綿毛の呪いと予防接種
「綿毛の呪い………」
ネアはその日、恐ろしい疫病の系譜の呪いの話をエーダリアから聞いていた。
いつも通りに目を覚まして支度をし、美味しい朝食のバターたっぷりブリオッシュを食べていたところである。
余談だが、リーエンベルクのブリオッシュは、一個ずつ焼くころんとした形のものもあるが、一般的には長方形のパン型で焼くものだ。
それを薄切りにしてそのまま食べてもいいし、トーストにしてバターを塗った上にハムをそっと重ねると至高の一品になる。
ネアは、こちらに住むようになって初めてその組み合わせを食べた時、息の音が止まりそうになったのでたいへん危険なレシピだと今でも信じている次第だ。
「ああ。綿毛の呪いなのだ。………リリロンという魔術から生える小さな植物があるのだが、それが、今年はウィーム中央の河川周辺と、ヴェルリア領との国境付近で確認されている。国民や移住者は皆どこかで予防接種を受けるのだが、移住後五年という規定があった為に、お前はまだだったからな」
「………その、綿毛の呪いを受けると、どうなってしまうのですか?」
「ひと月、味覚がなくなるのだ」
「ぎゃ!!!」
「…………なので、そろそろ受けておいた方がいいだろう。本来、症状が出易いのは魔術に多く触れる魔術師なのだが、お前の場合は可動域に反して守護などが手厚い。表層の魔術量で判断されると、症状が出てしまうかもしれないからな」
「……………ぎゅ。絶対に受けるのですよ。もし、私の味覚を奪うようであれば、その種を根絶やしにしてくれる……」
「ご主人様………」
「わーお。怒ってるぞ………」
「………そ、それでだな、………今回のリリロンの確認を受け、ウィーム中央の医院でも予防接種を始めているのだが、お前はこちらで受けた方がいいと思うのだ」
そう言われ、リリロンへの憎しみを燻らせていた人間は、こてんと首を傾げた。
「まぁ。お医者さんが、こちらに来てくれるのですか?そこまでお手数をかけてもいけませんので、病院に行きますよ?」
「いや、お前の場合は守護に触れるといけないので、アルテアかウィリアムに頼もうという話になっている」
そんな事を、これで安心だろうと言うように告げたエーダリアに対し、ネアは、わなわなと震えた。
医療行為は、資格のある人に行って欲しいので、安易に未経験者に頼んではいけないものだ。
「……………素人の注射はお断りです」
「ありゃ。そう考えるのか………」
「ご主人様……………」
「簡単なように思えるかもしれませんが、注射一つとは言え、奥深い技術があるのですよ!私は、ずっと昔に採血された際に、とんでもない目に遭った事があるのです!」
「……………血を、…………取られたのかい?」
「え、……………誰にやられたんだろう」
ネアは、医療行為に携わる人達の話をしようとしたのだが、思いがけず魔物達が荒ぶってしまったので、生まれ育った世界では採血はそこまでまずい事ではなかったし、治療の上で必要な数値確認があったのだと説明しておく。
それでも拒絶感があるのか、ディノとノアは悲しそうだったが、ご主人様の血が抜き取られた事よりも、今は、ご主人様に予防接種を行う相手の議論をしたいのだ。
「因みに、こちらの世界の予防接種も、腫れたりするのですか?」
「ああ。魔術反応が出る場合もある。患部が腫れて熱を持ったり、場合によっては発熱することもあるそうだ。ごくごく稀に、指先が透けることがあるが、その場合は、薬湯治療だな」
「……………ゆびさきがすける」
ネアは、それはもはや予防接種の副反応で済むのだろうかと困惑したが、エーダリア曰く、幼い子供などにはよく起こる現象なので、魔術薬を飲んで一晩眠れば問題ないのだそうだ。
加えて、子供達にその反応が出易いのは、魂の中に収められる記録がまだ軽いのでという理由からであるらしく、可動域が低くともネアには適応されないらしい。
「こちらの世界に来てからの時間で、認識されたりはしないのでしょうか?」
「ああ。予防接種の魔術薬は、感情や行動の経験にも作用する。お前の場合は大丈夫だろう」
「まぁ。そのようなものなのですね………」
「ですので、記憶喪失の者などが接種を受けると、透き通って見えなくなってしまったという症例もあるようですよ。確か、ヴェルクレアでは、記憶を失って二年以内の、現在も記憶が戻っていない者への予防接種は禁止されておりましたね」
「ああ。認識されなくなるという状態は、様々な危険を孕むからな」
「むむ。確かに………」
そう聞けば確かに、意図的に記憶を失わせて体を透き通らせ、刺客などに仕立てるという事にも使えそうではないか。
ネアは、予防接種一つでも様々な対処をしていかなければいけないことにあらためて驚いてしまい、けれども、先程の議論が終わっていないことを思い出した。
「そして私は、あちらのお二人よりも、本職の医師の方がいいです」
ネアが視線で示したのは、なぜ今日はここにいるのだろうと思っていた、ウィリアムとアルテアである。
訪問の目的を曖昧にするのでおかしいぞと思ってはいたのだが、どうやら、予防接種班であることをひた隠しにしていたらしい。
「念の為に聞くのだが、お前は、注射そのものは問題ないのだろうか?」
「はい。以前は体が弱かったので、注射を受けること自体は珍しい事ではありませんでしたから。注射そのものを怖いと感じる事はありませんので、ご安心下さいね。……ただし、素人の医療行為については、大きな懸念があります」
「うーん。随分と警戒されてるなぁ………」
「言っておくが、俺もウィリアムも、医師として働いていたこともある」
「…………むぅ。それは、暇潰しに医師の方に成りすましていたというくらいなのでは………」
「お前な…………。擬態の一環だとしても、水準以上の技術がなければ、医師のふりなんぞ出来ないだろうが」
「ネア、薬湯は大丈夫なのに、注射は駄目なのかい?」
「薬湯はレシピですが、注射は技術なのですよ………?」
ネアは、とても頑張って抵抗したのだが、一般の医師にはネアへの接種が難しい理由があるらしい。
何しろ守護が分厚いので、その守護に触れないように接種を行うとなると、高位の魔物くらいにしか可能とならない措置なのだ。
その中でも、守護を与えている当人が行うのが一番簡単なので、白羽の矢が立ったのが、ウィリアムとアルテアである。
「ほら、僕とシルだと、きっと失敗するからさ」
「ぎゃ!!!」
「朝食を終えたところなので、丁度いいだろう。そろそろ始めてしまうといい」
「私は、今このお話を聞いたばかりなのですよ?」
「場合によっては、……………お前も銀狐みたいになるといけないと思ったのでな………」
どこか後ろめたい表情を浮かべたエーダリアに、予防接種の日の銀狐に、お散歩だよと言い含めて連れ出すのと同じ運用だったのだと教えられ、ネアは、がくりと項垂れた。
「もし、熱などが出るようであれば、相応の準備をしておきたかったのだ……………」
「そこは安心していい。アルテアが、今夜はこちらに滞在してくれるそうだ」
「ぎゅむ。発熱する前提が強過ぎます……………」
結果として、予防接種はウィリアムが行う事になった。
疫病などの系譜も治める終焉の魔物であるので、今回の、疫病の系譜の呪いとなる綿毛の呪いを防ぐ行為には長けているらしい。
休日らしい装いで、白いシャツの腕をまくり、ここばかりはこちらの世界でもお馴染みの形のままの注射器の準備をするウィリアムを、ネアは、じっとりとした目で見つめる。
ウィリアムは苦笑していたが、ネアとしてはやはり、せめて同じ人間に行って欲しいという気もするのだ。
体の作りの違いや、注射針は乱暴に突き立ててはいけないという事を、こちらの終焉の魔物は知っているのだろうか。
「…………その、注射は、そっとやるものなのですよ?」
「ん?……………ネア、俺はこれでも、人間の医院にいた事があるんだぞ?」
「ぐるるる…………」
「ありゃ、威嚇し始めたぞ…………」
「ギモーブは、あげてもいいのかな」
「今はやめておけ。……………おい、こっちを睨んでも、どうにもならんぞ」
「ぐるる!」
注射針に何かがあるといけないので、むしゃくしゃしていても怒り狂えない乙女は、全員に取り囲まれて注射を受ける事になった。
たいへんに今更であるが、綿毛の呪いは、魔術階位の高くないリリロンの怨嗟から起こる、疫病の系譜の呪いである。
リリロンの周辺に見られる事の多い、結晶柳というアイリスに似た花をつける植物があるのだが、そちらは、土地の魔術の恩恵を受け、それはそれは美しい花を咲かせるのだ。
すぐ近くでその美しい花を見たリリロンが、怒りのあまりに飛ばすのが、触れたものに呪いを授ける疫病の綿毛である。
種子相当のものではなく呪いの飛散の為の綿毛なので、見かけたら決して触れないようにするのが一般的な対処法なのだとか。
「でもさ、綿毛の形をしていればまだ避けられるんだけど、地面に落ちて踏まれたりしてから舞い上がる繊毛が、どこかに残っていたりもするんだよね。どこで貰ってくるか分からないから、予防接種は絶対なんだ」
「ぐるるる……………」
「よし。……………ネア、袖を捲るぞ」
「ち、注射器は、その持ち方でいいのですか?!」
「ああ。これでいいんだ。……………ん?……………ですよね?」
「ああ。寧ろ、それ以外のどんな持ち方があるんだよ」
「こんな時に、初めて異世界の注射のお作法を知るのは、怖過ぎるのだ…………。狐さんの予防接種の時は、きちんと持つではないですか……………」
「あれは獣用だろうが。人間用は、薬液の扱いもあるのでこの方式だぞ」
「ぎゅむ……」
ネアは、何の間違いもないように注射の瞬間を凝視しようとしたのだが、伴侶が心配になってしまったらしいディノに、なぜかさっと目隠しされてしまう。
むがっとなった瞬間にちくりと針が刺さる感じがして、一瞬で予防接種が終わってしまった。
「………終わったかい?」
「ええ。これでお終いです。もう、ネアの目を覆わなくても大丈夫ですよ」
「うん。有難う、ウィリアム」
「……………ぷは!」
解放されたネアが慌てて左腕を見てみれば、ウィリアムが、小さな丸いシールのようなものをぺたりと貼っているところだった。
これは何だろうと凝視していると、注射した箇所の止血や消毒を行う添付型の魔術符なのだそうだ。
僅かに檸檬の香りがして、表面には可愛い檸檬の絵が入っている。
「一刻程は、貼ったままにしておいてくれ。気分が悪かったりはしないか?」
「…………いえ。気分などに変化はないようです。そして、気のせいでなければ、シールの袋に、お子様用と書いてある気がするのですが……………」
ネアの指摘におやっと目を瞠り、ウィリアムは、手に持っていた添付型の魔術符の袋を丁寧に閉じている。
どう考えてもお子様用だが、謎のパンの魔物の絵のものではなく、檸檬にしてくれたのは幸いであった。
特に、毛玉妖精柄の魔術符は、どんな匂いがするのか分かったものではない。
「いい香りがした方が、ネアも嬉しいかなと思ったんだ。大人用は味気ないからな。………目を見せてくれ」
「むぐ……」
顎先に指をかけられ、顔を覗き込むと、ウィリアムは一つ頷いた。
立ち上がり、アルテアに目配せをしたのは、どんな意味を含むのだろうか。
「今日は、安静にしておいた方がいいのですか?」
「ああ。入浴も出来れば控えた方がいい。リリロンは水辺の植物だから、魔術薬の効果には反対の資質を持たせてある。その効果を下げるといけないからな」
ネアは、そんなウィリアムの説明に頷き、であればこの予防接種には火の効果があるのかなと思っていたが、篝火を示す音楽を術式の中に織り込んであるのだそうだ。
そうなるともはや完全に想像の限界の向こう側なので、予防接種の仕組みについての理解は放り投げる事にした。
「こちらに来たばかりの頃に、綿毛の呪いを受けずにいて良かったです」
「綿毛関連の呪いは他にもあるけれど、リリロンの呪いは、土地に一定の期間暮らしていた者しか付与されないんだ。なので、ウィームでは五年目からの接種なのだろう。君の場合は、暮らしているのが領主館で、守護の層も厚いのでと、特別に早く受ける事になったんだよ」
「無差別に呪ってくる感じでしたが、きちんと、対象を絞り込んではいるのですね…………」
「土地の恩恵を得られない事への復讐だからな。…………実に魔術薬としての薬効がなければ、都市部では根絶の魔術をかけてもいいんだろうが、そうもいかないだろうよ」
アルテアの言葉におやっと眉を持ち上げると、リリロンの実には、熱冷ましの効果があるのだと教えてくれた。
魔術の階位が低いのにとても効き目が強いので、安価な魔術薬の材料として重宝されている。
実がなるまでは何とか無事に育って欲しいとなると、人間の側が、綿毛対策をするしかないのだそうだ。
「……………ところで、窓の向こうに、頭にバケツを被ったような謎の生き物がいますが、あれは何でしょう?」
「知るか。目を合わせるなよ…………」
「あれは、……………何なのだろうな。私も、先程からずっと気になっていたのだ」
「エーダリア様が、注射をされる私に見向きもせずに窓の方を見ていたので、何だろうと気になっていたのです。………頭にバケツを被った、……………鳥さん?あれは、うっかりバケツに頭を突っ込んで抜けなくなったのではないですよね?」
「ありゃ。……でも、目の部分に穴が開いてるから、自前かな………」
「魔術の階位は低いようだよ。………遮蔽をかけたので屋内は見えないと思うけれど、………鷲の一種かな」
「鷲とは………」
困惑のあまりに眉を下げたネアに、ヒルドとノアも窓の方を見て難しい表情になっている。
何やら考え込む様子を見せていたウィリアムが、ここであっと声を上げた。
「……………もしかすると、発熱の予兆を司る鳥かもしれないな」
「ほわ、……………はつねつ」
「発熱の予兆なのだね……………」
「おい!さっさと部屋に戻るぞ。着替えて早く横になれ!」
「ぐるる………」
ネアは、すぐさま自室に連れ戻され、寝間着に着替えて寝台に押し込まれたところで熱が出た。
その後はもうくしゃくしゃになっていたのだが、ぼんやりした意識の中で、何度か冷たくて美味しいゼリーや冷たいスープなどをいただいたような気がする。
窓の外に現れた鳥は、何度か高熱の患者がこんなおかしな生き物が現れたと図解したことがあったが、熱にうなされて幻覚を見たのだろうと取り合って貰えずにいたものだったらしい。
ただ、そんな話を勤務していた医院でも何度か聞いていたウィリアムは、発熱の予兆にあたるのではないかと考えていたそうだ。
二百年ほど前の事だったのですぐに思い出せなかったそうだが、今回の一件で発熱が見込まれる者の近くに現れる鳥だと判明したので、今後はガレンなどでも研究が進むかもしれない。
なお、その鳥は騎士棟の方でも目撃され、どうしてだろうと皆が首を傾げていたところ、騎士の一人が、高熱を出して三日間も寝込んでしまった。
回復してからの聞き取りによれば、買っておいた高価な燻製ハムをうっかり保冷庫の中で寝かせてしまい、もはやいつのものだか分からなくなっていたものの、呆れめきれずに食べてしまったそうだ。
ハムそのものは美味しかったので、当人としては悔いはないという。
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