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朝のピアノと霧雨



鳥の声で目を覚まし、何度か瞬きした。


何時だろうと時計を見てからふうっと息を吐き、ゆっくりと立ち上がる。

残念ながら、起きるには少し早い時間ではあるものの、もう一度寝直すには遅い時間のようだ。

であれば、朝の支度をのんびりやる方がいい。



今日は朝から予定が何件か入っており、滞在しているリーエンベルクの朝食の時間までに、幾つかの案件を片付けてしまわなければならない。

面倒ではあったが、そろそろ、表層に変化のなかった夏至祭の影響が報告に上がる頃でもあるので、動ける内に動いておくのが望ましいだろう。

体を起こしながら、夜の内に入っていた仕事の連絡に目を通す。



ボタンを外し、寝間着の上着を脱ぐと片手で前髪を掻き上げながらカーテンを開けた。

元王宮らしい魔術遮蔽ではあったが、この部屋を借りるようになってからは、外からこちらが視認出来ないようにしてある。

なので、会議などで訪れた客人や、リーエンベルク前広場にやってきた観光客が白持ちを窓の向こうに見付けるということもない。



腕を少し動かし、首筋を伸ばす。

ふうっと息を吐いたのは、届いていた案件の中に最近雇い入れたばかりの魔物からの、個人的な誘いを見付けたからだ。


建前としては新規事業についての質問事項となっているが、その程度の案件でこちらの指示を仰ぐような問題があるとは思わないし、どのような形であれその立場でここまで要求を上げること自体が、立場を弁えていないということに他ならない。



(ましてや、時間のある日に晩餐を……か。人間でもあるまいに、食事に誘う事がどれだけ不敬なのかを、考えもしないとはな)



中規模の商会でいい働きをしていると聞き、現場の管理者の要望で雇い入れた女であるが、試用期間を終える前に解雇だなと考え、その指示を担当者に送る。

この手間も踏まえての不利益であるので、事前に交わしてある雇用契約の中から、相応の対価は取られる事になるだろう。


たった一度きりの失態でと思う者もいるかもしれないが、このような問題を起こした場合、その原因の多くが当人の価値観や気質の問題であるので、そうそう是正出来るものでもない。

私用の時間ですらないのに己の立場を正しく理解出来ずに欲を出す者は、必ず同じような過ちを犯すものだ。



溜め息を一つ吐き、ポットに用意されていた熱い紅茶を飲んだ。

季節的には冷たい水でも良かったが、直前の作業の不快感を香り高いリーエンベルクの紅茶で洗い流したかったのだ。


そのまま簡単に入浴を済ませると、濡れた髪を乾かしながら簡単な打ち合わせを二件済ませ、魔術通信を切った。



部屋を出て、リーエンベルクの廊下を歩き始めたのは気分転換のつもりであった。

聴こえてきたピアノの音色におやっと眉を持ち上げ、調子はずれの音が混ざった途端に誰の手によるものかを理解する。



ピアノの音を辿り見付けた部屋は、これ迄に見かけない部屋であったので、リーエンベルクがこの人間の為に用意したのかもしれなかった。



「……おい、音を幾つか外しているぞ。朝に聞くには最低の旋律だな」

「……………むぐぅ。素敵な霧雨の朝なので、私が、更なる素敵さを加えているところなのですよ」



隣に立ち声をかけると、振り返りもせずにそう言ったネアは、まだ、部屋着のような装いであった。

広めに取られた襟ぐりから覗く首筋が、長い髪の間に白く映る。


シルハーンは窓際の長椅子に座って眠っていて、恐らくは、早い時間から連れ出されたもののピアノを聴いている内に眠ってしまったのだろう。

よくもこの音階の中で眠れるなと思ったが、歌と同じように選曲にもよるのだろうか。



鍵盤に指先が落とされ、ネアはなぜかこちらを見る。



「…………なんだ?」

「この曲なのです。これを、綺麗に聴きたいのですが、先生は再現してくれません」

「当然だろうな。音楽も魔術の作法の内だ。グラフィーツからお前が教わっているのは、別の曲だろう」

「むぅ。…………では、アルテアさんが覚えて弾いてくれます?」

「何でだよ」

「ディノも、知っている曲は上手に弾いてくれるのですが、まだ、情感を込めた曲はあまり得意ではないので、いつかこの曲を覚えて貰いたいと思っているのですよ…………」



要するに、だが、正しいものを弾いてみせ、教えるには至らないというところだろう。


生まれ育った世界とこちらの楽譜はほぼ同じだと話していたので、音階だけを書き起こせば再現出来るかもしれないが、何しろこの様子であるので手間がかかる作業なのは間違いない。



「それを、俺にやれと?」

「はい。使い魔さんは、使い倒すべきなのですよ。………ここで、曲の調子が変わるのです。繊細で美しい曲で、どこか物悲しいのに少しだけ力強い曲で、…………ずっとずっと大好きな曲でした」



引き結んだ唇に、少しだけ力が入った。

指先でそこに触れると、こちらを見上げた鳩羽色の瞳が僅かに揺れる。



「……………ったく。思い詰めるようなことか?」

「えぐ………。もっと思うままに弾ける筈だったのですが、思っていた以上に上手くいきません」

「やれやれだな。………お前が生まれ育った世界よりも、こちらの音楽は魔術に結ぶ。不在の音楽の再現ともなれば、楽譜を起こして音楽の魔術に定着させるまでは未知の領域だ。お前の場合は、それをやろうとしても調子も外れる上に、可動域が足りないから前に進まないんだろう」

「ぐるる………」



窓の外では、霧雨が庭園の薔薇を濡らしていた。

淡い紫色のライラックの花枝が水を含んで重たく下がり、花びらと共にこぼれ落ちる雨の雫には、夜明けの祝福が鈍い煌めきを放っている。


そんな朝にこの音楽はないなと考えて溜め息を吐くと、ネアの隣に腰を下ろした。



「弾いてみろ。直しながら覚えてやる」

「はい!」

「その代わり、楽譜に起こす作業で時間を取られるからな。今日の午後は、パイはなしだぞ」

「……………にゃぐ」

「作り置きのタルトで我慢しろ」

「タルト様!」

「アルテアなんて……………」

「まぁ、ディノも目が覚めたのですね。これから、思い出の曲を楽譜に起こせるよう、使い魔さんに協力して貰うのですよ」



そのピアノ曲は、誰もいない静かな朝の、食事の用意出来ないテーブルで一杯の紅茶を飲みながら、小さな贅沢として聞いていたのだそうだ。


夏場は何かと公共料金が嵩むので、まだ涼しい初夏の雨の朝にだけ。

そう呟いたネアが、その頃のような朝を迎える事はもうないのだろう。



夏至祭の日に、リーエンベルクの外門の前に立ったネアの眼差しには、ほんの一瞬だけ、時折窺える対岸の眼差しがあったが、それはもう、こちらで暮らすのであれば不要なものだ。


であれば、前の履歴を踏襲するようなものなど削ぎ落してしまおうと思いながら、午後は楽譜にペンを走らせたのだった。







7/20までSS更新となります。

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