235. 家族が怪我をしました(本編)
ネアの用意した飲み物を飲み終えると、アルテアは長椅子の上に横倒しになってしまった。
何かを司るということが、このように影響を及ぼすのだとは思わず、ネアはすっかりおろおろしてしまったが、耐え難い不快感は、合成獣を目の前で見せられた時のようなものであるらしい。
額の汗を拭いてやろうとしたが追い払われてしまい、お腹撫でも必要ないようだが、今しばらくは横になって体を休めるようだ。
守護の内側まで入り込む祝福でありながら、こんな風に高位の魔物を苛むのだと思えば、ネアは、生まれ育った世界での聖域と悪しきものの関係などを考えてしまった。
(先程の風景は、前の世界では正しい価値観に基づくものだったらしい…………)
変化も成長もないものが理想郷であるのかと問われたなら、ここにいる人間は、変わらなくてもいいのは大事な人達の健やかさくらいだと答えただろう。
けれども、あの風景こそが完成形であったのなら、理想郷の一端に触れただけで弱ってしまう魔物は、前の層の世界にとってのどんな存在にあたるのだろうか。
(例えばそれは、私が生まれ育った世界にあった、聖典の悪魔のような………)
考え込みかけてしまったが、今はそれよりも夏至祭だと思い直し、ぶんぶんと首を横に振る。
おやっと眉を持ち上げたディノがこちらを見たので、夏至祭に関係のない考え事に入り込みかけたので後回しにしたのだと説明する。
「……………三つ編みはいるかい?」
「むむぅ。お部屋の中なので、持ってみますね」
「うん」
戻った部屋の中は、瑞々しい花の香りがした。
昨晩の内に部屋に届けられた夏至祭のリースは、瑞々しい白薔薇と可憐な菫を使ったものだ。
その他にも香草や野の花も使われていて、一般的には、八種類の植物を編み上げるのが最も良いとされる。
小国には白樺の魔物が司る夏至祭もあるらしく、となるとその白樺の魔物の守護を有する王都はやはり、夏至の備えには向いた土地なのだろう。
どこかに繋がる門や、ネアが迷い込んだ施設などから見ても、どれだけ境界の向こう側の者と隣り合って生きてきたのかが窺い知れる。
「もしかすると、対するウィームは、人外者さんが多くても、こちら側の土地という感じなのですか?」
「そうだね。ウィーム程に、あわいや影絵を有しながらもこの世界層にしっかりと固定された土地もないだろう。雪や氷の資質は、元より閉ざすものだ。イブメリアの庭だったという履歴があるのも大きく影響しているし、やはり土地の成り立ちや基盤を見ている限り、…………私が派生した土地はこの周辺なのだと思うよ」
「まぁ。ではウィームは、ディノにとっての生まれ故郷なのかもしれないのですか?」
「その頃のことは、よく覚えていないんだ」
困ったように淡く微笑んだ魔物に、ネアは、ディノの三つ編みをにぎにぎしてやった。
そうすると、目元を染めて嬉しそうにしているディノは、死にゆく世界で先代の万象の最期を見届け、新しい世界について考えながら、どんな時間を過ごしたのだろう。
全てが終わる最後の最後に派生したウィリアムですら絶望したのなら、一つの世界が終わる姿を見届けたディノはどんな思いであったのか。
ネアは、本当にディノが何も覚えていないのであれば、その欠落にもきっと理由があるに違いないとずっと考えてきた。
「でも、今はここに、ディノの新しいお家があって、こんなにたくさんの家族がいるのですよ」
「…………うん」
「だからこそ私は、ウィームにそんな履歴があったのなら、とても嬉しいです。ディノの証跡のある土地だからということもありますが、これから一緒に暮らしてゆく土地なので、安全で素敵なところがいいですものね」
「……………うん。……これから、………ずっと」
最後の一言はどこか頼りなかったので、ネアは、少しだけ不安そうに呟いたディノの三つ編みを引っ張ると、目を瞠った魔物の頬に口付けを落とす。
「……………かわいい」
「私は、ずっとディノの側に居るので、例えば今日だって、怖い時は怖いと言っていいのですよ?」
「……………べたべた玉は、……………怖いかな」
「…………なぬ。思っていたのとは違う回答がなされました……………」
「ご主人様………」
素直に怖いものを告白することにした魔物によれば、べたべた玉は目の前で使われると、とても怖いらしい。
何だかよく分からないのに、投げつけられた獲物が一瞬で死んでしまうので、どうしたらいいのか分からなくなるそうだ。
ネアは、ひどく怯えた目でそんな告白をしてくれた魔物の為に、べたべた玉を目の前で使うのはやめてあげようと心に誓った。
元はと言えばエーダリア用の武器開発の産物でもあるので、ネアには他の武器が幾らでもある。
ただ、獲物や敵の系譜や資質によっては、どの武器と相性がいいのかが未知数なので、場合によってはやむなく使うかもしれない。
その後の少し間は、とても穏やかな時間であった。
ネアはニワトコの飲み物をもう一度作り足し、ディノと一緒にお喋りをする。
窓の向こうには夏至祭の煌めきがあり、微かに、どこからともなく音楽も聞こえてきていた。
(後で、もう一度、夏至祭の水で顔を洗おうかな)
今日は外に出ない方がいいので、夏至祭の日の朝露の収穫には行けなかった。
けれども、ネアの楽しみにしている夏至祭の過ごし方の一つにある、花や果実の香りのする冷たい水で顔を洗う時間は、今朝も無事に堪能出来ている。
外に出て、花びらを振り撒く花輪の塔や、その周辺で踊る恋人達の姿を見られない分、もう一度くらいあの水で顔を洗ってみるのもいいかもしれない。
祝祭儀式に入ったエーダリア達からの連絡もないので、漂流物の現れる年らしい不安定さはそこかしこにあるものの、今のところ、昨年の雨の夏至祭のように、得体の知れないもの達がわらわらと現れるような事は起きていないようだ。
通り過ぎていった理想郷に持ち去られた者達もいるかもしれないが、その後はまた祝祭魔術が落ち着いているそうなので、どのような被害が出たのかが判明するのは、もう少し先になるのだろう。
そんな事を考えて、次の話題を切り出そうと伴侶の方を見た時、ふっとディノの瞳が揺れた。
何だろうと思う間もなく、クラヴァットを緩めて長椅子に横になっていたアルテアも、跳ね起きる。
「…………っ?!」
「アルテア、動けるかい?」
「ああ。……………くそ、こちら側の影響もあるのか!」
「な、何があったのですか?!」
アルテアは、すぐさま長椅子の上に転がしてあった杖を掴むと姿を消してしまい、ネアは、こちらに来ると伴侶を膝の上に乗せた魔物の顔を見上げ、その眼差しの冷ややかさに目を瞠る。
(…………まるで、あの夏至祭の階段が現れた時みたいだ)
けれども、こんな風に冷え冷えとした表情を浮かべると、この魔物程に恐ろしく美しいものはいないだろう。
ネアは、自分の存在がディノを緩ませてしまった事で失われたものもあるのだなと、こんな時なのに考えてしまった。
美貌というのは一種の隔絶で、こんなにも美しいものは、充分に恐ろしくあってもいいのだろう。
だが、それはきっと、この魔物自身にとってはとても悲しい事に違いない。
「………先程の理想郷が祝福として触れた事で、心の中で何らかの枷を外してしまった者がいたようだ。その者が儀式の場で事件が起こし、今はノアベルト達が対処している」
「……………私の家族は、無事でしょうか?」
「うん。…………怪我をした者はいるけれど、何かを奪われたり、長らく損なうような事にはなっていないよ。問題を起こしたのは、年老いた魔術師のようだね。……………焦がれるというのも、一種の災いになる時がある」
家族が怪我をしたと聞いて震え上がったネアだったが、願いが災いになることへの理解はあるつもりだ。
ずっと昔に哀れな少女の愚かな願いが一人の人間や、その人間を支えた者達を滅ぼしたことを良く知っているし、焦がれるに留めておくしかない願いは、大抵が厄介なものばかりである。
けれども、だからこそそんなものを、大事な家族の側で動かされては堪らない。
ネアは、自分の大事な人達の為であれば、見ず知らずの誰かに容易く諦めろと言える人間であった。
自分がその苦しみや渇望を理解出来るからと言って、その誰かとネアは、所詮他人なのだ。
(……………私の家族が、怪我をした)
その怪我はどのようなものだろう。
ノアやヒルドの負傷であれば、その場で治せただろうか。
ネアは家族の事を尋ねたので、ディノの返答はあの三人の誰かの状態を指すのだろう。
肉体的には一番危ういに違いないエーダリアでなければいいと思ったが、よく考えれば、スープの魔術師は、エーダリアにも不思議効能のスープを振舞ってくれている。
きっと大丈夫だと自分に言い聞かせ、ふうっと息を吐いて心を落ち着かせた。
「アルテアさんは、…………そちらの手助けに行ってくれたのですね」
「ネア、…………リドワーンを呼ぶ権利を、借りてもいいかい?」
(………え?)
心を落ち着けて会話に戻ったのは、こんな報せを聞いてもなお、ネアがすっかり油断していたからだろう。
このまま冷静さを取り戻してディノと会話を続けている内に、きっと、大事な家族は少し怪我をしていてもいつもと同じように戻ってきてくれる。
そんな風に思っていた。
そしてなぜか、より危うい災いや障りに触れるのであれば、それは自分だというおかしな自信があった。
ネアのいないところで、ネアの見ていない内に起こる事件など、ないとさえ考えていたのだ。
「……………もしかして、外で起きている事件は、そこまで厄介な事になっているのですか?!」
「現れたものと、土地の魔術との相性が悪いと言えばいいのかな。より大きな災厄の呼び水とならないように、少しでも早く排除してしまおう」
「………はい。私は、何をすればいいでしょう?」
質問も不安も沢山あったけれど、時間がないのだと言われたネアは、すぐさまその全てを呑み込んだ。
聞くことも理解することも、後から、いくらでも出来る事だ。
大事な家族が危機に瀕しているこんな場面では、今しか出来ない事を優先するべきである。
ネアを抱えたまま立ち上がったディノが、部屋の中をゆっくりと歩いてゆく。
きらきらと目元に落ちる真珠色の髪や睫毛の影に、澄明な水紺色の瞳が人ならざるものらしい輝きを宿す。
ああ、ディノも怒っているのだと思えば、そんな風に家族を思ってくれる魔物が一緒にいるのだという頼もしさがある。
(多分、あの理想郷を見て、心の中に隠し持っていた感情を揺さぶられた魔術師さんが、この土地と相性の悪い何かを呼び出してしまったのだろう………)
冷静になる為に、聞かされた内容を頭の中で整理すると、なぜか、蝕の時に現れた巨大な怪物を思い出してしまった。
あのようなものだとしたら、どうやって排除するべきなのか。
夏至祭の日にダナエがいる筈もなく、頼もしいほこりも、今日は統括地にいる。
「この鏡でいいだろう。私が魔術の場を繋ぎ、グレアムを介してリドワーンを呼び出して貰うから、彼に助力を頼んでくれるかい?どのような気質であれ、彼が自分を呼ぶことを許したのは君だ。君の言葉が必要になる」
「はい。では、私からリドワーンさんにお願いしてみますね」
もしかすると、リドワーンに、何かあったら呼んで欲しいと言われたのは、まかさこの瞬間の為だったのだろうか。
(ウィームの街並みは、王都の守りの為に円環になっているのだという)
鏡の上に飾られたリースは、祝祭には欠かせない魔術道具でもある。
ウィームでは、魔術が編み上げられ、循環してゆくことで結ばれる、土地の祝福そのものを示すものだ。
そして、魔術の中で封印や扉でもあり、使い方や見る角度によって様々な意味を宿している。
(霧の魔術があって、迷い鯨の事件があって、夏至祭の階段があって…………)
どれか一つが欠けても、今はない。
こうなると、運命の天秤のどちらが主なのかはさておき、リドワーンが夏至生まれだと明かしてくれたこともまた、今日の夏至祭の事件に繋がる一本の導線だったのかもしれなかった。
(まるで、様々なものが編み上げられて、一つのリースになるように)
そんな感慨の中で床に下ろして貰って夏至祭のリースの飾られた鏡の前に立てば、ディノが、詠唱をするどころか何の前触れもなく鏡に触れるだけでいいという、高位の魔物あるあるな簡単さで、鏡を連絡版にしてくれる。
本来は、互いの姿を映し合う魔術なのだそうだ。
とは言え、リーエンベルクの守護が分厚いので、未申請でそこまでのことは出来ないらしく、その代わりに、ディノが指先を動かすと、鏡の上にきらきら光る文字がどんどん書き連ねられていった。
「……………よ、読めません」
「うん。これは、幾つかの言語を組み合わせた、…………魔術の上での暗号のようなものだからね。鏡は扉にもなるから今はここを使うけれど、夏至祭の日は境界が揺らぐから、途中で言葉が持ち去られないよう、用心しているんだ。グレアムにリドワーンを呼び出して貰うから、少しだけ待っておいで」
「ふぁ。……………少しだけ、サンクレイドルブルクのディノを思い出しました……………」
ネアは、言外に伴侶が恰好いいと褒めたつもりだったのだが、ディノはなぜかびゃんとなってしまい、慌ててご主人様を腕の中に収めたようだ。
なぜだろうとネアが首を傾げていると、目の前の鏡がふつりと揺れる。
「リドワーンに繋いで貰ったよ。話しかけられるかい?」
「は、はい!……………リドワーンさん、聞こえますか?」
文字が読み解けなかったので状況を把握出来ていなかったが、早くもリドワーンに繋げて貰えたようだ。
唐突に合図を貰ったネアは、慌てて鏡の向こうに呼びかける。
「勿論でございます。ごしゅ………もが?!…………ネア様」
「すまないな。ネア。こちらで魔術の繋ぎが乱れたようだ。そのまま続けてくれ」
すぐさま応えてくれたリドワーンとの会話に割って入ったのはグレアムなので、どうやら、そちらとも繋がっているようだ。
二人は一緒の場所にいるのだろうかと考えたが、それにしてはなぜか、グレアムの言葉が聞こえる時だけに聞こえる風の音のようなものがある。
「明らかに不自然な途切れ方でしたが、今は、急ぎ要件をお伝えしますね。………リドワーンさん、リーエンベルク前広場の花輪の塔の会場に、何か良くないものが現れれしまったようなのです。もし良ければ、お力を貸して貰えないでしょうか?」
「すぐに参りましょう」
「現れた物についての説明は、ディノから……」
「ネア、すまない。もう飛び出していってしまったみたいだな。こちら側の通信も切れている」
「ほわ……………」
説明も聞かずに飛び出していってしまったらしいリドワーンに、ネアは目を瞬いた。
となると、前情報なくいきなり得体のしれないものが現れている事件現場に飛び込むことになるが、果たしてそれで大丈夫だろうか。
ディノの提案に快諾はしたものの、そこでは、ネアの頼もしい家族ですら負傷しているのだ。
アルテアも加わっているのにそれでも尚、ディノがリドワーンも必要だと感じた現場である。
(……………落ち着こう)
そう考えた途端に、心の端がちりりと焦げ付くような感じがした。
この場に留まるのではなく、外に飛び出していって、ネアの大事な人達を傷付けたものをくしゃぼろにしてしまいたい。
そんな衝動をやり過ごすべく、ぎゅっと目を閉じる。
はらはらと、どこか遠いところで白い花びらが降っていた。
それは昨晩の夢の入り口で思い描いた花びらとは違う色で、ぼうっと光るように舞い落ちるのは、暗い森の中であった。
静かな湖が広がっていて、そちら側を覗き込めば、誰かが微笑んだような気がした。
「あの竜は、転移は踏めた筈だね」
「ええ。すぐにそちらに着くでしょう。すみません、俺がウィームに居られれば良かったのですが………。今年は、イーザとヨシュアも統括地を離れられませんが、ミカとグラフィーツは動ける筈です。…………っ。今度は殺し合いを始めたのか。……………シルハーンすみません、内乱が始まったので少し外しますが、また何かがあれば連絡下さい」
「カルウィの夏至祭は、ウィームより遥かに乱雑だろう。有難う、グレアム。そちらへの連絡の取り方は、ノアベルトとアルテアしか知らなかったのだけれど、この後は大丈夫だと思うよ」
「こちらが落ち着きましたら、すぐに、あなたの専用魔術回線を作りましょう」
二人の魔物の話を聞いている限り、どうやら、グレアムを中心としたウィームお友達ネットワークのようなものがあるらしい。
なぜノアとアルテアだけがその連絡を先を知っているのかは謎めいているが、ミカやグラフィーツも登録済のもののようなので、いざという時に頼れる人達への連絡先を押えておけるのはとても有難い。
鏡の通信はそれきり途切れてしまい、ネアは、この後は何をすればいいのだろうときりりとしたが、ディノ曰く、後はもう、家族がこちらに戻るのを待つばかりでいいらしい。
(でも、……………ディノの表情が、ずっと和らがないのだ)
ネアの自室からは、リーエンベルク前広場は見えない。
何が起きているのかを把握出来る場所に行きたくて魔物の腕を引っ張ったが、ディノはなぜか、困ったように微笑んで首を横に振った。
「……………縁を持ち、知るという事で結ばない方がいいものだ。もう少しだけこちらで我慢してくれるかい?」
「……………私が、悪いものを踏み滅ぼしに行かなくても、歌を歌ったり、きりんさんボールを投げこまなくても、みんな帰ってきますか?」
「……………うん。…………後半の二つは、ノアベルトとアルテアも弱ってしまうから、やめておこうか」
「むぐる……………。リドワーンさんは、大丈夫でしょうか。咄嗟にお願いしてしまいましたが、……………恐らく、とても危険な状態でもあるのですよね?」
少しの罪悪感を覚え、そう聞いてみたネアに、ディノがふわりと微笑みを深める。
すりりと寄せられた頬に顔を寄せ、ネアは、大事な魔物の体温にぴったりとくっついた。
「最も危うい状態は、ノアベルト達が鎮めてある。アルテアは魔術洗浄や、土地の安定にも長けているので、そちらの作業を引き受けているだろう。夏至祭に呼ばれた怪物は、既に弱っている筈だ。……………けれども、憂いなく祓っておく為には、夏至祭の祝福を持つ者が一番だからね」
「となると、リドワーンさんは、戦力というよりは、作業に対し、相応しい役割を持つ方なのですね……………」
「うん。同じ資質の上位の祝福を持つリドワーンの手で壊しておけば、祝祭そのものの怨嗟や障りは残らないだろう。その場での支援は、ノアベルトとアルテアが行ってくれる筈だ」
その言葉にこくりと頷き、ネアは、未だにざわざわする胸をそっと押さえた。
(………こわい)
見えないという事がこんなに恐ろしいとは思わなかったが、ここでネアが身勝手に振舞えば、余計に事態を悪化させてしまいかねない。
どれだけ狩りに自信があっても、いつもは鷹揚なディノが窓にすら近付いてくれないだけの理由がある筈なのだ。
「終わったね。ネア、外客棟に向かうよ。傷薬は持っているかい?」
ややあって、ディノが待ち侘びていた言葉をくれた。
けれどもそこに続く内容は、ネアの想定外のものである。
「……………魔術による直接の治癒では、難しい怪我なのですか?」
「ノアベルトによると、薬というものの認識魔術の効果も重ねておいた方が良いそうだ。君の加算の銀器を使えば、薬液に付随する対価の分量が格段に上がる。通常の精製では決して付与出来ない効果だから、今回の治療には得難いものだろう」
「はい!」
(ずっと何も出来なかったけれど、せめて治療の役に立てるのだと思おう)
しかし、なぜか外客棟の広間に連れて来られたネアは、魔物の薬があればという甘えた考えを、もう一度大きく揺さぶられることになった。
どうして、体を休めながら会話をするのに適した客間ではないのだろうと怪訝に思いながら広間に入り、目の前のものを見た瞬間、ひゅっと短く息を呑む。
「……………エーダリア様?」
床には真っ白な布が広げられていて、そこに横たわっているのは、ぐったりとした様子のエーダリアではないか。
ネアは、込み上げてきた恐怖と怒りにわぁっと声を上げたくなったが、側にいる家族の疲弊しきった様子を見た途端に、そんな愚かなことをしている余裕などないのだと理解した。
ネアの大事な家族は、一人として無傷の者がいなかったのだ。
「……………傷薬と、加算の銀器を用意してあります」
囁くような声になってしまったその言葉に、こちらを見て微笑んだのはノアだった。
「うん。助かるよ。……………それと、エーダリアは大丈夫だからね。あの障りと目が合いそうになったから、僕が強制的に意識を奪ったんだ。そのせいで怪我をさせちゃったけど、あのまま目を覗き込まれていたら、……………一時的にとは言え、正気を失っていたかもしれない」
床に敷いた布の上に寝かせたエーダリアの横に座り込んでいるノアが、そう教えてくれる。
擬態もしていない塩の魔物のままのノアが、大きな傷を負っているのをネアは初めて見た。
首筋に残る大きな傷は、見慣れるようなものではないが、恐らく、爪痕だろう。
ネアは涙を堪えて何とか頷き、震える手で傷薬の瓶を開けようとして、そっと手を伸ばしたディノが代わりに瓶を開けてくれた。
意識のないエーダリアの額に片手を当て、ヒルドも床に膝を突いている。
美しい妖精の羽は、一枚がぼろぼろになっていて、左側の肩が赤く血に染まっていた。
(……………アルテアさんは)
慌てて視線を巡らせ、ネアは、奥でリドワーンと話をしているアルテアの方を見る。
そしてまた、小さく体を揺らした。
「……………っ」
「大丈夫かい?ゆっくり呼吸をして御覧。ネア。もう、君の大事なものを傷付けたものは退けられているからね。後はもう、損傷を直してゆこう」
「……………ふぁい。……………えぐ」
何事もないかのようにリドワーンと話をしているので気付くのが遅れてしまったが、窓辺に立っているアルテアの顔の半分には、酷い出血の痕があった。
大きな傷があるというよりも、頭部に負った傷からの出血が多いのだろう。
スプーンに傷薬をたらしながら、この世界では血を一滴落としても大騒ぎなのに、なぜ誰も怪我を治していないのかと震えていると、そんな疑問に気付いたらしいディノが説明してくれる。
「今は、エーダリアの治療が優先されているんだ。今回現れたものは、暦や記録のような事象を司る生き物だったようで、そのようなものから受けた障りは、受けた順番に治癒をしていかないと、状態が戻されてしまう事がある」
「うん。シルの言う通りだよ。僕達も傷を治そうとしたんだけど、規則性があるみたいでね。エーダリアの外傷については殆どが治癒済だけど、完全に傷を閉じて体の中に障りが残るといけないからって、まだ少しだけ擦り傷を残してあったのが裏目に出たらしい」
「ふぁい。……………えぐ、スプーンさん、一億倍です」
「……………わーお。それなら間違いなく、エーダリアすぐに元気になるね。ただし、死ぬほど不味いってアルテアが言ってたけど」
「まぁ。……………エーダリア様なのに、そのお薬は飲ませてしまうのです?」
「ありゃ。もしかして、飲用じゃないことは平時から知ってた感じ?」
そう言われてみれば、ネアはなぜいつも、アルテアに傷薬を飲ませてしまうのだろう。
確かにこれは塗り薬で、傷口にかけはしても、飲むようなものではない。
ネアが首を傾げていると、ディノがその理由を推測してくれた。
「この子の中の予兆を汲み取る何かが、都度、その選択肢を選んでいるのだろう。現に、飲ませた方が効果は格段に高くなるようだ」
「うん。そっか。それならいっそうに安心だね。……………ヒルド、頭を少し持ち上げてくれるかい?」
「……………ええ」
ヒルドは殆ど喋らなかったが、ネアと目が合うと少しだけ微笑み、安心させるように頷いてくれる。
けれども無理をしているのは間違いないので、ネアは、あまりにも怖くて悲しくて息が止まりそうになってしまう自分を叱咤しつつ、指先が震えないようにした。
液体を注いでいるので不安定ながらも、銀色のスプーンが直接受け渡され、力なく横たわっている事で僅かに開いたエーダリアの唇の隙間から、ヒルドが、そっと薬液を注ぎ込む。
その直後、意識を失っていた筈のエーダリアが飛び起きた。
「……………っ?!……………な、……………っ、何なのだこれは?!」
げふげふと咽ながら涙目で喉を押さえると、そのまま体を折り曲げて蹲ってしまったエーダリアを、慌ててノアとヒルドが診察していたが、どうやら、あまりの不味さに動けなくなっただけらしかった。
ネアは、ぐったりとしていたエーダリアが、いきなり飛び起きて沢山動き始めた様子に目を丸くしてしまい、手に持ったままの傷薬をまじまじと見つめる。
「ほわ………」
「効いたようだね」
くしゃりと嬉しそうに笑ったノアがどこからか水の入ったグラスを取り寄せ、エーダリアに渡している。
エーダリアが目を覚ましたからか、頷き合ったノアとヒルドは、すぐさま、体に残って痛々しい傷を消し去ってしまった。
慌てて窓辺の方を見れば、こちらの様子を確認したアルテアも傷を治しているようだ。
「シル、どうかな?」
「うん。もう何も残っていないね。傷も全て治癒されているようだ。念の為に、この後は薬湯を飲んで、付与されている魔術の確認だけは行っておいた方がいいだろう。障りの形を取らせて付与してあった祝福などが、一緒に削ぎ落されてしまっているかもしれないないからね」
「うん。そうするよ。……………はぁ。これで一安心だ」
「……………ヒルド?……………ノアベルト?」
「あの女が、あなたの顔を覗き込もうとした瞬間に、ネイが、意識を落としてくれたんです。そこ迄は覚えていますか?」
「………っ、……………ああ。…………ああ。そうか、それであの怪物は、誰かが排除してくれたのだな」
何が起きて、この広間にいるのか分からなかったのだろう。
ヒルドの説明を聞き、エーダリアが力なく頷く。
恥じ入るように目元を染めたが、どこか安堵したような表情を見て、ヒルドがやっといつものような微笑みに戻った。
「……………良かったです」
「うん。怖かったね。君が加算の銀器を持っていて良かった。先程のような傷の付与魔術は、細かな魔術証跡を読んで払い落としてゆくよりも、質量で洗い流してしまう方がいいのだろう」
「そういうこと。シルの作った特別な傷薬を、僕の妹は一億倍にしたもんね」
「……………そうか、……………それで、あの味だったのだな」
「処置が終わりましたので、部屋を移りましょうか。リーエンベルクに、冬の間があって幸いでした」
「まぁ。それで、この広間だったのですね………?」
「ええ。夏至祭の対極となる空間を確保出来たお陰で、もし、何らかの浸食魔術があっても抑え込めていたようです。……………ネア様、驚かせてしまいましたね」
「………ふにゅ。皆さんが無事で、本当に良かったです………」
まだ、痺れるような怖さが胸の奥に残っている。
滑らかにならない言葉に苦労しながらそう答えていると、奥で話し合いをしていたアルテアとリドワーンもこちらに来たようだ。
「…………アルテアさんも、怪我をしてしまったのです?」
「受け流せる者が、受けるしかない状況だったからな。……………ったく。この程度で何かを損なう訳もないだろうが」
「はい。……………リドワーンさん、有難うございました」
「いえ。あれは、…………障りなく滅ぼすには、俺でなければ難しかった相手でした。そんな俺がここに呼ばれたのも、どこかや何かで、因果の成就が動いたものか、或いは、ウィームそのものの都市機能が作用したのだろうと、アルテアと話していたところです」
このようなときに土地を守れるよう作られた構造や、夏至祭の花輪の塔などの祝祭儀式が、取り返しのつかない悲劇にならないように機能したのだと聞き、ネアは、今日までに重ねてきた祝祭の準備に感謝した。
(そうか。私もその歯車の一つになって、その場所にリドワーンさんを招き入れる事が出来たのかもしれない)
だからディノは、すぐにリドワーンの力を借りるようにと言ってくれたのだろうか。
張り詰めすぎて僅かな痛みを残す胸に、ふうっと息を吸いこみ、もう一度、ここに大事な家族が揃っている事を確認する。
ふと、視線を下げたその足元には、はらはらと白い花びらが舞い落ちる湖面が見えたような気がした。