リングの妖精と新しい名前
「エーベ」
その名前で呼ばれるたびに、心が弾む。
大嫌いな名前を付けられたここに来る前のことを思い出し、もはやなんの意味もないと投げ捨てた。
「何かしら、旦那さま」
「僕の会報を知らないかい?読み直したいページがあったのに、見付からないんだ………」
「また、枕の下じゃないの?読みながら寝てしまって床に落としてから、眠る時に枕の下に押し込むようになったでしょう?」
「そこか!有難う、エーベ。探してみるよ」
ぱっと笑顔になった夫は、元氷竜の王族の一人だ。
今は転属して妖精になっているが、ずっと昔はリーエンベルクの騎士達と仲が良かったらしい。
統一戦争を機に死んだ事にして転属し、そこから紆余曲折があって今はウィーム中央で共に暮らしている。
エーベがまたここに戻ってきたとき、最初に迎えに来てくれたのがこの伴侶だった。
古きものを庇護する為に、彼はこれから先に繋がる全ての可能性を捨て、エーベの側に残ってくれた数少ない支援者で、エーベは、差し伸べられた手を掴みたくて赤ん坊のままじたばたした日のことをしっかり覚えている。
(でもね、………もう、自分ごとではないことも多いの)
エーベがエーベではなかった頃の記憶は、欠け残りとして僅かに引き継いでいるが、それは最初から、次の生で幸せになれたことを噛み締める為にだけ残しておくという約束だった。
なのでエーベが覚えたまま生まれたのは、かつての自分がどういう人間だったのかと、そこに纏わる人々を自分がどう思っていたのかくらいのものだ。
本当は、かつての居場所から逃れる為に、夫のように転属するという手段もあったのだが、あの時の自分にかけられた呪いや障りの全てを断ち切るには、エーベは必ず死なねばならなかった。
悲しくて怖いことは全て終わりにしたエーベは、仲間達が沢山いてとても快適な死者の国での生活を終え、漸くこの地に戻ってきたのだ。
だからもう、エーベの中に残る感情は、かつての誰かの残り物でしかない。
けれども、今の名前が大好きだし、ここでの暮らしが幸せでならないし、夫がどのような経緯で自分を待っていてくれたのかを思えば、胸が熱くなる。
とは言え、かつての伴侶を見ても実は今でもそんなに嫌いではないし、かつての我が子を見ると、少しだけ他人ではないような執着や愛情を感じる。
けれども、それ以上に動かす心はもう、エーベとなったエーベの中には残らないものであるし、その方が幸せだと微笑みかけてくれる夫に、エーベはいつだって微笑んで頷くのだ。
(私も幸せになった。私の愛した人達も、皆、新しい幸せを手に入れた)
それでいいし、それを崩す可能性が僅かにでもあるような行為ほど、エーベを怒り狂わせるものはない。
もし、誰かがエーベの過去を掘り返し、今に繋ぐような真似をすれば、全てが一度に壊れてしまうこともあり得るのだ。
それは、過去を過去として切り落とさねばならなかったかつての誰かの壮絶な覚悟を、そうまでして望んだ彼女の我が子の幸せを脅かすものではないか。
魂までを壊す為に敷かれた殲滅魔術は、もはやあの王家のものではなくなったエーベを見付けたら、もう一度追いかけてくるかもしれない。
そうなった時に、エーベがここにいたことが政治的なウィームの弱味となれば、かつて自分で守ったものをこの手で殺す事になる。
「エーベ!あったよ!!君のお陰だ!」
「あらあら、そんなにはしゃがなくても、……私を持ち上げなくても?!」
「あはは、エーベは軽いなぁ。可愛いし優しいし、いい匂いがして話していて楽しくて料理も上手だし、自慢の奥さんだ」
こんな時、生真面目に大量の理由を挙げてしまうあたりが、元氷竜というところなのだろう。
そんなエーベの伴侶は、転属して妖精になるにあたり、ウィーム領主やその周辺に於けるウィームの調整や改変には、決して関わってはならないという誓約を死者の国の特赦日に対価として支払った。
彼が今後も関われるのは、エーベ、ただ一人だけ。
特赦が対価としたのは、彼が己の使命として命よりも大切にしていたものばかり。
でも彼は、エーベを選んだのだ。
少しばかりぼんやりしている人なので、今から思えば、あんな決断が出来たということは、君は僕の竜の宝だったのかもしれないと話していたが、転属してしまったのでちょっともう分からないらしい。
姿形もだいぶ変えてしまった彼は、もう、以前の氷竜として認識されることも出来ないのだ。
かつての友人をウィーム中央で見かける時だけは胸が苦しくなるそうだが、そんな友人にすら、自分は生きてここにいるのだと言えない代わりに、エーベの夫は、リングの妖精の一人として今日もウィームの魔術構造を守り続けている。
「さて、もう市場に行かなきゃ。あなたも、今日は仕事が始まる時間が早いのでしょう?」
「あ、そうだった。……しまったなぁ。エーダリア様の会報を、もう一度読み直したかったのに……」
「帰ってきてから読めばいいわ。お昼は、いつもの場所に持って行くわね」
「うん。今日は、午後から友達と出かけるのだろう?洗濯物は僕が取り込んでおくから、ゆっくりしておいで」
「ええ。有難う」
こんな時、洗濯物はと言いながらも晩餐の支度もしておいてくれるのがエーベの伴侶なのだが、元竜の感覚で張り切って作り過ぎるので、エーベは、友人達と出かける日の外食は控えめにしなければならないのが常であった。
けれども、こちらを見て水色の瞳をきらきらさせている伴侶がここにいて、この人を心から愛していると思う度に、この上なく幸せだと胸がいっぱいになる。
毎日は健やかで自由で、愛したもの達も皆が幸せになっているので何の憂いもない。
エーベはただ自由なばかりで、今日もたくさん仕事をして友人達と出かけ、大好きな人のいる家に帰る。
エーダリア様の会の会報を読むのが大好きで、魂の起源を明かせないだけで会の仕事が出来るエーベのことを、夫はいつもいいなぁと微笑んで見ている。
市場での仕事の際には邪魔になる羽は隠してあるが、エーベは来年には完全に妖精になるだろう。
そうしたらまた出来る事が増えるだろうし、エーベもリングの妖精としてこの街を守っていけるのだと思うと、この上なく誇らしい気持ちになるのだ。
「幸せかい?エーベ」
「勿論よ。でも、一つだけ悩んでいることがあるの………」
「あれは悩ましいよ。僕も悩んでいるんだ」
「そうよね。また、週末に話し合いましょう」
「うん。そうしようか」
夫婦の目下の悩みは、銀狐を愛でる会にも入会するべきか、それくらいのものである。
7/20までSS更新となります




