234. いつもと違う夏至祭です(本編)
真夜中を過ぎると、途端に窓の向こうが明るくなった。
ぐるると唸り声を上げたネアは、カーテンの隙間から漏れる夜の光に眉を寄せる。
夕暮れ頃から夏至祭を控えての宴がそこかしこで行われていたが、日付が変わり、夏至祭となった事でさらに羽目を外し始めたらしい。
しかし乙女は就寝の時間なのである。
こんな風に賑やかにやられるばかりか、森を明るくするのは反則ではないか。
怒りのあまり、じっとりとした目でカーテンの隙間を睨んでしまう。
「……………むぐるる」
「夏至祭の夜が開いたばかりの時間に、妖精達の宴を見るのはやめておいた方がいい。今夜はゆっくりとお休み。外に出なければ、危ういものはない時間だからね」
「むぐ。そうなのですか?」
「うん。夏至祭の扉が開くと、まずは多くの者達が宴を始める。特に今年は、霧の魔術で均してはいても、深い層のあわいからも様々なものたちが出てくる筈だから、そのような者達が自分の居場所を掴み楽しみ始める迄には時間がかかるんだ。今夜はまだ、こちら側に手を出す余裕はないだろう」
「ふむ。皆さんが会場に着き、出来上がった頃が一番宜しくないのですね?」
「そうだね。酒を飲み、落ち着いてから狩りに出るものもいるだろう。けれども、夏至祭にも祝祭としての作法がある。今はまだ、近くに見えても線引きの向こう側に彼等がいる時間だよ」
(ああ、だからなのだわ……………)
この夜、ウィームでは再び、外出禁止令が出ている。
これは先日の復活祭の発令より一段階階層を上げたもので、特定の基準を満たしていない者以外は、基本的に外出そのものを禁じるという拘束力のあるものだ。
ウィームでは勿論、そんな禁止命令が守られているかどうかを確かめる為の人員を外に出すという、本末転倒なことは行われず、騎士達のこともしっかり庇護対象に入れているウィーム領主は、街の騎士達やリーエンベルクの騎士達の見回りも最小限に留めさせている。
その代わりに、ウィームに古くから暮らす良い関係を築けている隣人たちに、夏至祭の酒や菓子、果物や綺麗なリボンなどをどどんと振舞い、もし何か厄介な事が起こりそうであれば、各所に設けた窓口に一報を入れて欲しいと頼んであるのだ。
振舞われるものは全て、魔術の儀式の上で供物にもなる品々であるらしい。
用意されたものに大喜びで飛び付いていた者達は、得たものに相応しいだけの魔術の約定が課せられるのだった。
(だから今夜は、騎士さん達も、そんな隣人からの通報がなければ外に出ずに済むのだ…………)
とは言え、夏至祭の影響をあまり受けないグラスト達や、妖精の血を引くエドモンに、災いの天秤持ちのロジなど、出歩いても自分の身を守れると判断された者達は、例外的に見回りを許されている。
アレクシスのスープ屋や、ジッタのパン屋など、こんな夜だからこそ遅くまで開いている店もあり、その一方で、リノアールやザハのように、境界の向こう側のお客を警戒して今年は早めに閉められる店もあるという。
これはもう、得体の知れないものが訪れた際に、商品管理や追い出しの対処が出来るかどうかという一言に尽きるのだが、パンと引き換えに妖精のレシピも集めているジッタや、訪れた妖精商人の持ち込む食材を楽しみにしていたり、場合によってはお客を狩ってしまうアレクシスなど、夏至祭の第一夜を精力的に楽しむ者達もいるようだ。
反対に、早めに店を閉じてしまうザハなどは、個人商店とは排他魔術の扱いが変わってくるので、うっかり妖精に入り込まれてしまうと、発見して追い出すのが難しくなる。
ホテルとしての営業もあるので、妖精の隠れ家になりそうな場所や条件が多いというのが、危うい部分なのだろう。
(……………あ)
どこか遠くで、音楽が聞こえた。
輪になって踊るような楽し気な旋律ではあるが、夏至祭の音楽らしいそら恐ろしい響きがどこかにある。
一般的に夏至祭の夜と呼ばれる時間はこの第一夜ではなく、次の夕暮れ以降からなので、今はまだハツ爺さんはダンスバトルには繰り出していないのだろうか。
目を閉じると、ばらばらと瞼の裏の暗闇で花びらが舞った。
何かの予兆や標でもないこの花びらは、聞こえてくる音楽が頭の中で組み立ててゆく、記憶の中の映像を繋ぎ合わせた挿絵のようなものだ。
深い森の煌めきや、春告げで見るような薄物を纏った美しい乙女達。
眠りの入り口に立つと、窓の向こうの夏至祭の気配のせいで、そんな取り留めもない物語がはらはらと零れてゆく。
(夏至祭にだけ売りに出される薬や、不思議な移動図書館もあるのだそうだ。でも、行かずに済むのであれば近付かない方がいい場所ばかりみたいだから、私が出掛けて行くことはないままで済むといいな………)
夏至の祝祭だけの愉快な場所も、あるにはあるらしい。
だが、妖精の領域はやはり浸食などの懸念がある為に、わざわざ出かけてゆく危険を冒す必要もないと言われているし、ネアもそのつもりであった。
そこで得られる楽しみの為に失うものは、持ち帰る土産よりもはるかに大きいかもしれないのだ。
ネアは、窓の向こう側の明るさに気付くまでぼんやりと見ていた美味しいおやつの夢に戻ろうとじたばたしていたが、一度感じてしまった夏至祭の気配がそれを許してくれない。
「……………ディノ?」
「ここにいるよ。………怖い夢を見そうかい?」
「……………むぐ。蜂蜜バターパンケーキを食べる夢を取り戻そうとしたのですが、夏至祭感に邪魔されました……………」
「ご主人様………」
何とか頭の中で美味しいパンケーキを思い描き、やっと素敵な夢を取り戻せそうになったところで、妖精の軟膏の瓶は何色だっただろうかというどうでもいい疑問に引き摺られてしまった哀れな人間は、一度、脳内の情報を整理する為に目を開いた。
その際にディノの姿が定位置になかったので心配になってしまったが、窓辺に立って外を見ていたようだ。
すぐ戻って来てくれたディノが額に口付けを落としてくれ、ネアは、家族がいるという贅沢さにむふんと頬を緩める。
だが、おやっと思い目を瞬くと、こちらを見下ろしている魔物の瞳が、いつもよりも鮮やかに見えるような気がして、密かにどぎまぎしてしまった。
「…………今年の夏至祭は、魔物さんにも何か影響を与えるのですか?」
「おや、試してみるかい?」
「……………にゃむ」
失言だったと気付いた時には、伴侶の腕の中にいた。
とても身勝手な人間は、明日の起床時間から逆算して、どうしても譲れない睡眠時間を割り込みそうなことに気付いて眠ったふりをしようとしたが、残念ながら、こんな時に魔物程に巧みな生き物もいないだろう。
か弱い乙女は、何もかもが夏至祭のせいに違いないと考えながら、大いに睡眠時間を削られる事となった。
「え。……………僕の妹は、何で朝から祟りもの風なの?」
「ぐるるる………」
「おい、まさかとは思うが第一夜の段階で、もう事故っていないだろうな?」
今年は、夏至祭の朝食の席に、アルテアが同席している。
王都でも夏至祭の儀式や行事があるが、あちらはどちらかと言えば、影響が出やすい代わりに相性もいい土地なので、今年はこのままウィームに留まってくれるのだそうだ。
淡い灰色がかったスリーピースは、夏至祭らしい色使いのハンカチを胸元に覗かせ、やはりこんな日もお洒落な魔物である。
ハンカチは、細やかな花々の刺繍があるものだが、青みの緑が基調になっているので爽やかな印象であった。
「森で妖精めがぴかぴかしているせいで、大事な睡眠時間が削られました。今度やられたら、森に、手持ちのきりんボールを全部投げ込みます……………」
「やめろ…………」
「わーお。大量虐殺になるぞ………」
そんなやり取りをしていると、ネアはふと、エーダリアの顔色が冴えない事に気付いた。
何かあったのだろうかと眉を寄せると、気付いたヒルドが、苦笑して短く首を振ってくれる。
本来なら、今日がお誕生日会でも良かった筈のヒルドだが、今年も、夏至祭の前後での仮のお祝いは避けられている。
簡単なご馳走や、家族の酒席など幾らでもやりようはあるのだが、復活祭から漂流物周りの反応が現れ始めたので、夏至祭にあまり深く結ぶのは避ける事になったのだ。
誕生日はとても素敵な日だが、お祝いという言葉で括られた訪問を受け入れなければいけなくもなる。
招き入れたくないものがいる日には、門を閉ざしておく方が安心なのだ。
「……………ネア?」
「エーダリア様、何かありましたか?」
こちらに気付き顔を上げたエーダリアが、オリーブ色がかって見える瞳を揺らした。
ここは濁さずに直球で聞いてしまう派のネアがそう尋ねると、困ったように悲しげに微笑み、今朝方、ウィーム中央で一人の少女が妖精の国に攫われてしまったのだと教えてくれる。
「夏至祭の日は、早朝もかなり土地の魔術が揺らぐからね。その女の子はさ、家族に気付かれないように行う夏至祭の朝だけの魔術をやろうとしたみたいなんだよね。そのせいで、どこかに引っ張られたらしいね」
そう教えてくれたのはノアで、少女が行おうとしたのは、将来の伴侶の顔を見る為の魔術なのだという。
連れ去られたと思われる現場には、少女の靴と、儀式に使う菫の花びらやローズマリーの葉が落ちていたらしい。
「という事は、そのお嬢さんは、恋をしていたのです?」
ネアは、もしかするとその相手がエーダリアだったのだろうかと心配したのだが、少しだけ躊躇い、個人の事情もあるのだがと、事の経緯を教えてくれたエーダリアによると、その少女が恋をしていたのはリーエンベルクの騎士の一人だったらしい。
お相手は席次のないまだ若い騎士で、少女とは幼馴染であった。
憧れだったリーエンベルクの騎士に選ばれ、それ以降は仕事に夢中であった青年は、何度も遊びに行こうと手紙をくれた幼馴染の少女の誘いを、昨年から断り続けていたようだ。
休日も土地の魔術の勉強をしたりと、意欲ある、生真面目な青年であったらしい。
「数日前に久し振りに再会し、その少女から恋人になって欲しいと言われたそうだ。だが、彼女との間に育んでいた愛情が、そのような愛情ではなかったこともあり、断ってしまったらしい。…………その時にもっと時間をかけて話をしていればと、すっかり参ってしまってな」
「気持ちを添わせることが出来なかったのは、その方のせいである筈がないのです。それでも、大切な幼馴染さんを失わずに済んだかもしれないという後悔は、せずにはいられないのでしょうね…………」
「ああ。…………夏至祭の日は、心の隙間を狙った誘惑も多い。朝の内に、ウィーム中央に住む家族の家に戻してきたが、どうにか今日を無事に乗り切ってくるといいのだが」
ネアは、青年が実家に戻されてしまったことが意外であったが、夏至祭の日のリーエンベルクの騎士達は忙しい。
リーエンベルクの敷地内だけでも、水辺には篝火を焚き、定期的に妖精除けの香木を投げ込まねばならないし、扉や窓の管理だけではなく、足元の草地の円環や、土の上に描かれた術式など、様々な注意を払わなければいけないのだ。
そのような任務の中で、注意力を欠く者を置いておく訳にはいかない。
冷酷なようだが、それは彼自身の為でもあった。
「こちらで、様子を見ている余裕もありませんからね。目を離した隙に妖精に連れ去られたり、何かを持ち去られることもありますので、離れずに寄り添う家族に託すのが一番なんですよ」
「こんな時ってさ、どれだけそんな幸運は滅多にないって理解していても、それでもって思うものなんだよね。妖精の囁きや音楽に、その向こうで誰かを取り戻せるかもしれないって思ったら最後、あっという間に餌食になるのが夏至祭だからさ」
ノアのそんな言葉を聞けば、ネアは、かつての自分がどれだけ幸福なのかを考えずにはいられなかった。
夏至祭の夜に一人ぼっちで森に出掛けていったネアハーレイは、こちら側の世界にいたら、ずっと探していた物語の魔法の幸運を得る迄もなく、悪い妖精に連れ去られてしまっていたかもしれない。
気紛れな悪戯や求婚目的ならまだいいが、場合によっては食材や素材扱いなので、そんなことになったら大惨事である。
「……………エーダリア様は、大丈夫なのですか?」
「ネア?」
「その騎士さんの事がご心配なのかもしれませんが、エーダリア様自身も、足元や周囲には気を付けて下さいね。もし、悪いものが出たら私も滅ぼしに行くので、すぐに呼んで下さい!」
「…………いや、私はこれでも、ガレンの長なのだからな?」
今日はこの家族も守らねばならないと鋭い目をしたネアに、エーダリアは慌てたように、自分の身は少なくともネアよりは守れるのだと主張してくる。
然し乍ら、可動域は上品めとはいえ妖精の王族でも踏み滅ぼせる自信があるし、いざとなった際には、多少心が死んでも歌って全てを滅ぼせばいいのだ。
「わーお。それってお兄ちゃんもいなくなるからね………?」
「む。家族やちびふわには、目隠しをしていて貰うのですよ」
「ありゃ。アルテアの把握の仕方が、ちびふわ基準なんだけど…………」
「やめろ…………」
ここで、騎士棟にいるグラスト達と会ってきてたディノが会食堂に戻り、ネアはほっとしてしまった。
この魔物に何かがあるという事もないだろうが、思いがけない部分で儚さも持ち合わせる生き物なのだ。
やはり、目が届くところにいてくれた方が、色々な意味でほっとする。
「ディノ、騎士さん達とお話してくれて有難うございました」
「うん。あちらに現れたのは、古い時代の薔薇の木の魔物だったようだ。穏やかな性質のものだから、心配しなくていいよ」
「あ、そっちだったんだ。それなら、家族愛の方だから大丈夫そうだね」
「まぁ。家族愛の祝福をくれるのなであれば、ゼノにとっても素敵な魔物さんでしたね!」
実は朝の内に、見回りをしていたグラストとゼノーシュの前に不思議な生き物が現れていた。
花びらが連なるような独特な尻尾を持った薔薇色の小鳥で、グラストに祝福を落とすとあっという間に飛び去ってしまったらしい。
ゼノーシュにも悪い物ではないことは分かったのだが、見聞の魔物であっても初めて見る生き物だったので、ディノが祝福の質を確かめに行っていたのだ。
「古い、薔薇の木の魔物……………なのだな」
「穏やかな気質と祝福のせいでね、乱獲されて減っちゃったんだよね。あの頃はまだ、捕まえると祝福を失うって事は知られていなかったし、乱獲したのはゴーモントの連中だったからなぁ。珍しく大人しい夏至祭周りの生き物だったけれど、まだどこかには残っているんだね」
「祝福がとても健やかだったから、暮らしている場所の環境は良いのだろう。薔薇の木の魔物は、生育環境で祝福の質が変わり易い生き物だからね」
ネアは、薔薇色の小鳥というだけでも興味津々であったが、良い生き物だと知ると何だか嬉しくなってしまった。
今年の夏至祭は特に、危ういことがあるかもしれないという緊張感の中であったので、思いがけない素敵な訪れではないか。
古い時代の薔薇の木の魔物は、丁寧に手入れされた庭に現れ、そこに暮らす者達に家族愛の祝福を与えてくれる魔物であるらしい。
今よりも交通整備や国家間の約束が出来ておらず、家族が同じ敷地内に暮らしている事の多かった時代に生まれた魔物で、薔薇の木は、その時代の豊かな暮らしの象徴でもあったようだ。
(……………良かった。少し顔色が良くなったみたい)
珍しい魔物の生態を教えて貰い、エーダリアの表情には、いつものような微笑みが戻る。
幼馴染の少女を失ったという青年騎士は、どれだけ憔悴していたのだろう。
ごく稀に、周囲の者達の心も揺さぶってしまうような悲劇や嘆きがあるが、主人であるエーダリアまで落ち込んでしまうくらいなので、相当のものだったに違いない。
となれば恐らく、一緒に働いていた騎士達の中にも、動揺は残っているだろう。
(本来、リーエンベルクの騎士さんは、一人上手の方が多いのだけれど………)
それは、リーエンベルクの騎士になるにあたって必要な可動域が、一般的ではないことにも起因している。
リーエンベルクの記事に相応しい可動域を有する者達は、固有魔術や呪いなどを宿している事も少なくないので、必然的に、関わる者は減ってしまうし、のめり込むと寝食を忘れるような魔術師の側面も持つ騎士達の気質は、外周の人達と親密な関係を育み難いものであるからだ。
その結果、在籍している騎士の親しい者が失われるという事例は、そもそもあまり多くはないのだった。
「では、そろそろ祝祭の挨拶に出ないとだな。ネア、お前は屋内にいてくれ」
「はい。………エーダリア様、剣は持っていますか?」
「ああ。この通り、儀式用のケープで隠せるので、すぐに手に取れるように装備しておくつもりだ。一部の妖精達は、武器を嫌がる傾向がある。持っているだけでも備えになる」
「きりんさん札と、ボールと、激辛香辛料油も持っています?」
「あ、………ああ」
「べたべた玉も、すぐに取り出せるようにしておいて下さいね。開発を重ね、今はもう、悪い奴を即死させるだけの効力を有しているのです」
「……………そうだな」
家族が心配でならないネアは、ついつい装備確認を行ってしまう。
ヒルドもノアも一緒なのでと思いはするが、それでも何かがあってからでは遅いのだ。
騎士達に残る影響も踏まえ、エーダリア自身にもしっかりと備えをしておいて欲しかった。
「わーお。下手したら、僕も死んじゃうかもしれない装備ばっかりだぞ…………」
「ネア様、いざとなれば私がおりますので、ご安心下さい」
「ふぁい。…………ノア、エーダリア様とヒルドさんをお願いしますね。でも、ノアにも何かがあったら困るので、困った事が起こったら、私の事も呼んで構いませんからね?」
「うん。でも、僕の大事な妹にはこの中に居て欲しいかな。まずは、最初のダンスで夏至祭の祝福を安定させないとね」
青紫色の瞳を細め、ノアは、そう言ってネアの頭を撫でてくれる。
これから行われる夏至祭のダンスでは、どうしても犠牲者をなくすという事は難しい。
犠牲者が出ない事が前提ととされる他の祝祭儀式と違い、花輪の塔のダンスを行う夏至祭だけは、最初から犠牲が出る事が決まっているに等しいものなのだ。
「では、その場合はリドワーンさんを呼びますね!」
「リドワーンなんて…………」
「夏至祭の生まれの方ですし、いざとなれば…………撫でるだけで報酬の支払いになりそうな、とても庶民的な使用料の竜さんです!」
「リドワーンが…………」
「むむ?ディノはなぜ、しょんぼりしてしまったのですか?」
ネアは抵抗なく表現してしまったが、魔物達には、竜の使用料という言葉は刺激が強かったようだ。
なぜだかふるふるしている魔物達に首を傾げ、ネアは、今日の予定を頭の中でおさらいする。
(今年の夏至祭は、私は出来るだけリーエンベルクから出ないように)
何かとそのような事が多いが、腕に自信はあってもネアの足元は盤石ではない。
ましてや今回は、境界を曖昧にしてくる夏至祭で、ここではないどこかから何かがやって来る漂流物の年でもある。
本当に賢い人間は、問題に遭遇しない力にこそ長けているものだというのはダリルの言葉だが、事なかれ主義のネアも同じ意見であった。
(だから、ただでさえ普通の人達よりもそのようなものを呼び寄せ易い私は、出来るだけ問題を増やさないようにしなくては………)
加えて、夏至祭の階段の出現のこともある。
あの時に、ノアがヒルドに言わせてくれた言葉が魔術として結ばれ、今年のリーエンベルクは、既に、完成した夏至祭の輪としても認識されているようだ。
この輪の中に入れば災いを回避出来る可能性が高いので、騎士達にも、外で何かが起きた場合はすぐにリーエンベルクの敷地内に避難するようにと伝えてあるらしい。
外に向かうエーダリアたちを見送り、ネア達は部屋で待っていることになった。
こちらに残ってくれたアルテアも、出来るだけ離れないように、ネア達の仕事部屋で書類作業などを済ませておくと言う。
「ネア、後で広間でダンスを踊ろうか」
「ディノ?」
「君は、夏至祭のダンスを楽しみにしていただろう?今年は、広場でのダンスを見に行くことは出来ないから、この中の広間でダンスを踊ってみるかい?」
「はい!………リーエンベルクの中であれば、夏至祭の困ったことが起きずに済みそうですか?」
「うん。ノアベルトが敷いた魔術で、リーエンベルクは、無事に祝祭の円環に収まったようだ。夏至祭が始まる前に、その夏至祭の輪を完成させておけたのは、あの時の彼の機転のお陰だろう」
エイミンハーヌの霧の魔術と、今回の夏至祭の階段の出現と。
警戒を要する年ではあるが、その代わりに今のところはまだ、幸運が重なっている。
けれども、そのような事が続けば運命の天秤の片側が重くなるばかりなので、リーエンベルクでは、正午のダンスを終えた後に、使い込んだ陶器のお皿を割り、立派な刺繍の新品のハンカチを焼くのだそうだ。
どちらも勿体ないものだが、そうして祝福と災厄の天秤を揃えておかなければ、魔術の理が運命を調える為に災いを連れてきてしまうかもしれない。
生贄や供物を捧げる儀式の代わりに、大事に使ってきたお皿と新品の上等なハンカチが捧げられるのであった。
(それで、皆が無事にやり過ごせるのなら…………)
ネアがそう考えた時の事だ。
ざざんと、強い風が森の木々を揺らすような音がした。
はっと息を呑んだネアをすぐさまディノが持ち上げ、隣に立っていたアルテアの手には、いつの間にか杖がある。
何とも言えない不思議な音は、強い風の日に建物がぎしぎしと軋むような強さでリーエンベルクを揺さぶり、ざあっと吹き抜けてゆく。
(……………あ)
風など触れる筈のない建物の中で、ネアは、それでも、吹き抜けてゆく風の中に立っていた。
辺りは見事な青い麦畑で、吹き抜ける風には色とりどりの花びらが混じる。
枝葉を揺らす木々はよく見れば真っ赤な林檎が実っていて、雪を冠する山々の清涼さはどこか荒々しくもある。
柔らかそうな緑の牧草地の向こうには、美しい教会を有する瀟洒な街並みが見えた。
境界の鐘の音、焼き立てのパンの匂い。
それと、舞踏会の中を早足で抜けてゆくような、人々のお喋りの声にオーケストラの不似合いな音楽が切れ切れに聞こえてくる。
とびきり奇妙ではあるがどこか牧歌的な風景のその一枚裏側に、ぞっとするような断絶と理由のない恐ろしさがあるのはなぜだろう。
(何もかもが健やかで、美しくて害がないからこそ、何よりも恐ろしいもののような気がする)
その、全てが丁度いいくらいに揃った美しい景色は、ネアがディノの腕の中で息を殺していると、吹き抜ける風のように通り過ぎていった。
「……………もう大丈夫だよ。…………今のものは、祝祭の祝福魔術そのものの揺らぎが、大きな波のように打ち寄せてきたものだね。今の層の世界のものではないので、あわいの向こう側からやって来たのだろう」
「…………ふぁ!………見えたものの中には何も怖いものなどない筈なのに、震え上がりそうなくらいに怖く感じました」
ネアがそう言えば、波が抜けていった方をじっと見ていたディノが、水紺色の瞳を瞠って小さく微笑んだ。
「君は、……………あれを恐ろしく思ったのかい?」
「はい。全部が丁度いい素敵なもののようにも感じるのですが、何かが、……………とてつもなく狂っていて取り返しがつかないような気がしたのです」
狂人が描いた理想的な絵と言うのは、さすがに言い過ぎだろうか。
けれどもネアは、先程見えた美しい街並みに、うっかりとでも触れてしまいたくないという本能的な嫌悪感を覚え、そのせいで怖くて堪らなかったのだ。
「前の世界層の理想郷だからな。夏至祭には、理想上の都に結ぶという災いがある。ここではないどこかの風景として、境界の向こう側というだけではなく、よりにもよってあの風景を引き寄せたか」
「理想上の都、なのですね…………」
「ゴーモントの影絵やあわいも、そのようなものの一つとして残されているし、カルウィの方には、林檎畑のある小さな国の影絵が妖精の国として残されているそうだよ。ウィームではあまり聞かないような気がするけれど、言い伝えや信仰の向こう側に在る理想郷として、失われた集落や都市が現れ、そこに行くことが出来るという民間信仰があるんだ」
けれども、どれだけ美しく素晴らしいものとして語られても、それは既に滅びたものなのだ。
生きている者達が終焉の向こう側に憧れる事程に危うい事はなく、けれども、そんな危うさに気付かずに気軽に語り継がれてしまう美しい夢物語なので、手に負えない。
「この世界や今の暮らしに不満のある者程、理想郷は美しく居心地が良く思える。お前がそこの風景に嫌悪感を抱いたのなら、お前の今の暮らしがそれだけ満ち足りているということだろう」
「うむ。それは間違いありません!そして、…………うっかりあちら側に触れてしまうと、何か起こるのですか?」
ネアがそう尋ねると、ディノは困ったように淡く微笑み、そうだねと呟いた。
「そのような爪痕を残す現象は珍しくはないけれど、忽然と姿を消してしまう者がいたり、心の一部を持ち去られ、人形のようになってしまう者もいるだろう。……………先程のものはね、決して恩寵ではなかった筈なのに、人間達が夏至祭の祝福にしてしまったものだ。どれだけ守りを重ねても、受け入れられるものを退けることは難しい」
「おまけに、あの様子からすると、前の世界層では、正規の理想形とされていたような街だな。不揃いさや変化を厭うのがその時代の世界の特徴だから、理想的だが完成され過ぎている。……………重ねてかけられた良きものとしての認識が強いせいで、殆どの守護を無効化するぞ」
その不穏な言葉に、ネアはへにゃりと眉を下げた。
先程の波が運んだ理想郷の景色は、今後も既存の魔術を無効化するという訳ではなく、その瞬間だけ擦り抜けるというものだが、どんな守護の奥にあっても皆があの風景を見てしまったのは間違いないらしい。
(……………そうなると、向こうに心を動かしてしまった誰かが、もう連れ去られてしまったかもしれないのだ……)
それが本当に不幸なのかどうかは、当人にしか分からない事だろう。
災いとされるものにだって、それが災いだと気付かなければ幸せの顔をしているものは多い。
ウィームにも、藤の谷のように災いや障りを取り込むことで、人間も食べてしまう妖精達と共に暮らしている人達がいるくらいなのだ。
「…………君が、あの風景に魅せられてしまわなくて良かった」
「あら。ディノは、私がここで幸せではないと思っていたのですか?」
「昨日は、あまり寝かせてあげられなかったしね…………」
「ぎゃ!!」
こんなところで何を言うのだとネアは慌ててしまったが、やはり魔物は人間とは違う生き物なので、ディノは真剣に、睡眠時間を削られたネアが向こう側に魅せられてしまわないかどうかを案じたようだ。
呆れたような顔をしているアルテアが、ふうっと深く息を吐く。
指先で額の汗を拭っている様子に気付き、ネアはぎくりとした。
「……………アルテアさん?」
「魔術的な相性が悪かった。……………それだけだ。放っておけ」
「ち、ちびふわにして、抱っこしています?」
「……………やめろ。いいか、絶対にやめろ」
「むぐぅ。……………ディノ、アルテアさんが汗でびっしょりで顔色も悪いので、何かお薬を飲ませてあげた方がいいでしょうか?」
「魔術酔いだね。………先程のものは、今代の選択とは相反する選択の資質だったのだろう。この世界層は、以前のものとは基盤や価値観を大きく変えているから、先程のもの程にアルテアにとって不愉快なものもないだろう」
「不愉快、……………なのですね」
「うん。私達は司るものがあって、派生するからね。資質を否定するような環境はとても不愉快なものなんだ。アルテアの場合は、……………選択がない環境や、整えられ何の変化もないものの中に招かれるのは、かなりの苦痛だろう」
そう言うと、ディノはネアをしっかりと片手で抱き直し、もう片方の手でアルテアの腕を掴んだ。
アルテアは顔を顰めえていたが、その手を振り払いはしなかったので、やはりかなり磨耗はしているのだろう。
「部屋に戻っていようか。アルテアは少し休ませた方がいいし、祝祭儀式を終えたら、ノアベルト達にもこちらに来るように言っておこう。先程のものの訪れで、……………奪われたものもあるだろうしね」
「ええ。……………ディノ、二人となると大変でしょうから、私は自分の足で歩けますよ?ですが、もしそうすると危ないのであれば、このままでもいいかなとは思います」
「……………もう少し、このままでいいかい?」
「……………ええ。大好きな魔物に、ぎゅっとくっついていますね」
「ずるい……………」
この状態が必要なのだとは言わず、このままでと言ったディノに、ネアは、先程の風景が不愉快だったのは、この伴侶の魔物もなのだと気付いた。
どこかに深い安堵を滲ませた様子からすると、ネアがあの風景を恐ろしいと思ったように、ディノにとっても、とても怖いものだったのかもしれない。
なのでネアは、部屋に帰るとそんな魔物とよれよれの使い魔の為に、ヒルドに教えて貰って作った自家製のニワトコのシロップで冷たい飲み物を作ってやり、大事な魔物を沢山撫でてやることにする。
夏至祭は、まだ正午にもならない時刻。
最も祝祭がその力を強めるのは、夕暮れから夜にかけてなのだった。