237. 外側はとても危険です(本編)
森の方から聞こえてくる遠い音楽のどこかで、かしゃんと、金属が触れ合うような独特な音がした。
ネアはおやっとそちらを見てみたが、何もないようだ。
気のせいだったのだろうかと考えた直後、がしゃんと窓が鳴った。
(………っ?!)
慌てて窓の方を見ると、みっしりとミントグリーンのもわもわしたものがへばりついている。
驚いたネアは、横飛びで伴侶に飛びついた。
「ぎゃふ!!」
「………ご主人様」
「脱脂綿妖精の群れでふ!!ま、窓はちゃんと閉まっていますよね?!」
「うん。…………カーテンも閉めておくかい?」
「………ありゃ。もう離れていったみたいだよ。驚いたなぁ………」
「窓周りにいつもの夏至祭で見かけない妖精が多いのは、ある程度不満が出ている可能性が高いな。早く供物を増やした方がいい」
「………ぐるるる。………ふと思ったのですが、あの理想郷とやらは、ディノ達に見えたのであれば、ちびこい妖精さん達にも見えるのです?」
「うん。見えていたと思うよ。ただ、種族や系譜によっては理想郷として認識しないから、ただあわいが横切ったとしか考えていないものも多いだろう。何の影響もないとは言えないけれどね」
であれば、もわもわ系の妖精が窓にへばりつきがちなのは、アルテアの言う理由で間違いないのかなと、ネアは頷いた。
同じ妖精であるヒルドはどう思っているのだろうと、前を歩く森と湖のシーを見たネアは、顎先に手を当てたヒルドの姿におやっと眉を持ち上げる。
(ヒルドさん………?)
窓からの光が入り、瑠璃色の瞳は深い輝きを帯びている。
魔物達の瞳のようだと思ってしまったが、こんなに鮮やかに見えるのは、夏至祭だからかもしれない。
思い出せないことがあると話していたディノが何かを考えている様子なのは分かるが、ヒルドにもそんな様子があるのはなぜだろう。
気になってそちらを見ていると、エーダリアも気付いたのか、こくりと頷きかけてくれた。
「ヒルド、何か気になることがあるのか?」
「………いえ。………同じ事例ではないのですが、あまり例のない状況の変化として、先程の事件に似た記録などがないかどうかを考えておりました」
「ありゃ。それって、他にも波及しかねないものがありそうってこと?」
「ええ。………窓の外の妖精達の動きが、いささか妙ではないかと思っておりまして」
「ヒルドもなのだね。………私も、何か大切な事を忘れているような気がするんだ」
そう重ねたディノに、アルテアが眉を寄せた。
こちらはノアと顔を見合わせているのだが、ノアは首を横に振っている。
(………何だろう。何か、………おかしな点があるのだろうか)
ネアも、理想郷の影響が出ているのならと考えてみたが、違うのであれば他に理由がある筈だ。
しかし、それがさっぱりなんなのか分からないどころか、ネアには少しの違和感も感じ取れない。
廊下には、窓からの光が差し込み、その光の中を時折はしゃいで飛び交う妖精の影が入る。
ネア達が歩いているのは騎士棟に向かう廊下なのだが、窓から見える庭園の様子はいつもの夏至祭と大差ないように思えた。
若干、妖精達のはしゃぎ方が賑やかな気はするのだが、夏至祭なのだし、異変と言えるようなことは起きていなさそうだ。
また、細やかにきらきらと光る祝福の煌めきがそこかしこに見える様子からは、きちんと祝祭の魔術が結ばれているのも間違いない。
(こうして見ていると、きらきらしていて綺麗なのに………)
瑞々しい庭園の花々の彩りに、妖精達の姿が見える。
ただでさえ美しいリーエンベルクの庭園が、今日はいつもとは違う複雑な輝きや艶やかさを帯びる。
喜びに弾む人の微笑みが美しいように、祝祭を楽しむ妖精達が美しい祝福を落とすのも当然のこと。
そんな光景にああ夏至祭だなという思いはあるものの、特別な気付きを得られる要素は見付けられなかった。
こんな時に奇跡的に答えを取り出せたらいいのにと思ったが、それが叶わない無力さにむしゃくしゃしながら、何かが腑に落ちない様子の家族と共に、引き続き騎士棟に繋がる外回廊の入り口までを歩いた。
本棟と騎士棟の間には、外回廊と呼ばれる直接外に出られる回廊がある。
一応は排他魔術で仕切りをつけてはあるが、見回りの騎士達が手間をかけずに建物に入れるようにしてある部分なので、しっかりとした術式は敷いてなかった。
なので、本棟に繋がる扉は二重扉になっており、この時間はいつもなら外側の扉は開かれている。
だが、夏至祭の日はどちらも簡易施錠されていて、引き下ろし型の留め金を動かさなければ開ける事が出来なかった。
扉部分の留め金は部外者が触れられないようになっているので、こんな日だからと妖精達が悪さをすることもない。
ネア達が同行するのはその手前迄で、今日は外に出ない方がいいネアとそんな伴侶に寄り添ってくれるディノは、扉のところで引き返す予定だ。
(…………む?)
ここでふと、ネアも何かを思い出しかけた。
しかし、その引っ掛かりは具体的な映像は結ばず、もやもやとした違和感だけが心の中に残る。
ぎりりと眉を寄せ、騎士棟に繋がる向かう角を曲がった時の事だった。
「……っ、ネア!!」
「ぎゃん?!」
「ネア?!」
前を歩いていたエーダリアが、突然ネアをどしんと突き飛ばそうとした。
しかし、その手が肩を突いたその瞬間に、くらりと世界が暗くなったのだ。
これは、いつもの嫌な展開だぞと慌てたネアは、咄嗟に一番近くにあった手を掴んでしまった。
「……………むが?!」
どすんと音がした。
どこか暗いトンネルのようなところを転がり落ちるように振り回された後に乱暴に放り出され、ネアはしたたかに体を打ってしまう。
ぷんと草木の香りがして、先程よりもオーケストラの音楽が近く聞こえる。
落とされた衝撃で咳き込んでいたネアは、すぐに誰かに背中をさすられた。
「………っ、………無事だな?」
「ぎゃ!エーダリア様を連れてきてしまいました!」
「ご安心を。私もおりますよ。それと……恐らく今のものは、我々が標的だったのでしょう」
「ヒルドさん……!」
そこには、うっかりネアが掴んでしまったエーダリアと、そんなエーダリアを捕まえてくれたらしいヒルドがいる。
そろりと顔を上げると、幸いにもおかしな場所ではなく、リーエンベルクの外周の壁が見えるので、敷地の外に出されただけのようだ。
一瞬ほっとしかけてから、ネアは慌てて体を起こすと、すぐに周囲を見回した。
(まだ、先程の犯人が捕まっていないのに、リーエンベルクの外に出されてしまったのだわ……!)
だが、急に体を起こした事で、くわんと目眩がした。
耳鳴りのような不快な症状があり、ネアは片手で耳を押さえる。
頭の内側で音が響いているような、なんとも言えない感覚に、込み上げる吐き気を飲み込んだ。
ヒルドが剣を抜いているのをぼんやりと確認して少しだけ安堵しつつ、何とかこの気分の悪さを抑え込もうとして深呼吸を繰り返す。
「………っ、…………むぐ」
「………立てるか?用意なく妖精の道を通されたのだ。幾ら抵抗値が高くとも、咄嗟に身を守れないお前には影響が大きかったのだろう」
「………はい。ごめんなさい、よく知る感覚だったので、思わず一番近くにあった手を掴んでしまいました」
「いや、一人で落ちないでくれて良かった。角を曲がったところに、床の絨毯の毛並みに跡をつけて、妖精の輪が出来ていたのだ。小さな生き物達の出口だったのだが、可動域の低いお前は呼び込まれてしまうからな。咄嗟に離れさせたつもりだったが、間に合わなかったらしい」
「ぐる………。お、おのれ…………」
「私の手が届けば良かったのですが、その間もないくらいでしたね。………ただやはり、エーダリア様や私が抵抗なく通れたのはおかしいですね。高位の妖精によるこちら側からの招待がなければ、我々は通れなかった筈ですから」
ヒルドは、ある程度の予測を立てているようだ。
声はひどく硬く、ネア達を背中の後ろに隠すようにして羽を広げ、じりりと後退する。
可動域問題で荒ぶる訳にもいかない状況なので、ネアは、すぐさま可動域への思いを鎮めると、エーダリアとヒルドに手を貸して貰って立ち上がった。
(…………それは多分)
エーダリア達を外に連れ出そうと画策する高位の妖精は他にもいるかもしれないが、二人が得心気味なのは恐らく、犯人が予測出来ているからだろう。
妖精というものは本来、不穏なものや害を及ぼすものほど、あまり気配を追わない方がいいのだそうだ。
知ろうとすることで道が繋がりやすくなってしまい、興味を示せば、道を繋ぎかねない。
そんなこちらの動きを知られてしまえば、完全に因果を結ぶこともある。
ノア達が、今日は夏至祭を恙無く終える事を優先したのは、主にその為だろう。
夏至祭の日に、力を強める黎明の妖精を探すということは、とても危険な事なのだ。
「すぐに中に入りましょう。夏至祭に限り、こちらの門は魔術で閉じておりますので、正門前に移動しなければなりませんね。ネイを呼びます」
「ああ。すまない。………ここは、先程の報告にあった西門だな。まさか、妖精の門を屋内に作られていたとは……」
「その理由についても心当たりがあります。……ネア様、ディノ様を呼べますか?」
「げふん。………は、はい!すぐにそうしますね。………ディ」
ディノ。
その名前を呼ぼうとして、ネアはぎくりとした。
爪先がぴしゃんと音を立て、水面を踏んだのだ。
突然のことに思わず言葉を失い、そろりと視線を持ち上げると、そこに広がるのはもう、リーエンベルクの周囲の景色ではなかった。
夜の森だった。
どこまでも広がる暗い夜の湖と、そこを囲むように広がる深い森がある。
湖畔には細やかな花が咲いていて、あまりにも美しい場所に思えて息を呑んでしまう。
はらはらと、白い花びらが降る。
なぜだかそれは白薔薇の花びらだと分かっていたが、以前に見た時よりは、落ちてくる花びらの量が少ないような気がした。
足りない。
頭のどこかでそう思うのに、なぜ足りないと思うのかが分からない。
わんわんと耳鳴りのように響くのは、教会で聞くような少年達の歌声の聖歌だ。
耳鳴りと吐き気の正体はこれだったのかと察するも遅く、ずしりと思い何かの圧が心を押し潰しそうになる。
そして、その声が聞こえた。
「…………ああ、やっと見付けたぞ。私を退けていた者はやはり、もういないらしい。同じ役割を継承していようとも、その若さでは私の手を拒めまい」
どこかで長い白い髪が揺れ、ネアは、見惚れてしまいそうな美しい髪を持つ誰かが伸ばした手を茫然と見ている。
けれども、その手に触れてしまってはいけないことだけは分かっていて、ただ震え上がるばかり。
こちらの世界の人ならざる者達はこんなに怖いとは思わないのに、なぜ、こんなにも怖くて怖くて堪らないのだろう。
「ネア様?」
「…………ネア?」
背後から、ヒルドとエーダリアの怪訝そうな声が聞こえるので、どうやらこの二人には、これは見えていないらしい。
ネアは必死にディノを呼ぼうとしているのだが、どうしても喉が開かない。
そんな表現もおかしな事だが、声を出すべき場所に呼吸が通らないような、悍ましい恐ろしさがあった。
(……………誰か)
こわい。
ただ、ひたすらに怖くて堪らない。
その怖さが音にならなくて泣きそうになったその時、ぐいっと体が誰かに抱き込まれた。
「っ?!………ネイ!」
「あれは?!………くっ、ノアベルト!」
切迫感のある声音が聞こえてくる。
この異変が見えたのかなと思ったが、それを確かめようにも、上手く口が動かない。
「………やはり、彼等がこちらに来られない何かがあるようですね………。エーダリア様、私の羽か髪を掴んでいて下さい!絶対に離れないように!!」
「っ、………排他結界を展開した!ネアの様子はどうだ?!」
「変化がないようです。ネイの到着がないことからすると、………ここは既に、何者かの領域である可能性もあります。……ネア様!ネア様!!」
どうや、ネアを抱き締めてくれたのはヒルドであるらしい。
呼びかけられる声の振動と、触れた肌の温度に強張って凍りついていたものが少しだけ震えて動く。
ネアは、はくはくと息を吸い、囁くような声を絞り出した。
「……………ディノ、アルテアさん………」
強く抱きしめて繋ぎ止めてくれて嬉しいのに、ヒルドに、手を伸ばしている何かとの間に立ってはいけないと言いたくて泣きたくなる。
この手に触れてはならないのは、きっとネアだけではないだろう。
大事な大事な家族なのだ。
自分の身が欠けるよりも、家族が失われる姿だけは見たくない。
押し潰されそうな息苦しさに生理的な涙が滲み、視界がぼやけた時の事だった。
がしゃんと、凄まじい音がした。
はっとしたようにヒルドが体を強張らせたのが分かり、その直後、体当たりされるように誰かが飛び込んで来る。
「…………あなたは、」
「お前は領主を捕まえておけ!黎明は、外でアルテアとノアベルトが対処している。祝祭の輪を閉じ直すぞ!!」
受け渡され、ヒルドではない誰かに抱き締められた。
何とか顔を上げると、どうやらネアを抱えているのはグラフィーツのようだ。
すっかり視界がぼやけているのに、そんな砂糖の魔物が、美しい白薔薇のリースを湖に向けて放り投げたのが、やけにくっきりと見えた。
こちらに手を伸ばしていた何かが、忌々しげに唸り声を上げ、ネアはなぜか、高貴な声音を持つものが粗野な悪態を吐いたことに奇妙な満足感を覚えている。
「……………せんせい?」
「っ、何だこの軽さは?!取り込んでいた内側の終焉の祝福と災いを逃したな……!!………そのせいで、厄介なものを退けるだけの毒を失ったか。………ウィリアム!!」
その声が呼んだのが、ディノでもなくノアでもなく、アルテアですらないことにネアは目を瞬いた。
まだ湖はそこにあったが、あの白い髪や差し出された手は見えなくなっている。
先程までの押し潰すような息苦しさも、夢のように晴れていた。
ばさりと音がして、真っ白なものが揺れる。
思わず鋭く息を呑んでしまったが、それが誰なのかはすぐに理解して、安堵のあまりに崩れ落ちそうになる。
純白のケープのところどころは鮮血に染まっていたが、今はそんなことはどうでも良かった。
ただ、ただ、そこにいてくれることが嬉しかった。
「……………あ」
そして、ウィリアムが降り立った瞬間、湖も夜の森も、見えていた全てが綺麗に消え失せる。
そこはもう、いつもの見慣れたリーエンベルク周りの景色であった。
「ネア!!」
その直後に飛び込んで来たのはディノで、すぐさまグラフィーツの腕から持ち上げられ、ぎゅうぎゅうと抱き締められる。
「……………ディノ?」
「………怪我はしていないね?………グラフィーツ、間に合わせてくれて、有難う」
「今年の夏至祭はまずいと思っていましたが、………やはり、現れたのはかの祝祭のもののようですね。まずは、リーエンベルクの敷地内に戻しましょう。この状態で、夏至祭の輪から出たのがまずかった。せめて、花輪の塔がある正面広場であれば良かったんですが………」
「………そうだね。ウィリアム、君にも負担をかけた」
「いえ。……俺に声が届く時で良かったです。ネアは大丈夫ですか?」
「うん。………現れたものに触れずに済んだようだ。ヒルドがいてくれたお陰だろう」
ネアは、ディノの手のひらで前髪を掻き上げて貰い、びっしょりと冷や汗をかいていることに気が付いた。
息を吸うと喉がひりひりして、まるでぐっと首を押さえられたかのようだ。
ディノに持ち上げられて視線が高くなると、既にエーダリアがノアに抱き上げられていることと、リーエンベルク側に面した歩道から、馬車道を挟んだその奥で、アルテアが何かを乱雑に投げ捨てているのが見えた。
どうも人の姿をしているように見えたのだが、安堵のあまりに瞼が落ちてしまい、よく見えなかった。
少しだけと思って、目を閉じた。
はらはらと白い花びらが降る。
湖の真ん中には、先ほどグラフィーツが投げ込んだ白薔薇のリースが浮かんでいて、それを見るとほっとした。
どうしてだか、そのリースを見ると、夏至祭のものではなく、イブメリアのリースだと感じる。
そして、そう感じるからには間違いないのだという、奇妙な自信があった。
さりさりと髪を撫でる手のひらに顔を上げると、そこに立っているのは、ネアに素敵なオーナメントをくれたクロムフェルツであった。
「クロムフェルツさんです!」
「今年の夏至祭は、非ざるものを呼び込みやすい条件が整っている。………今のものも、自分を退けたこの夏至祭の輪を目印にしてやって来たのだろう。あのものよりも階位の高かったかつてとは違い、やはり、この円環の強度や階位が随分と下がっているようだ」
「………そうなのですか?」
「とは言えそれは、前任者の手を離れたばかりの継承者が、独り立ちするまでの覚束なさのようなものだ。あの魔物の供物で、私の守護が重ねられたので、もう大丈夫だろう」
その時はなぜか、言われたことの意味がネアにも呑み込めていて、安堵のあまりにぱっと笑顔になると、優しい目をした祝祭の王が、もう大丈夫だよというように頷いてくれる。
グラフィーツが、湖に投げ込んだリースで連れて来てくれたのはこの人だったのだなと、今度は疲弊ではなく、安心して目を閉じた。
「ネア、目を開けられるかい?」
「……………む」
その声に目を開くと、どうやら眠っていたらしい。
夢を見ていた気がしたが、あまりよく思い出せなかった。
ほんの少しだけと思って目を閉じていたのだが、その間にリーエンベルクに運び込んで貰えたものか、視界が暗いようだ。
窓のカーテンを閉めているのかなと思って目を瞬いたネアは、窓の向こうの不思議な煌めきに、既に陽が落ちていることに気付いてぎょっとした。
「夜なのです?!」
「ネア?!………あまり、いきなり体を起こすと…」
「ぎゃ?!」
ディノが慌てて静止しようとしたのだが間に合わず、ネアは力の入らない腕を突然酷使してしまい、がくんと腕の力が抜けたせいで体勢を崩してしまう。
だが、寝かされていた寝台から転げ落ちないようにすかさずディノが体を支えてくれたし、手ががくんとなった側の腕をアルテアが掴んで支えてくれた。
「ったく………」
「…………アルテアさん」
「視界は正常だな?」
「…………む。………はい。お部屋の中に、沢山の人がいて、どうやら会食堂に寝台が持ち込まれているようだというのが間違いでなければ、………正常のようです」
「問題ないようだな。……………グラフィーツ?」
「ああ。侵食や付与はない。元々、この妖精が触れていたことで、あれが連れ去ることや触れる事は出来なかった筈だ。だが、混乱して自分であちら側に踏み出したら、何らかの影響は受けたかもしれない」
淡々とした声でそう語るのは、漆黒の装いのグラフィーツだ。
今日は極彩色ではないのだなと考え、ネアは、まだぼんやりとしている意識をゆっくりと組み立て直す。
「……………私は、あのまま眠ってしまったのです?」
「君に啓示を与えたものに、精神圧をかけられたのだろう。私達が駆け付けたところで、安堵して意識を失ったようだね」
「そうだったのですね。…………まぁ。…………ディノは、泣いてしまったのです?」
ネアはここで、大事な魔物の瞳が濡れていることに気付いて、慌てて頬に手を添えてやった。
その手を上からそっと手で押さえると、ディノは、深く深く安堵に違いない息を吐く。
「……………君が無事で良かった」
その一言を聞いた瞬間、ネアはなぜか、わあっと声を上げて泣きじゃくりたくなった。
あの怖さを思い出すと、もう安全な場所にいる筈なのに、体が震えそうになってしまう。
同じような恐怖のようで、蝕の時に感じた恐ろしさとは全く違い、どちらかと言えば、テルナグアに遭遇した時のような、得体の知れない恐怖だ。
こちらを心配そうに見ているのは、ネアの大切な家族達で、目が合うとそれぞれにほっとしたように微笑んでくれる。
アルテアだけでなく、ウィリアムもそのまま残ってくれたらしい。
真っ白なケープを見た瞬間の嬉しさを思い出し、ネアは、既に戦場かどこかの汚れは落としたのであろうウィリアムとも視線を合わせる。
(あれは…………)
あれは、何だったのだろう。
舞い落ちる白い花びらと、静かな湖面を有した、円環のような夜の森。
そして、どこからともなく視界に入り込んだ白い髪と
伸ばされた手は覚えているが、記憶を辿っても、その持ち主らしき人物をきちんと見たという記憶はない。
おまけにあの時、エーダリアとヒルドには、ネアの見ていたものは見えなかったようだ。
それどころか、そちらはそちらで、とんでもない者が現れ、その対処をしなければならなかったという。
「…………怪物事件を起こした、黎明の妖精めが現れたのですか?」
「ありゃ。凄く怒ってるぞ。…………ネア、事情は後で説明するけど、今は落ち着こうね」
「エーダリア様やヒルドさんは、お怪我はしてません?」
「うん。それはね、すぐに僕達が排除したからね。今は、最後に羽を引き抜いたアルテアから、然るべき機関に引き渡してあるよ。逃げ出したと思っていたけど、エーダリアや僕達が回復したと聞いて、戻ってきたみたいだね。僕達が深刻な状況にならないと、あの魔術師を貶められないと思ったんだろう」
「髪の毛を引き抜きます………」
「わーお。でもそれ、もう誰かがやってそうだよね……」
その黎明の妖精が現れたのは、エーダリアとヒルドが慌てたようにノアの名前を呼んだ時だったようだ。
どうやら、ネアが引き摺り込まれた妖精の輪は、その妖精が出入りをしていた小さな妖精達を唆し、少しばかり吸引力が強めになっていたらしい。
夏至祭の日には、奇妙な円環を見つけたら決して足を踏み入れてはいけないのは勿論だが、強い力を持つ妖精は、狙いを定めた獲物をより意図的に呼び寄せる事が出来る。
リーエンベルクの外周に潜んでいたその妖精が、見回りの騎士達より妖精達の動きに敏感だったのか、グラストたちが発見した妖精の輪を利用したのかは分からない。
グラスト達がその場を離れていたのは、新たに小さな夏至祭の怪物が現れたからであるらしく、急ぎそちらに駆け付け、入れ替わりで妖精の輪の見張りを他の若い騎士に任せるつもりだったそうだ。
そして、ネア達が引き摺り落とされた時には、その周囲をあの妖精が自分の領域として閉ざしてしまっていた。
ディノ達がすぐに駆けつけられなかったのは、黎明の妖精を捕まえて無力化するまでの時間だったのだとか。
「と言うことは、私が通された妖精の輪は、元々、獲物を引き寄せる用になっていたのですか?」
「ああ。輪の大きさから、そこを通れてしまうお前を咄嗟に遠ざけようと思ったが、あの時にはもう、私を含めた複数人を呼び入れるだけの準備がされていたようだ。なので、お前だけではなく、私やヒルドも通れてしまったのだろう」
「………申し訳ありませんでした。あんな事の後なのに、エーダリア様の手を…」
「謝らなくていい。ノアベルトの確認によると、お前が掴まなくても、私は間違いなく引き摺り込まれていたそうだ。…………あの妖精の標的は、私だったのだ」
ウィーム領主というだけではなく、故人が、やっと待ち望んでいた方がウィームに戻ってきてくれたと喜んでいた相手だからこそ、黎明の妖精はエーダリアを狙ったのだった。
儀式の時に現れた怪物が真っ先にエーダリアを狙ったのは、エーダリアが真っ先に狙われるような位置に立った瞬間を狙い、召喚が行われたからだったそうだ。
それが判明したということはつまり、自白を促すような何かが行われたのは間違いない。
黎明の妖精は、ただの一度も自分の求婚に応じなかったくせに、太陽の聖女などという陽光の質を帯びる存在しない乙女に憧れていた魔術師が、その名前が残る限り呪われる存在と成り果てるよう、今回の事件の被害者がエーダリアでなければと考えていたらしい。
「元より、終焉の入り口に立ち、意識が混濁していたところで理想郷の影響を受けたのだ。それだけでも酷なことであるのに、そこから更に、妖精の侵食魔術で意識を焼き、………思うがままにしたそうだ」
「やはり、あやつの髪の毛は全部引っこ抜きましょう。そして、ダリルさんか、スープ屋さんのおかみさんに引き渡します」
「うん。もうそうなってるから、安心していいよ。でも、髪の毛については、どうなってるのかお兄ちゃんも知らないかな」
ネアがそちらの事件の説明を受けている間、ディノとアルテアは無言で寄り添ってくれた。
ウィリアムはグラフィーツと何やら話し込んでおり、ネアの視線に気付くと、にっこりと微笑んでくれる。
「留め金の聖人だったよ………」
「ディノ?………もしかして、思い出せなかった事ですか?」
「うん。………あのとびらの留め金を、開けてしまったようだ」
「なぬ………」
「私も、何か他にも気を付けなければいけない事があったというところまでは思い出せたのですが、留め金聖人が、理想郷の影響を受け、とびらの留め金を外すことまでは予測出来ておりませんでした」
(そうか。………あの理想郷が、魔術師さんの心の中にある願いを掻き立ててしまったように………)
そのような影響を受けた際に、リーエンベルクに良からぬことを引き起こすもの。
それはまさに、祝い嵐の際にも似たような騒ぎを起こした、留め金聖人であった。
幸い、扉付近には魔術遮蔽結界があったので、発見された段階では、外から侵入したものはいなかったが、内側のもの達は外に出られていたらしい。
その結果作られたのがネア達の落ちた妖精の輪で、出入り口がどこかにある気配を察し、小さな妖精達がリーエンベルクの窓に集まってきていたのだ。
「急遽、あの扉には、ネイに魔術施錠の鍵を取り付けて貰いました。これでもう、留め金聖人が悪さをしても大丈夫でしょう」
「ディノは、以前の捕獲の際にとても怖い思いをしたので、いつものように思い出せなかったのかもしれませんね
「うん………」
(これが、私達が門の外に放り出されてしまった理由)
問題となった妖精の輪や黎明の妖精も、今はもう、全ての対処が終わっている。
なのでここからは、ネアの身に起きたことを話す順番となるのだろう。
ネアはまず、自分の身に起きたことを全て話した。
事情説明と言うほどに時間を有しはしないが、話をしていくとあの時の怖さも蘇る。
ディノがすぐに手を繋いでくれたので、とても安心した。
「………私が見たもののことを、…………グラフィーツさんはご存知なのですか?」
その問いかけにこちらを見た砂糖の魔物は、小さく頷いた。
ネアは、こらからの説明に備えてヒルドが淹れてくれたあたたかな紅茶を飲み、じんわりと滲むような美味しさにふにゃりと頬を緩める。
「………これまでは予測の範疇だったが、今回で確定したな。……………何代か前の世界層の、イブメリアに準じる祝祭に座するものだ」
その言葉にふと、ネアは、なぜか去年のイブメリア周りで、生まれ育った世界のその名称を出してはいけないような気がしていたことを思い出す。
だが、グラフィーツの言葉とその疑念では、詳細が一致しないような気がして、おやっと眉を持ち上げ、首を傾げたのだった。