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雪の町と荒れ地




ヴェルリアには、夏至の日にだけ雪の町が姿を現す土地がある。


どのような経緯で現れるのかは、最早問うまい。

ヴェルリアの領域を浸食し、かつては美しい夏の花々が咲き乱れていた土地が、ある朝を境に、見知らぬ雪の領域の町になったのだ。



そして、夏の系譜の者達こそが華やぐ夏至祭の日にだけ、その町には雪が降る。

艶やかな花々の妖精達や、享楽的だった夏の系譜の精霊達は一人残らず死んでしまい、王都では、呪われた町だと噂されていた。




「まぁ。………ここは、そのようなところなのですか」

「だから、あなたにはいいだろう。周囲の連中には、あなたを一度連れて行けば、この町も落ち着くだろうと話しておいたが、あなたが心安らかに訪れられるとしたら、ここくらいかなと思ってね」

「…………それは、私が宿した子供が、男の子だからですか?」



こちらを見て淡く微笑んだのは、側妃として召し上げられたウィーム王家の最後の王女だ。


擬態をして身に宿す色彩を僅かに変えており、今は、黒髪に灰色の瞳をしている。

星を宿すような美しい瞳がこちらを見たせいで、バーンディアは少しばかり落ち着かない気持ちになった。



初めて二人で出かけないかと誘ったのは勿論、彼女が子を宿したからである。

まだ身体的な変化はほぼ現れていないが、密かにかけられている魔術検診で判明したので、既にバーンディアとフランツ、そして何名かの魔術師達は把握していた。


だが、その子供が男児であることまでは、表向きは分からないということになっている筈なのだが。



「…………なぜ私がそれを知っているのかを、あなたは問わないのだな」

「問いませんわ。あなたは魔術師ですし、多分、彷徨えるものなのでしょう。そのような方々は、物事が形を成す前に多くのことを理解されるのだとか」



二人は、どこから現れたのか分からない人々の行き交う雪の町の中を、ゆっくりと歩いていた。

この町の外は夏至祭なのだと思えば、なんとも奇妙な光景である。



さらさらと雪混じりの風に揺れる、長い髪は黒絹のようで、瞳に落ちる睫毛の影には、憂いはあっても絶望の翳りはない。



不思議な事に、彼女はいつもそうなのだ。



ずっとどこかで、何かを待ち続けているかのように凪いでいる。

それを多くの者達は無気力で脆弱だと取るのだが、この側妃を見てそのように思ったことはない。




「私は、魔術師にはなれなかったようだが」

「さて、どうでしょうか。…………それを定めるのは、案外あなたではないのかもしれません。そして、羊飼いをしながら魔術師になる者もおりましょう。人間の輪郭には、様々な赦しがあるのだと思います」



呟くような声音は、静かで柔らかだった。

鈴を鳴らすような美しく可憐な声ではないが、冬の日の夜明けのように静謐で、時折、訳もわからず手を伸ばしたくなる。



闊達ではなく、力強くもなく、けれどもそこには穏やかで静謐な雪景色がある。




(………あなたならば、見た事があるのだろうか)



どこでもない森の向こうを歩いてゆく、得体の知れない行列や、深い海の底に沈む、いつの世界の者ともわからぬ不思議な国を。

真夜中に窓の隙間だけから見える道化師達や、祝祭日の朝に帆船の帆先に佇んでいる、不思議な王冠の乙女を。


今の自分に満足しているのだけれど、そんな奇妙な者達を追いかけて、どこまでも旅をしてみたかったのだと白状すれば、彼女は、自分もそうなのだと頷いてくれるだろうか。


そんな言葉にし尽せない、渇望にも似た思いが、彼女と会うたびにちりりと揺れる。




(……でも、あなたは、……………遠からず、いなくなるだろう)




あの王宮の中で、誰よりもどこにも行けないまま、けれども他の者達には見えないものを眺めていたような一人の側妃は、長い幽閉の日々を終え、静かに役目を終えようとしていた。


恐らくは、バーンディアの父が望んだ本来の形として、ヴェルリア王家にウィームの血を残し、その後はきっと、誰もあの正妃から救い出せぬままに滅びるだろう。


健やかなままでは叶わずに焼け落ちた願いの果てとして、最も歪な形で残されるのは彼女と自分の子供なのだろうが、それはどこか、他人事のような冷ややかさであった。



(選ばなかった道への分岐が閉ざされるのは、いつだってこんな時なのだろう)



四国統一の贄のように取り残された、このウィーム最後の王女を愛していた訳ではないが、それでもなぜか、彼女と話をしていると言葉にし難い胸の痛みを覚える事がある。



今ならまだ間に合う。



何度も何度もそう思いながら、けれども、指先から零れ落ちてゆくものを、ただ見ている。


だから今日も、雪の降る小さな町と、その町になぜか現れる不思議な祝祭の屋台通りを歩き、初めて屋台を見たという側妃に、小さな焼き菓子や、温めた葡萄酒の飲み物を買ってやるだけのことしかしなかった。


 


「ふふ。おかしなことですね。あなたは、このような店での買い物には手慣れていらっしゃるのに、ウィーム風の飲み物や食べ物は、少しもご存知ではないのね」

「あなたは、意地悪な事を言うなぁ。私の立場では、そうそうあちらの領地には行けないからね。何しろ、塩の魔物に呪われている」

「あら、素晴らしい事ではありませんか。それを知り、溜飲を下げた者達がいたことで、この国の安寧は守られたのでしょう」

「…………前から思っていたが、あなたは、存外に意地悪だな」

「あなたは、唯一私にとって公平な方でした。………ですので私も、気負う事なく過ごせるのです」



きっと彼女は、雪が降る前のこの町には美しい夏の景色があって、それを蹂躙し、見せしめとして奪い取ってみせたのが自分の祖国を守護した者達である事には気付いている。


ここで声を上げ、誰かを望めばきっと、あっという間にあわいに引き摺り込まれて、望みもしない伴侶の隣から逃れられるだろうに。




(けれども、そうはしないのだろうな)



それが、ただ一人残された王族ということで、魔術師でもなく作家にもならなかったバーンディアが、羊飼いになったのも同じような理由からであった。




「………暫くは、寝台の横にジャガイモを置いておくといい」

「まぁ。もしかして、あの方の周囲に、それが苦手な方がいるのですか?…………時々、誰かが私の寝台の横に、ジャガイモを置いてゆくのですよ」



当然のように伝えられた言葉に、やはりこの人の近くには証跡の残る守護は与えずとも、見守り続けている者たちがいるのだなと確信する。

でなければ、そもそも魔術やウィームの知恵などを有している筈がないのだから。



「彼女の契約の精霊が、苦手としているものだからだろう。………暫くの間は、あなたへの意地悪は控えるように伝えておこう。あれでも、己の立場を蔑ろにはしないのだ。だが、…………私でも手に負えない怖さでね」

「それも、致し方ありませんでしょう。………あの方の振舞いは、とても魔物らしいものですから」

「……………勘違いしているようだが、彼女は人間だよ」



思いがけない言葉に目を瞠ってそう言えば、こちらを見た灰色の瞳の王女は困ったように微笑んだ。


それはまるで、出来の悪い弟子を見るような温かな眼差しで、心のどこか奥が小さくひび割れた気がした。



「ですが、その心や魂はどうでしょう。この国では、夏至の夜に子供を一人で船に乗せ、海に送り出すというとても悲しい、入れ替えの儀式があるそうですね。……………私には、あの方はどうしても人間には見えないのです。…………ですから、この身に起きる事の全ても、ただ、人ならざる者の障りだとしか」



あの一族の悪習を知っていた事にも驚いたが、その指摘がどのような意味を持つのかを知り、背筋が冷えた。

となると、自分の正妃は、入れ物だけが人間のまま、内側が魔物の可能性があるということなのだ。




「…………困ったな。あなたがそう言えば、そのように見えてくる」

「とても惨い事だと思います。…………けれども、それはもしかしたら、私があの方を許せてしまう、とても意地悪な形での救いなのかもしれませんが」




どこかで、侍従が目配せをした。

何度かそれを見過ごしてから漸く気付いたように頷き、けれどもまだ排他結界の外側に放っておく。


二人で王宮を出たのは初めてだったが、不思議と、ずっと昔からこんな風に歩いていたような気がした。


この季節に在り得ない雪を踏み、美しい筈の雪景色の街を見回したが、目にしたその端から崩れてゆくように、不思議と何も心には残らない。



心の中に幾層にも積み重なってゆくのは、静かな静かな雪の朝のように、ただしんしんと降り積もる、隣を歩く女性の姿ばかりだ。





「もう、そろそろなのでしょう。充分に楽しかったですわ」

「……………ああ。すまない。私はうっかりとても器用でね、そのせいで、少しも仕事がなくならないんだ」

「だから、……こうして最後に、私に思い出を作って下さったのでしょう?」

「どうか、知っているとは言わないでくれるかな。私はとても繊細なので、すっかり立ち直れなくなってしまう」



そう告げるのも残酷なことだが、その言葉で、バーンディアはしっかりと一線を引いた。


引かないまま王宮に戻れば、多分自分は迷うだろう。

そして、ここで迷えばいつか、四国統一の危ういばかりの均衡を、この手で崩す日が来るだろう。


それでもいいと我が儘を言うには、やはり、あの戦争では多くの者達が死に過ぎた。

羊飼いは、羊達を残してはどこにも行けないのだ。




「……………どうしたんだい?」



突然、彼女がこちらに向き直ると、深々と頭を下げた。

途方に暮れて声をかけると、顔を上げ、にっこりと艶やかに微笑む。



「バーンディア様。………これまで、有難うございました。私を、…………愛さずにいてくれて。私もこの先、私の子供を積極的に愛する事はないでしょう。この王都には、私や私の子供を殺さずにいてくれる方が、とても少ないのですから」

「…………そうかもしれないね」

「ええ。ですので、そうすることのないあなたにだけ、お伝えしておいてもいいでしょうか」

「私に……?」

「ええ。どうかあなたも、この子を殺すような愛し方はなさらないで下さい。私のように、私がそうするように。……………そして、私がこの子をこの世で何にも代え難い宝物だと思っていることを、世界中の誰にも負けないくらいに愛していることを、……………それを誰にも言えないあなたにだけは、話しておきますね」



まだ膨らむ気配もない腹部を愛おしそうに撫で、彼女は、初めて見るような幸せそうな微笑みを浮かべた。


胸の奥に込み上げてくるのが何なのか分からずに、けれどもこの国の王らしく、どこかは冷酷なくらいに冷め切っていて、ただ静かにその言葉を聞いている。




「愛さずにいてくれて良かったと、そんな事でお礼を言われたのは初めてだ」

「もしかすると、最後ではないかもしれませんよ。……………ですが今夜は、こんなに楽しい時間はありませんでした。初めて歌劇を見ましたし、初めて祝祭の街を歩きました。ここには沢山の、冬の系譜の者達がいるようです」

「……………いや。本来はいない筈だ。…………ヴェルリア程、そちらの系譜の者達の憎しみを買っている土地もないだろう。…………ここにいる者達はきっと、君をいつか迎え入れる為だけに、ここに影絵の町を造り上げておいたのだろう」

「まぁ。……………私を?」



驚いたように目を丸くし、嬉しそうに笑った彼女を見た瞬間に、息が止まりそうになった。


何事もなく通り過ぎてゆく風景の一つだと息を整え、この人は何て艶やかに微笑むのだろうという感嘆にも似た思いは心の奥底に沈める。




(………私のような立場の人間には、そう多くの願い事は叶えられない)



得るべき国を得て、そこに暮らす者達を上手に動かすのが、バーンディアの道楽だ。

そして、そんな役割の他に、もう一度会いたいと願うのは、せいぜい一人で限界である。

だからもう、他の誰かを心に寄り添わせる余裕などないのだ。




「実は一つだけお願いがあるのです。次の死者の日に、私の暮らす離宮の守りを、少しだけ手薄にしていただけませんか?」

「……………会いたい死者がいるのかい?」

「いえ。………時々どこからともなく声をかけてくれる誰かが、私に、私が無事に死者の国に行けるような、特赦日の祝福を届けてくれるそうなのです。……………私は、この先のどこかで妖精に殺されるのだとか」

「……………っ、」

「その際に、妖精に殺されても間違いなく死者の国へ行けるようにと、そのような特赦を宿した祝福が必要なのです。…………そこでなら、私の祖国の人達に会ってみる事が出来るでしょう?」



そう微笑んだ彼女に、まるで置き去りにされるような思いがした。


少し困ったように首を傾げてから、まぁいいかと頷き、託宣を司るものの誰かが、自分の最期について教えてくれたのだと、朗らかな声で語る姿に、例えようもなく惨めな気持ちになった。



ああ、この人は自分を置いていってしまうのだと。

そんな理不尽な物悲しさを覚え、そんなことを考えた己の身勝手さに少し笑う。




「あなたは、私より優秀な王なのだろうな………」

「まさか。私はただ、実はとても我儘だというばかりなのです」

「こうしてすぐにやり込められてしまうのだから、余程私は、あなたに弱いと見える」

「…………確かに、ウィームの王家の者達とヴェルリア王族の方々には、少しばかり、そのような因果があるのだそうですよ。土地の祝福が強く、旅人の質を多く得て生まれてしまう方がいると、在るべきものをあるように整えたり、こちら側に属さない門を治めるウィーム王家の者に心を寄せることがあるのだとか」

「それなら納得だ。とは言え、父のようになるつもりはないけれどね」


魔術に宿る言葉で繋がれないようにそう言えば、彼女は苦笑して首を横に振った。



「……………あなたはきっと、私に出会うよりも前に、どこかでウィーム王家の者に出会ったのかもしれませんね」

「………私が?」

「ええ。そう教えてくれた者達もいるのですよ。………時々、あなたが私を額縁にして遠くを見る時に、その先に居る方がそうなのでしょう。きっと、その方を思うのも困難の多いお立場でしょうが、いつか、あなたが会いたい方に会えますように」




“君ならばいつか、きっとその子のところに帰れるだろう”



ずっとずっと昔に、宝石の町で友に伝えた言葉が記憶の底から蘇る。


そう言えば彼のことを、魔術の師であった魔物は、雪の国の古い血筋だと話していた。

初めて心の底に押し込めていた願いを話した彼には、本当はどこにも行って欲しくなかった。

ずっと夜通し魔術の話をして、共に魔物の弟子の魔術師の卵として、自由なばかりの青年時代を過ごせたのなら、どんなに良かったのだろう。



けれども、あの時もやはり、最後はどこにも行けはしなかったのだ。




(そうか。ウィーム王家の者達は、そういうものなのか)




ここではないどこか。

そして、決して手の届かない、物語の中の恩寵のように、こちら側からここではないどこかを望む者達を、惹きつけて止まない。


父が焦がれ、そして手を取り合う事が叶わないと知った時に呪ったのは、そんな、対岸のものの美しさだったのかもしれない。




「成る程。であれば、それがあなたではない方が、私にとっては好都合かもしれないね」

「ええ。きっと、双方にとって」






そう微笑んだウィーム最後の王女だった人は、彼女が言っていた通りに妖精に殺された。


とは言えそれは、彼女が望み、相手の妖精が最大限の尊厳を守り抜いてくれたお陰で、もしかしたら彼女が望んだような形に収まってのことだったのかもしれない。

内々に指示を回し、その妖精が正妃からの報復を受けないように手配をすると、何とも寂しい葬儀を終えた。




彼女は、様々な障りを受け、尚且つ妖精に殺されたのだから当然だと言わんばかりに、一度も死者の日に戻って来ることはなかった。



でも、バーンディアだけは、彼女が、まんまと死者の国に避難してみせたことをよく知っている。

そして自分の妻でもあったその人が、まだ小さなあの息子を、狂おしい程に愛していたことも。




「……………どうやら、思っていた程に好都合な事など、何もなかったらしいよ」



彼女がいなくなると、あの雪の町は忽然となくなってしまった。

残されたのは無残な荒れ地だけで、元の美しい町の面影もない。



ただの一度もこちらを振り返らなかった人の面影を思い、そのがらんどうの荒れ地の前で空を見上げる。




(そうだ。………… 私は最後まで、あなたを愛しはしなかった)



その方が都合がいいのだと、それは、自分ではない他の者へ向ける執着だと言われ、それもそうだと思ったから。

そうして、巧みにバーンディアを言い包めて逃げていってしまった美しい人のせいで、芽吹く前にその蕾は枯れた。



当人が喪われてからそれが咲き誇るという程に感傷的な人間でもなかったが、この喪失感が敗北でもあるということだけは明白なのだ。




(私は、君に負けた)




だからもう、二度と会うことはないだろう。





「………はぁ。もうウィーム王家の連中には懲り懲りだ。父上のようにおかしくならないよう、二度と深入りしないようにしよう」



そう呟き、荒れ地を後にする。

器用にやり繰りするせいで少しも休みのない羊飼いには、やるべきことが沢山あるのだから。





















〜7/20日までSS更新ですが、本日はややいつも通りの分量です。

アンケートにご投票いただいた皆様、有難うございました!

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