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言葉のない願いと一枚のカード



「……………これは、片付け忘れだろうか」


その日、リーエンベルクの廊下を歩いていたエーダリアは、ぽこんと落ちていたボールに気付き、足を止めた。


落ちていたのは何枚かの柄のある端切れを使って作られたボールで、ネアがパッチワークのようだと気に入ってよく投げてやっているものだ。

首を傾げて拾い上げ、また少し歩き、目を瞬く。



今度はそこに、黄色いタンポポの刺繍のある羊毛を圧縮した生地のボールが転がっている。


こちらは、銀狐会からの贈り物なのだが、刺繍糸が歯に引っかからないようにと、転がして遊ぶ用のボールになっているものだ。

それも拾い上げ、また少し進むと別のボールが落ちている事に気付く。



「……………もしや、運んでいて落としていったのだろうか」



そう呟き、これはもう他にも落ちているに違いないと拾い集める備えをし、その後もぽこぽこと落ちているボールを拾った。

あっという間にポケットには入らなくなり、魔術金庫に入れてゆく。


そして最後に、落ちていた青いボールを拾い上げたところで、エーダリアはぎくりとして体を揺らした。

拾い上げたボールのすぐ先の飾り棚と柱の間に、もふもふとした毛だまりがあったのだ。



「………ど、……………どうしたのだ?」



おまけにそこにいた銀狐は、眠っている訳でもなく遊んでいる訳でもなく、じっとりとした目でこちらを見上げている。

完全に拗ねているのでそう声をかけると、じわっと涙目になるではないか。



「何か、嫌な事があったのか?」


そう尋ねると首を横に振るのだが、耳が後ろに寝てしまっているので、相当に悲しいのだろう。


「ボールを落としてしまったことか?」


今度はそう聞いてみたが、また首を横に振る。

なぜかじりじりと後退してゆき、棚と柱の隙間の奥にぐっと詰まってしまう。


「誰かに追いかけられたり、妙なものが出たりしたのだろうか?」


そのように問いかけてみても、ふるふると首を横に振るばかり。

だが、小さく足踏みしているので、思うところがあるのは間違いない。

途方に暮れてしまい、その場に立ち尽くしていると、こんな時に最も頼もしい人物が通りかかった。




「ネア!」

「……………む。エーダリア様です。どうかしましたか?」

「キュ?」

「ディノも一緒だったか。………すまないが、ここに来て銀狐を見てやってくれ。様子がおかしいのだが、理由が分からないのだ」

「まぁ。狐さんに何かあったのでしょうか?」

「キュ?」



すぐにこちらに来てくれたネアが、隙間にぴっちりと入り込んでいる銀狐を一瞥し、首を傾げる。

エーダリアが、落ちていたボールを辿ってここまで来た事と、既に否定された質問の内容を伝えると、鳩羽色の複雑な表情を持つ瞳を僅かに揺らし、ネアは小さく微笑んだ。


「エーダリア様は、今日は、特別に忙しくしておられましたか?」

「いや。………そこまででもないな。朝に何件か打ち合わせがあったが、半刻もかからずに終わってしまったので、今日は比較的ゆとりのある日だと言ってもいいくらいだ」

「ふむ。……………では、理由という理由は特にないのかもしれません」

「ない、………のか?」

「ええ。でも狐さんの心の中には、きちんと問題があるのです」



そう言って微笑み、ネアは飾り棚と柱の前で屈み込んだ。


ふわりと揺れた青灰色の髪に、ほんの僅かな夜の雨のような香り。

最近好んでいるという石鹸の香りなので、手を洗うようなことをしていたのかもしれない。




「狐さん、…………寂しくなってしまいましたか?」


ネアがそう問いかけると、初めて、銀狐の尻尾が少しだけ揺れた。

隙間の奥まで体を押し込んでしまっているので辛うじてではあるが、尻尾の先が揺れたのだ。


「理由もなく憂鬱になったり、寂しくなって誰かに気付いて欲しい時はありますよね。そんな時は、こうして見付けて貰えたのであれば、たっぷり甘えてしまうといいのですよ」



その柔らかな声を聞き、エーダリアはふと、小さな頃に感じた行き場のない切なさを思い出した。


何もない日の、ヒルドが教師に付き、もう一人ではなくなった筈の頃だったのに、なぜだか堪らなく胸が苦しくなって何も言えないままに項垂れていたあの日。

いつもであれば、こちらの心の揺れを見なかった事にしてくれるヒルドが、珍しく、そっと頭を撫でてくれたのだ。



「なお、悲しいと感じたり寂しいと感じた時に、そのままその小さな棘を放置してしまうと、少し時間が経ってから怒り狂いたくなったりもするので、放置はあまりお勧めしません。こうして家族がいて、沢山甘えてしまえる環境であれば、もやもやする思いはぽいしてしまいましょうね」



伸ばした手は、少ししか届かなかったが、鼻先に触れて貰った銀狐はぱっと耳を立てた。

後退りしていた足で僅かに前進すると、明らかにまだ冬毛のままの尻尾を振っている。


「予め何も言わずにいて、気付いて貰えないというのも我が儘なことですが、家族の前では、そんな我が儘だってぶつけていいのだと思います。私も、ディノにそんな思いで荒ぶってしまった事もありますし、その時にディノが大事にしてくれたので、とても幸せな気持ちになりました。…………狐さんも、そうしてしまいませんか?」


その言葉に、また一歩銀狐が前に進む。

安堵に近い表情の中に、微かな不安の欠片が過ぎり、ネアがよく話している、高位の魔物達が知らない当たり前について考えた。


(………それは、私も良く知らないものなのだ)


だが多分、人間の方がそれを望む時に罪悪感がないのだろう。

対する魔物達は、思わぬところで立ち止まり、足踏みしてしまう。


多くの事を知り、選択肢が多いからこその躊躇いなのかもしれないが、それがもどかしく気の毒なのだと語るネアを見ている内に、ああ、このような一瞬なのだなと分かる場面も増えてきた。



「そうだったのだな。では、今日は、夕刻前まで時間があるのだが、一緒に何かをしないか?……………私も丁度、お前を探していたのだ」


途中までを言いかけ、ネアに、視線であと一息だと言われたので、更にもう一言を足してみる。


そうすると、やっとムギーといういつもの鳴き声が聞こえてきた。

まだ隙間の中に入り込んでいるが、だしだしと足踏みをし、ムギャムギャと狐語で何かを訴え始める。


ネアは短く頷くと、そんな銀狐を手を伸ばしてがしりと掴んでしまい、強引に隙間から引き摺り出すではないか。

そして、目を丸くしてけばけばになっている銀狐を、エーダリアの腕に預けた。



「はい。エーダリア様が抱っこしていて下さいね。今日の狐さんが構って欲しいのは、どうやらエーダリア様のようです。でも、私も一緒にいますから、皆で何かをしましょうか?」

「ヒルドにも、声をかけてみるか?そろそろ、騎士棟での、先月の勤務報告の確認が終わる頃合いだろう」

「まぁ。いいですね!では、家族でゆっくり過ごしましょうか」



その言葉に、今度こそ銀狐の尻尾がぶんぶんと力強く振り回された。

これが正解だったのだなと思いほっと胸を撫で下ろしていると、ネアは、すかさず、ボール遊びをする場合は男性達がやってくれるのだと銀狐に伝えている。


確かに、あの時間は女性の腕には酷だろう。

ボール遊びをしてやるのは構わないのだが、筋肉疲労用の魔術薬は残っていただろうかと記憶を辿り、あと一本は部屋にあったので問題ないなと判断する。



(明日は、ここ最近のアルビクロムの一件についての、各部門の報告会があるからな………)



さすがに、筋肉痛で腕が上がらないまま行く訳にはいかず、魔術薬で症状を回復させておかねばなるまい。

そんな事を考えていると、腕の中の銀狐がこちらをじっと見上げていた。


ここにいるのは、高位の魔物の一人の筈なのだが、敢えてこの姿でいるのは、己の心の動きを受け止めきれないからでもあるのだろう。



「沢山ボールを拾ったので、ボール遊びも出来るからな」


そう言ってやると、また尻尾が勢いよく振られ、エーダリアも何だか分からない不思議な安堵に満たされ、腕の中の家族を抱えたまま微笑んだ。




「……………よいしょ」


そんな事があった日の夜、契約の魔物に抱えられているのは、エーダリアの方であった。


驚いて目を丸くしていると、視界の端で、開こうとしていた小さなカードがぼうっと燃え上がる。



「………ノアベルト?」

「このカードにはさ、少し厄介な呪いの付与があったからね。こんな風に、意図的なものではなくても、呪いに近しいものになることがあるんだ。……まぁ、こんな執着を僕の契約者に向けるなんて、それだけで腹立たしいんだけど」

「という事は、意図せずに付与された魔術効果があったのだな」

「きっと、精霊工房のインクを使って書かれたものなんだろうね。そのインクの階位が付与されたものを育てたのかな。………気配的には、ご機嫌伺いと嘆願ってところかなと思うけれど、この手紙を寄越した土地には暫く行かない方がいいと思うよ。大きな効果を齎すものではないにせよ、うっかり触れたら、体調くらいは崩したんじゃないかな。それに、執着の端に手をかけたことで、こんな奴等との間に縁が出来たら嫌だし」



ノアベルトの説明を聞きながら、という事は、燃えてしまったカードには、何某かの嘆願が記されていたのだろうかと考え、僅かに眉を下げた。


勿論、受け取らないという選択肢もあるが、エーダリアは領主なのだ。

時として、この身に負担をかけるものであっても、蔑ろには出来ないこともある。


だが、そんな思いを見透かしたように、ノアベルトの青紫色の瞳がこちらを見ると、ふっと薄く微笑んだ魔物が、真面目だなぁと呟いた。



「……………そういうものなのだろう。私は、領主なのだからな」

「うん。でもこの村への調査は、リーエンベルクの騎士にもさせない方がいいよ。ガレンの魔術師に任せて、敢えてリーエンベルクの名前を持たない者に向かわせるか、アクスなんかに依頼して外部機関の調査結果を待った方がいいだろうね。………何でかな。………妙に、………気配の冷たいカードだったね」

「気配が、…………冷たい?」

「そう。…………こういう場合って、執着が拗れているか、何か障りが出ている場合が多いんだ」

「………このカードを送ってくれた村では、ガーウィンからの嵐で、大きな被害が出たばかりなのだ。農作物などで取り返しのつかない被害も出ていて、規模の小さな村なので、暫くは手続きに手間をかける余裕もないだろうと思って、リーエンベルクで独自に災害支援金の手配をした土地の一つだった」



手続きを踏めば支給される支援金は、とは言え、手続きの為の調査や書類の回付などが必要になる。

その手順を踏む余裕があればいいのだが、今迄は、そんな時間や労力を避けないまま、ずるずると手当てが遅れて傷を広げてしまう土地があった。


なので、一昨年から運用の一部を変更し、明らかに激甚災害と見做される被害が出ている土地では、行政の側で勝手に申請手続きを進めてしまうようにしたのだ。


親しい者達を亡くし、或いは生活を支えてきたものを大きく欠いて呆然としている領民にとって、事務的な手続きにかかるだけの心の余裕は、容易に取り戻せるものではない。


勿論、リーエンベルクの側で人員や手続きの余裕が出来たからこそ回せるようになった手であるので、被害の規模が大きくこちらも動けなくなれば、対応が不可能になる運用である。

その旨も記載の上で運用改正を行い、現在はまだ、順調にその成果を上げているところだ。



(その手続きに対する感謝状だったのだが………)



そのように手を伸ばしてもなお、まだ足りない部分への憤りや悲しみがあるのだろうか。

分かってはいてもやるせないものなだなと項垂れていて、ふと、未だにノアベルトに抱えられたままであることを思い出した。



「………っ?!……………も、もう下ろしてくれ!!」

「うーん、どうしようかな。だって今日のエーダリアは、何だかよく分からない気持ちで落ち込んでいた僕と、たっぷりボール遊びをしてくれたしね。今度は、僕の番かもしれないかなって」


そう言いながら、青紫色の瞳を悪戯っぽく煌めかせているので、本人も分かっているのだろう。

慌てて振り返ると、案の定、カードの封筒を無言で調べていたヒルドに助けを求めた。


「ヒルド!!」

「もう少し、そちらにおられますように。…………他にも似たような手紙類が紛れ込んでいないかどうか、重ねて調べておりますから。先程のカードも事前に開封して調べてあった筈なのですが、思念類の付与というのは、人間の目には見えないものもありますからね」

「そ、そうではなく、こうして抱き上げられている必要は………」

「ネイ、暫くお願いしてもいいですか?」

「うん。じゃあ、このまま散歩にでも行く?」

「やめてくれ!!」


慌てて首を横に振ると、ノアベルトだけでなくヒルドまでもがくすりと笑うではないか。

これはどんな状況なのだろうと混乱したまま、結局、ヒルドが全ての手紙を調べ終えるまで、ノアベルトは手を離そうとはしなかった。





後日、件の村に調査に行ってくれたのはアクス商会の調査員だ。


嵐の被害を受けた村では順調に支援金の分配や復興が進んでおり、村人たちの表情は明るかったという。

だが、リーエンベルクに届いたカードを選んでくれたという村外れの薬院の老人だけが、はっとする程に冷たい手をしていたので、その症状に覚えのあるアクスの調査員が話を聞き、村に一人しかいない薬師が、既に死者である事が判明した。



あのカードに付与され、ノアベルトが執着だと言った痕跡は、死んでも村人たちが心配で死を受け入れられないまま、支援の手を差し伸べる先として認識した、ウィーム領主へ向けた助けを求める声だったのだろう。


気付かれる訳にはいかないものの、気付いて救いの手を差し伸べて欲しいと願っていたに違いない薬師は、気を利かせたアクスの職員が、行政の側でこの村に常駐する薬師を手配すると約束すると、安心したように死者の国へ旅立っていったらしい。


対応してくれた職員に直接礼を言えば、当然のことをしたまでだと生真面目に返される。

アクスに勤務し、バンルとも親しいというその青年と話をして、復興が落ち着くまでの間は、階位の高い薬師を医師会から派遣し、その後は、村に暮らしながら薬師を続けられる者を探す事となった。




ふうっと息を吐き、様々な事を考える。

声を上げずとも伸ばした手があって、その手を取ってくれる誰かがいる事は、何にも代え難い安堵なのだろう。



「……………ヒルド。……………その、今夜は仕事の後に、少し話をしないか?」


勇気を出して、書類の片づけをしているヒルドにそう言えば、こちらを見た森と湖のシーは、驚いたように瑠璃色の瞳を瞠ってから、艶やかに微笑んだ。



「おや。では、今夜はご一緒させていただきましょう。もう少し、気負わずに声をかけていただいてもいいのですがね」



そう言ってくれたヒルドが全てを承知しているような気がして、エーダリアは上気した頬を隠すように、慌てて足元で飛び跳ねている銀狐を抱き上げたのだった。










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