雨の朝と温かな飲み物
ざあざあと雨の降る日であった。
この季節の雨の日にも種類があるが、本日は朝から肌寒く、ネアはくしゅんと鼻を鳴らす。
元々、晴れ間が多い訳ではないので気温差が少ないウィームでも、この季節だけはその落差が大きい事がある。
昨日はよく晴れて気温も落ち着いていたが、今朝にかけての大雨のせいでぐっと気温が下がったのだ。
よってネアは、体調を崩すという程ではないが、風邪をひきかけていなくもないという微妙なところでぐすぐすと鼻をかんでいた。
「………ネア、薬湯を飲むかい?」
「朝の内でこのくらいであれば、まだ自分で復調出来るかもしれないという微妙な頃合いなのです。沼味の飲み物のお世話になる前に、もう少し自分で頑張ってみますね」
「うん……。辛かったら言うんだよ」
「はい。………くしゅむ!」
ここで、ネアがくしゃみをしてしまい、怯えた魔物がすかさずご主人様を持ち上げてしまう。
鼻をかみたい乙女は、今はティッシュペーパーから引き離さないで欲しいとじたばたした。
「………若干、本日の装いでは寒かったのではないかなと思わないでもないのですが、朝は気温が下がっていても当然ですので、もう少し待てば着替える必要もない気がするのでふ……」
「暖かくして、横になっているのがいいのだろう?」
「もし体調が悪化してしまい、完全に療養に入ったらそうしますね。ですが、現段階では少し気温差にくしゃみをしているくらいで済むかもしれないのです」
「その場合は、まだ薬湯などはいいのかな………」
「はい。ひとまず、温かい飲み物を飲みながら仕事をしてみて、やり過ごせるかどうかの様子を見てみますね」
「………うん」
くしゃみはご主人様が減るものだと思っている節のある魔物は少しめそめそしていたが、ネアは、この分岐を乗り越えてしまえば意外にどうということは無かったとなる段階だと考え、部屋に備え付けられているポットに向かった。
この季節のポットは冷たい飲み物が主流になるが、必ず一つは、温かな紅茶も入っている。
しかし、いつものポットになみなみと温かな紅茶が入っていたのは春先迄で、そろそろ、七分目くらいまでの量に調整される頃合いだ。
(もし、もっと飲むことになりそうだったら、早めにお願いしておいた方がいいかしら)
厨房を使えばお湯くらいは簡単に沸かせるので、自分で温かな飲み物を作るのは簡単なのだが、もし、ネアが風邪などでぱたりといってしまうと、ディノ一人ではややおぼつかない。
ただでさえ動揺させてしまうので出来るだけ負担を減らしてやらねばならず、本格的に寝込むのなら、家事妖精にポットのお茶を頼んでしまう方が心配がないのである。
(……何が飲みたいかな。………この紅茶でいいだろうか)
選択肢が増えた今の暮らしの中では、ちょっぴり弱っている時は、贅沢に過ごす事もある。
ネアは、もし今の体調に合わなければ別の紅茶を淹れてもいいかなと思いつつ、ポット横に置かれた小さなカードから本日の紅茶を確認し、さくらんぼと雨音の紅茶という文字に目を輝かせた。
甘酸っぱい感じかなとカップに少しだけ注いで一口飲んでみたが、とても美味しいのでまずはこちらから消費させていただこう。
なお、事前に注文なども出せる上に、保温期間の長いリーエンベルクのポット魔術では飲み残しはあまり出ないのだが、客間などのポットの中身がもう誰にも飲まれないとなると、魔術茶漉しで余分な要素を排除した残り物を、庭園や敷地内の小さな生き物たちに配ったりもする。
この作業は大喜びの小さな生き物からの祝福が沢山集まるので、手が空いている騎士たちが代わりに行う事もあった。
小石に躓かない祝福や、植物の棘が刺さらない祝福など、長い目で見ればかなり有用なものを授かる事もあるらしい。
「ディノは、どちらの飲み物を飲みますか?冷たい飲み物では、杏の果実水と、普通の香草茶もありますよ」
「香草茶にしようかな………」
「はい。では、………あら、注いでくれるのです?」
「弱っている時は、あまり働かない方がいいからね」
「ふふ。ヒルドさんがそう言っていましたものね。エーダリア様の熱がすっかり下がって良かったです」
「うん。…………熱はないかい?」
「ええ。熱はなさそうなので、まずはお仕事です!」
「今日の薬は、この三種かな」
「……………なぬ」
いつもであれば、この薬の魔物の運用の伴侶は、ネアが指示書を読むのをじっと待っている魔物だ。
そわそわと嬉しそうに目元を染めて、ネアがこの薬を作りますよと言うのを待ち、指示を受けてから薬瓶ごとぽこんと薬を作ってくれる。
そして、一瓶ごとに褒めて貰ったり、全部が揃った際には爪先を踏んで貰ったりするのだ。
しかし、今はどうだろう。
温かな飲み物を用意し、さて仕事を始めようかと仕事用の机についた途端、その上に本日分の薬瓶が出来上がってしまったではないか。
ネアは、どこか誇らしげにこちらを見ている魔物に、さては毎回この感じでも出来るのだなと言いたくもなったが、こちらを心配しての事は間違いないので、まずはにっこりと微笑んでおく。
「まぁ。もう出来てしまったのですね。では、エーダリア様からの指示書を見ながら、揃っているかどうか確認してみますね」
「うん」
「……………まずは、祝祭探しの水薬。……………むぅ」
指示書の頭から、初めましての薬が登場し、ネアは目を瞬いた。
いつもの傷薬などであれば一瞬で作ってしまっても不思議はないのだが、今回はなんと、初めて作る薬のようだ。
材料や効能的には希少と言われる階位のものではないようだが、初めてなのでと、エーダリアも丁寧に内容説明や本来の材料などのメモを添えてくれているではないか。
しかしディノは、その薬を事もなげに一瞬で作ってしまったのだ。
「この薬だね。三本と書いてあるので、そのようにしたよ」
「祝祭の強い魔術の扉を、視認出来るようにするお薬なのですね……………」
「妖精の軟膏や、精霊の酒に近い効果があるけれど、薬として薬効という認知を付けることで、効果の善性だけを得られるようにしたものだ。最初に作ったのはグラフィーツだった筈だ」
「グラフィーツさんが作ったお薬というのは、初めて聞きました!」
「あまり、人間の文化に薬や道具を残さない魔物だからね。けれどもこの薬は、特定の魔術を育む者達の才能を高める効果もあるから、その為にレシピを共有したのだろう」
「……………まさか、お砂糖的な」
「……うん。聖女や聖人が使う事の多い薬だね」
ネアは、これが魔物達の言う、畑の手入れの一環なのだろうかと遠い目になりながらも、小さく頷いた。
祝福探しの水薬は、見たり感じたりする能力を一時的に高める薬なので、元々感覚の鋭い者達が使うとより効果が出易い。
ローズマリーのような独特の香りがあり、グラスなどに注ぐとミントティーのような色合いなのだとか。
「効果を残したまま過ごすと余分なものが見え続けてしまうから、効能を弱める際には、酒類を飲むか、砂糖を食べるといいんだ」
「ほわ、お砂糖を……………」
「どちらも、酩酊や目隠しの役割を持つものだね。妖精の軟膏の場合は、特別な石鹸が必要になるから、そのような意味でもこちらの方が扱いやすいのかな」
「祝祭探しという名前のお薬ですが、祝祭用にしか使えないのですか?」
「うん。効能を限定することで、水薬として切り出していた筈だよ。祝祭の祝福と結ぶ事で、効果の悪性を退けてもいる」
「ふむふむ」
ネアは、久し振りのお薬手帳に聞いたことを書き込み、新しい文字列の追加に唇の端を持ち上げた。
エーダリアの純粋に知識欲的なメモの仕方ではなく、ネアが行う情報の編纂には、未だに憧れが尽きる事のないおとぎ話の世界の欠片集めのような役割もある。
リノアールで綺麗なフィンベリアを買うような思いで、魔術や人ならざるものの領域の規則性を持つ知識を書き集めていると、ちょっぴり魔術師気分も味わえる、素敵な学びなのだ。
(それに、ここで記録した情報が、今後に何かあった際のヒントや、自分で判断をしなければいけない場面での助けになるかもしれないし…………)
まずは一つ、祝祭探しの水薬から。
作業完了のチェックを入れてから、次なる発注項目を指先で辿り、ネアはまた目を瞬いた。
「……………また初めてのお薬です。………影落としの水薬?」
「足元の魔術を整えるものだね。この、色の濃い瓶のものだよ。あまり瓶の色が薄いと、蓄えた影光が逃げてしまうから、濃い色の瓶に入れなければいけないんだ」
「かげひかり……………」
「影だけを照らす光の成分と言えばいいのかな。視認出来るようなものではなく、魔術効果に付随する光の魔術を示してる」
「……………ほわふ」
説明の内容が理解の彼方にいってしまったので、ネアは、ただゆっくりと頷いた。
このような界隈の説明になると、実際に魔術を動かせる者達にしか認識の出来ない表現も多く、ネアは、心を無にして説明通りの文章を手帳に書き込む。
最初の薬はまだ、薬効やその背景が想像の範疇であったが、こうして、思い描くという最初の段階で躓いてしまうものも少なくはない。
スリンダビルなどのように、薬効は想像がつくし材料も想像出来るが、精製工程が謎だというものはまだいい方で、こうして、効能と素材の両方の理解で躓いてしまうと、なかなか記憶に残り難いのだ。
(……………噛み砕いて想像出来ないと、いざという時にすぐに思い出せないから、このお薬の情報は重ねて覚えておくようにしないとだわ………)
そんな場合は、薬の名前の横に葉っぱマークを書き入れておき、一目でわかるようにしてあった。
当初は星マークを書き入れていたが何だかしっくりこず、葉っぱマークを開発したところ、漸く魔術薬の手帳という感じが出たのだ。
「影落としの薬は、私には未知の領域なので、ささっと五本完了としますね。後はいつもの傷薬ですので、こちらの七本で大丈夫だと思います。今日は多めのご注文でしたね」
「夏至祭の備えを始めているのだろう。………ネア、ここに座るかい?」
「椅子が発動してしまうのです?」
「もう、仕事は終わりだろう?」
「………むぐぐ、確かにお仕事は終わりましたので、こちらに私のサインを入れた後に、ディノを椅子にします!」
ネアは、エーダリアからの指示書に内容確認の署名をし、本日の薬の魔物の仕事を完了とする。
この際に魔術のおかしな結びが発生しないように、ネアの署名は葉っぱマークだ。
エーダリアのように名前による署名でも本来は問題がないのだが、もし特殊な反応があった際に、ネアは目視での危機回避が出来ない。
とは言えこの部分の署名は、魔物の管理責任者でもあるネアの区分なので、試行錯誤の後、今はこちらの葉っぱマークが適応されている。
手帳と同じように、より良い方法が見付かれば、またやり方を変えてゆくのだろう。
(薬の納品はお昼の時でいいと書いてあるので、その時にお渡ししよう)
赤いインクで記してあるので、その注釈は生かすことにした。
恐らく、初めて作る薬があるので、薬に纏わる話が出来るよう、昼食時の受け渡しにしたのだろう。
そういえば今日は、お昼前にザルツやガーウィンとの魔術通信会議があると話していたなと頷き、ネアは本日の薬を納品用の木箱に収めた。
「……………さて、……………む?」
「…………ノアベルトかな」
魔物を椅子にする頃合いかなと思ったところで、どしんと音がした。
扉に何かが激突した音なのだが、このような場合は銀狐の構い給え攻撃であることが多い。
最初の頃は前足で扉をかしかし引っ掻いていたが、小さな傷が出来てしまったり、思っていたよりもお知らせ効果が薄かったことで、作戦を変えたようだ。
「扉を開けてきますね」
「おいで、一緒に行こう」
「む。乗り物になってしまうのです?」
「君が減ってしまうといけないからね」
「…………そう言えば、いつの間にかくしゃみは落ち着きました。このまま治ってしまえばいいなと思うので、ここは伴侶に持ち上げて貰いますね」
「可愛い…………」
僅かな距離であるが、伴侶を大事にしたい魔物の思いは汲むことにして、ネアはディノに持ち上げて貰い部屋の入り口に向かう。
(やっぱり、…………まだ空気がひんやりしているな)
仕事部屋を出ると、僅かな空気の動きにもひやりとするような肌寒さがあった。
窓硝子を流れてゆく雨の雫からも、引き続き、本降りの雨の時間が続くようだ。
魔術で雨を弾けないネアは、こんな日の見回りは大変だなと思ってしまうが、騎士達は雨除けの魔術をさっと施し、雨用のケープを羽織って出かけてゆく。
庭園の向こうにリーエンベルクの騎士の水色のケープが見え、ネアは、雨の中も日々の安全を守ってくれる頼もしさに感謝した。
「……………フキュフ」
「そして、狐さんだけではなく、狐さんに騎乗したちびふわでした」
「……………アルテアが」
扉を開けた先にいたのは、銀狐ばかりではなかったようだ。
ネアは、あまりにも愛くるしい組み合わせだが、その実とても危険な組み合わせに、目を丸くする。
「もはや、アルテアさん用の仕掛けが多過ぎて、何がどう作用したのか、もしくは撫でて欲しくて自分でちびふわになってしまったのかも分からないのですが……」
「フキュフー!」
「どうやら、事故のようですね。狐さんは、ちびふわを保護してくれたのですか?」
ネアの問いかけに、銀狐はふさふさの胸毛を見せつけるようにすると、未だに冬毛の尻尾をふりふりした。
乗り物が大きく揺れたので、頭の上に乗っているちびちびふわふわした生き物が、みっとなっている。
本来の姿で考えると、事故に遭った選択の魔物を塩の魔物が発見して保護したと言うとんでもない構図なのだが、ネアは、どちらもふかふか毛皮になってしまっているので、真実というものはあまり重要視しなくてもいいのかもしれない。
「フキュフ!」
「この子は、インヘルかもしれないから、私が持ち上げるかい?」
「なぬ。もうくしゃみも収まったので、そこまで重症ではないのですよ?」
いつもならご主人様が手を差し伸べて肩に乗せてくれるのにと、ネアを下すようにと鳴いたちびふわに、すっかり看病気分になってしまっているディノが、そっと首を横に振る。
驚いてしまったのはもふもふ達で、けばけばになった銀狐がムギーと鳴き、頭の上にいるちびふわの尻尾もけばけばになってしまう。
「あらあら、もう大丈夫なのですよ?」
「でも、薬湯は飲んだ方がいいのではないかな。………アルテアもいるだろう?」
「これは、………薬湯は作れないと思われる、ちびちびふわふわした生き物なのですよ」
「そうなのだね………」
ネアは、薬湯を回避するべくそう言ったのだが、ディノは悲しげに項垂れてしまった。
その結果、銀狐の頭の上で元の姿に戻して欲しいちびふわが荒れ狂い、鼻先に尻尾が当たってむがっとなった銀狐が飛び跳ねてしまうという事件が起きたのだ。
「ぎゃ?!ちびふわが!!
「フキュフー?!」
騎乗している銀狐の突然の垂直飛びは、頭の上のちびふわをかなり驚かせたようだ。
耳の先までけばけばになって固まった小さな生き物は、選択の魔物がどこかへ跳ね飛ばされてしまうことを懸念したディノの手、ですぐさま回収される。
そして、幸いにも擬態の呪いはすぐに解けた。
「……………くそ、何なんだこの仕掛けの多さは」
「一時的な状態付与のようだね。何かをしてしまったのかい?」
「廊下の書棚の、記録書の並びを直してやっただけだぞ」
「………手に取ったことで、魔術的な条件指定が動いてしまったのかな」
効果の短さからすると、何だか怪しい動きをしたので、一瞬だけちびふわにしておこうというくらいの魔術の仕掛けだったのかもしれないようだ。
だが、うっかりちびふわを保護して、この部屋まで一緒に来てしまった銀狐は、元の姿に戻る訳にもいかず、ネアの膝の上で涙目のままけばけばになっている。
「……………沼味はいらないのですよ」
「復調したかどうかも、お前の可動域だと分からないだろうが。目を離すとすぐに薬湯が必要になるのは、呪いか何かなのか?」
「そんな筈はないので、アルテアさんが薬湯を作り過ぎだと思うのです………。ぎゃふ」
ネアの予定では、早めに仕事が終わったので、ポットの紅茶を美味しく飲んだ後に、牛乳を沸かしてミルクティーを淹れる筈だったのだ。
丁寧に淹れた美味しいミルクティーを飲みながら昼食までの時間をゆったり過ごし、雨音を聞きながら、ディノとお喋りなどをしていようと思っていた。
しかし、ネアの手には今、渡されたばかりのほかほかと湯気を立てる薬湯のカップがある。
小さく唸り声を上げて悲しみを表現したが、薬湯の匂いを嗅いだ銀狐はびゃっと逃げ出していってしまい、腰に手を当てて、明らかに飲み終わるまで見守るスタイルなアルテアと見つめ合う。
「王都の貴族相関で、ヒルドに確認することがあって立ち寄っただけだからな。俺が、次の予定に間に合うように飲み終えろよ」
「ぐるるる…………」
「ネア、飲んでしまえるかい?」
「…………むぐる」
ネアは、今度から伴侶に、薬湯相当のくしゃみと、インヘル確定のくしゃみの表を作って渡しておこうと心に誓いながら、湯気を立てている薬湯のカップをぐいと傾ける。
「ぎゃ!」
「……………飲んだな。カップは家事妖精に渡しておけ。俺はもう行くぞ」
「ぶ、ぶどうぜり……」
「……………ったく。檸檬ゼリーで我慢しろ」
「れもん………」
予定外の薬湯だったので、葡萄ゼリーの在庫はなかったのか、ネアは、上に白いクリームが乗った檸檬ゼリーを奉納してくれた。
そちらを美味しくいただくことによって、無事に荒ぶる心を鎮める事が出来たネアは、とは言え、薬湯を飲んだからにはと、帰ってしまったアルテアの代わりに人型になった義兄と伴侶に寝かしつけられ、なぜこうなったのだろうという思いで目を閉じる。
思いがけないところからも薬湯が出されてしまうので、今後は、くしゃみをする際にもしっかり状況確認と伴侶への説明を行っていくしかないようだ。
明日6/30の更新はお休みとなります。
TwitterにてSSを書かせていただきますので、もし宜しければご覧下さい!