こけら落としと縫い払い
その夜は、美しい夏の晴れ間であった。
ウィームでは夏でも雲がかかったり雨が降る事が多いのだが、湿度などはあまりなく日中や夜間はからりとしている事が多い。
本来であれば避暑地としても最適なのだが、この季節は妖精達や小さな生き物達が活発に動くので、ウィームに馴染みのない者達がうっかりのんびり過ごすと、何かを失ったりとんでもないところに迷い込まされたりもするのだそうだ。
それでもウィームを訪れる者達は少なくなく、この時期は、あちこちで観光客の姿を見かけるようになる。
とは言え、ウィームの各地では夏季休暇がしっかり取られるので、公共施設や商店などが目当ての場合は、少し早めに楽しみに来るのが良いだろう。
夏の終わりになると、秋の収穫からウィームが最も華やぐ冬にかけての英気を養う為に、あちこちが休みになってしまうのだ。
そして、そんなウィームを抜けてとあるあわいを訪れると、また夜の色相と空気の匂いが変わる。
こちらの夜は深く艶やかで、華やかな賑わいとシュプリの香りに包まれていた。
「今夜こけら落とし公演があるのは、この劇場なのですね!」
「うん。あわいの劇場が増えるのは珍しいんだ。三百年ぶりくらいかな」
「ほわ………、なんて綺麗な劇場なのでしょう。今回は確か、以前にこの劇場の前のものが、あわいの風化で使えなくなってしまいそうだったので、新築されたのですよね」
高台に設けられた劇場の周囲は素晴らしい庭園になっていて、淡い檸檬色の薔薇と細やかな白い野薔薇が咲いていた。
代わりに飾られた薔薇は紫系統が多く、黒一色のドレスコードを設けた今夜の公演を観に訪れた招待客達の装いと、惜しげもなく庭園にまで敷かれた濃紺の絨毯の色彩を際立てる。
美しい夏の夜である事は同じだが、見慣れた街並みからこちら側に入り込むと、まるで美しく奇妙な夢を見ているかのようだ。
「移築もしているようだけれど、あわいにはあわいの特性がある。前回のものは砂のあわいだったから、今回は素材を変えて同じような装飾を造ったりもしたのだろう」
「ふむふむ。なので、劇場正面の装飾に対し、建物自体の造りが新しく感じられるのですね。柱やファザードの彫刻が、まだ艶々していて綺麗ですねぇ」
ネア達が訪れたのは、夏夜のあわいの中にある夜雲の劇場であった。
これまでは、オーナーが夏砂のあわいにあった砂雲の劇場を持っていたのだが、砂のあわいや影絵は、砂漠化が進行したり、あわいそのものがもろもろと崩れ落ちてゆくと、なくなってしまうこともあるのだそうだ。
砂雲の劇場があったあわいも例に漏れず、砂漠化が進み、お客を呼び難くなりつつあったらしい。
また、あわいの中で進行する砂漠化は石材なども食べてしまうので、状況が深刻になり歴史ある劇場が食べ尽くされてしまう前にと、経年劣化が激しくないあわいへの移設が計画されていたそうだ。
そして、着工から五十年余りを経て、漸く今夜、こけら落とし公演が行われる事となった。
「夏の系譜のあわいで安全に過ごせるのは珍しいから、君を連れてきてあげたかったんだ」
「ふふ。ヨシュアさんの領域の中だと聞いて、すっかり安心してしまっています。存じ上げている方も多くて、伸び伸びと観劇を楽しめそうですね!連れてきてくれて有難うございます、ディノ」
「可愛い。弾んでる…………」
代わりに少しも落ち着けないのが、劇場のオーナーであろう。
雲の魔物や雲の系譜のお客は想定していたが、雲の魔物がひっくり返ってしまうような高位の招待客をこんなに大勢連れてくるとは思わなかったらしく、先程から何度か気付け薬を嗅がされているようだ。
この劇場のオーナーは、砂豹の魔物であるらしい。
砂の気配のない新しい住み家は少しだけ落ち着かないが、夜雲の妖精の一族に婿入りしたので、百年もすればそちら側に馴染むだろうというのがディノの見立てであった。
奥方に夢中なので、もう少し早まるというのがノアの見立てで、そんなノアは、明日の公演にエーダリアとヒルドを連れて来る予定なのだそうだ。
(という事は、明日もオーナーさんは気付け薬を……)
神経質そうな美男子という雰囲気のオーナーは、どことなく表情の作り方や装いがジルクに似ている。
対する奥方の妖精は、ふさふさとした黒髪に淡い砂色の瞳を持つ夜空のような配色の美女で、ほんの少しだけダリルに雰囲気が似ているとなると、夫婦の力関係は言わずもがなという感じであった。
どおんと、音を立てて花火が上がる。
ばらばらと落ちてくる祝福の光の粒を見上げ、ネアは、感動のあまりに足踏みをした。
妖精花火は観客の期待値を高める魔術効果があるので、この後の舞台がいっそうに楽しみになる。
「黒一色だからこそ工夫をして、皆さんが素敵なドレスや盛装姿でいらっしゃっているので、あちこちに目移りしてしまいます。一つだけ謎なのは、…………いつかのお祭りで見かけた猪仮面の集団がいることでしょうか」
「……………ヨシュアが呼んだのかもしれないが、…………おかしいだろ」
「ふむ。アルテアさんにもよく分からないようなので、あちらには近付かないようにしましょうね」
「うん。そうしようか。………ウィリアム?」
「思っていた以上に華やかですね。シルハーン、向こうにグレアムもいますよ」
「おや、間に合ったのだね」
「むむ、どこですか?」
「ミカの奥にいるぞ。…………話しているのは、仕立て妖精の女王か」
「なぬ。シシィさんのお母様ですね!」
「面倒ごとの予感しかしないな。お前は近付くな」
「解せぬ」
こけら落とし公演なので関係者達も多いが、音楽関係者達を招待しての公演は明後日になるらしく、まずは後援者になってくれるかもしれない高位の人外者だけを招いた夜となっているようだった。
音楽関係者の招待日を別の日に設定したのは、才能のある音楽家程、高位の者達の気配に影響を受けやすいからなのだとか。
美しい生き物の姿に心を揺さぶられ、感動のあまり泣き暮らしてしまったりもするので、階位が離れた者達が集まる場に招く際には、少しばかりの配慮が必要になる。
今回は、初日公演の招待客のあまりの顔ぶれに一度失神したというオーナーが、これは絶対にまずいことになるぞと、急遽、招待日を別にしたのだという。
(でも確かに、魔物さんは上位の方がかなり集まっているし、精霊さんも高位の方が多いような印象があるかな。…………むぅ)
「ネア?」
「なぜに、あやつがいるのだ…………」
「ああ、ナインか。確かに、このような場にいるのは珍しいが、知り合いがいるのかもしれないな」
「ぐるる…………」
「ギードがいるからだろ。かなり気に入っているようだからな」
「………俺は未だに、ナインがギードを気に入っている理由がよく分からないし、二人で交換日記をしている理由もよく分からないんだ………」
ウィリアムが、少しだけ遠い目でそう告白してくれたので、ネアも、なぜギードがあの精霊との交換日記に甘んじているのかさっぱり理解出来ないと頷いておいた。
ディノは、通りがかった真夜中の座の精霊の一人に挨拶をされていて、アルテアにも話しかけて来る者達が少なくない。
ネアは、そんな社交の場に身を置く魔物達の真ん中で、続けて打ち上った花火を見上げて頬を緩めていた。
ふっと、人波の向こうにルイザと歩くオズヴァルトが見えたような気がしたが、このような不思議な夜の常として、あまり離れているとそこに誰がいるのかが視認出来ないような魔術がかかっているので、すぐに見失ってしまう。
「ネア。ロージェに入ったら、シュプリと軽食が出るそうだよ」
「はい。今晩の軽食などの手配は真夜中の座の精霊さんだと伺っていますので、とても楽しみです!」
「うん。私達のロージェのものは、ミカが手配したそうだ。安心して楽しむといい」
「ふふ。先程それを教えて貰って、実はとてもわくわくしているのです。演目も初めてのものですので、楽しみですねぇ」
期待と興奮に胸を弾ませつつ、ネアは、近くのテーブルの上に置かれた、薔薇がふんだんに生けられた花瓶をひっくり返そうとしていた黒い紐のような生き物をばしんと片手で掴み取った。
魔物達がはっとする前に、床に投げ捨ててぎゅむっと踏み滅ぼしてしまう。
ネアは、そちらのテーブルに置かれた白みがかった水色の花瓶が雨の夜明けの祝福石製だと知り綺麗だなと思っていたし、その花瓶に淡い紫色の薔薇をたっぷり生けてある組み合わせもとても気に入っていた。
なので、そんな素敵なものを台無しにするような生き物は、滅びてもやむなしと思うばかりである。
「……………おい。何を殺したんだお前は」
「むぅ。悪い黒いぺらぺら紐生物なので、気にしなくてもいいのでは…………」
「縫い払いだね。どこかで、災い除けのしつけ糸を切り損ねていたのだろう。…………ヨシュアを呼んだ方がいいのかな」
「であれば、グラフィーツの方がいいかもしれませんね。先程見かけたので、ヨシュアに声をかけさせましょう」
「ほぇ。ウィリアムが、僕に何かさせようとしてる………」
「おい、縫い払いが出たらしいぞ」
折良くこちらに歩いてきたヨシュアとイーザがいたので、アルテアが事情を説明してくれた。
イーザはなぜか感極まった様子であったが、不思議なことに、いつの間にか周囲の者達の多くがうっとりとした幸せそうな表情を浮かべているので、皆、開演が近くなり盛り上がってきてしまったのかもしれない。
「…………ネアは、縫い払いを踏んでしまったのかい?」
「まさかとは思いますが、あの素晴らしい光景を見ていなかったのですか…………?」
「ふぇ、イーザが怒ってる。意味が分からないよ……」
「あの綺麗な花瓶と薔薇を床に落とそうとした生き物など、この場に存在する価値はありませんからね!」
「……………素晴らしい」
「ほぇ、イーザが……………」
縫い払いという生き物は、小さな祟りものの一種なのだそうだ。
このような劇場では、厄払いの意味を兼ねて、一部のカーテンや職員用の制服に、こけら落とし公演の直前までしつけ糸を残すという。
しかし、魔術の結びの厄介なところで、開場後にも残されるしつけ糸があると、縫い払いの祟りものが現れてしまうのだそうだ。
その祟りものは特別大きな災いは齎さないが、ネアが見たような地味に嫌な騒ぎを起こすので、祓ってしまうこと自体は何ら問題がないらしい。
「今夜はまず、オーナーの方からのご挨拶と、こけら落とし公演を任された方々からのご挨拶があり、その後で公演が始まるそうです。………むむ、幕間では妖精の歌い手さんによる演目も予定されているのですね………!!」
「おい、弾むな!!」
「アルテアは意地悪だな。好きに楽しめばいいと思うぞ」
「ふぐ。興奮のあまりじたばたしたくなるので、花火が終わってロージェに入ったら、用意されている筈のシュプリをくいっとやりますね」
「ふぇ、………ネアがまた何か殺したよ…………」
「む?……………これは、懐かしのナン生物です?足踏みしたらぺらぺらになって出てきました………」
「おっと、どこからか入り込んだようだな。捨てておくか」
「はい。ウィリアムさんにお任せします!」
「三つ編みを持っていた方がいいかな………」
「ディノ、エスコートして貰いながら三つ編みを持たされると、何だか込み入った感じになるので、せめて手を繋ぐくらいにしませんか?」
「虐待しようとする……………」
「解せぬ」
夏の夜の賑わいは、どこか不思議で、美しいあまりに僅かな不穏さも入り混じる。
人ならざる者達が集まる夜に相応しい彩りであったので、ネアは、さして気にかけず打ち上げられた花火を見上げて目を輝かせた。
喧噪の中の秩序も混沌も、その全てが華やかな美貌の中に落とし込まれ、もう暫くすれば幕が上がるのだろう。
その瞬間を楽しみに、ネアは、魔物達と一緒にゆっくりと劇場の階段を上がっていった。
引き続き、7月いっぱいはSSの更新となります!