煤顔と子守唄
青い青い水の底でひと掻きし、ぐっと体を水面に持ち上げる。
ふうっと大きく息を吐き、濡れた髪を片手で掻き上げた。
王宮内のプールにはいつでも清廉な水が満ちており、滅多にない事だが、国王と宰相がここを使う事もあるらしい。
あの二人がどうやってプールを使うのだろうと怪訝な思いでもあったが、とは言え、軽やかに国を飼い慣らしていく証跡を見ていれば、何やら人生を謳歌していそうな二人でもある。
そんな事を考えていると、王族だけが開ける事を許されるプールの重たい水晶の扉が開き、赤い髪の契約の竜が顔を出した。
「……………ヴェンツェル。ここにいたのか。鍛錬なら、部屋を出る前に伝言を残すべきだろう」
「エドラを連れて出ている。………お前は、少しでも休めたのか?」
そう尋ねると、こちらを見たドリーが目を瞬く。
しまったと思う間もなく嬉しそうに微笑むと、問題ないと頷いた。
「心配してくれていたんだな」
「……………お前は、頑強さも取り柄なのだからな。ここ数日は大きな仕事が続いている。あまり無理はしない方がいいだろう」
「それは、ヴェンツェルもだろう。………薬を嫌うにしても、右足を痛めたまま泳ぐのはやめた方がいい」
「強張った筋肉をほぐしていただけだ。………まだ、半刻も泳いでいない」
「……………半刻も泳いでいたのか。………適度に体を動かすのはいいが、怪我をしている時に過度に追い込むのは良くない。………エドラは、もう動かなくなっているだろう」
「泳ぐのは不得手だったようだ」
プール周りの海結晶のタイル床に並べられた寝椅子には、一人の代理妖精がうつ伏せで倒れている。
先程、もう泳げないと呟いて水から上がっていたのだが、体力の限界だったらしい。
羽が濡れたまま開いてしまっているので、相当に疲れているようだ。
やれやれと思いながらもう一度水に潜ろうとしたところで、水音に眉を寄せた。
慌てて視線を戻せば、プールの縁に立っていたドリーの姿がなく、あっと思う間もなく目の前まで泳いできた火竜にがっしりと体を掴まれてしまう。
そのまま、水の中だということを意識させないくらいに軽々と持ち上げられると、ドリーは、絶句しているヴェンツェルを抱えたままプールから上がろうとしているようだ。
「……………ドリー!!」
「暴れると、余計に体に負担がかかる。………体を緩めるにしても、これだけの時間泳いだ後でプールから上がると、体を持ち上げる際に自重で足に負荷をかけてしまうだろう」
「だからと言ってこんな………!!」
よりにもよってという時がある。
ドリーに文句を言おうとしたその時、一礼して入ってきた侍女達が黎明結晶のワゴンを押してくると、プールの横に設置されているテーブルに飲み物を並べ始める。
呆然とし、どんな言葉も選べないままに静かにドリーを見上げると、当たり前のように、プールから上がった後に飲み物を飲んだ方がいいと思って手配したというではないか。
一瞬、侍女の一人と目が合ったような気がしたが、すぐに逸らされてしまう。
僅かに目元を染めているが、それが健全な形の恥じらいではない事くらいは、もうヴェンツェルにも理解出来るようになってきた。
この契約の竜がとんでもない事をしでかすせいで、この王宮には、たいへん望ましくない噂が流れているのだ。
「……………ドリー!!」
「女性達が退出するまで待って怒るのは紳士的だが、プールで一刻も泳いでいたんだ。この後は、体を冷やさないようにして、水分はしっかりと摂った方がいい」
「誤解されるような事をするな!この前も、守護を重ねると言って、妙な真似をしたばかりだろう!!あの日以降、なぜか、王都の貴族の女性達から、しなくてもいい応援をされるのだぞ?!」
「守護は必要だろう。嵐が近付いていたので魔術基盤が不安定になっていたし、舞踏会から慌ただしく退出すると騒ぎになるのであの場に留ると言ったのはヴェンツェルだ。であれば、もう一層守護を重ねておく必要があったことは、その後も話しただろう?」
「……………この前は、とうとう父上から、随分と困難な道を進むようだが、理解はあるつもりなので隠さず相談して欲しいと言われたのだぞ?!」
「勘違いしているのなら、させておけばいい。ヴェンツェル自身も、まだ花嫁を探すつもりはないのだろう?であれば、何か事情があると思われる事自体は、さして悪手でもないだろう」
「事情の中身に不都合があり過ぎるだろう!!」
事も無げに言ってのけるドリーに、もう一度暴れかけて我に返った。
水中で、ドリーに抱え上げられている状態なのだ。
ここで愚かな振る舞いをするよりは、早くプールから出て、この過保護な竜から離れればなるまい。
「……………重くはないのか」
「人間とは体の作りが違うからな。それと、エーダリアから魔物の薬を貰っておいた。その薬であれば、安心して飲めるだろう?」
ふっと静かな目でこちらを見たドリーが、そんな事を言う。
ヴェンツェルが、今回の負傷に対し、未だに魔術的な治癒をしていないのには理由がある。
王宮でも魔物の薬は手に入るが、王都で様々な事件が事故が続き、薬の追加作成や入れ替えが多かったこの時期は、安易にそれらの薬を使う事を避けているのだ。
今回は魔術の障りに触れて痛めていたので、治療薬や治癒魔術を用いるのであれば、魔物の薬内側から治癒する必要があるものの、発注や納品の環境が慌ただしい時期に揃えられた薬には、そのどこかで誰かの悪意や作為が入り込む隙が多い。
経験上、こんな時こそ、最も警戒するべきであった。
不要なものを取り込むのは避け、先日の海の災いで痛めた足については、自然治癒に任せながら様子を見て、やはり魔術薬が必要であれば、王都が落ち着いてからウォルター経由で薬を取り寄せようと思っていたのだが。
「私は、まだ何も言っていなかった筈だが…………」
「最近は無理をしていたから、俺から頼んだんだ。……………一緒に、不思議な傷薬も貰ったので、これでまた暫くは安心だろう。どうも、小匙一杯分くらいの分量を服用するだけで、命を損ないそうな大怪我でも治るらしい」
この時期にヴェンツェルが傷薬を手配出来ずにいたのは、エーダリアから納められていた薬類を、丁度切らしていたからでもある。
これまでは、弟から個人的に渡されていた薬類で、どうにか凌げていたのだ。
ヴェルリアは、穏やかな気候の土地ではない。
そして、商人や船乗り達の多いこの土地では、ある程度の騒ぎくらいは自ら鎮める頑強さを見せなければ、彼等からの支持を得る事は出来なくなる。
境界ともなる海に面した王都で前線に出るには、程度に差こそあれ、負傷などは珍しくもない事であった。
「……………それは、本当に傷薬なのか?」
「どうやら、ネアが何かをしたらしいな。魔術付与をした傷薬の濃度が濃くなり過ぎたので、患者の安全のために、容量を減らして希釈すると話していた」
「希釈……………」
「このような水薬の効能は、対価と引き換えだからだろう。…………エーダリア曰く、どうしようもなくまずいらしい」
「……………という事は、エーダリアは飲んだのだな」
「ああ。……………さて、…………飲み物は温かいものでいいな?」
「なぜ、お前が淹れるんだ。………船で過ごす事も多いのだ。これくらいは、自分で出来る」
「どうしてだろうな。こうして、ヴェンツェルの世話を焼くのが好きだからかもしれないな」
「……………恥ずかしい奴め」
貴婦人のように運ばれ、木製のプール用の椅子の上に下ろされると、何とも言えない気分になった。
小さな子供であればまだしも、この年齢でされたい世話の仕方ではないが、あまりにもドリーが幸せそうに微笑むので、ただ拒絶するというのも違うような気がしたのだ。
(……………この程度であれば、妙な噂を立てられずに済むのだが、……………竜の世話の焼き方は、伴侶だろうが、竜の宝だろうが、構わず同じようにすると言うからな…………)
竜と共に暮らす者達の多いこのヴェルリアでも、竜の宝現れるのは稀な事だ。
それ故に、この程度が正解なのだと言えるような身近な事例もなく、この竜が生真面目に守り手でいてくれればくれる程に、おかしな見方をする一部の者達から、妙な噂が広がっていく。
一度、ニケとアフタンに相談したが、ニケは、真顔で妙な女が寝台に入り込まずに便利だと言うし、アフタンは、何も言わずに頭を抱えていただけであった。
「温かいレモネードだ。火傷をしないようにな」
「……………子供ではないのだぞ。……………っ?!」
しかしここで、ヴェンツェルはドリーの差し出してくれたカップを受け取ろうとし、扉の隙間から見えていたものに動揺して、危うくカップを取り落とすところであった。
外で控えさせていたエルゼが一礼し伴ってきたのは、最近、長年国に貢献してきた者達ではなく愚かな異国の王女を優先してしまい、更にというのも今更なくらいに、またしても立場を危うくしたばかりの弟の一人だ。
そしてこの弟は、かつて特等の魔物達を怒らせたが故に、煤顔の魔物に追い回されている。
本人が気付いているのかどうかは分からないが、普通の者達には見えないその魔物が、ウィームとの関係が悪くないからなのか、なぜかヴェンツェルには見えてしまう。
特に悪変もしていない魔物なのだが、正常な状態で既に祟りもののようなその姿を準備なく見てしまうと、今回のように息が止まりそうになるのでやめて欲しいところだ。
(……………ジュリアンを追いかけてきて、扉の間からこちらを見ていたのか…………)
「ジュリアン。何の用だ?面会の約束はしていなかった筈だろう。今は、休息の為に人払いしていたのだが」
「兄上、足の怪我は如何ですか?心配のあまり、押しかけてしまいました。もし、好ましくない状態が続くようであれば、こちらで薬の魔物を手配しましょう。………兄上がその怪我の治療をしないままでいると、兄上の怪我は私への当てつけで、兄弟の間に禍根が残っていると思う貴族達もいますからね」
こちらを見て微笑んだジュリアンは、その半身の肌の色が終焉の領域にある。
明らかに呪われているのだが、それがどういう訳か、終焉の手を逃れたという一種の象徴になるらしい。
そのような理由をでっち上げて支持する者達にも呆れたものだが、本人も、特別さが際立つからと気に入っているようだ。
おまけに、最近は少し回復の傾向があるようだが、頭髪までヒルドに毟られてしまているのに、未だに懲りずに暗躍しているこの弟の心の強さには、ヴェンツェルも途方に暮れてしまうばかりであった。
落ち込んだり腹を立てたりもしているようだが、自身の心の管理という意味では、類稀なる才能であるらしい。
(そして、こちらの派閥との関係回復を周囲に示す為の、牽制を兼ねた見舞いのようだな。となると、明日には母上の知るところにもなる筈なので、………何の問題もないことを説明しておかねばならないだろう…………)
そう考えて溜め息を吐いていると、こちらを見たジュリアンが、時間があれば、明日の午後にでも海狩りに行かないかと誘ってくる。
その狩りがどれだけ足に負担をかけるかと思えば、負傷している兄の見舞いに来た事はすっかり忘れてしまっているようだし、この時期に王族の海狩りなどが出来る筈もないということにすら気付かない有り様なので、頭が痛くなりそうだ。
とは言え、ちらちらとドリーの方を見ているので、そこは警戒しているらしい。
ドリーを使わせて貰うようで申し訳ないが、契約の竜と約束していた打ち合わせがあるのだとプールから追い出し、入室を防げなかったと深々と頭を下げるエルゼに、仕方がないと首を振る。
事前の申し入れがあればまだしも、ジュリアン本人が訪ねてきてしまえば、代理妖精であるエルゼだけでは入室を防げないのは承知の上だ。
いざという時は何があっても制止するのだろうが、今回くらいの訪問であれば、通してしまった方が問題にならない。
「……………煤顔の魔物も去ったな」
「ああ。………もういい加減に気付いていないという訳もないんだろうが、君の弟は、あの魔物も気にしないらしい」
「どれだけ精神が安定しているんだ…………」
最後のジュリアンの訪問でぐったりしてしまい自室に戻ると、エーダリアからの見舞いの花と、菓子箱が届いていた。
あの歌乞いの忠告を受け、怪我人に酒類を贈るのは避けたらしい。
花は既に花瓶に生けてあったので寝室に運び、美しい水色の花の爽やかな香りを楽しんだ。
とは言え漸く穏やかな気持ちになったところで、ドリーが大真面目に子守唄を歌おうとするので、今度はそれを全力で阻止しなければいけなくなったのだった。
アンケートにご協力いただき、有難うございました。
近い投票率でしたエーダリアやジュリアンも、少しだけお話の要素に入れております!