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スリフェアの夜と仮初めの訪問者




カランと音が響いた。


それはグラスの中の氷が崩れた音ではなく、どこかで空っぽになった座席で、誰かが使っていた杖が床に転がった音だ。


そちらを見ても、もう誰の姿もない。

けれども開いたままのノートや、まだインクの乾いていないメモが散らばっているので、誰かがいた筈なのは間違いなかった。



(そのようなものなのだろうか………)



そうして当たり前のように消えゆき、その者達は一体どこに迷い込むのだろう。

この不思議な回廊に飲み込まれてしまったのなら、それはただの呆気ない終焉なのか。



みしみしと壁や天井が軋み、年代物の見事なステンドグラスがひび割れて色硝子の儚い雨を降らせる。


逆さまにかけられた絵画に、夜結晶に侵食されて輪郭も覆われかけた彫像。

羽ばたきの音を立てて竜の群れが飛んでゆき、羊の頭をした妖精が迷い込んだ侵入者を貪っていた。



ここは、定められた者だけが訪れることが出来る特別な場所。

そしてその中でも、最も足場の悪いのが夜の区画の回廊だ。


どこよりも暗くどこよりも艶やかで美しいが、集められた品物達や書の全ては世界から失われる最後の夜を過ごすものばかり。

だからこそ回廊は脆く、床や壁はひび割れていて、時計の針が進めばあっという間に崩れ落ちてしまう。



それでもやはり、滅び行くものは美しいのだ。


ふくよかな紫紺の絨毯にはふんだんに夜の祝福と秘密の音色が織り込まれ、書架は夜結晶と幾つかの祝祭の記憶で出来ている。


誰かが頁を閉じてしまい、誰かが忘れたその夜の最後の時間には、世界から失われた筈の叡智や技術が詰め込まれているのだから、より高位の者達が集まるのは必然と言っても良かった。



十七の刻印のある書架の前に、二人の男が立っていた。


そのどちらもが視界の端に入り込むだけで、魂がざわりと揺れるような美しさだ。

人ならざる生き物達を見慣れた目であれば、それが魔物なのは明白だった。



どこか遠くで、舞踏会が行われている大広間の扉が開いたのかもしれない。

そんな風に思わせる遠いワルツの旋律が微かに聞こえてきて、ぱたんと扉が閉じたかのように唐突に途切れる。


その僅かな旋律に耳を澄ましたものか、さらさらと音を立てて質のいい雪夜の紙にペンを走らせていた魔物が、ふつりと唇の端を持ち上げて微笑むのが見えた。



すっと、薄闇に光の尾をひくような赤紫色の瞳。



「ほお、この魔術書が残っているとは思わなかったな。…………ノアベルト?」



その魔物が声をかけたのは、白いシャツに仕立てのいい黒いロングコートを羽織った同伴者で、今宵の彼の擬態は実に珍しい。

ただし、短い髪を搔き上げてなでつけた姿は、一昔前の塩の魔物を知る者には懐かしい姿なのかもしれず、あえてその変化を擬態にしたのかもしれなかった。



「…………いや、何でここに僕の本が置いてあるのかなって、流石に考えるよね。スリフェアの夜回廊ってさ、大衆娯楽として僕の心を引き裂く物語本じゃなくて、歴史から失われた世界の遺産が眠っていたりする場所じゃなかったのかな………」

「…………そろそろ、作家を突き止めろよ」

「簡単な事だと思うなら、アルテアもやってみるといいよ。僕は二年間だけこの本の作者を探した事があるんだけど、手がかりすら掴めなかったからね…………」

「…………お前がか………」



肩を竦めてみせた塩の魔物の傍らを、二人の子供達が音もなく駆けて行く。


透けるような質感から亡霊なのだろうかと思える姿だが、足元が黒くけぶる靄を纏う以上はあまり良くない生き物なのかもしれない。



ぴしゃんと、どこかに雷が落ちた。

春の夜の天気は変わりやすく、いつの間にか窓の外は雷雨であった。

しかし、少し先の窓辺は夜明けの朝もやを覗かせているので、果たしてそれは窓なのだろうかという疑問も残る。


窓のふりをして獲物を待つどこかへの扉なのだとしたら、やはり、穏やかな景色のものこそを選んで開けるべきなのだろう。



今度は、突然、ばりばりと木が裂ける音が響き、先程調べ終わったばかりの回廊が崩れ落ちる。

見知らぬ誰かが悲鳴を上げて飛び込んで行ったので、まだそちらの区画を見ていなかったお客がいたのだろう。

崩れ落ちても瓦礫が虚空に留まり続ける時間もあるので、全てが朽ち果てるまでに買い物を済ませれば良いのだ。



スリフェアは、春市場の一つだ。



所謂、サムフェルの春版である。

言うまでもない事だが、人外者達だけでなく、人間達にもこの市場を目指す者達は多く、スリフェアの回廊を訪れる為だけに魔術を磨くという者も多い。


サムフェルが商人達の市場であるのなら、このスリフェアの真髄は古書と骨董だ。

それも、世界が弾き出した古書と骨董を蓄えた崩壊の回廊が出現するのだから、血眼になってその在り処を探す者達が多いのは当然なのかもしれなかった。



スリフェアの回廊は朝と昼、夕と夜に分かれており、特に夜の回廊は崩壊が進みあっという間に立ち入れなくなる場所が増える。


優雅な書架灯に照らされた読書用の部屋も幾つかあり、持ち込んだ本を好きなだけ読んだり写したりも出来るのだが、稀少な品物が多い区画ほどあっという間に失われてしまうので、目的のものを手に入れていない限りは、そこで時間を無駄にすることはお勧めしない。



そう。

スリフェアの稀覯書は、驚くべき事にどんな本であれ例外なく写本作りが自由なのだった。




「うわ、アルテアは写す派かぁ………」

「買う方が多いが、障りが邪魔で持ち帰れないものもある。情報の集約の為に写すことも多いな。…………おい、ナイン」



その声に振り返った豪奢な神父服の男は、ひやりとするような紫の瞳を眇めて微笑むと、また視線を書架の方に戻してしまう。

手元の様子を見れば、どうやら頁を捲っている本があるらしく、呼びかけには応じられないという分かりやすい意思表示のようだ。



「ありゃ、無視されているけどいいのかい?」

「…………あいつの担当区分の専門書架を知らせてやろうと思ったんだが、余計なお世話だったようだな」

「で、その中でも一番厄介そうなものは、アルテアが買う訳だ」

「この題名をつけられた聖書だぞ?」



確かに、選択の魔物の手にある鈍錆色の革装丁の本には、選択魔術による信仰と崩壊の資質と記されている。


言葉で成される魔術が普遍的なものである以上、その題名を授けられた本が、表のどこかに長らく収められている筈もない。

耐えきれずに他の所蔵を食い殺す前に隔離するより他になく、その結果このような世界の裏側にある不安定な土地に辿り着くのだろう。


とは言え、その書を手にするのに相応しい者達の手に渡る前に姿を消してしまうものも少なからずあり、例えば魔物の第三席の選択とて、これぞと目をつけておいた本が読み通りに手の内に転がり込むことなく失われた経験も一度や二度ではないらしい。


どれだけ高位のものであれ、どれだけ稀少なものであれ、失われてゆくものが必ずあるからこそ、良くも悪くも世界には変化があるのだろう。



(この思考は、誰のものだろう…………)



そう思い、困惑する。

元々自分の内側に蓄積されたものが、いつもの自分とは違う再編を経て吐き出されるとこうなるのか、それともこの身を擬態させた妖精の魔術の成せる技なのか。



そんな事を考えていると、よく知っている名前が聞こえてくる。



「本当はさ、エーダリアを連れてきてあげたいんだけど、これでも僕は魔物だからね」



鮮やかな真紅の装丁の本を広げながら、塩の魔物はそんなことを呟いた。


はらりと落ちた前髪の一筋を指先で払いのけつつ、こちらもぼうっと光を揺らす青紫色の瞳が何とも鮮やかだ。


そんな塩の魔物の呟きに、手に取った本を躊躇いもなく自身の金庫に押し込みながら、選択の魔物は小さく笑い、次の本を手に取る。



「やめておけ。スリフェアの土地の不安定さは、サムフェルの比ではない。とある高貴な血筋の最後の一雫なんぞ、下手をすれば生きたままスリフェアに収められるぞ」

「だよね。だから僕は、君を連れてゆくだけの力は僕にもないような場所なんだよって、彼に嘘を吐くわけだ。凄く胸が痛むけれど、魔物は身勝手な生き物だから仕方ない」

「…………お前が、あの血筋に入れ込むとは思わなかったな」



そう呟いたアルテアに、ノアベルトは薄く微笑む。


その微笑みの冷淡さは魔物らしい閃きで、薄暗い回廊で微笑む塩の魔物は魔術の暗さを示すに等しい。

交わされる言葉も静かなものだったが、それでもこのような所で耳にする魔物達の声音は、甘い毒のような響きであった。



「そう言うアルテアだって、僕の妹の使い魔だからね」

「…………便宜上だな」

「でも君は、それでなければと思わなければ選ばないんじゃないかな。勿論、それでなければと取り戻したのは、僕も同じだけれどね」

「その執着と選択を、お前と分け合う必要はない」

「まぁね。………あ、額縁が来たのかな」



カツーンカツーンと硬い靴音が聞こえ、その音の方に目を凝らしたが、額縁の魔物の姿は見えなかった。


中央にある大階段近くは深い霧が立ち込めていて、真っ赤な絨毯の敷かれた階段の両端に並ぶのは、見事な壺や精緻な細工のある木枠などの、どこぞの王宮跡から持って来た瓦礫ではあるまいかという品物の数々。


その辺りはあまりにも霧が濃いからか、星屑の欠片を放り込んだランタンを持って歩いている、足元までの外套の男がいる。

夜会帰りの貴族めいた花飾りのあるシルクハットの下で揺れたのは、耳下で切り揃えられた白灰色の髪ではなかっただろうか。



どこか遠くで恐ろしい悲鳴が聞こえた。

獣達の遠吠えの声が重なり、なぜか大勢の人々の笑い声が続いた。



そんなおぞましい喧噪が聞こえてきたのは、どこまでも続く暗い回廊の奥であるらしく、ちらちらと頼りない蝋燭の火の明かりの向こう側には、随分と大きな手の影が映ったような気がする。




「…………感激屋が商売をしているな。夜の三十から四十六までは後回しだ」

「…………これで三分の二ってところかな。………ん?この本がどうかしたかい?持って帰るものだから君にはあげないよ」

「…………これまでの書架にはなかった筈だぞ」

「探し物にはコツがあるんだよ。僕は、司るもの的に呪いの抜け道を見付けるのが上手いんだ。…………ああ、彼は僕の大嫌いな魔術師だ。人間で夜の回廊に入り込めるとなると、やっぱりそれなりの階位なのかな。…………ありゃ、彼もいるのかぁ…………」

「……………舞踊を軸とした固有魔術だな。…………かなり昔に、あの魔術の気配をどこかで見た記憶がある…………」



ノアベルトが嫌いだと言った魔術師の姿は見えなかったが、その次に魔物達が注目した人物はすぐに見付けられた。

独特な雰囲気の老人で、艶やかな琥珀色の外套の背の高い人外者らしき男と一緒に歩いているのだが、その足取りがゆっくりと舞を踊るような独特の間を感じさせる。



(ハツ爺さんの魔術は、舞踏を軸にした固有魔術だと、以前に教えて貰ったような気がする。…………足元に僅かに荊の影が見えたような気がしたが、向こうに行ってしまった…………)



視線をこちらに戻せば、すぐ隣の書架で背表紙を追っている魔物達のところに、先ほどアルテアが声をかけた聖職者風の姿の人外者がやって来たようだ。



「あの人間は可愛い弟の友人だ。くれぐれも、何かの材料にはしないでくれ」

「………俺の統括にも触れるから、放っておくさ。………ナイン。お前はいつも買い過ぎだ。予算超過でまた腕を取られるぞ」

「この本を見てもそれが言えるのか?…………どうだ、素晴らしい意匠の挿し絵だろう。選択の魔物の絵姿らしい」

「………………吐き気を覚えるような描写の上に女だな」

「こりゃいいや。アルテアは、カルウィのあたりで、女のふりでもしたのかい?」

「するか。…………そもそも、何で俺の伴侶がアイザックなんだよ」

「うわ、………あちこちがめちゃくちゃだなぁ。こんな本を書いたら、そりゃ、この回廊に収蔵されるしかないよね。…………え、僕なんか獣の姿なんだけど………。うーん、狼かぁ…………でも、なんで黄緑色?」



ナインと呼ばれた男性の手に入れた本についてひとしきり盛り上がると、短く幾つかの言葉を交わし、聖衣姿の男は再び二人の魔物と別れ、下の階に移動するようだ。


アルテアが手渡したメモのようなものを持って行ったので、どちらが見付けても買っておこうという目当ての品があるのかもしれない。



そんな事を考えていたら、肩の上に手を乗せられて振り返った。

見上げた先で、割れそうな程に青い瞳がこちらを見ている。


漆黒のドレス姿はこのような場所にこそ相応しかったが、この特殊な階層の魔術の道には、部外者は入れない。



「そろそろ、こちらと交差するね。ぶつからない内にすれ違っておいた方が良さそうだ」

「はい、ダリル。…………まだ馴染めませんね」

「馴染まない擬態が役に立つ時もある。存在が曖昧になれば、いっそうに本来の自分には紐付き難いものさ」



そう言われて頷き、隣で本を選んでいたあの魔物達の横を通り過ぎることになるのだと、小さな緊張感を飲み込んだ。



(気付かれることはないだろう…………)



もし、この回廊で誰かが圧倒的な優位性を誇るとすれば、それは書架そのものを自身の領域とする一人の妖精だろう。

ここはスリフェアの回廊とは言え、書架に囲まれた場所であり、この妖精は書架を司るものなのだから。



「“仮初め”、あちらとすれ違うから用心するんだよ。遭遇しても支障はないが、………見てご覧、彼等のあの足元の血溜まりを。まったく、どれだけ殺したんだろうねぇ。ここにはあの二人の敵も随分と多いみたいだ。私達の目的は、ただの見学なんだから、余計な問題に首を突っ込みたくはない」

「ええ。…………今夜ばかりは、気付かれないことを祈ります」



そう微笑んだ仮初めに、隣に立った背の高い魔物がこちらを見て優しく微笑む。


差し伸べられた手を取り、不慣れな従僕が主人の庇護を受けるように、そのケープの内側に入れて貰って歩幅を合わせてゆっくりと歩いた。




「夜は長いんだ。これからも何度かすれ違うだろうし、おいおい慣れてゆけばいいさ」

「ウィリアム、その目で仮初めを見ていると、おかしな趣味にしか見えないね………」

「うわ、それは勘弁してくれ…………」



スリフェアの訪問に合わせ、終焉の魔物は腰までの黒髪をゆったりと一本に縛った騎士に擬態している。

漆黒のケープ姿を見れば、ふと、蝕の記憶が蘇りかけた。




(でも、ここは不安定な土地だから、それは思い出さない方がいい………)



そんな終焉の魔物に守られ歩く仮初めは、今夜は淡い銀糸の髪の青年……に見える擬態をしていた。


スリフェアは、サムフェルと違い擬態した上での訪問にも制限や不利益はないが、足元の危うい崩壊してゆく回廊を巡るので、いざという時に本来の魔術が振るえないとなると自分の首を絞めることになる。


なので、このスリフェアで擬態をしている者達は多くはないのだが、書架妖精の道を歩くのであればその限りではない。



書架妖精の経路は、言わば管理者のそれに近くなる。



だからこうして、高位の魔物達にも気付かれずに一階層違うところを歩いているし、不慣れな擬態姿で性別を曖昧にし、ふとした言葉から本物の自分を盗まれないようにも、思考までもを変化させていても問題はない。



(でも、心の中の呟きすら見知らぬ誰かのもののようだ。やはり落ち着かない………)



こんな事が出来るのだから、妖精の魔術を魔物達が警戒するのも当然と言えよう。


ネアという人間は今、ダリルが施した妖精の擬態魔術によって、持ち得る思考や言葉の端々までもが、擬態している“仮初め”という人物のものになっているのだ。


ネアとしての記憶や自我を失うことはないが、意識せずとも口調や仕草が変わるので、無意識に本来の口調に戻っていたというような失態は冒さずに済む。


名前というものが大きな意味を持つ世界で、それは今夜だけの仮の存在なのだと、スリフェアに理解させる為に作られた特別な偽名であるので、あえて言葉の意味が明らかな“仮初め”という名前になっていた。




(あ、………)




違う階層を渡り、二人の魔物のすぐ隣を歩き抜けた。


魔術の道のように、同じところを歩いていてもここはそことは違うのだ。

その上で、擬態してここまで身を潜めていても、どっと滲んだ冷や汗に、魔物らしい言動を隠しもしない魔物達の精神圧が窺えた。




「そう言えば、もうすぐウィリアムの誕生日会だよね」



すれ違う時に、魔物達がそんな会話をしていたので、意識をその会話の内容に向ける。

何しろ企画者なのだから仕方ない。



「…………ああ。俺からも、なかなかに愉快な贈り物を用意してある。あいつが、机の上にウィリアムへのカードを開いて置いてあったからな」

「わーお。僕の妹を利用するのやめてくれないかなぁ………」

「仕込んだ魔術には署名がある。あいつはただの配達人だと分かるようにしてあるさ」

「何それ、暇潰し?」

「さてな」



(ふうん……………)



ネアは、眉を持ち上げてこちらを見た終焉の魔物ににっこりと微笑みかけた。

よりにもよって、まさかのタイミングでの会話に感謝せざるを得ない。

危うく彼の誕生日に、事件を起こしてしまうところだったではないか。



「お仕置きです」

「…………そうだな。せっかく君から貰えるカードなんだ。不愉快な事をしてくれた挨拶は、俺からもしっかりとしておこう」

「馬鹿だねぇ、アルテアも。ここで話しちまうのがもう、運命なんだろうね」




やがて、ノアベルトやアルテアと交差していた道から離れると、崩壊の轟音はどこか遠くなった。

振り返れば、二人の魔物が本を見ていた回廊はすっかり崩れてしまい、瓦礫の浮かぶ虚空に見えない床を踏むように立った魔物達の姿が見える。


アルテアの漆黒の燕尾服が崩壊の風に揺れるのが見えるが、隣を歩くウィリアムの漆黒のケープは揺れていない。


スリフェアの訪問は正装でなければならないので、ウィリアムは漆黒の軍服姿で、ネアは男性にも女性にも見えるようにクラヴァットを巻いたドレスシャツに黒いハーフパンツ姿である。



ごぉんと、激しい崩壊の音がまた聞こえた。



夜の区画は、早い番号の書架から崩壊に飲み込まれてゆくのだとか。




「この順路や、崩壊の順番を覚えておきな。………いつかの為にね。ただし、スリフェアは一度訪れた者は期間中に二度目の訪問が許されない。よほどの悪運でも持っていない限り、今年はもう大丈夫だろう」

「ええ。区画ごとに絨毯の色が違うことや、階層ごとに崩壊の早さが違うのだと知れて良かったです」

「加えて、ここでの優位者は私とウィリアムだ。こうして共に訪れて証跡を残しておけば、迷い込んだ時にその繋ぎを辿って再会することも出来るかもしれない」

「シルハーンとの間に試したカードは使えたから、迷い込んでも連絡は取れるだろう。それに、…………見て来た通り、一晩しか開かない場所だから、知っている魔物も多く居る筈だ。特に夕から夜にかけての回廊には、白持ちの魔物が多い」

「…………あそこにいるのは、真夜中の座の精霊王だね。あの姿を覚えておいて、あいつもいざという時には頼って構わないよ」

「ギードもどこかにいる筈なんだが、通ってきた道では見かけなかったな…………」



またどこか遠くで、どっと笑い声が響いた。

アルテアの言う感激屋とやらだろうかと首を傾げ、先程の回廊で気になって持って来た三冊の本を見下ろす。


一冊は、大人が何らかの民話を子供向けの体裁で書き残そうとした絵本のようなもので、挿絵の美しさが気に入って手にした、竜が出てくる本だ。

後の二冊は魔術書で、ダリルからまたとんでもないものを見付けたねと苦笑された。



(勿論、ただの見学だけで終えるには勿体ない。せっかくなのだから、買い物もしないと………)



スリフェアの会計は、こちらを訪れる際に絹で出来た布袋を持ち、そこに会計として取られてもいいお金や品物を入れておく。

そうすると、ここを立ち去る際に手にした品物に見合うだけの額が勝手になくなっているシステムであるらしい。


お金が足りないと、身に付けたものや体の一部、場合によっては魂も取られてしまうので、正確な目利きが必要とされるし、うっかり全身の装いを絹にすると中身の肉体を奪われてしまう。



「そろそろいいだろう。私も自分の探し物があるんで、解散としようか」

「はい。今夜は有難うございました。…………この三冊の本と、ウィリアムに…………さんにも見て貰った、小さな剣を持ち帰ろうと思いますが、会計は足りますか?」

「仮初めの場合、支払い袋の中身がえげつないからねぇ。…………見せてご覧、………うん。持ち帰るものもそれなりだが、足りるだろう。…………その絵札も入れたんだね」



支払いは問題ないと言われたネアは、一緒に帰ってくれるウィリアムの手を取り、ここまで案内してくれたダリルにもう一度お礼を言った。



(今夜の目的は、十五年ぶりに開かれたこのスリフェアを知る事。スリフェアに迷い込むような事故が起きた時に、この場所を知っていることと、この場所でウィリアムさんやダリルさんとの魔術の繋ぎを得ておくことが助けになるから。………そして、ここから、リーエンベルクに残ってくれているディノと、あのカードが使えるかどうかを調べること………)



全ての目的は達した。

後はもう、長居をして妙なものに出会う前にここから立ち去ろう。



スリフェアを回廊を離れて淡い魔術の道を踏めば、纏っていたダリルお手製の擬態が解けてゆき、思考の言葉も自分本来のものに戻ってゆく。



擬態が解けてしゅるりと伸びた髪と、重さが変わった体に、馴染んだ元の姿に戻れることにほっとする。




「ウィリアムさん、お忙しいのに有難うございました」

「いや、今夜が俺が動ける日で良かった。スリフェアは不定期の開催だが、あの通りの場所だからな。安全に訪れる事が出来る時に、どのような場所なのかを知っておいた方がいい」



次の開催はまた来年かもしれないし、十年後かもしれない。

それはスリフェアが決める事なので、開催の知らせが真っ白なカードで届くまでは、誰にも分からないのだそうだ。



ばさりとケープを翻し、ウィリアムは元の姿に戻る。


ウィリアムが擬態していたのは、本来の姿だと、さすがに他の魔物達が気付くからだという。



ふわりと降り立ったのは、真珠色の髪の魔物が待っていてくれた、リーエンベルクの転移の間であった。



「ディノ、無事に戻りました。お買い物も出来たんですよ」

「おかえり、ネア。怖くはなかったかい?」

「はい。ダリルさんとウィリアムさんがいて安心でした!そして、お出かけ中で声をかけられなかったノアが、なぜかアルテアさんと一緒にあちらにいましたよ。いつの間にか仲良しなのか、このお出かけを機にあちらの事情についての告白をするのかもしれません」

「ノアベルトが……………」



リーエンベルクに帰ってきたネアは、さっそく戦利品を並べて見せた。



お留守番が終わってほっとした様子のディノは、スリフェアに入るとなぜか花びらの雨が降るらしく、その場にいる事が皆に知れ渡ってしまうので今回は留守番となっていたのだが、ネアが知っておいた方がいい事が多い場所であったからか、荒ぶらずにいてくれたようだ。



「剣は武器として持っておこうと思います!………そしてこの二冊の魔術書は、エーダリア様に預けておこうと思ったのですが、ダリルさん曰く、こちらの一冊はノアに渡した方がいいみたいです」

「…………うん。これは、複雑な魔術を集めた高位の魔術書だからね。ノアベルトに渡すのがいいだろう」

「ふむ。では、エーダリア様には、こちらはノアから借りて読んで下さいねと、お話ししますね」




会食堂で帰りを待ってくれているエーダリアに、持ち帰った魔術書を届ける為に移動しつつ、ネアはふと、いつの間にか見慣れたリーエンベルクの回廊を振り返った。



スリフェアの回廊は、いつかのどこかにあった、もう現存しない建物の回廊を繋ぎ合わせたものなのだそうだ。



(リーエンベルクは、そんな事にはならずにずっとウィームに残ってくれていますように……………)



そんな願いをかけ、ネアの大切な家になったリーエンベルクの壁をすりりっと指先で撫でる。




なお、持っていた支払い袋の中には、ほこりに貰った宝石をこれでもかと詰め込み、お金が足りなくなる事を心配したディノが、他にも稀少な宝石や事象石を詰め込んでくれた。


しかし、もし、予想もしていなかったようなものの支払いが発生するといけないので、ネアは価値の計れないものとして、頭の部分だけを描いたきりん札も入れておいたのだが、ふと気になって支払い袋を開いてみると、減っている宝石はほんの僅かで、代わりにきりん札がくしゃくしゃに丸められていたのだった。







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