233. 前夜には階段が現れます(本編)
青い青い夜が、静かに暮れてゆく。
夏至祭の前の夜は、不思議な透明さと青さで夜が深まり、真夜中にかけてゆっくりと深い夜の青色に落ちていった。
濃紺色の空には細やかな銀色の星が瞬き、どの季節よりも透き通った青の重なりは、雨の日の夜明けにも似た不思議な瑞々しさが宿るのだ。
こんな夜は初めて見るような気がして、ネアはずっと落ち着かなかった。
夏至祭が近付くと夕暮れからはこんな風に青い色が満ちていた筈なのに、本当にそうだっただろうかという疑問がふつりと頭をもたげ、その怖さに息を潜める。
何もない筈なのに何かに不安を覚えていて、廊下に落ちる飾られた花の影にもひやりとしてしまうのはなぜだろう。
「ぐるるる………」
「…………お前がそのように不安がるのは、珍しいのではないか?」
「こう、足元がもぞもぞするような、背筋がひやりとするような感じなのです」
晩餐を終えて部屋に戻ろうとしたネアが、不安のあまりにそっと戸口から廊下を覗いている様子に、エーダリアが声をかけてくれる。
ネアは、どこかに蝕の時と同じようなそわそわとした不穏さがあるのだと言いかけ、それは言わずにおいた。
魔術の縁は、言葉でも結ばれるのだ。
あの恐ろしく悲しかった事件と今年の夏至祭を結ぶつもりはない。
「部屋まで戻るのに、ディノが一緒であれば問題はないが、……………ヒルドにも同行して貰うか?」
「む。…………少し心惹かれますが、エーダリア様とノアが心配なので、私はディノに手を繋いで貰いますね」
「虐待しようとする……………」
「解せぬ」
振り返ると、心配そうにこちらを見ているエーダリアがいた。
鳶色の瞳には会食堂の光が逆行になっているせいか、瑠璃色にも似た深い青みが落ち、こちらのウィーム領主にはあまり警戒や不安の色はない。
であれば、自分だけが緊張しているのだろうかと思いかけ、ネアは、その奥に立ち、この夜の青さよりも青い瑠璃色の瞳を細めたヒルドの眼差しにひゅっと息を呑んだ。
「ネア?どうし……………ヒルド?」
エーダリアの声に視線を戻し、ヒルドは短く首を横に振る。
宝石を削いだような羽は僅かに開いていて、表情は未だに険しい。
「……………夏至祭の揺らぎが深いのかもしれませんが、………いつもはない水の香りがしますね。湖であれば私の系譜でもあるのですが、川や泉であれば警戒しておいた方がいいでしょう。今夜の見回りは、グラストとゼノーシュでしたね」
「ああ。あまり、リーエンベルクの外周には出さない方がいいだろうか?」
「いえ、グラストであれば問題ないでしょう。…………他の時間の見回りも、負担をかけますが、ゼベルとエドモンくらいにしておいた方がいいかもしれません」
「うん。グラストは、ゼノーシュが一緒なら大丈夫だし、グラス本人は夏至祭の系譜との相性はいいくらいだから、寧ろこの時期は守り手が増える方が問題なんじゃない?」
ヒルドの隣に立ってそう言ったのは、実は先程までひと眠りしていたノアだ。
昼過ぎから夏至祭の対策会議に入っていたのだが、前の夜は夜更かしをしてしまっていたので睡眠時間が足りず、一刻程仮眠を取った後に晩餐に参加した。
リーエンベルクに暮らしている魔物達は、野生の魔物達よりよく眠る。
だが、そんな環境下であってもノアが仮眠までを必要とするというのは珍しいことなので、昨晩の忙しさは明日の夜から始まる夏至祭に向けての備えだろうか。
「そう言えばグラストさんは、木漏れ日や陽光の系譜の祝福が沢山なのですよね?」
「うん。夏の系譜には元々好まれるけど、ウィーム貴族の嫡子っていう要素が加わると、系譜の資質を持っているけれど対岸の気質もある魔術が出来上がるんだ。境界の向こう側のものを欲しがる夏至祭の祝祭周りの連中にとってはかなりの逸材だよね」
「そうなると、危なくはないのです?」
「そこがグラストの凄いところでさ、彼が望まないものを動かさないっていう因果の結びがあるんだよね。そこはほら、因果の成就の祝福のお陰なんだ。だから、正規の騎士の仕事以外の部分で、グラストって滅多に怪我もしないし病気もしないでしょ」
「まぁ。まさか、そのような理由があるとは思いませんでした……………」
そんな因果の成就の祝福を初めて授かった場面には、グラストではなくネアがいた筈なのだが、その後も件の精霊には気に入られ着々と祝福を増やしていると聞けば、グラスト大好きっ子のクッキーモンスターが怒り狂わないのはいっそ不思議である。
「ゼノーシュも、我慢しているようですよ。因果の成就程、騎士という役割に於いて有用な祝福もないでしょう。有事への対処が必要なグラストの任務では、どのような環境に身を置くのかが予測し難いものです。結果として望みに結ぶという祝福程に、不足なく身を助けるものはありませんからね」
「言われてみると、確かにそうなのでした……………。だから、ゼノも我慢してくれているのですね」
「というより、接触の仕方が独特だからじゃない?あれなら、僕もあまり気にならないしね」
「むむ…………?」
聞けば、因果の成就の精霊王は、一定期間ごとにグラストに激辛香辛料油対決を挑み、その度に負けて、けれども昏倒する程の辛さのものは出てこないので楽しく帰ってゆくらしい。
楽しい辛味比べの時間を作ってくれるグラスとには、その都度の祝福が授けられているようだ。
訪れる理由が勝負だけなので、ゼノーシュとしても気にならない程度なのだろう。
そう聞けば、因果の精霊王自身も、危うい因果は結ばない人物だという気がする。
「大きな負担なく祝福を得られるというのも、グラストが最初に得た因果の成就が影響しているのかもしれないね」
「うん。いい循環しかない仕組みだよね。…………って訳だから、グラスト達は大丈夫なんだよね。灯台妖精の血筋だから、エドモンも大丈夫かな。夏至祭ってやっぱり、妖精が強いからね」
「ふむふむ。そして、ハツ爺さんが強いのですよね!」
「ありゃ、そうだった……………」
(……………良かった)
家族とお喋りをすると、少しだけ気持ちが明るくなった。
もう廊下を覗いても怖くはないので、このままいつものリーエンベルクをいつものように伴侶な魔物と一緒に帰ればいいのだ。
しかし、ネアがそう思い安堵にふにゅりと心を緩めた直後、異変が起こった。
じゃらり、がっしゃん。
不思議な、けれどもどこか底冷えするような不穏さのある音がどこかで響く。
ぎくりとしたネアは、すかさずディノの手を掴もうとしたところで、その手が空を切り、愕然とした。
(……………ディノ?)
いつの間にか、ネアが立っているのは、見知らぬ壮麗な階段の入り口で、ウィームにある大聖堂やガーウィンの教区の中のような静謐で澄んだ空気が頬に触れる。
あまり視線を動かさないように少しだけ見上げた先には、アーチ型の高い天井と柱を繋ぐ梁のレリーフが見えた。
ここはどこだろうと、その時のネアは、なぜかそう思わなかった。
見た事もない場所に放り出されて恐怖に駆られるにしては、どこかに身に馴染んだ温度がある。
表現の仕方としては稚拙だが、先程と同じ場所に家族と一緒に立っているが、ネアだけ、目隠しをされているように違う景色を見ている気がしたのだ。
ひゅおんと、冷たい風が吹き上がる。
視線の先には底が見えない程にくらい大きな階段の入り口があって、ダナエくらいの大きさの竜でも通れそうなくらいに広い入り口の先には、緑柱石を切り出したような見事な階段があった。
精緻な程に整ってはおらず、手作業で切り出されたような無骨な歪さがあり、草が生え黄色い花が小さな星の欠片のように咲いている。
冷たい風は階段の下から吹いてきていて、僅かな黴臭さがあった。
がっしゃん。
また、先程の音が聞こえ、ネアはぎくりとする。
こうして見慣れない場所に立っているのは怖くないのに、なぜ、この音だけが異様に恐ろしいのだろう。
指先から背筋にかけてぞぞっと冷たくなり、ネアは、もう一度慌てて大事な魔物を掴もうとしたが、いつの間にか目の前に立っている男達に気付き、彷徨わせた片手をすぐさま引き戻した。
「…………っ」
堪えきれずに短く息を呑んでしまったが、いきなり現れたので心臓が止まりそうな程に驚いただけで、そこに立つ男達を恐ろしいとは思わなかった。
そんな自分の感覚の一部の冷静さに違和感を覚えたが、今は他の事を優先しなければならない。
何しろ、目の前に見知らぬ男達が現れたのだ。
いつの間に、そこにいたのか。
或いは、そうあるべきだったのか。
では、なぜネアはそう考えてしまうのだろう。
階段の前に立った男達は、三人ともが同じような装いをしており、ベレー帽に似た帽子と揃いのローブ姿は、学院の魔術師達にも、封印庫の魔術師にも見えた。
(……………全員、灰色の瞳をしている)
黒髪の巻き毛で、階段の入り口に下げられたきらきらしゅわしゅわとした光の入るランタンの明かりを映した男達の瞳は、ほんの少しだけ、夢見るようなグレアムの瞳を彷彿とさせる輝きであった。
とは言えそれは、同じような煌めきを宿しているというだけで、同じ棚に飾られた違う系譜の宝石という感じがした。
(美しい、男性達だわ)
だが、その面立ちを、全員が全員美しいとは言わないだろう。
目元の皴や僅かに下がった目尻など、独特な風合いのある美麗さなのだ。
決して完全ではないが、その人生の過程こそを美しいと思えるのなら、彼等は目を奪うような黄金であろう。
それは例えば、真っ白なふかふかのパンを最上級の品だという者に対し、丹精込めて作った麦を使った、素朴な茶色いパンを見せるようなものであった。
けれどもその茶色いパンは、これ以上ないという美しい丸さでふっくらと焼き上げられており、表面の焼き色や、その色の入った部分に走るひび割れた中に見えるふかふかとした白さなどが、完璧な焼き立てのパンの姿であるに等しい。
最も整えられている訳ではないが、その領域に於いては完璧な魅力を湛えたもの。
目の前に立つ男達からは、そんな感じがした。
「これはなんとも素晴らしい」
最初に口を開いたのは真ん中の男性で、にっこり微笑むと何とも言えない愛嬌がある。
「立派に育まれ、この訪問まで息災で何よりでした」
次に口を開いた男性は、左側に立つ少し神経質そうな美貌の人物だ。
けれども、窺える気質に対し、三人の中で一番優しい瞳をしていた。
「良き災いを運び、怪物と運びますよう」
最後にそう言ったのは、右端の男性だ。
三人の中ではという程度だが、女性的な柔らかな微笑みで、その分、善良さには欠ける面立ちではないか。
しかし、その言葉が響いた途端、ネアはぶわっと冷や汗が噴き出すような感覚がして、咄嗟に大事な魔物の名前を呼んだ。
「ディノ!!」
唇が上手く動かないような重さがあったが、幸いにも、ネアの声はしっかりとその中で響いた。
隣で誰かがはっとするような気配があって、ネアは、すぐさま誰かにぎゅっと抱き締められる。
持ち上げて腕の中に収めてくれたものか、爪先が浮き上がりおかしな場所から引き剥がされたなと思った途端に、頬に触れていた冷たい風の温度が感じられなくなった。
「……………あ、」
震える息を吐き出すと、目の前に立っていた三人の男の姿も、先程のように鮮明には見えなくなっている。
その代わりに、ネアはもう、自分をしっかり抱き締めるディノの姿が見えていて、視界の端には会食堂の扉の影が見えていて、背後にはエーダリア達の気配も感じ取れた。
「呼ばれた名前の方は、……………こちらの招待には向かぬようだ」
「これは困った。あなたには、是非とも我々の庭にも来ていただきたいのに」
「あなたは、資格を得てこの階段の前に立った。どのような選択をされるのかはあなた次第ですが…………」
会話というよりは舞台の台詞のような言葉が次々と重ねられ、ここですぐにしゅわんと消えてしまいはしないものなのだと、改めての怖さを噛み締めていると、ずしりと空気が重たくなる。
その変化に気付いたのはネアばかりではなく、目の前の男達がはっと顔を強張らせた。
(これは…………)
見えない何かが圧し掛かってくるような圧迫感と、凍えるような冷たい気配は誰のものだろう。
ネアが、これはまさかと目を瞬けば、慌てて見上げた先には、初めて見るような表情のディノがいる。
(……………ディノ?)
それは、基本的に優しい魔物であるということもあるし、偶々、そのような場面にネアがいないということでもあるのだろうか。
だが、今のネアの視線の先にいるのは、震える程に美しい水紺色の瞳を魔物らしい残忍さに細め、ゆらりと陽炎が立つような怒りを示した万象の魔物だ。
さすがにこれには飄々とした言動だった三人の男達もひやりとしたのか、じりりと後退し、怯えたように体を寄せ合う。
(ああそうか。……………この姿は、本当の姿ではないのだわ)
全くの突然に、ネアは、身を寄せ合った男達の姿を見てそう考えた。
ネアの大事な魔物達が擬態をするのとは違い、もっと根本的な、人の姿をしていない者達が人間のふりをしている擬態のような気がする。
では何なのだろうかと考え、ふと、心のどこかに、彼等は怪物なのだという言葉が浮かび上がった。
「ここは、私の領域で、彼女は私のものだ。一欠片も残さずに、この土地から立ち去るといい」
(………っ!!)
こんなに冷たい声があるだろうか。
そして、こんなに美しく悍ましい声があるだろうか。
そう告げたディノの声は、ゆっくりと切り刻まれながらでも恍惚と見上げてしまうような、残忍さと美しさがある。
心の表層が竦み上がるような怖さがあるのに、ネアは、そんな声で怪物たちを追い払おうとしてくれる大事な魔物を、ぎゅっと抱き締めてやりたくなった。
「この土地には、既に完全な円環があります。その中から災いも祝福も、何一つ持ち去る事は許されない。早々に立ち去りなさい」
続いて言葉を重ねたのは、ヒルドのようだ。
こちらも滅多に聞く事のないような冷え冷えとした声音で、その言葉を聞いた怪物の一人が、はっとしたように声を上げる。
「独自の夏至祭の円環があるぞ?……………なんだ、この輪は閉じているではないか!」
「それでは、連れ帰る事は出来ないな。………誰だ、無責任なことを言い出したのは」
「こんなに強く美しい災いの輝きは珍しい。………あの祝祭になど奪われて堪るものか。あちら側にいるのは、何の不実や裏切りも知らない、愚かで無知な子供達ばかりではないか」
(最後の怪物だわ………!)
明らかに不満そうな声が最後にぽそりと呟かれ、ネアは、すぐに右端の怪物を見る。
目が合うと嬉しそうにこちらを見た怪物はしかし、はっとしたようにネア達の後ろを見ると、こちらまでもが怖くなるような恐怖の表情を浮かべ、激しく体を震わせた。
「……………私の庭から、私の愛し子を連れ去ろうとしたのかい?」
その声が響いた途端、きゃあっとも、わぁっとも聞こえるような大勢の生き物達が怯えて逃げ出すような声があちこちから聞こえてくる。
階段に落ちる影が、その中で沢山の影が逃げてゆくようにざわざわと動き、カンテラの光がちかちかと激しく揺れた。
「特別に道筋をつけていただき、感謝いたします、世界の王よ。私は、私の愛し子が、祝福や贈り物を取り上げられる事ほどに不愉快なことはない」
「そうだね。私の伴侶を、彼女が望まない深淵に引き込もうとする者がいるのであれば、その生き物はもういらないだろう」
ディノと話している誰かは、ネアの位置からは見えない場所に立っているようだ。
けれども、男性とも女性ともつかぬ穏やかな声は、ネアの記憶に残る、大好きな祝祭の気配のものだ。
どこか遠くで微かに響くような聖歌が聞こえた気がして、ネアは、災厄の訪れが音楽として捉えられるという話をぼんやりと思い出してしまう。
であれば、今ここに立っているネアの大好きな祝祭は、災いとしての側面こそを持つものなのだろうか。
そう考えた途端、見えないどこかで、誰かが深く艶やかに微笑んだ気がした。
ぎゃあっと悲鳴が響いたのは、その直後のことだ。
階段を背に立つ訪問者の中で、右端にいた男性が、見えない大きな手に掴まれるようにして、ぐしゃりとへしゃげる。
だが、そのまま掴み潰されるようなことはなく、見えない何かが触れた場所から、青白い結晶のようなものになってゆき、もろもろと体が崩れ始めた。
「ああ、なんて愚かなことをしたの、馬鹿な子供たち!!」
その瞬間、今度は階段の下の方から、女性の声がした。
あまりの温かさに頬を緩めてしまいそうにも聞こえるけれども、決してその姿を見てはいけないような、こちらも奇妙で力に溢れた声である。
「グロリアーナ・スペンサー」
「……………申し訳ありません、我らが王よ。この階段を、あなたの庭に開くなど」
「立ち去るといいだろう。私の愛し子は、もう君の名前を知っている。君達を招き入れたのは、久し振りに取り戻した子供達を守ろうとしたこの地の円環こそかもしれないが、二度と、私の庭を訪れてはいけないよ」
がっしゃん。
また、あの重たい音が響き、今度こそネアは、その音の正体を目にする事が出来た。
それは、重たい鎖のかかった大きな扉で、ざあっと吹き荒れた強い風が全てを呑み込むように、残った二人の男達や見知らぬ風景の全てをその中に回収すると、ばたんと音を立てて閉まってしまう。
そして、そのまま何も見えなくなり、ネアの目の前には、いつものリーエンベルクの会食堂の前の廊下が広がっているばかりとなった。
「……………ほわ」
「大丈夫だったかい?………もう二度と、あの者達に出会う事はないだろう。安心していいよ」
「ディノ……………」
心配そうに覗き込んだディノの表情はいつものものに戻っていて、先程までの凍えるような美貌や冷え冷えとした暗さは消え失せていた。
はあっと、誰かが深く息を吐く音が聞こえる。
背後のようなので、恐らくはエーダリアだろう。
「ネイ、………あのような言葉で、良かったのですか?」
「うん。ヒルドのお陰で助かったよ。あの言葉はさ、夏至祭に近いヒルドが言った方が格段に効果があったんだよ。シルが、まさかクロムフェルツを呼び込むとは思わなかったけれど、彼がいなくても、ヒルドの言葉でも追い払えたと思うよ」
「……………な、……………何だったのだ、今のものは」
「さてと。エーダリアも座り込んじゃったし、まずは、全員でもう一度座ろうか。ゆっくりと、紅茶でも飲みながら話した方が良さそうだからね。……………シル、クロムフェルツは大丈夫かい?」
ディノに持ち上げられたまま背後を振り返ると、エーダリアは床に座り込んでしまい、ヒルドが立たせている。
こちらを見たノアは、安心させるように微笑んで頷いてくれた。
「あるべき場所に戻ったようだよ。自分の領域を損なわれなければ、基本的には穏やかな祝祭だからね」
「それなら一安心だ。………ええと、後は……ネアの守護に異変があったなら、アルテアあたりも駆けつけてくるかな」
「なぬ。使い魔さんが……………」
「ウィリアムには、カードで説明をしておいた方がいいだろう。今は、抜けられない戦場にいる筈だ」
「は、はい!ウィリアムさんには、もう大丈夫だと、説明しておきますね!」
暫くした後、漸く、今夜の出来事の説明が始まった。
席に着いてお茶を淹れるだけの手間に留まらず、その後のリーエンベルクには、異変を察した二人の魔物と一人の妖精からの問い合わせも来ていたのだ。
グレアムとグラフィーツには事情を説明し、ダリルは、歴史上でも残る記録は二件だけという祝祭の階段の出現に、急ぎ、リーエンベルク周辺の魔術の揺らぎなどの変化がないかを調べてくれている。
ディノ曰く、問題となるような異変は残らない筈だが、事例が少ないので記録を残したいのではないかという事であった。
「祝祭の階段って、呼ばれているものなんだ」
各自の手元にカップが行き届き、ネアは、隣の席で帽子を取り手袋を外しているアルテアから、説明を引き受けてくれたノアに視線を向ける。
「ダリルが、有史上での記録が殆どないと話していたが、それだけ珍しいものなのだろうか……………」
「階段の扉が開く事自体も珍しいけれど、それを観測出来るような目撃者がいる事の方が珍しいかな。……………あれはさ、祝祭の国に招き入れる者を迎えに来る、祝祭そのものからの招待なんだよね。色々な祝祭にそれぞれの形があるけれど、夏至祭はいつも、地下に向かう階段の姿をしているみたいだよ」
「岩の割れ目や、箪笥の中ということもあるようだが、どちらにせよ階段はあるな」
そう付け加えたアルテアに、ネアは、そこでもう話に聞いている二例分が出てしまったぞと思ったが、選択の魔物であれば、記録に残っていないような事例も知っている可能性が高い。
「ネアはさ、夏至祭の日に、花輪の塔の上に居る怪物を見たことがあったよね」
「はい。花輪の塔の上にいて、さらさらと崩れていっていましたが、ぎょっとするような大きな怪物でした……………」
「大晦日の怪物もだけどさ、…………そういう、普段は重ならない層の生き物もこの世界にはいて、あの夏至祭の階段の下にも、そんな夏至祭の祝祭領域の国があるんだ」
「……………ほわぎゅ」
「今回は、僕の妹がそこの住人に相応しいって評価をされて、直々の迎えが来たって感じかな。異質なものに感じられなかったのは、条件を満たしたっていう判断を事前に向こうがしているからで、祝祭の祝福の最上位のものだから、危険だと感じたり怖かったりっていう感覚もそんなに動かなかったんだろうね」
ノア曰く、祝祭の固有領域は、人間社会で言えば王宮のようなものだ。
王家からの迎えが市井に来るような状況だったので、土地や建物の守護は、最上位の祝福を排除せずに受け入れてしまう。
「でも、そこに少し違和感があってさ。リーエンベルクっていうのは、反対に位置する冬の魔術の結晶なんだよね。おまけにここは、僕やシルにも分からないような、複雑な魔術の積み重ねがある。あれがどういうものなのかを判断して、排除も出来たかなって」
「クロムフェルツが話していたように、今回の訪問は、リーエンベルク自身が受け入れを許可したのだろう。祝祭の階段の訪れを知り、私達が揃っている時であれば適切に排除出来ると判断されたのかもしれないね」
「そんな感じだったね。排除の一環として、敢えて引き入れたって感じかな」
(であれば、あの階段とその前に立っていた人達は、………リーエンベルクが敢えて引き入れ、ディノやヒルドさんや、ディノが呼び込んでくれたクロムフェルツさんが追い払うよう、仕向けてくれたものなのだろうか……………)
「………私は、………夏至祭の方々から、お迎えを寄越されてしまったのです?」
「これもまた、このような年だから起きた事だろう。君の前の居場所での由縁には、夏至祭に紐付くものがあると、以前に話したことがあるね?」
「ええ。……………私が名前を貰った森での思い出や、その場所との縁のようなものだと思います」
「うん。漂流物は、ここではない場所から流れ着くものだ。そのようなものが現れる年だからこそ、君のその履歴が僅かにこちら側に落ちたのだろう。夏至祭の資質を持つ非ざる者として、あの怪物達を呼び寄せてしまったのかもしれない」
「……………まぁ。……………その、率直に言わせて貰うと、あの階段は嫌いなのですよ?」
ネアは、この場にはそんな夏至祭生まれのヒルドもいるので少し躊躇いながらそう言ったが、ヒルド自身も深々と頷いている。
「忌避感があって当然でしょう。祝祭の国は、その庭を訪れて祝福を授かる事はあれど、住人として招き入れられるような場所ではありません。……人間が妖精の国に閉じ込められるようなもの、或いは、非ざる者側の領域に連れ去られるようなものですからね」
「…………お前でも、そのように思うのだな」
「おや。私ですら、祝祭の国に行きたいとは思いませんよ。やはりそちら側は、対岸なのでしょう」
「時間の座や季節の運行みたいに、常にこの世界に重なっている場所じゃないからね。祝祭ってさ、その祝祭が来るまでは、明確に非ざるものとされるんだ。だからこそ、当たり前のように毎年祝うけど、世界の中ではかなり異質な存在でもある。ほら、あんな風に常識も通じない感じがしたのは、そのせいなんだよね」
門を開いてしまった怪物達は、ネアが迎えを拒むとは思いもしていなかったようだ。
とは言えそれは、他の資質や系譜の者達よりも遥かに、祝祭というものが自分達こそが最上であると考えるからでもあるのだという。
けれども祝祭には序列があり、今回は、祝祭の王であるクロムフェルツの愛し子だというネアを連れてゆこうとしたので、クロムフェルツを怒らせたのだった。
「あの方は、夏でも出て来られるのですね」
「君は、今でもしまえずに、枕元に飾り木の置物を置いてあるだろう?」
「……………む、……………むぐ」
「今回は、そこから道を開いたんだ。あまり、違う季節の祝祭の道を開くのは好ましくないのだけれど、君の執着があり、ここがリーエンベルクであったからこそ可能でもあった。となるとやはり、この中で対処するべきだと、リーエンベルクが考えた可能性もあるけれどね……………」
「……………もう、あの方達は来ません?」
「うん。君がここにいる限り、リーエンベルクの周辺に現れる事はないだろう。円環というものを基準に判断したのであれば、区切りはリーエンベルクの敷地内かどうかを基準にするのかな。…………でも、君にはもう二度と近付かないだろうし、ノアベルトが、この土地の円環が完成しているとヒルドに言わせてくれたから、この土地に暮らす者達にも近付かないと思うよ」
「よ、……………良かったです」
その時はそこ迄ではなかったが、思い返せば怖い事件だ。
あまりの安堵にくしゃりとなったネアは、アルテアが出してくれたさくらんぼのタルトを美味しく頬張ると、ヒルドの淹れてくれた紅茶を飲んで、深く深く息を吐く。
「君が何かに怯えていたのは、彼等が君を探していたからだったのかもしれないね。ヒルドが感じた気配の変化もそのようなものではないのかな」
「ええ。今はもう、先程の水の香りはしませんね。………ですが、あのようなものの訪れがあるとは、私は、知りもしませんでした」
「記録や体験談が残らないんだよね。大抵はさ、迎えに来られた当事者はそのままいなくなっちゃうし、祝祭の領域を知覚出来る生き物って、そうそういないからね。…………ウィームだと、何だかいそうだけど」
少しだけ遠い目をしたノアに、ネアも思わず頷いてしまう。
アレクシスなどに至っては、その夏至祭の国から既に何か食材を取ってきていても不思議はないくらいだ。
「ったく。夏至祭の前日からこの有り様か。…………だが、ここで夏至祭そのものの名前を知ったのは、大きな収穫だな。今後、夏至祭で何かがあれば、それほどによく効く守護もないだろう」
「クロムフェルツさんが、敢えて出してくれたような気がしました…………」
「これを機に、彼も君にその名前を持たせておくことにしたのだろう。私も、何かな縛りを残せるようにと、祝祭の領域から対価を得ようと思っていたのだけれど、夏至祭の女王の名前程に有用なものはない。そればかりは、クロムフェルツでなければ出来なかった事だ」
(グロリアーナ・スペンサー)
その名前はまるで、ネアの生まれ育った国の人間のもののようだ。
けれども、夏至祭の女王の名前なのだという。
何だか奇妙な親しみを覚えてしまう響きであったが、今回の邂逅を経て、ネアの心の中には大きな疑問が生じてしまった。
(祝祭という程のものではないと思うけれど、クッキー祭りや傘祭りも、世界規模の祝祭になったら、王や女王を配するような祝祭の国が生まれるのだろうか)
その場合は、クッキーや傘が君臨していたりするのかなと思うととても心が迷子になったので、ネアは、アルテアが珍しくふた切れ目を授けてくれたさくらんぼのタルトを、せっせとお口に運んだのであった。
書籍作業の為、明日7/5、明後日7/6の通常更新はお休みとなります。
こちらにて、2000時程度のSS書かせていただきますね。