狼の紋章と鷹の紋章
こつこつと靴音を立てて長い廊下を抜けると、窓から差し込む日差しの強さに僅かに眉を寄せる。
いつの間にか、ウィームの淡い日差しや清廉さに慣れてしまったようだ。
より夏の系譜の強い土地に行けばまた別なのだが、アルビクロムのように、霧の日は多いものの晴れた日にはぐっと暑くなるような土地はいささか馴染みが薄い。
目的の、記録課の事務官達の部屋を訪ねると、探していた女性がぴょこんと立ち上がる。
なぜか、近くにいた別の女性が前に出たが、話を聞けば用事ではなく挨拶だったので、苦笑して下がって貰った。
仕事を依頼していた事務官と一緒に部屋を出たのは、近くにいられると話辛い事もあったからだ。
何しろ今回の依頼は、少しばかりの秘密も絡んでいるので、議員側との繋がりのある者がいた場合には面倒な事になる。
あの部屋で仕事をしている事務官達は、所属は軍部とはいえ、特定の担当者を持たない者達だ。
部屋の近い、常駐者達と仲のいい者もいるだろう。
(なので、あまり他の女性達と交流がなく、それでいて仕事の出来る事務官を選んだつもりだったんだが、目立った仕事をしている者からすると、それが気になったりもするみたいだな………)
「アネン少佐。先日よりご相談を受けておりました案件ですが………」
「ああ。手間をかけさせてしまってすまないな。他の仕事に支障が出ていないか?」
「………ええ。勿論!」
労いの言葉をかけて資料を受け取れば、茶色い瞳の事務官はぱっと笑顔になる。
可愛らしい女性だなと思い微笑んで頷くと、何かを言いたげにするので首を傾げた。
「ん?どうした?」
「……………その、…………もし今夜お時間があれば、国境域の新しい防衛施策について、ご相談いただけると嬉しいのです」
「ああ、宰相家側の派閥が推進しているものだな。すまないが、そちらの運用については、俺は明るくないんだ。確か、人材調達部に詳しい青年がいたと思うぞ。あちらの一族とも懇意にしているようだから、そのような意味でも話が合うかもしれない」
「い、いえ!そこまで踏み込んだ疑問ではなく、こちらの派閥の側から……」
何かを言いかけた文官に対し、人差し指を唇に当てて見せる。
ここは会議室なども多い中庭に面した廊下なので、どこで誰がこの会話を聞いてるかも分からない。
深い意味はないにせよ、誤解を受けかねないようなやり取りは避けるべきであった。
はっとしたように息を呑んだ文官の肩を軽く叩き、その場を離れる。
もの言いたげな視線を背中に感じはしたが、彼女が言わんとしているのが個人的な誘いであれば、返事はどちらにせよ明るくないので、このまま立ち去った方が無難だろう。
手にした資料は丁寧に備品報告の表紙をつけられており、成る程、このような仕事に於いては、細やかな配慮というのはいいものだなと考える。
だが、本来の役割で訪れる職場では、細やかな配慮よりも時間内に切り上げる為の工夫の方が重宝されるのであった。
「やぁ、アネン少佐。議員連中がきな臭い動きをし始めたが、呑気に日常業務かい?」
次に出会ったのは、同じ国境域の担当であるグラーゼラである。
彼女の方が階級は上なのだが、畏まって話すと顔を顰める御仁なので、微笑んで僅かに一礼するに留めた。
「このような仕事は、日々の積み重ねですからね。有事だからと言って、今日ばかりは免除されるということもないでしょう。それと、そちらでは幾つかの部隊の入れ替えを行っているそうですが、予定にない動きをすると、隻眼の御大の目に留まるかもしれませんよ」
「はは、構わぬさ。あのじじいは、私の飲み仲間でな。意見が分かれる事もあるし、敵対することもあるが、互いの腹の中に余計なものは置かない主義だ。せいぜい、あの小娘がまた余計なことをしたなと溜め息を吐かれるくらいだろうよ」
「あなたの事を小娘と言える方がいるのであれば、大事にしないといけませんね」
「……………お前のそういう食えないところは、大嫌いだな」
「それは困ったな。ご機嫌を損ねない内に、昼食に向かった方が良さそうですね」
その言葉に、グラーゼラは僅かに眉を寄せ、緑の瞳をじっとこちらに向ける。
右目にかけて大きな傷跡を残してはいるが、充分に美しい女性である。
とは言え、苛烈な愛国心を持つのも確かであるので、暇潰しに相手をするには少々の障りがあった。
愉快な女性だなと思いはするが、あまり興味を持たれるのは好ましくない。
「昼食は、食堂か?」
「いえ。この通り、資料仕事をしなければいけませんから、執務室で副官と共に持ってきたものを食べる予定です」
「ふむ。つまらんな。何も持ってきていなければ、あの食堂の本日のお勧めとやらを頼んでみようと思ったのだが」
「嫌だな、何で俺を巻き添えにするんですか」
「熟成鯨の贅沢盛りだぞ?一人で食う勇気があると思うか?」
「うーん。若い連中であれば、量に釣られて挑戦するのでは?」
「ほう。では、うちの若いのを誘ってみるか」
「どうやら、俺は、無事にお役御免になったようですね」
もう一度頭を下げて、その場を離れる。
グラーゼラの後ろに立っていた補佐官が真っ青になっていたが、今日の昼食は熟成鯨で我慢して貰うより他にない。
このアルビクロムの食嗜好は、郷土料理の数々を事もなげに美味しく食べる人間と、顔を顰めて不味いと言いながらもお代わりをする人間の二種類に分かれる。
そもそも、この土地の食事に耐えられないとなれば、領外に働きに出てしまうからだ。
(…………さてと)
共用の廊下を抜け、扉の前に立っていた部下に頷き、狼の紋章のある重たい木の扉をくぐる。
この棟の入り口からは、公な主張ではないものの、鷹の紋章の連中を含む議員連中には立ち入りをご遠慮願いたい、軍部のみの領域だ。
元よりここは軍本部であるのだが、とは言え政治的な役職の者達とも無縁ではない為、議員連中やその関係者が入り浸る共有区画もある。
そんな連中に触れさせる訳にはいかない機密情報や、そもそも議員連中とは相性の悪い生粋の軍人たちが伸びやかに過ごすのが、この扉のこちら側であった。
では、なぜ扉の向こう側に極秘裏に頼んだ資料を受け取りに行っていたかと言えば、それはもう、軍人という者達の特性に尽きる。
(事務官には軍籍の者達もいるが、配属で事務方になった軍人よりは、やはり一般採用の事務官の方が資料作成には向いているからな…………)
情報そのものが秘匿されておらず、抽出だけの問題であれば、的確な指示を出して表の事務官にやらせた方が、余程いいものが仕上がる。
とは言え、どんな情報を欲しているのかを知られたくない者達もいるので、ある程度は秘密が守れる人物を選んで仕事を任せた方がいい。
何を調べていたのかをずっと隠してはおける訳ではないだろうが、厄介な連中に知られた時には、その情報が古くなっていればこちらに支障はないのだ。
長い廊下を抜け、護衛官に守られた角を曲がり、ぐっと細くなった廊下に入る。
青い絨毯の敷かれた廊下を暫く歩き、執務室の扉を開けて中に入ると、応接用の長椅子に腰かけた銀髪の男が、こちらを見上げてほっとしたような顔になった。
真っ直ぐな銀髪は襟足にかかるくらいの長さで、深い紫の瞳はやはり種族の王族の特徴的なものである。
だが、華奢な銀縁の眼鏡をかけて軍服をしっかり着込んでいる様子を見ると、アルビクロム出身には見えないものの、どこか掴みどころのない凡庸さを感じさせもする。
終焉の系譜の中でも特に雑踏に紛れる特性の強いこの男は、終焉に纏わる伝令を司る精霊のである。同じ一族の中でもナインに近い資質を持ち、近年の世界の変化で急速に階位を上げた一人だ。
「助かりました。私はどうにも愛想が良くないらしく、この手の資料収集は、あなたがいた方が捗ります」
「いや、俺の方こそ助かった。この手の情報は、人間の組織の外に出る事があまりないからな」
「ウィーム方面に必要な情報もありましたか?」
「ああ。………ターシャックとの関係の悪化は、鷹の紋章の連中の意図した事なのか、あちらの国で迎えられた何者かの影響なのかが、少し気になっていたんだ」
今回、ウィリアムがアルビクロムの軍部に滞在しているのは、その情報を得る為であった。
どうにかして入手出来ないかと系譜の部下を訪ねたところ、入手にかける交渉に難儀しそうであったので、代わりに外に出てしまった次第だ。
銀髪の髪と紫の瞳の擬態を解き、彼の副官である男の黒髪に変える。
勿論、そちらの副官も終焉の領域の者なので、今は、上官のお守りから解放されて本来の姿に戻り昼食に出ているらしい。
(ここまで擬態を重ねておく必要は本来はないんだが、先程、副官と昼食を摂ると話してしまったからな。念の為に体裁を整えておこう)
「……………ターシャックにいるものは、前漂着した何かだと考えておられますか?」
「かもしれないな。………となると、場合によっては、あの国も鳥籠になりかねない。こちら側のものではない何かを受け入れてもてなすのは悪手というばかりではないが、相手側の意志次第で国を食われることになる。今まであまり問題視されていなかったアルビクロム側の国境だからこそ、あまり崩れて欲しくはないんだが」
それは、頭の痛い問題であった。
議員側には、選択の魔物の介入がある筈なので、ある程度の情報は掌握済だろう。
とは言えこちらも、常にアルテアと連携している訳ではないし、同じように系譜の庭というものがある。
終焉の系譜にしか発見出来ない変化も少なくはないので、こうして、アルビクロム軍部に、系譜の高位者が常駐しているのは有難いことであった。
「ターシャックは長い間、あの国らしい稚拙さはあるにせよ、賢王が治めていましたからね。正妃の子供ではないとはいえ、王子の一人の愚かな外交のつけが、国内で出始めたのでしょう。あの王が、漸く、外周で餌を漁る獣達が目をつける隙を作ったとも言えますがね」
「国内での権力争いや内戦であれば隙に楽しんでくれて構わないんだが、その為に得体の知れないものを受け入れるような真似をした者達が、戦争の用意が出来る客席に異形が座らせる事程に厄介な事はない。おまけに、………前漂着だとすれば、最も近い世界層から来るのは女性ばかりだからな」
ついつい、声に疲労感が滲んでしまったのだろう。
正面にいる男も、深々と頷いた。
今回の漂流物周りでは、まだ目立った報告は上がってきていないが、一口に漂流物と言っても様々な種類や順列がある。
最も一般的なのが、やはり世界層が近いだけあって前の世界層の者達が現れたという報告なのだが、そちらから上がってくる高位の者達は総じて女性であるので、男性が多い今代の世界層の高位者にとってはやり難い相手であることが多いのだ。
(そもそも、一つ前の層は今代の世界とは価値観や資質が正反対である事が多い。蝕などがまさにいい例で、あの反転は今代の世界層の理が揺れる事で、下に眠る前の層の資質が浮かび上がるからだとすら言われているくらいだ………)
ただ出会うだけであれば気にならない要素であっても、敵対し、排除しなければならない場合はその相反する資質は厄介なものであった。
相手の行動を読むのに必要な共感や推理が機能しなくなるということもあるし、互いの禁忌や障りの認識も違ってきてしまう。
「以前に仕えた、ヴェルクレアの漁師が生きていれば良かったんですが」
「………ああ。漂流物を退けるには、以前にそれを退けた事のある者がいるのが一番だからな。彼が、君達の王と親しくしていたお陰で、前回は少し楽をさせて貰えた」
「なかなか得難い人材でした。…………アンセルムは、騒々しいと言って嫌っていましたが」
苦笑してそう言われたので、思わず首を傾げてしまった。
言った当人も疑わし気なのは、その漁師が騒々しいというよりは、気のいいという程度の人物だったと知っているからだろう。
「俺は、アンセルムが静謐に相応しい物静かさだと思った事はないんだがな」
「どうでしょう。悪巧みをしている間と、自分の畑の面倒を見ている間は静かにしていますよ」
「そうなってくれるといいんだが。…………最近は、仕事で会うと文句ばかりだな」
「街を赤く染めたという、あのお方のせいでは?」
「未だにトマト界隈に繊細な気遣いを求められても、面倒なんだがな…………」
「私も気になりませんが、感覚的なものを司る連中には堪えたのでしょう」
そんな話をしながら、テーブルに置いた資料を捲る。
案の定、国境域の警備兵からの報告では、最近、気候変動が大きな事と、件の国の方から移動してくる小さな生き物達が増えたという記載があった。
多くの場合、小さな生き物達の方が環境の変化には敏感だ。
慣れ親しんだ土地を捨てて移動するからには、そのような生き物達にしか知覚出来ないような変化が、かの国に起きているのだろう。
「……………これは、間違いありませんね」
「ああ。嫌な方の予感が当たったらしい。………あの国には、目立った者の居住がないからな。そのような土地は、対応が遅れる。一度俺が……………」
「どうされました?」
不意に言葉を切ったので、怪訝そうにこちらを見上げられ、無言で首を振った。
「…………もしかすると、漂流物対策として有用な人材がいるかもしれない。………ラエタの魔術機関では、稀人の研究をしていた気がするんだが、記憶にないか?」
「どうでしょう。…………その当時私は、まだ派生したばかりでしたので………」
「そうか。当人に確認した方が良さそうだな。…………もし、該当者がいた場合は、会って貰う事になるかもしれない。その人物にも誓約があるので表立った活動は出来ないが、いるといないのとでは大違いだろう」
「以前にお聞きした、ダーダムウェルの魔術師ですか?」
「ああ。対策面での知識を有しているとは考えてきたが、場合によっては、彼自身がそれを退けるかもしれない。そもそも、巡礼者自体が漂流物の基準を満たすという考えもある。であれば、そちらの条件は既に満たしているんだがな…………」
当時はまだ、世界の境界が曖昧で、降り積もった当代の世界層が薄く、今よりも漂流物の訪れは頻繁であった。
それがどのようなものなのかも知らずに、収集して研究をしていた魔術師も多く、だからこそあの時代の魔術師達には規格外の者や、奇妙な固有魔術を持つ者も多いのだ。
新月の夜に港の漁師が海から上がってきた怪物がわんわん泣くので、可愛そうに思いスープを飲ませて労ったところ、輝くような黄金の石を置いて帰っていったという逸話もある。
その土地ではなぜか、美しい子供ばかりが生まれたと聞くので、前世界の祝福らしいものではないだろうかという議論は今でも聞く事があった。
(……………帰りに、ウェルバに会っていくか。あの屋敷にいてくれるといいんだが………)
そんな事を考えていた時の事であった。
こつこつとノックの音が響き、来客の報せが告げられる。
お客人は匿名ではあるが、鷹の紋章を見せたと聞き、ウィリアムは小さく溜め息を吐いた。
「私が応対いたしましょうか?」
「……………いや。多分アルテアだな。俺が時折ここに出入りしているのは気付かれている筈だから、今回は時期的に滞在を知る為の工夫をしていた可能性も高い」
とは言え擬態はこのままでいいだろうとなり、執務室へ通すようにと伝える。
そして、案の定こちらを尋ねたのは、フェルディアード卿と呼ばれる議員であった。
夏の盛りにフード付きの外套とは恐れ入ったが、これがアルビクロムでの身分の隠し方であるので仕方ない。
上着を脱いで真っ直ぐにこちらを見たので、本来この部屋の主である筈の少佐は下がらせる。
「面倒な前置きはなしだ。ターシャックをどう見る?」
「もしかして、あなたがここ数日間不在にしていたのは、この案件ですか?」
「半分はそうだ。もう半分は、国境域の新しい警備運用とやらのせいだな」
「正直なところ、あれは、中身の伴わない愚策ですよ。派手さはありますが、あの手法を用いてどれだけの国が防衛線を破られたのか話しましょうか?」
「幸いにも、こちらでも半数はあれが愚策だと承知している。てこずっているのは、愚策だと認識しない連中の説得だけだ」
「成る程。………確か、今回の運用の提唱をしたのは、第五王子派の派閥でしたよね。面倒なのがそのあたりであれば、統括の魔物として王都から圧をかけては?」
「これで片が付かなければ、最終的には、そうせざるを得ないな。よりにもよって、ターシャックの問題が起きている最中だ」
どさりと長椅子に腰かけたアルテアは、どこからか自分で飲み物を取り出している。
議員としての訪問であればこちらで準備をしてもいいのだが、それよりも自分で好みの飲み物を出したとなると、あの外套での移動は余程堪えたらしい。
外的な要因の影響を排除するのは簡単だが、擬態している時はその役割に相応しい身体機能は残しておいた方がいい。
熱さを軽減する為の魔術策は、フェルディアード卿には過ぎたものだったのだろう。
「ターシャックに起きている異変は、恐らく前漂流でしょうね。細かな報告を追っていけば、幾つか特徴的な変化が出ていますから」
「低階位の生き物の移動の他にも、何か目ぼしい情報が上がっているのか?」
「俺が愛想を振りまいて入手した情報なので、無対価で共有するのは複雑な思いですね」
「先に情報を一つ開示してやっただろが」
「やれやれ、それであの会話でしたか。……………気候変動の報告も上がっています。最近の熱さはこの土地の領分を超えない程度ですが、国境域からの報告では、痛みを感じるような陽光の日が増えたそうですよ。それと、ターシャック経由の商人の中に、味覚の変化を訴えていた者がいたので、念の為に疫病の検査をしたそうです」
そこ迄を言えば、もはや明白だろう。
擬態姿のまま、アルテアは無言で天井を仰いだ。
「……………間違いないな」
「ええ。今日の帰りに、ウェルバを尋ねようと思っています。さっき思い出したばかりなんですが、ラエタでは、明らかに漂流物に違いないというものの研究を、魔術の塔で行っていましたよね?」
「だが、あいつは隔離塔にいた期間の方が長いだろ」
「確か、隔離に至ったのは、王宮の調剤魔術師達に混ざって、魔術研究をしていた事で才能を見い出されたからだったのでは?」
「…………そうなのか?」
「そう聞いたような気がするんですよね。なので、本人に確認してみようかと」
考え込むようにしてから頷き、アルテアはどこかに連絡を入れていたようだ。
何かを確認してからまた少し考え込むと、僅かに眉を寄せる。
「あいつの手を借りる場合は、軍部だけではなく議会の承認も必要になる。俺と、他に数名は票を集められるが、人間の側の権限で動かすのは無駄な労力がかかり過ぎるな」
「その場合は、俺が死者の行列ごと戦線を動かしますよ。そればかりは、人間が容易く介入出来ないものですからね。……………ただ、その場合はアルビクロムで混乱がないよう、事前に情報を回しておいて貰った方がいいでしょう。諜報部にもあなたの系譜の誰かがいるのでは?」
「いるにはいるが、あの管理者はアイザックの管轄だ。………そちら側にも話を付けておく必要があるな。あいつの場合、下手をすると珍しい魔術目当てにあちらに付く可能性もあるんだが………」
「それはないでしょうね。……………だからこそ、ウェルバとランシーンの魔術師の交流を承諾したのでは?」
「ああ。別の懸念の為の布石だったが、役には立つか…………」
その後も少し話をすると、フェルディアード議員は国境防衛における軍部の意見を聞き終え、帰る運びとなった。
コート掛けにかけてある外套を嫌そうに見ているので、やはり相当に暑いのだろう。
「この対応をする日は、俺もお前もこちらにかかりきりになる。あいつの周りに、スープ屋か、グラフィーツでも配置しておいた方が良さそうだな」
「そこで、スープの魔術師の名前が先に挙がるのが、何とも言えない気分になりますね………」
「………どうにかするだろう、あいつなら」
「白樫も簡単にあしらうくらいなので、そんな気もしますけどね」
帰り際にふと、立ち止まったアルテアがこちらを見る。
他にも何かあっただろうかと眉を持ち上げると、なぜか、呆れたような眼差しになった。
「……………お前の偽名はどうにかならないのか? 入れ替わる相手と名前を同一にしないだけましだが、認識の魔術が動く際に、お前の名前に紐付く終焉の要素を含むだろうが」
「俺がこのような土地で完全に資質を隠すには、名前の方に資質を組み替えておいておくしかないので、妥当な措置だと思いますよ。フェルディアード卿の手元に響くとは思えませんので、あなたが何かの事情でかけてある探索魔術に触れるんでしょうが」
「やれやれだな……………」
もう一つ大きな溜め息を吐き部屋を出て行ったアルテアを見送り、ウィリアムは、少し考えた。
「そろそろ昼食にしようかな。持って来たものがあるので、ここで食べていくが気にしないでくれ」
「……………あなたが、……………弁当を?………まさかと思いますが、それは、………あの、女子供が食事をする際にテーブルに敷くものですか?」
「ランチョンマットだな。魔術仕掛けで、ここから用意してある食事を取り出せるんだ。……………もしかして、君が見るのは初めてか?」
「……………ええ。あなたが、……………ランチョンマットを」
呆然としている部下を見てくすりと笑うと、ウィリアムは、今回のメニューの中から、暑気払いの効果のある桑の実のジャムが添えられたサンドイッチを選んだ。
何しろそのジャムは、ネアの手作りであるらしい。
この後に梱包妖精の家への訪問が控えていると考えた時、そのくらの楽しみは必要だと判断したのだ。
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