毛種の牛が多いウィームでは、牛達にも換毛期があったりする。
夏毛に着替えた牛達は美味しい夏草をたっぷり食べて日光浴をする為、常時とは違う祝福を宿すこの時期の牛乳から作られる美味しいものの数々は、季節限定のメニューになっていることが多い。
ネア達が楽しんで来たクリームチーズケーキは、夏の夜明けのようと評される爽やかな酸味が特徴で、口の中でじゅわっと蕩けてなくなるような美味しさであった。
(おや………?)
その時、ひらりと黒いものが視界の端で揺れた。
ネアは慌ててノアに体を寄せ、ノアがおやっと目を瞠る。
寄り添ってしまったネアも、目を瞬いてしまった。
この並木道で胸が潰れるような事件があったのはもう一年近くも前のことなのだが、いきなり何かが視界を横切ると緊張してしまうことがある。
事件の直後のような怖さが残っている訳ではないのだが、反射的な警戒反応のようなものであった。
ノアもすぐに思い至ったのか、くすりと笑って肩を抱いてくれる。
「大丈夫だよ。ほら、ユレム………じゃないかな。ありゃ、……黒蜻蛉か」
「こちらの世界の蜻蛉さんは、あまり見かけませんが、………あやつがそうなのです?」
「うん。………結構珍しいんだよね。………ネア、お兄ちゃんが持ち上げてもいいかい?」
作ったばかりのゆったりとした微笑みを回収してしまい、青紫色の瞳を揺らしてそう問いかけたノアに、ネアは小さな動揺をぐっと飲み込んだ。
これは普通の反応ではない筈だ。
となると、すぐ近くをひらひらと飛んでいる黒蜻蛉は、あまり良くない生き物である可能性が高い。
尤も、ユレムも本来は良くない生き物なのだが、ネアは手刀で狩れるので何ら心配はなかった。
「ふぁい………」
「あ、ごめん。怖い思いをさせたよね。………音の壁を立てるけど、………黒蜻蛉は、手に入れた術者にしか使えない魔術付与の祝福を持つ妖精なんだ。エーダリアがずっと探していたから、出来れば捕まえたいかな」
「思っていたのとは違う理由でほっとしましたが、それもそれで急ぎます?」
「うん。…………よーし。魔術で囲いを作っておいたから、暫くはこの近くにいる筈だ。うっかり僕が捕まえた形になると、僕に付与が入るから、慎重に隔離しないとね」
「エーダリア様に繋ぎました!」
「うん。僕から話すよ」
ネアは持ち上げられながら素早く魔術通信をかけると、エーダリアを呼び出した。
今日はダリルとの打ち合わせをしている筈なのだが、そちらは身内であるし、ノアもそれを承知の上で黒蜻蛉を隔離したに違いないので、呼び出してしまっていいだろう。
“ネア………?何かあったのか?”
「僕から話すよ。………エーダリア、リーエンベルク前の並木道に、黒蜻蛉が三匹いるんだ。捕獲に出られるかい?」
“黒蜻蛉が………?!”
“あー、それは黒蜻蛉が優先だね。行っておいで。………ヒルドが補佐した方がいいんじゃない?”
通信の向こうからは、ダリルの声も聞こえてくる。
本日の打ち合わせは、魔術薬の値上がりによる、文書館の料金改定についてのものらしい。
原価が大きく変わる素材の多い魔術に関わる業務では、このような料金の変更は珍しくないそうで、文書館の料金変更は昨年にもあったのだとか。
切迫した議論などのない打ち合わせなので、ダリルダレンの書架妖精ものんびりとした声である。
とは言え、お金周りの事なので細部までしっかりと確認をした後に承認する仕組みになっているようだ。
“ええ。私が同行した方が良いでしょうね。ネイ、逃げないように周辺の隔離をお願い出来ますか?”
「うん。それは問題ないよ。今日は、グラスト達も出かけていたよね?準備なくリーエンベルクを軽くも出来ないだろうから、門のところで入れ替わろうか」
“そうしていただけると助かります”
ネアはここで、リーエンベルクは準備なく軽くしない方がいいのだという知見を得て、ふむふむと頷いた。
夏休みなどにダリルに任せて出かける事があるので、ダリルがあれば問題ないとばかり考えていたが、そのような引き継ぎには何らかの準備がなされていたらしい。
「さて、という訳だからちょっと急ぐよ」
「はい!」
ノアは軽く転移を踏みリーエンベルクの正門前に移動すると、急ぎの収穫物があるので、エーダリア達が門の外に出る事になることを、正面の警備にあたっていたアメリアに手早く説明している。
アメリアは獲物が黒蜻蛉だと聞くなりすぐに、騎士棟に連絡を取って禁足地の森側の見回りの騎士を変更すると、ゼベルをエーダリア達の護衛騎士として手配してのけた。
(こんな時、正門前の警備に、アメリアさんがいると助かるのだわ……………)
実はアメリアは、正門前の警備に立つ事が多い騎士の一人だ。
勿論この位置の警備は、リーエンベルクの正面を守るという大事な役目であるのだが、実はこの正門前に立つ騎士というのは、意外に処理能力の高さが求められるものなのだ。
リーエンベルク在住者の出入りだけでなく、来訪者受付を知らずにやって来てしまう訪問客の対応なども含むありとあらゆる問題が発生すると思えば、アメリアのような騎士の配置に長けた者こそが活躍する現場でもある。
そんな理由の一端を目の前でてしまい、ネアは、玉突きで三か所の騎士の配置替えを済ませてしまったアメリアに、頼もしさでいっぱいになった。
「すまないな、見付けてくれて助かった!」
連絡を受けてすぐに移動したのだろう。
エーダリア達もすぐに駆けつけ、配置代えを受け、正門前にやって来たゼベルも合流する。
到着するなり、同行の際に気を付ける事などの情報交換を素早く行うゼベルも、第二席の騎士に相応しい頼もしさであった。
もし何かがあった際にノアがすぐに手助け出来るよう、ネア達は正門のすぐ内側のところに留まり様子を見る事になった。
少し遠いが、捕獲大作戦の応援も出来そうなので、ネアはググっと拳を握る。
黒蜻蛉は、獰猛な生き物ではないのだが、捕獲が難しい妖精なのだそうだ。。
門を出ていくエーダリア達を見送りながら、ノアがそんな黒蜻蛉の話をしてくれた。
「さっきはさ、黒蜻蛉が聞き漏らさない単語があるから説明出来なかったんだけど、黒蜻蛉って、暗殺や襲撃の予兆に現れる妖精なんだよね」
「…………そやつは、本当に安全な生き物なのですか?聞き耳を立てられている段階で、油断ならない感じがします……」
「複数個体で飛んでいる時は、ただの散策だからね」
「さんさく…………」
「寧ろ、黒蜻蛉がのんびりしている時は、周囲にその気配がないってことだから、安全でもあるのかな。………その代わり、一匹だけで羽を光らせて現れた場合は要注意なんだ。予兆の魔術が現れた場合は、必ず因果が結ぶ類の、階位の高い妖精だからね」
「そんな妖精さんを捕獲してしまっていいのでしょうか?恨みを買いそうな気がするのです………」
「ありゃ………」
ネアは、万が一良くない縁でも結ばれたらと不安になってしまったが、予兆の系譜の生き物の特徴として、見付け出した者だけがその事案を回避出来たり、捕縛した者にだけ、系譜の祝福を授けてくれる生き物もいるのだそうだ。
暗殺や襲撃というものの特性として、今回の黒蜻蛉は、まさにそちらの特徴を持つ妖精にあたる。
(暗殺や襲撃は、……………気付けば防げるものだから、という事なのだろうか)
祝福と聞いても、うっかり、暗殺や襲撃の確率を上げる祝福しか想像出来ていなかったネアは、それを知ってほっと胸を撫で下ろした。
「黒蜻蛉はさ、捕縛した者に、暗殺や襲撃の前に、その予兆を掴むことが出来る祝福を授けてくれるんだ」
「まぁ!それはもう、エーダリア様には必要な祝福ですね。…………すぐにそう考えてしまえるのも悲しい事ですが、必要なものは必要なのです」
「うん、そうだよね。僕が気付けば全部潰して回るけど、ああいう立場だからさ、誰にも予測出来ないような意味のわからないものもあるんだよね」
そう呟いたノアは魔物らしい冷ややかな眼差しだったが、ネアは、この家族がエーダリアを大好きなことを知っていたので、そっと背中に手を当てた。
そうすれば、ふっと瞳を瞠ってこちらを見たノアが、くしゃりと微笑みを深める。
「勿論、僕やヒルドの守護やあの指輪もあるけど、迎え撃つ手は幾らあってもいいと思うんだ。僕の大事な家族を助けてくれる祝福だから、絶対に手に入れて貰わないと」
「うむ。…………そして、既に一匹を捕獲したようですよ!」
「わーお。ヒルドとゼベルが一緒だから、仕事が早いなぁ……………」
黒蜻蛉は、予兆の仕事をしない普段はふわふわ飛んでいるだけだが、祝福を貰う為に捕縛しようとする気配があると、素早く察して姿を消してしまうらしい。
代理での捕縛も出来ず、襲撃や暗殺という単語にも敏感に反応してしまうので、一般的には捕縛の機会が少ない妖精としても有名なのだ。
「となると、先程のノアがやったような事は、大丈夫なのです?」
「牧場に柵を設けるようなものだね。手を伸ばして触れるとすぐに消えちゃうけれど、特定の敷地内に気付かれないように閉じ込める事は出来るよ。だからほら、ゼベルが同行したのは最適解だね」
「エアリエルさんがいるからなのですね…………」
「そういうこと。……………わーお、あれ二匹目じゃない?……………普通、一匹捕まえると残りは逃げちゃうんだけど、ヒルドがいるせいで逃げ遅れたのかな…………」
「なぬ……」
ヒルドがいたせいで逃げ遅れたとはどういう事だろうかと目を瞬いたが、黒蜻蛉は、元々は森の生き物の狩りなどの場面から派生した妖精なのだとか。
時代に合わせて、暗殺や襲撃を予兆する妖精となったが、派生した時の系譜のままに森の資質も持つ。
今回は、その最上位の妖精であるヒルドが現れた事で、動揺して逃げ遅れた可能性が高いらしい。
「もう一匹はさすがに逃げたけど、二匹も捕まえたのは上出来かな。これで、二回はその手の危険から身を守れるってことだからね」
「………むぅ」
嬉しそうな微笑みにどこか誇らしさも混ぜてそう呟いた塩の魔物は、隣にいる人間が強欲な狩りの女王である事を失念していたようだ。
そして、家族の狩りの様子を見ていたネアは、何だか羨ましいので自分も価値のある獲物を捕まえたいという、理由のない残忍な衝動を抱えてしまう利己的な人間であった。
無事に目的を達したエーダリア達がほっとしたような笑顔で戻ってくると、ネアは、お祝いの言葉もそこそこにノアの腕を掴んで外に飛び出すと、木々の生い茂る禁足地の森へと向かう。
リーエンベルクの外周の歩道には街路樹が植えられているのだが、禁足地の森近くになると、この街路樹に集まってくる生き物達も様子が変わってくるのだ。
「……………ええと、僕の妹はどうして急に、狩りがしたくなっちゃったのかな?」
「私だって、何か珍しい生き物を狩るのですよ!」
「わーお。それが理由かぁ…………。でも、今日はシル達が不在にしているから、禁足地の森に入るのはやめておこうね」
「ぐるる…………。……………ていっ!!」
「え、……………狩るの早くない?!」
「むぅ。ユレムでした。この程度のものは見慣れているので、少しも嬉しくありません…………」
「それ、あんまり見慣れちゃいけないやつだからね?!………しかも、ユレムがいるってことは、あまりいい傾向じゃないんだよなぁ。僕の妹は、すぐに変な生き物を捕まえちゃうし…………」
この世界に来たばかりの頃から狩っているいる生き物には何の目新しさも感じられず、ネアは、鋭い目で周囲を見回した。
獰猛な人間が払い落とした蝶を手掴みで拾い上げようとするので、ノアが、慌てて代わりに拾ってくれる。
(私も何か、これは珍しくて家族の為になるぞというものを狩りたいのに………!!)
ネアは、何か変わった生き物がいないだろうかと必死に探したが、あまりにも必死だったせいか殺気のようなものが隠し切れなかったらしく、木の枝から足元の茂みからと、近くにいた生き物達が慌てたように逃げ出していく。
狩りの女王は、そうして逃げ出していく妖精や精霊も余さず目で追ったが、珍しい獲物になりそうな生き物の影はない。
「ぐるるる!!!」
「わーお。怒ったぞ………。よしよし、お兄ちゃんが、今度珍しい織物市に連れて行ってあげるから、今日は我慢しようか」
「………ぐるる」
珍しい織物市と聞いて、ネアが少しだけ興味を示した時のことだ。
かさかさと音がしておやっと足元を見ると、葉っぱのついた小枝のようなものが走ってくると、ネアの足元にライラック色の布に包んだ、美しい硝子の小箱を置いて慌てて立ち去っていく。
困惑して首を傾げたネアに、体を屈めてその小箱を取り上げたノアが、わーおと呟いた。
「素敵なものなのでしょうか?」
「サンザシの小箱だね。………ええと、有体に言えば、森の系譜の有名な宝物で、災いを鎮める為に使われるらしいよ。………え、僕も見るの初めてなんだけど」
「………あの棒切れは、これをくれたのですか?」
「うん。ネアが怒って足踏みしてたから、慌てて鎮めに来たって感じかな」
「綺麗な硝子の箱ですね。………小枝がレースのように重なる細工がとても綺麗で、こうして大きな木の下で見ていると、複雑な色が入るようです」
「一個しかないって物じゃないけど、森の秘宝の一つだからね。森に恩恵を齎す者に対してのみ、一度だけ奇跡を授ける箱だよ」
「ほわ………」
「因みに、ヒルドが箱を開けるようにすれば、ヒルドにとって恩恵のある者って括りで、家族だけじゃなくてウィリアムやアルテアにも使えるかもしれないね」
その説明を聞き、ネアはびょいんと飛び跳ねた。
やはり、狩るべきときに狩れてこその狩りの女王である。
「収穫がありました!!」
「………おかしくない?ここ、まだリーエンベルクの横なんだけど。………なんだ森の深淵にいる筈のハシバミの魔物が出てきたんだろう……」
「まぁ、魔物さんだったのですね。よく出来た棒切れですので、どこかで見つけても踏み滅ぼすのはやめておきましょう」
「これだけ凄いものが出てくるとさ、お兄ちゃんは、却って妹が心配になっちゃうな………」
「必要な収穫は、全て有り難く貰うのですよ?」
「うん。………だよね。これがあるだけで、可能になることは随分と多いのは確かだから。………え、でも何でこんなにすぐに貰えるんだろう………」
自尊心が満たされ、たいへんにご機嫌になってリーエンベルクに帰ると、呆然としたエーダリアが図鑑用に模写がしたいと言い出したり、また妙な信奉者を増やしたのではと荒ぶる使い魔が駆け付けてきたりした。
いい循環だねぇと笑いながら帰っていったダリルは、これから大事な司書妖精を連れてクリームチーズケーキを食べに行くのだそうだ。
ネアは、そのお店の選べるソースは、エーダリアを褒めると半量ずつで二種類にも出来るシステムなのだと、とっておきの秘密を伝えておいた。
それもまた、本日の狩りの女王の素敵な収穫の一つであったのだ。