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結びの花畑と毛皮の魔術師 3




ネア達が食事を食べ終わり、のんびりとした気持ちで寛いでいる時のことだった。



(…………乱痴気騒ぎを、まさかこんな幻想的な場所で見る羽目になるとは思わなかった………)


なかなか感想を述べにくい酔っ払い方をしている一団があちこちに現れ始めた事に気付いたネアは、魔物達の情操教育上宜しくないのでそろそろ町歩きに切り変えようかなと思案しかけたところだった。



ふっと羽ばたきが聞こえた気がして振り返ると、そこには、ディノを始めとした高位の生き物達を見慣れたネアですら、一瞬言葉を失うような美しい生き物が立っていた。




(…………これは、忠告されるのも分かるかも……………)



ネアがもし、人外者の容貌における嗜好が精霊寄りであれば、この精霊の美貌には感動すら覚えたかもしれない。

或いはネアが、よく魔物達が言うように終焉の子供ではなく、夜よりも昼を好む人間であれば、この精霊の美しさに恋をしたのだろうか。



はっと、隣の魔物が気色ばむのが伝わり、ネアはすかさずそんな魔物の片手をぎゅむっと握り締めた。

安堵の代わりに、魔物はきゃっとなってしまったようだが、それはそれで良しとしておこう。




(…………これだけの色を持っている生き物が、切り立った山の上に暮らしているんだ…………)



そこに立っていたのは、この岩山を思わせる鋭い青色から黒、くすんだ水色に墨色、緑や残った雪のような白銀色をまだらにした長い髪を持つ麗人であった。


足元にまで引き摺る長い髪は鈍い光を宿した滝のように波打ち、人ならざる者たちの乙女の肌の白さに、火竜を思わせる程に鮮やかな真紅の瞳。


恐らく男性には違いないのだが、この美貌に中性的な気配を乗せるのは、ぞくりとするくらいに艶っぽい薔薇色の唇と、ぶ厚い睫毛の落とす影の深さだろう。


人外者の妖艶な美貌と言えば、仄暗く凄艶な美貌を持つアルテアを知ってはいるが、この男性の美貌には、生身の肌の温度の背徳感や男性的な鋭さはなく、人形や美姫を思わせる守り慈しまれる美貌という感じがする。


けれどもそれも、こちらを見た真紅の瞳が潤んだようにうっとりとした甘い微笑みを浮かべるまでであった。




「お前は、私を穢す程の足を持ちながら、なぜ私を奪いに来ないのだろう?」

「……………ひとちがいです」



悲しい事に、人間は不都合な事ほど早く気付いてしまうようだ。


ネアは、そんな一言でこの訪問の原因が何であるかを一瞬で理解してしまい、即座になかったこととして処理した。


ディノも、その理由に気付いてしまったのだろう。

僅かに体を強張らせてはいたが、ネアが全身全霊でこの訪問者を威嚇している事が伝わっているのか、先程のように荒ぶる様子はない。



「立ち去るといい。この子は私の伴侶だからね」

「…………伴侶を得ているのか」



静かなディノの声音に、赤い瞳の男性は目を丸くする。

すると無垢な気配が強まり、先程とはまた違う美しさに大輪の花が咲いたようだ。


しかし、一瞬の驚きをすぐに飲み込んでしまうと、なぜか鷹揚に頷くではないか。



「…………そうだな。私を得るほどの者であれば、高位の魔物の伴侶であるのも納得出来る事かもしれん。人間は指の数だけ伴侶を得られるそうであるし、構わんぞ」

「なぜ上からなのだ。お帰り下さい」

「はは、人間の女は面倒なものだな。聞いた通り、最初は恋情を否定してみせるらしい」

「…………ディノ、私はこの方の翼ではなくて頭を踏んでしまったのかもしれません…………」

「…………そうなのかい?」



ディノも、こうも真正面から来られてしまうとまずは途方に暮れるようだ。

水紺色の瞳を瞠り、自身の不快感を露わにするよりもネアの方を心配そうに窺ってくれる。



「ネアは、シルハーンのものだよ。煩いから壊してしまおう」

「ヨシュアさん、私も同じような意見ではあるのですが、色々面倒臭くなるので壊すのはやめましょうか」

「ほぇ………。ネアはこれも欲しいのかい?」

「いえ、ちっとも欲しくはありません。しかし、こちらの土地にはお仕事で来ているので、後々に問題になるような事件は起こしたくないのです」

「人間は我が儘だね。首を捥げばすぐ終わるのに」



ネアの主張が飲み込めないらしく、ヨシュアは銀灰色の瞳を細めて首を傾げる。

魔物らしい眼差しは酷薄で、こうして見れば、ヨシュアの美貌は限りなく温度の低い怜悧さだ。




「ディーファム!」



そんな、既に混み入った状況の中に飛び込んで来たのは、一人の山の精霊の女性だ。

ぱっきりとした青い髪に、はっとするほどに澄明な橙の瞳が何とも鮮やかで、ネアはあまり好まない強い色の組み合わせなのに、この色も素晴らしく美しいと力技で思わせてしまうくらい、魅力的な女性である。



その女性が駆け寄って来ると、ディーファムと呼ばれた精霊は、微笑んでネアを指し示すではないか。



「ミリエラ、これが私の伴侶になるらしい」

「…………っ?!…………この、醜い人間が?!」

「そう言ってくれるな。この私を傷物にした人の子なのだぞ」

「馬鹿な。可動域を確かめてみて下さい。…………蟻?……い、いえまさか、十を下回る事はさすがにないとしても、この人間の可動域は五十もないのは確かです。あなたを傷付けられる筈がありません」

「私を傷付けられたのは事実なのだから、可動域は低くともそれだけの力を持ってはいるのだろう。見た目で判断してはならぬぞ」



そんなやり取りを始められれば、ネアは、手荒く追い払わなければならない筈の男性の公平な評価についつい感謝したくなるという、複雑な心境になってしまう。




「ディノ、ごめんなさい。厄介な事になりました…………」

「こちらにおいで。………これはいらないね?」

「私個人としては是非ともぽいなのですが、本日は名代ですので、この場は華麗に回避させていただき、後日ぽいは出来ますでしょうか?」

「……………では、早々にここを発った方がいいだろう」

「…………むぐ。ディノが楽しみにしていた所なのに、こんな風になってしまってごめんなさい………」



しゅんとしたネアが抱き締めてくれている魔物にそう謝れば、ディノは、僅かに目を瞠ってから微笑んで首を振った。



「君とここで過ごせたから、私はもう満足したよ。………それに君は、この山の精霊にはまるで興味がないらしい」

「…………それは、ディノにとっては嬉しい事なのですね?」

「うん。ノアからは君は好まないだろうと言われていたけれど、リスプの山の精霊は、殆どの人間達が例外なく強く惹かれるという特殊な生き物らしいからね」

「まぁ、ディノも心配してしまうくらいの方々だったのですね。………ただ、ノアが言うように私の好きな雰囲気とは正反対という感じがしますので、あまり心惹かれる事はないようです」

「うん」



ネア達がそんなやり取りをしていたところ、愕然とした面持ちで精霊達がこちらを見るではないか。


何というか、たいへんに煩い視線であるので、ネアは暗い眼差しでそちらを見る。



「…………何と、まさか、…………本当に私を望まぬのか?」

「望んでおりません。私には身に覚えのない事ですが、万が一混み合ったところで不慮の接触があったにせよ、あなたを意識した行為ではありませんので、是非にお帰り下さい」

「…………そうなのか…………」

「そんな筈がないだろう!人の子が、この方の魅力に抗える筈がない!!」

「…………なぜややこしくするのだ」



せっかく、ディーファムと呼ばれた精霊が、呆然としたように頷き、事態が収束しかけたところだったのに、なぜか今度は女性の方の精霊が荒ぶり出してしまい、ネアはとても荒んだ気持ちになった。


直前まではこんな醜く脆弱な小娘にこの方は渡せないと主張していたくせに、今度はどうして有り難く受け取らないのだとぐいぐいと前に出してくるので、ネアからすれば解せぬとしか言いようがない面倒な展開になってしまった。



(でも、角を立てずに追い払う為に、たいへん結構なお姿ですが私には荷が重いのでと言っても、この人達には伝わらないだろうし………)



ディーファムは同族の中でも階位が高いらしく、そんな高貴な山の精霊に人間が惹かれないなど考えられないというのが、ミリエラの主張である。


熱い口調で彼の魅力についての説明を始められてしまうと、ネアの伴侶として怒ってもいい筈のディノですら、この精霊はどうしたいのだろうと困惑したようにネアの方を見た。




「…………これを壊せばいいと思うよ」



そんな折、早々に痺れを切らしてしまったのは、巻き込まれただけの一番うんざりな立場には違いない、雲の魔物だった。


そう呟き眉を顰めたヨシュアが、すいっと片手を振る。

すると、ミリエラと呼ばれた女性の精霊の首を、どこからか現れた雲の切れ端が紐のようになり、しゅるりと締め上げてしまった。



「…………っ?!」

「ミリエラ?!…………く、雲の王?!」

「ネアはシルハーンの伴侶だよ。それに、僕はまだここでお茶をするんだ。邪魔な精霊だなぁ………」



(あ、………気付いてなかったんだ………)



てっきり、この精霊達は系譜の王である雲の魔物すら恐れずに荒ぶってしまうのだと思っていたがそうではなかったらしい。


ぎょっとしたように体を震わせたディーファムは、整えられた表情よりもよほど柔らかな目をする。

どうやら彼は、ネアの隣に座っていたターバン姿の人物が雲の魔物である事を、きちんと理解出来ていなかっただけのようだ。


それもどうかなと思うが、ヨシュアを認めたディーファムの瞳に畏れにも似た感情が過ったので、このまま立ち去ってくれないだろうかと期待をかけたネアだったが、なぜか山の精霊達はここで踏み止まってしまった。



「……………っ、………宜しいのです。ミリエラの事は、どうぞ捨て置き下さい」

「ミリエラ……………。すまない」

「…………なぜそうなるのだ。お帰り下さい」

「構わぬさ。一族の女達が我々に仕えるのは生れながらのこと。これも本望だろう」

「この先に進んでもお引き取りいただくだけですので、無駄な犠牲を出さずに引き返す事をお勧めします………」



噛み合わない会話に武力行使が出来ないもどかしさを嘆いていたネアの耳に、ふうっと溜め息の音が触れる。


その温度はひやりとする程に冷たく、ネアは一柱の王らしくディーファムを一瞥したヨシュアに、雲の魔物が系譜の管理に長けた優秀な魔物でもある事を思い出した。



「人間はどうしてこんな精霊が好きなのかな………。この精霊はね、男達の願いを叶える為に女達が何でもするんだよ。伴侶を得る為に、こうして仲間を犠牲にする事も多いんだ」



当事者の置き去り感に愕然としているネアに、ヨシュアがそう説明してくれる。



(大好きなイーザさんだけではなく、その家族も大切に庇護しているヨシュアさんにとって、それは不愉快な事なのだわ………)



そんな一面を見てしまえば、手はかかるが幼気な魔物に見えても、ヨシュアはやはり王なのだった。


そんな雲の魔物がいつの間にか手にした煙管をひょいっと振ると、首に巻きついた雲がいっそうにぎりぎりと締まってゆき、ミリエラの顔面は蒼白になる。



(…………さすがに、ここではまずい)



ここまで来ると、ネアとしても展開の熱され方が杜撰過ぎると呆れるばかりではいられない。


見ず知らずの迷惑な精霊がどうなっても構わないし、本来なら精霊達の執着の厄介さを身に染みて知っているネアの心はこの程度のことでは痛まないのだが、さすがに今回ばかりは不慮の事故の加害者としての責任もある。


ディーファムへの責任などは取らないにせよ、自分がきっかけを作った事件で、ここでミリエラを死なせてしまう訳にはいかないではないか。



「ヨシュアさん、その方を離して下さいませんか。困った精霊さんを締め上げてくれているのはたいへん有難いのですが、私はお仕事でこちらに来ているので、あまり大事にしたくないのです」

「どうして僕がやめなければいけないんだい?この精霊は、僕の土地で僕がお茶を飲む邪魔をしたんだよ?」

「…………むむ、そちらの理由なのですね。……………であれば、………ていっ!」

「ぎゃあ!ネアが叩いた!!」

「私のお仕事の現場で、騒ぎを起こしてはなりません!ヨシュアさんが自分の為にそうした事とは言え、話の通じない精霊さんを黙らせてくれた事はとても助かりましたが、ここで滅ぼしてしまうと角が立つので、やるなら後日こっそり滅ぼして下さい!」

「ふぇ、僕は邪魔な精霊は壊すんだよ。いつもそうしているのに…………」

「有り体に言えば、私の評価に響きますので、今日はなりません」

「ふぇぇ、怒ってる………!!」

「………なぜにここでぎゃん泣きなのだ。むぐぅ、現場の収集がつかなくなってきました………。………ディノ?」



途方に暮れたネアの頬を、先程から黙っていたディノがするりと指先で撫でた。

ちょっともう、みんなの反応が特殊過ぎて手に負えないのだと悲しく見上げたネアに困ったように微笑み、こちらもぞくりとするような魔物らしい目をする。




(………そう。私が好きなのは、こういうものなのだ…………)



ディーファムのような生き物ではなく、この静謐で恐ろしい美貌の暗さこそが、例え望まずとも惹き込まれてしまう美しさだとネアは思う。


それがネアの嗜好である限り、きっとネアはディーファムのような生き物に籠絡されてしまう事はないのだろう。



そして、そんな我が儘な人間の伴侶は、なぜか先程までの無垢さをどこかにやってしまい、あまり見せない男性的な充足感を垣間見せる機嫌の良さでゆったりと微笑んでいる。


ネアの手前、困ったようにはしているものの、やはりここも魔物らしく、その他の特別なものと比較した上で自分が選ばれることをしたたかに喜んでいるように見えた。



(やはり、ディノもヨシュアさんも、人間とは違う生き物なのだ…………)



こんな時にふとそう実感する。

それは、驚き悲しむような納得ではなく、まったくもうというような穏やかな諦観に近い。


見かねて助けの手を差し伸べてくれたのかなと思えば自分の為であった魔物といい、懸念していたような事故が起こり落ち込むのかなと思えば誰かへの無関心に安堵している魔物といい、彼らの興味や喜びはやはり、人間とぴたりとは重ならない。


けれども、そんな自分とは違う生き物の中にあって、ネアはやはり、こちら側の生き物達との相性が良いようだ。



ネアに叱られたヨシュアが雲の拘束を解いたので、ミリエラは美しい青い花畑に崩れ落ち、両手で赤黒く痣になった喉を押さえて苦しそうに咳込んでいる。

自分の為に憤ってくれた彼女のその苦しみにすら、ディーファムはさして心を動かされた様子はないので、ヨシュアの言う通り、この精霊は一族の中の男女が特殊な関係性にあるのだろう。



(王族と、下の階位の者達を顧みない王族に、それでもと心酔する騎士のような関係なのかしら…………)



それではあんまりではないかと思うのは、きっと人間だけなのだろう。


ネア達の近くには、同族だと思われる山の精霊達がいたが、彼らは騒ぎに気付いてもあまり興味がなさそうにしており、こちらを見た山羊竜達と思われる一団も、またやっているのかというような呆れた眼差しだった。


とは言え、系譜の王である雲の魔物がその場にいると気付けば、今度は、一様にそっと視線を外して関わり合いにならないように背中を向けている。


仲間の精霊達はともかく、山羊竜達からしてみれば危険を冒してまで割って入るいわれはないのは当然の事であった。



(デデさん達が、遠くにいて良かった……………)



幸い、リスプの人間達がいるのは少し離れた位置なので迷惑や心配をかけてしまわずに済んでいる。

しかし、そちらはそちらでお酒が入り過ぎてしまったものか、なかなか大変なことになっているので、周囲の状況を認識するどころではないのだろう。


わぁっと声が響くので目を凝らせば、一人の女性を巡って男性同士の殴り合いが始まっており、それぞれの男性を応援する者達に分かれてたいそう荒ぶっている。


うぉぉという怒号は、幻想的な山の上の青い花畑で繰り広げられるべきものではないような気がする。

おまけに、似たような騒ぎになっているのは一箇所ではないのだ。



(…………愛情を盛り立ててくれるお祭りなのだから、薔薇の祝祭のような雰囲気になるのかなと思っていたのに…………)



ネアは、そんな周囲の様子を見て少しだけウィームに帰りたくなったが、その為にはまず目の前の問題を解決しなければならない。


しかし、まだ泣いているヨシュアを泣き止ませようと手を伸ばせば、怯えたヨシュアはさっとディノの影に隠れてしまった。


これでは完全に加害者と被害者の構図になるので、この場にいる唯一の常識人の筈であるネアは、ぎりぎりと眉を寄せざるをえない。

おまけにディーファムは、ヨシュアを叩いて黙らせたネアがいっそうに気に入ってしまったものか、強いのはいい事だといたくご機嫌である。


どうやら、リスプの山の精霊達の男性は、自分を守る強さにこそ価値を見出すようだった。



「ネア、他の同族達はこの王席の者を気にかけていないようだから、このまま壊してしまうよ。精霊は残しておく方が面倒なことがある。いいね?」

「ぐぬぬ、何だかもうそれでいいような気がしてきました。どうにかして私の事を忘れてくれれば、そちらの方が良かったのですが…………」



しかしながら、もう他には手はなさそうだ。


苦渋の選択を迫られたネアは、人外者に纏わる問題については諦めも肝心であることを知っている。

ここはもうディノに任せて目立たないように口を封じて貰うしかあるまいと、残酷な人間らしく決断しかけた時のことだった。




「そうか。ではそうしておこう。居ても邪魔なだけだろうから、この精霊は回収するぞ」



思いがけない声が割込み、ネアはその声の主を信じられない思いで見つめる。

ディノも驚いたのか、ネアを後ろから抱き込んだ魔物の体が小さく揺れた。



そこに立っていたのは、もさもさとした黒い毛皮の塊だった。

一瞬、聞いたことのある声だったような気がしたネアだったが、この毛皮の生物に見覚えはない。



「…………なにやつ」



もさもさけばけばの毛皮の塊は、形状は違えどどこかボラボラの成体を思わせた。


それなのに、ディノはディーファムが現れた時よりもぴりぴりとした気配を纏い、ネアの方に一歩近付いた毛皮生物に対し、しゃーっとムグリス流な威嚇をしているではないか。



(明らかに、私がディーファムさんよりもこちらの生き物の方に浮気すると思われている…………)



ネアとて、どんな毛皮でも良い訳ではないのだ。


ボラボラを思わせる毛皮はあまり得意ではないと伴侶に伝えようとしたところ、突然もぞとぞと大きく揺れた毛皮の塊が片手で自分の頭を掴むと、すぽんと頭部が外された。



「アレクシスさん?!」



するとどうだろう。

毛皮の中に収まっていたのは、ネアも良く知るウィームの魔術師だったのだ。



呆然とするネアに微笑みかけ、そのまま下に着ていたものも脱いだ毛皮の塊ことアレクシスは、着ていた着ぐるみ毛皮を魔術でどこかに片付けてしまう。


黒紫の瞳でそう微笑むアレクシスは、本当は白混じりの髪の毛であるそうなのだが、今日は藍色の髪に擬態しているようだ。

リスプ風の装束を着て擬態していても一目でアレクシスだと分かるのだから、やはり不思議な人物であった。



「すまない、驚かせてしまった。先程まで、防護服の必要な水晶の祠に出かけていて、着替えていなかったんだ」

「…………アレクシスさんがお祭りにいるとは思いませんでした………」

「食材回収でこちらに滞在する予定があったから、会の護衛を任されていたんだ。それにしても、やはりリスプの山の精霊は、ネアに惹かれてしまうみたいだな」

「………っ、スープの魔術師?!」

「………ああ、俺のことを知っているのか。………おっと、俺の可愛い二人を困らせたんだ。まずは一杯スープを飲ませるまでは逃げられては困るな。ついでに、山羊竜出汁のスープの試食もして貰おうか……」



にっこり微笑んでとんでもない出汁についてさらりと明かしているのは、ウィームにあるネアのお気に入りのスープ専門店の主人の一人であるアレクシスだ。

ネアは何度もお世話になっているし、エーダリア達は勿論のこと、高位の魔物達ですら言葉を失うようなスープを作る、人間の中でも特等の魔術師である。



「ほぇ、僕にまたスープを振舞うのかい?」

「手持ちで幾つかあるが、飲んでゆくか?」

「僕をスープで持て成すといいよ」

「はは。じゃあ、そうしよう。あっさりとしたものもあるが、ネア達も何か飲むか?」

「の、飲みます!!」

「……………ここに来ていたのだね。伴侶も連れてきたのかい?」

「いや、俺は未婚者だから、あくまでも食材の採取に来ているだけなんだ」



(それはまさか、不法侵入なのでは………)



僅かな疑念を抱かないではなかったが、ネアは己の心に優しくないことは気にしないようにした。

そして、また後でと微笑んでくれたアレクシスは、なぜかアレクシスの姿を見るなり酷く怯えてしまい、逃げることも出来なかった精霊達を穀物袋でも抱えるように持ち上げ、あっという間に立ち去ってしまう。



「困った精霊さん達でしたが、あの震え方を見ていると、アレクシスさんは何をしてしまったのでしょう…………」

「食材集めで遭遇してしまったのかな………」

「山羊竜さんもお出汁になってしまっているので、精霊さんも煮込まれてしまったのかもしれませんね………」



ちらりと魔物達を見れば、スープが飲めるとなったのですとんと大人しくなってしまったヨシュアは、椅子に座ってのんびり紅茶を飲んでいるし、ディノも先ほどの魔物らしい気配を一掃し、今は立ち上がってしまったネアにそっと三つ編みを持たせようとしている。


どうやら、もう精霊を踏んだら勘違いされた騒動は無事に収束したようなので、ネアも椅子に座ってのんびりとアレクシスの戻りを待つことにした。



「ディノ、少しばたばたしてしまいましたが、落ち着いたようなのでもう少しのんびりしてゆきましょうか」

「うん。…………君があまり懐くと良くないとは思うのだけれど、あの人間がスープを持ってくるのであれば、飲んでおいた方がいいだろう」

「あらあら、アレクシスさんはディノとカードを分け合う仲良しさんなのですよね?」

「ご主人様……………」

「それにしても、リスプの山の上にアレクシスさんがいるとは思いませんでした」

「うん。会の護衛でもあるようだね」

「会…………?アレクシスさんは、何か護衛を務めるような団体にも参加しているのですか?」

「他の者達とは動機が違うものの、情報を共有したいという要請を受けて、君を見守る会に所属したようだよ」

「………………かいなどありません」



ネアが暗い声でそう宣言すれば、ディノだけではなくヨシュアもぴっとなってしまい、二人の魔物はネアの方にテーブルの上にあった焼き菓子のお皿を押し出してくる。


この世界にかいなどないのだと念じることで体力を消耗したネアは、アレクシスのスープと帰り道の屋台の買い食いで使う胃の残量を計算しつつ小さな焼き菓子を一つ貪り食べた。




「すまない。待たせたな。あの精霊王は二日分の記憶を失っているから、安心していいぞ」

「王様だったのですか………?」

「リスプの山の精霊には王席が何人かいる。氏族ごとに王を立てるからな」



暫くすると、アレクシスが軽やかに戻ってきた。


たった今まで二人の精霊の記憶を抹消していたとは思わせない穏やかな微笑みで、綺麗な花畑を散歩していた人が合流したくらいの気安さである。


あれから十五分ほどしか経っていないので、ネアとしては、精霊のお仕置きは山羊竜のスープまで辿り着いたのだろうかと不思議でならないが、良い味見役にもなったと微笑んでいるのでそちらの用も済んだのだろう。



「さて、香草と夜明けの果実のさっぱりした酸味のスープと、トマトと鶏肉の香辛料の効いた少し辛いスープがあるがどちらがいい?重めで良ければ、チーズクリームと牛肉、新月胡椒のスープもある」

「効能はどのような感じなんだい?」

「果実のものが、目覚めの祝福があるので魔術洗浄に向いている。トマトは骨折くらいまでの怪我の回復や、憑き物を剥がすのに向いていて、チーズクリームについては心の鎮静化や魂の摩耗からの回復の手伝いをしてくれる」

「………………ほぇ」

「むむむ、どれも美味しそうですが、お味としては果実か辛いスープが飲みたいので、私はその中で、ディノが必要だと思う方にしてみます」

「では、果実のものでいいかい?念の為に、先ほどの精霊との接触で動いたかもしれない魔術効果を洗浄しておこう。私もそれにしようかな」

「はい!美味しそうで楽しみです………」

「僕は勿論辛いスープだよ。香辛料のよく効いた味が好きだからね」



ネアは、どのようにスープが出てくるのかなとわくわくしていたが、まさかの虚空から白いスープ皿に注がれた湯気を立てているスープが登場するとは思わなかった。


てっきり、スープ水筒のようなものを幾つか金庫に保管しているのだと思っていたので、アレクシスがどうやってスープ皿に注がれたスープを管理しているのか不思議でならない。



「わ、彩りも綺麗なスープですね!」


そうして振舞われたスープは、花びらの乗った春の庭園のような可憐な一皿で、ネアは思いがけないお祭りの御馳走が出現して椅子の上で小さく弾んでしまう。


一口飲んでみれば、香草の風味のスープと果実の酸味が爽やかで疲れも吹き飛ぶような美味しいスープで、ネアは、あまりの感動にむぐぐっと目を丸くした。


ベースとなる香草のスープにはコンソメ的なしっかりとした旨味があるので、加わった果実の酸味で味が尖ってしまうこともなく、浮かんだ花びらもしゃりしゃりとした梨のような食感でアクセントになる。



「香草スープの美味しさがまず最初に飛び込んできて、スープに加わった酸味が後味をさっぱりさせてくれます。お口の中に香草と果実の爽やかさが残りますし、幾らでも飲めてしまう至福のスープでした!」

「気に入ってくれて良かった。花びらにも祝福があるからな」

「はい!………むぐ。しゃりしゃりしていて、シンプルなスープに素敵な食感ですね」



いつもならあまり変わりスープには興味を示さないディノも気に入ってしまったようで、美味しそうに飲んでいる姿に、ネアはほっとした。


ヨシュアの方を見てみれば、香辛料と唐辛子の辛いスープも、トマトの赤とバジルかなと思われる葉っぱの緑が鮮やかでなんとも食欲をそそるいい匂いがする。

サンドイッチの後でこちらもしっかり完食しているので、ヨシュアもかなり気に入ったようだ。



(あ、……………)



いつの間にか、青い花畑には細やかな光の粒子がきらきらと揺れていた。


花びらについた雫のように集まり、風が吹けば、青い花びら混じりでざあっと空に舞い上がる。



その美しさに目を瞬き、興奮したネアは隣に座ったディノの三つ編みを引っ張った。



(あのまま帰ってしまわないで、この光景をディノと見られて良かった………)



「ディノ、見て下さい!光が揺れるのに先程よりも少し暗くなったみたいで、その暗さに青い花びらが鮮やかで胸がぎゅっとなりませんか?」

「ネアが可愛い………」

「ほぇ、スープがなくなった…………」

「まだ飲めるか?」



ネア達は、光の風が花畑を揺らすその美しい光景の中でのんびりと寛ぎ、登山列車の時間が近付くと、まだ残ってシシャファンタムの花を摘むのだというアレクシスに手を振って別れた。



ヨシュアも、ここからの帰り道は雲を伝って空の城に帰るというので、到着駅の駅舎にも売っていた乾燥林檎の袋を買ってやり、尚且つお持たせお菓子も渡しての解散となる。


帰りの列車は、まだ祭りが続いているからか思っていたよりも空いていた。

車窓から青い花びらがはらはらと舞うリスプの美しい山を見ながら、今度はゆっくりと下ってゆく。



『ふとした時に、その面影が蘇ることがある。そうして心に忍び込み心を奪う恋情は珍しくない。この花々が嵩を増し恋や愛の情熱だと思わせるのは、もしかすると、元は純粋な美への賛辞だったり、異形に向ける畏敬の念だったものなのかもしれない。…………ディノの階位の伴侶の守護を受けているのであれば、望まないものを育てる危険はなかっただろうが、念の為に帰って何日かしたら、このスープを飲むようにな』



帰り際にアレクシスがそんなことを言って、お持ち帰り用の水筒に透明なコンソメスープのようなものを詰めてくれた。



(少しだけ分かるような気がする…………)



もしネアが一人きりだったら、青い花びらの散る美しい景色を帰ってからも何度も思い出し、旅の思い出に思いを馳せるその内に、リスプの素晴らしい風景の中に佇んでいた美しい精霊にも、ここではないどこかへの憧憬を重ねて焦がれるような事があったかもしれない。


旅や祝祭には、そうして心の内側に鮮やかな面影を残す効果があって、人間はそのような感傷にはとても弱い生き物なのだろう。



でも今は、ネアの隣で、たわいもない話をしながら目をきらきらさせている美しい魔物が隣にいる。



何となくだが、帰り道の二人は手を繋いでしまっており、魔物は恥じらいながらもそれが嬉しくてならないらしい。



この魔物がいる限り、ネアはやはりあの美しい山の精霊達には心を奪われないと思うのだ。




しかし、ウィームに帰ったネアは、そんな自分の考えは甘かったのだということを痛感させられた。



リスプの祭りの祝福でその憧れが胸を満たしてしまったものか、暫くすると、アレクシスに振舞って貰ったスープが飲みたくて飲みたくて堪らなくなったのだ。

持たされたコンソメスープも充分に美味しかったのだが、何かが違う。


これについては、ディノも同じ症状であったので、今度、スープの材料探しの旅の中にあるアレクシスに会いに行こうと話している。

その時には、あの辛いスープが飲みたくて堪らないヨシュアも一緒に行くのだそうだ。



その後、リスプの登山列車の駅舎には、魔術通信版が置かれることになった。


山の上の人の町から様々な情報を得られることに加え、エーダリアはネアが持ち帰った新聞の定期購読を始めたらしい。

ダリルも珍しい情報が得られるとよく読んでいるので、良い出会いがあったようである。







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