パン屋のお客と妖精の染み
からんと、扉のベルが鳴った。
まだ店を開ける前だったのだが、気の早い客だろうかと思いそちらを見ると、不思議な事に店内に誰かが入ってきた様子はないようだ。
小さく嘆息すると、ジッタは店の入り口の扉のところまで歩いてゆき、扉を薄く開いてやる。
その際に、招かれざるものが入り込まないように術式を敷くのだが、展開された魔術に気付いたのか、外にいた何かがキャンと声を上げた。
「…………小さなお客か。パンを買いに来たのか?」
そこにいたのは、いきなり開いた扉に驚いた様子の、小さな獣であった。
ふわふわの毛皮が狼の子供に似ているが足先がクルツのようになっており、鮮やかな黄色の瞳からしても本来のウィームの系譜の生き物ではないのだろう。
ジッタの問いかけに、その獣はゆっくりと頷いたので、こちらの言葉は理解しているらしい。
しきりに後ろを振り返るような仕草をするので覗き込めば、どうやら、左奥の足に怪我をしているようだ。
代金はどうするのだろうと思い首を傾げると、どこからともなく真っ白な百合のような花を足元に置いた。
「そいつは、払い過ぎだ。傷を治す薬草パンに、暫くの間は回復を高めるオリーブパンを持たせても、随分な釣りが出ちまうぞ?」
「キュウ!」
「…………構わないのか。もし、保存魔術の使える魔術金庫があるのなら、幾つかのパンを多めに持っていくか?お前の系譜だと、そうそう何度もウィームには来られないんだろう」
「キュウ!」
どうやら合意を得たようなので、夏至祭の特別なお客の為に、何種類かのパンを紹介してやることにする。
ジッタがパンを持って店の外に出てきたので、何だろうというように集まっていた他の生き物達も、目を輝かせてこちらを見ている。
(まだ開店前だが、夏至祭だからな。店の前の掃除をした際に扉の鍵を開けていたせいで、集まってしまったな…………)
商品の説明をするだけの手間はかかるが、店内には領民にしか売らない特別なパンも多いので、ジッタの方で見合いそうな商品を紹介出来た方が気楽な場合もある。
まだお客の来る前の時間であるし、まぁいいかとパン用の陳列籠に、何種類ものパンを入れてきた。
「これが、傷を治す薬草パンだ。小さなパンだが、そのくらいの傷なら一個で充分だろう。これは、魔術的な損傷や障りなどがある場合に効く、チーズとオリーブのパンだな。チーズとの組み合わせにも意味があるから、分けて食べないように。…………これは、蒸し暑い日に涼しく過ごせる雪蜜のパン、雨の日に少しの間だけ濡れずに済む、雨祝いのパン。これは、寝ている間だけ誰からも見えなくなる森闇のパン………」
「キュウッ、キュウ!キュウ!!」
「はは、全部か。……………後は、これはただの夏の果実のパンだが、夏至祭の夜が美しく見える。大量購入のおまけにつけておこう」
「キュウ!」
宝石のような黄色の瞳に、柔らかな砂色の毛皮。
恐らく、感じ取れる祝祭の魔術からして、この生き物は夏至祭周りのものなのだろう。
ジッタは、不思議な獣が説明の際に弾んだパンだけを持ち帰り用の籠に詰めてやり、一輪の白い百合と引き換えにそっと目の前に置いてやる。
するとその獣は、籠の中に顔を突っ込んでまずは傷を治す薬草パンをがつがつと食べてしまい、その途端にしゅわりと傷の消えた後ろ脚を何度も曲げたり伸ばしたりすると、余程嬉しかったのか、びょんと弾んでいる。
(関わり方を間違えると、障りを齎す生き物だろう。だが、それさえなければ祝福を落とす益獣というところだろうな…………)
ある程度の階位であるのは間違いなく、周囲でパンの説明を聞き涎を垂らしていた有象無象の生き物達は、不思議なことに、決してこちらに近寄ろうとしない。
まっとうなお客以外の者達に自慢のパンを渡すつもりはないが、夏至祭の日にこんな風に食べ物を持って外に出れば、その途端に小さな生き物達が群がってきてもおかしくない筈なのだ。
そんな事を考えていると、また、小さな生き物達がふっと遠巻きになった。
渡されたおまけの果物のパンもその場で食べてしまい、嬉しそうに弾んでいた獣も、さっと周囲を見回して、パンの籠を素早くどこかにしまっている。
そこに現れたのは、一人の少年であった。
白混じりの髪は明らかに高位の人外者の証であったが、ジッタにとっては見慣れた常連客だ。
とは言え今日は、リーエンベルクの仕事で来ているようなので、いつものような気安い話し方は控えておこう。
「わぁ、それ、夏至祭の花竜だね。僕、久し振りに見た。とっても珍しいんだよ」
「おや、どうされました?」
「あのね、この周辺だけ魔術の道が出来ていたから、僕とグラストで確認に来たの。いいものだし、パンを買いに来ただけだから何もしないよ。でも僕、そろそろ開店なら、檸檬クリームのパンは買っていこうかな」
にっこり微笑みそう告げたゼノーシュに、後ろに立ったグラストが小さく苦笑する。
檸檬クリームのパンは夏至祭限定のものなので、この魔物は、早朝の見回りついでに毎年買いに来るのだ。
「それなら、焼き立てですよ。……………ああ、もう行くのか。達者で……………お」
「わぁ……」
「…………っ?!」
先程の獣が立ち去る素振りを見せたので、見送ろうとした時のことだった。
突然、真横に魔術の道を開いて現れた妖精らしき何者かが、ジッタが手に持っていたパン籠を奪おうとしたのだ。
その途端、身軽になっていた最初のお客がびょんと跳ね上がり、その妖精を力いっぱい蹴りつけた。
ぎゃあっと声がして、蹴り飛ばされた妖精は隣の店の壁にぶつかり、そのままじゅわっと消えてしまう。
建物の壁に妖精の人型が残り、近くに居たパンの魔物達が集まってきている。
「キュウ!」
どこか誇らしげに一声鳴いた獣に、ジッタは助けて貰ったお礼に檸檬クリームのパンもおまけしてやろうと思ったのだが、振り返るともうその姿はなかった。
何だか名残惜しいような気もしたが、夏至祭の花竜が姿を現す事は滅多にないそうなので、次に会うとしても、また来年の夏至祭になるだろう。
(…………もし、また店に来たら、その時に檸檬クリームのパンを食べさせてやろう)
代金代わりに受け取った白百合は、どこに残っていたものか、修復の魔物の証跡魔術の結晶だったので、ダリル辺りに話を通して買い取って貰うのがいいだろう。
そんなこと考えながら、ゼノーシュとグラストと共に、店に入る。
来年の夏至祭は、少し早めに店を開けてもいいかもしれない。
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