運河沿いの店と迷い鯨
雨音を聞きながら、あの深い森を思う。
勿論、こちら側にある森に比べれば薄っぺらなものであったが、湖の向こうにあった遺跡だけは本物であった。
誰がそこに渡り、誰がそこにいたのか。
或いはそれは、最初からそこにいたのかもしれない。
あるべきものが少しずつ失われ、伝承やおとぎ話だけが残り、少しの気配もなくなっただけで。
そうして森の女神だけが最後に残り、あの証跡となったのだろうか。
誰もいない森で生かされ、やがてその祝福と災いを引き継ぐ子供のように怪物となって。
「で、お前の目から見てどうだ?」
「……………問題はないだろう。そもそも、夏至祭はあの子供を損なうとは思えない」
「ほお?どんな根拠があってだ?お前は、あの人間の危うさを殆ど知らないだろうが」
そんな事を言われても、見ればわかることもあるし、既に知っている事もある。
そもそも、彼女に羽の庇護を与えた妖精は、夏至祭に直接結ぶものではなくとも、その恩寵を受け、こちら側でのその置き換えになったものである。
向かいの席に魔物が一人腰掛けたのは、ウィーム中央にあるとあるカフェでのことだ。
看板を出していない店なので面倒な連中には見付からないだろうと思い通っていたのだが、よく考えれば、この土地に暮らし始めた時期はグラフィーツの方が古くとも、住んでいる期間はアルテアの方が長い。
知らない筈もなかったかと、溜め息を付いた。
「夏至祭だからだとしか言えん。あの妖精の役割が大きいが、……………話を聞く限り、あの子供の履歴や家族は、…………祝福を災いにした物語だったのだろう。それは、呪いに見えても幸福で、だが、どこかで誰かが間違えたな」
「シルハーンも、近い事を言っていたな………」
「その結果、何らかの形で夏至祭の一端を得ている。そこにあの妖精の庇護があれば、これ程に手堅いこともないだろう」
そう告げると考え込む様子になったアルテアに、その隙にと砂糖の皿に手を伸ばすと、赤紫色の瞳を眇めた選択が、何かを続けようとする。
この店は、安心して砂糖を食べられる数少ない店だ。
それを、食事の時間に押しかけてきて、儀式魔術の結びを見ろとは迷惑なことではないか。
とは言え、先月に、聖女を巡っての小さな事件で借りがあるのでここは耐え忍ぶしかない。
(あの時は、アルテアが途中で取り分を減らさなければ、砂糖を収穫し損ねたからな……………)
人間は、祝福よりも災いよりも、やはり選択をこそ選びやすい。
その結果、グラフィーツの手をすり抜け、アルテアの側に傾いてしまったのだ。
それはもう人間という生き物の嗜好のようなもので、どれだけ回避しようとしても、すぐに終焉に向かいひた走ってゆくのもあの生き物達の癖なのだろう。
どれだけ終焉の魔物が人間を贔屓しようが、あの種族の中にその好意を生かせた者がいただろうか。
大抵は、全てを壊しウィリアムの願いさえ覆し、破滅し死んでゆくのだから。
そしていつも、死者の王への怨嗟を垂れ流し、自らの罪からは目を背けるのだ。
(とは言え、その定型があるからこそ、あちこちに聖人や聖女が育つのだろうが………)
「ネアについては、災いを祝福にした物語だ。それは幸福に見えても不実なもので、あの子供は長らくその檻の中にいたのだろう。…………終焉の鳥籠のようなものだな。檻の中は安全かもしれないが、それが幸福かどうかは分からない。とは言え、だからこそ今があるのだろうが」
「あの名前を持つことにも由縁するんだろう。………普段であれば、ここではないどこかのことだと捨て置けるんだがな……………」
祝福と災いの円環で囲んで。
それは恩寵と祈りであったが故にどこにも行けないまま、殺戮の夜にクローゼットの中で生き残る子供のように、小さな世界の中で誰かを待っていた子供。
誰も扉を開けてやれないまま、すっかり忘れ去られ、誰の目にも映らなかった子供。
グラフィーツの恩寵をどこかに映す、大事な子供。
ふと、誰もいなくなった屋敷で嵐の夜に一人で眠る子供の頭をそっと撫でた日の事が思い出され、胸の奥が鈍く痛んだ。
たった一人の恩寵が失われた雨の日に、ただたた、立ち尽くしていた時のことも。
そして、そんな日々の記憶を揺らし、目の前の男を見る。
まだ何も失わず、恐らくは、この先も望まぬ形では失わずに済むであろう幸運な魔物であった。
「……………俺の目から見て、問題がない。複合的な要素で足を取られたとしても、それが本質までを損なうようなものではないだろう。どちらかと言えば、周辺の環境にこそ気を使ったらどうだ。あの子供が今の状態で鎮められているのは、今の円環があってこそだ」
そう言えば、またアルテアは無言になった。
この男は、夏至祭が近いからと先日の貸しを取り立てに来たのだが、頑強に思えるあの子供の周囲の者達の方が、実際には危ういのだと気付いたのだろうか。
「シルハーンが、ネアをウィームに呼び落したのは偶然だと思うか?」
「……………さぁ。俺は、その経緯やあの方の円環作りの様子を知らんが、ウィーム王家そのものが、元々はそのような役割を持つ者達だ。災いになり兼ねないものを、平定させるものの存在を以て鎮め、祀り上げて双方を王とする。祝祭の管轄地もそのようなものだ。どちらかがが欠けても、その前提で作ったものは壊れる」
だからこそ円環を象って作られたウィームは、統一戦争で敗れたのだ。
二王家の分割は、あまりにも気質が違うからこその別離であったが、完璧な円環を崩し、祝福だけを残した末路があの夜である。
だが、この土地を育んだ祝祭は子供たちの愚かさも許容する気質であったのと、その後に土地を守護した者達は、時代の流れを受け入れることを望み、あるべき形を失ったままに蹂躙された。
王家が二つあった理由も、この土地の履歴も、受け継がれたことを忘れて自らの滅びを招くのは、ウィームもまた例外ではなかったということだ。
また、血が混ざりこれであればと慢心したのであれば、魔物達が、指輪の深度を見誤って自分の伴侶をよく殺す現象にも似ている。
「話が以上なら、砂糖を食わせて貰いたいんですがね」
わざとらしい口調でそう言えば、こちらを見たアルテアが嫌そうな顔をした。
だが、対価をと言うのであれば、既に伝えた言葉で充分だろう。
グラフィーツにしか得られないことを伝えておいたのだから、これ以上となると差し出すものの方が重くなる。
(ネアがウィームにいる時であれば、崩してはならないのは寧ろ、外周の円環の方だ。あの子供は円環の内側に収めるべき災であって、その輪を閉じるもの達が適切に鎮めればこの上ない祝福となる。そして、輪の内側の者達を損なおうとしたものを、容赦なく滅ぼすだろう)
どこかの終焉の名前を持ち、多分そのものとして、あの庭を育てた祝祭の資質と相反する者として、誕生と喜びの祝福を受け取れずにいた子供が、背中合わせのこの土地で、新しい円環として機能するというのも奇妙な話ではある。
運命というものは然るべくしてそう収まるので、己の手でその糸を手繰り寄せた者達も、そのテーブルの上にいたろだろう。
(生まれながらにして定められた役割だったのか、それとも、………災いに成ったからこそ、その役割を担うことになったのか)
だが、災いを正しい形に収めるのであれば、円環こそが重要なのだ。
これから訪れる夏至祭が、ダンスの輪で祝祭をもてなす祝祭であるのも、それが鎮めるべき災いから祝福を得る為に必要だと気付いたからだろう。
正しい位置に納めた災厄程に、土地を富ませるものはない。
最も悍しい障りを持つのが、祝福そのものを司る祝祭であるイブメリアなのと対になるように。
銀のスプーンで皿の上の砂糖をすくい、口に運ぶ。
構わず食事を始めたグラフィーツに、アルテアがうんざりとした顔をしたが、もはや知ったことではない。
しかし、そんな事を考えていた時の事だった。
「おい、こちらの川に鯨が迷い込んだぞ!!」
店の扉を開けて、誰かが飛び込んできた。
アルテアと無言で顔を見合わせ、店の位置を一考する。
この店は、ザルツに抜ける大きな川から分岐した運河沿いにあり、水辺の魔術を損なわないように運搬路として作られたその流れは、お世辞にも広いとは言えない。
鯨などが、そうそう簡単に入り込める広さはないのだ。
「…………くそ。巻き込まれるのは御免だが、この店を潰すのも惜しいな」
「休日に選択が押しかけてきた段階で、事故が起こると予測しておくべきだった」
「……………おい」
剣呑な面持ちになったアルテアはさて置き、スプーンを置いて、皿を傾けると、残っていた砂糖を口の中に流し込む。
気に入っている砂糖であればそんなことはしないが、一口食べてみていまいちだと思ったばかりなので、そんな砂糖はこれで充分である。
こちらを見たアルテアが眉を寄せていたが、嫌なら見なければいいだけなのに変わった男だ。
砂糖を食べ終えると皿をしまい、スプーンは魔術で洗浄して白い布で丁寧に磨くと、また首からかけた。
その頃にはもう、店の中は大騒ぎであった。
こんな時に逃げ出す客ばかりではなく、どのような魔術構築で如何に被害を出さずに鯨を追い払うかを相談している者の方が多いのはウィームらしかったが、このような運河に近隣の川にはいない筈の鯨が迷い込んだ時点で、まともなものではないだろう。
追い払うというよりは調伏か排除だなと考えていると、店の主人に挨拶をし、二人の男が店に入ってきた。
ふっとその視線がこちらに向かい、目が合う。
だが、特に声をかけられることもなく、目を逸らされた。
「アレクシスか!来てくれて助かった」
「いや、スープの足しにならなければ、俺は帰るぞ。ネイアも、鯨の狩りは好まないらしい」
「大きいだけで、何の狩り甲斐もないからね。どうせなら、禁足地の森の方がいい獲物がいる」
「いやいや、友達だろ?!今回は手を貸せって。……街の騎士達はまだなのか?」
「運河の入り口で、浸水騒ぎが起きたらしい。あちらは工房もあるからな。魔術汚染とならないように人手を取られているようだ」
そのやり取りを聞き、スープの魔術師達の動向を見ているらしいアルテアに、また帰ってもいいだろうかと考える。
あの魔術師が鯨を片付けるかどうかは、スープとの相性次第だが、アルテアもいるのならまず問題はないだろう。
しかし、そこでまた、新しい客が店にやってきた。
「アレクシスさんを見付けました!…………む。使い魔さんと先生もいます」
「おや、アルテア達もいたのだね………」
「…………おい。何でお前がここにいるんだよ」
「とても嫌そうな顔をしているので、密会だったのかもしれません。ここは、気付かなかったふりをしてあげるのが大人の対応のようですね」
「そうなのかい?」
姿が見えないかのように振る舞われ、アルテアが騒いでいたが、どうやらネアは、スープの魔術師の姿を見かけ、どれくらいウィームに滞在するのかを尋ねに来たらしい。
ネアが来た途端に機嫌のよくなったアレクシスは、望んでこの店に来たのではなく、店にいた客に呼び止められ、窓から運河の様子を見てくれと連れて来られたようだ。
「………おや、迷い鯨かな」
「鯨さん………?」
「ああ。迷い鯨が出たんだ。夏至祭が近づくと、水辺や水底は境界が揺らぐ。どこかでおかしなものを食べたらしいな。障りが強過ぎて、スープにはならないだろう」
「そんな!死者の王の魔術すらスープにするお前なら、あのくらいスープに出来るだろう?!」
「いや、脂身の質が悪くなっていると、さすがにスープには出来ないからな。…………ネア、ディノと一緒に店でスープを飲んでいくか?」
「吝かではありません!………ですが、お騒がせ鯨めをどうにかしないと、問題が起こりそうなのですか?」
店に入るまで、運河の騒ぎに気付かなかったらしいネアがそう首を傾げると、アレクシスの隣にいた青年が、どのような状況なのかの説明をしていた。
どうやらそちらも顔見知りだったようだが、シルハーンが激しく威嚇しているので、関係性としては複雑なもののようだ。
「まぁ。では、きりんさんボールなどを投げ込んでみます?」
「やめろ。運河の生き物を死滅させるつもりか」
「ぐぬぅ。どこかに、水に強くてあの鯨めをぽいっと出来る方がいれば……」
「お任せ下さい!!!」
その途端、店に飛び込んで来たのは同じ会に属している、本来ならウィームなどに暮らしている筈もない、一人の竜であった。
どこか誇らしげにネアに歩み寄り、鯨なら簡単に排除出来ると自らを売り込んでいる。
これは会の規定に違反しないだろうかと周囲を見回したところ、途中で振り切られたのか、慌てて追いかけてきたグレアムが続けて店に入ってきたので、これはもう完全に帰っていいなと思った。
「まぁ、先生はもうお帰りですか?」
「食事も終えたからな。………それと、悪変した鯨の尾には触れない方がいい。あの手の生き物は、災厄の扉を持っていることが多いぞ」
「とびら………」
「君がその気配を感じたのであれば、この子は近付けないようにしよう」
ネアに告げた言葉に顕著に反応を示したのは、その意味をよく知るシルハーンで、続いてアルテアも短く息を呑む。
「…………扉持ちなら、さっさと言え」
「近付いてきたところで、音楽が聞こえたんだ。………ん?」
「扉持ちか!その部分だけは、いい出汁になるぞ」
「……………扉持ちなら、廃棄に困っていた凝りの竜の内臓を捨てられるかな………」
「ネア、少しだけこの店で待っていてくれるか?…………タタル、彼女達に何か飲み物を出してやってくれ。俺につけておいて構わない」
「分かった。弟が無理に君を呼びつけてすまないな」
「いや、あいつは昔からあんなだからな。………ネイア、弓は外で出した方がいいし、ここは槍を使った方が回収の手間がないんじゃないのか?」
「槍もいいが、扉を開ける必要があるから、手斧にしよう」
何やらとんでもない会話が聞こえてきたので、さすがにここでは振り返ってしまい、普通の手斧にしか見えないものをどこからか取り出している青年をまじまじと見てしまう。
災厄の扉を手斧を使って開くというのは、さすがに人間の発言としておかしい。
だが、周囲の者達は気にした様子もなく、ネアやシルハーンも普通にしているので、もうこれでいいのだろう。
「ネイア。廃棄用の内臓は、グリムドールの餌にするのが一番だぞ」
「遠出していなかったんだ。カノアの災いに食わせても良かったんだが、最近は獲物が多いから、あまりウィームを空けたくないんだ」
「娘夫婦に美味いスープを飲ませてやりたいんだが、いい肉が入っていたら分けてくれ」
「………とうとう、何の躊躇いもなく娘夫婦と呼ぶようになったな」
視線を戻し、そう言えばこの店主は、鯨の出現情報に少しも動揺しなかったなと思いながら、代金を支払う。
席で会計しても良かったが、騒々しくなった店から早く出るべく、店の入り口近くにあるカウンターに向かった。
「………む。エーダリア様からご連絡です?」
しかし、そんな店主の落ち着きは、ネアが持つ魔術端末にウィーム領主からの連絡が入る迄であった。
小さな魔術端末から、運河に現れた鯨を見付けたら、騎士達が駆け付けるまでその場に留めて欲しいという指示を受けたネアが現在の状況を伝えている内に、店主は、グラフィーツの支払いに釣りを返しながら、カウンターの下から木の棒のようなものを取り出している。
「ロデイル、お客様がいるので私は店を空けられません。あの鯨を川底に沈めてきなさい」
「兄さん?!」
「エーダリア様を、お待たせしないように」
「い、いや、エーダリア様は、僕たちが鯨を討伐するのを待ってはいないからね?!寧ろ、アレクシスとネイアに任せればいいだろ?!」
「ほお。それでは、今夜の食事はいらないと………?」
「い、行くから!行くけど、渡される武器がただの木の棒って何?!もっと他にあるよね?!」
わぁわぁと騒ぐ弟に木の棒を渡して店から追い出すと、店主は満足したように頷いている。
「ふむ。別宗派の店だったか。ごしゅ……………ネア様、俺も鯨狩りに加わってきます。無事に成果を上げましたら、誉めていただいても?」
「………それは、とても助かってしまうので構いませんが、危なくはないのですか?」
「行って参ります!!!」
「リドワーン!それは規定違反だ!!」
「…………ほわ、グレアムさんも、リドワーンさんを追いかけて走って行ってしまいました」
「規定違反なのかな………」
「…………騒々しい竜だな。ネイア、俺達も向かおう。…………ネア、ディノと一緒に何か飲みながら待っていてくれ」
そう言い残し、スープの魔術師も店を出てゆく。
「む。…………アレクシスさん達も駆け出して行ってしまいました………」
「扉を開けてしまうのかな………」
「アルテアさんは、災厄の扉なるものはいいのですか?」
「お前が事故らないよう、ここで見張る役も必要だろうが」
「なぜ、隙あらば事故る設定なのだ………。さて、ディノ、折角なので何か飲み物をいただきましょうか」
「うん。アレクシスがいれば、鯨は問題ないだろう。…………あんな狩人なんて…………」
「謎に荒ぶり始めました………」
かくして、ネアとシルハーンが席に着き、アルテアがそこに加わる。
この騒ぎの中、一度も顔を上げずに本を読んでいる女性客がいたのもおかしいが、他にも、気にした様子もなくゆっくりと寛いでいる客もいる。
ウィームらしい光景であった。
「…………妙な日だったな」
店を出るとまだ雨が降っていたので、傘を広げる。
魔術で弾くことも可能だが、こんな日には皆と同じように傘をさし、街を歩くのがいいだろう。
その後、特に問題はなく鯨は排除されたようだ。
災いの扉も開かれたようだが、廃棄場以外の用途としては機能しなかったようだ。
スープの魔術師がネアとシルハーンを娘夫婦扱いしているのが少し気になったが、そのあたりは、許容範囲としておいていいだろう。
スープの魔術師の溺愛があれば、そうそう簡単にあの子供が愛する者達を失うことはない筈だ。