夜の確認と羽の天蓋
一日の仕事を終え、ふうっと息を吐く。
椅子に座ったままぐっと背中を逸らすと、首の後ろが僅かに痛んだ。
窓の外に目をやれば、ふくよかな青色がわずかに紫紺がかった森の色は、真夜中を過ぎたくらいだろうか。
騎士達の報告書に目を通し、時系列や必要な項目の足りていないものにペンを入れていたのだが、ついつい力を入れ過ぎてしまったらしい。
元々は、明日の仕事として部屋に持ち帰っていたのだが、就寝前に少しだけ余裕があったので捲っていたところ、あんまりな出来の報告書を何枚か見付けてしまい、堪らずしっかりと読み直す羽目になってしまったのだ。
ちらりと、部屋の薬品棚に置いてある魔術薬を見たが、この後はもう寝るだけなのでと首を振る。
着替えもまだだったなと息を吐き、椅子から立ち上がって羽を伸ばしたところで、ふと、並びの部屋が気になった。
(……………もう、熱は下がったので問題ないと思うが)
出会った頃は、僅かな体調の変化くらいのものは、自分で整えてしまう子供であった。
その器用さを哀れに思いながらも、器用でなければとうに命を落としていた子供だとも思う。
小さな子供の吐息が熱かった事に気付き夜に様子を見に行くと、自分で魔術薬を作り、夜明け近くまで勉強をしているということも少なくはなかった。
だが、今はどうだろう。
安心して徹夜で好きな本を読み、かつては触れる事も許されなかったものを採取してくるようになったエーダリアは、久し振りに体調を崩した自分をどのように扱うだろうか。
そう考えて眉を寄せると、ヒルドは広げていた羽をきちんと揃え、椅子を戻して部屋を出た。
夜の廊下はしんと静まり返り、当たり前だが誰の姿もない。
それでも前後の確認を行うのは、身の安全の為ではなく、時折銀狐が遊び疲れて廊下で眠り込んでいる事があるからだ。
幸いにも今夜はそのようなこともないようで、小さく頷き、足早に隣室に向かう。
ノックをしようと手を持ち上げてから、その手を下ろして扉に手をかけた。
ノックせずに部屋に入れるようにしたのは、ネイの提案であったが、これは、この部屋の主人が、眠るべき時間に魔術書を読み耽っているのか、ちゃんと就寝しているのかの見極めが難しかったからである。
どうせまた夜更かししているのだろうとノックをしてしまい、眠そうな目でよろよろと出てきたエーダリアが部屋の扉を開けた事が二度程あったことで、真夜中以降の時間のみ、ノックなしで部屋に入れるようにと部屋の運用を変えたのだった。
とは言えそこには、真夜中にも顔をソース塗れにして助けを求めてくる銀狐や、同じような時間に突然構って貰いたくてボールを咥えて遊びに来る銀狐の思惑がなかったとは言えず、今では少しばかりそちらに舵取りしたことを後悔もしている。
ノックの運用を変えたのはエーダリアの部屋ばかりではなく、ヒルドの部屋も同様の変更を行っていたからであった。
「……………ヒルドか」
「やはり、起きておられましたか。…………体調は、もう宜しいのですか?」
部屋に入ってすぐに、エーダリアが起きている事には気付いていた。
奥の部屋から明かりが漏れていたし、窓からの夜の光の中で眠るのが好きなエーダリアが、関係のない部屋の明かりまでを点けたまま眠る事はあまりない。
本当はカーテンを引いて欲しいのだが、エーダリアは今も、カーテンを開けたまま、夜空や庭園を眺めながら眠るのが好きだ。
幼い頃に手に出来なかったものを無意識に搔き集めるように、その小さな嗜好は、拘りにも近い強いものになってしまっていて、時折、胸が痛くなる。
(だから今夜も、………この方は起きていると思った)
あの幼い頃のように、僅かな体調の変化は自分で整えてしまい、その短い不自由さに怯えるように、勉強や仕事をしているのではないかと思ったのだが、案の定だ。
机の上には、夏至祭に向けた様々な資料が並べられており、過去の夏至祭の報告書をまとめた記録書も置かれている。
ヒルドが無言で眉を持ち上げると、しまったと思ったのか困ったように微笑んだが、隠れて朝まで読んでしまう魔術書などとは違い、慌てて隠すようなことはしなかった。
ふと、胸を過ぎるのは小さな後悔だ。
もし、あの幼い頃のエーダリアの部屋にも、ヒルドがこうして姿を現していれば、幼いエーダリアはどのような反応を示しただろう。
だが、復調したのであればと部屋を出ていたヒルドは、終ぞ、一人で孤独な夜を過ごしていた子供に声をかけることはなかった。
(あの頃の私には、……………その子供にかけるべき言葉が、見付からなかったのだろう)
けれども、どんな内容でもいいから、声をかけておくべきだったのだ。
声をかけ、案じている者がいるのだと、小さな手をいつもきつく握り締めていた子供に伝えてやるべきだった。
そうすれば、この大事な子供の心に、無意識に残る飢えを残さずに済んだのかもしれない。
「ああ。それで、様子を見に来てくれたのか。熱はもう問題ない。…………今夜は少し、夏至祭の準備で疑問になってしまった箇所があってな。前回の漂流物の年にはどのような対策を行ったのか、どうしても気になって調べてしまっていた」
「……………あなたは、王宮にいた頃も、体調を崩した直後は、眠れずに調べ物をしている事が多かったのでと様子を見に来たのですが、やはり、来て良かったようです」
まるで、何事もないように微笑んだエーダリアに、ヒルドは敢えてその言葉を選んだ。
ふっと瞳を揺らし、こちらを見上げたエーダリアは、僅かに途方にくれたような表情をしている。
こんな時間に執務相当のことをしていたのだと見付かった時よりも、余程、落ち着かない様子だ。
「……………お前は、………あの頃も、私の様子を見に来てくれていたのか?」
「当然でしょう。当時はお声がけは出来ませんでしたが、もし、そのまま寝込んでいるような事があれば、私がお世話しましたよ」
「………そう、………か。……………そうだな。お前が気付かない筈もなかったか」
途方に暮れたように。
そして、ずっと誰かを待っていた子供が、漸く帰り道を見付けたように。
そんな目をしてくしゃりと微笑んだエーダリアの表情は決して悲しいものではなかったが、はっとする程に鮮やかな安堵と喜びには、この子供をもっと早く見つけるべきだったという痛ましさがあった。
「あの頃とは違いますからね。………今夜は、あなたが回復されているようでも、声をかけるつもりでした」
「…………ああ。………っ、どうしてなのだろうな。なぜだか、……………お前の姿を見たら、安堵してしまった」
「……………もう少し早く、お声がけするべきでしたね」
「だが、お前もその服装だ。仕事をしていたのではないか?心配をかけてしまったが、どうか早く休んでくれ」
ヒルドの言葉を、今夜のことだと誤解したのだろう。
慌てたようにそう言うエーダリアの頭に手を載せ、目を丸くしているエーダリアが呆然としている間に、そっと頭を撫でてやる。
まるで小さな子供を労うような仕草に、ぱっと目元を染めてこちらを見上げたエーダリアは、なぜこんなことをされたのかが分からずに動揺しているようであった。
「…………ヒルド?その、…………酔ってはいないようだな」
「この通り、酒など飲んでおりませんよ」
「あ、ああ。……………そうだな。……その、」
「明日は、早い時間の執務はありませんが、それでも通常通りの時間に起きなければならない日です。死霊の片付けを手伝いますので、就寝のご準備をされて下さい」
「いや、それくらいは自分で出来る。お前こそ、早く休んでくれ」
慌てた様子で立ち上がったエーダリアを、僅かに首を傾げてじっと見つめると、観念したようにがくりと肩を落とす。
こうすれば、こちらに引く気がないのだと理解するようになったのは、いつからだっただろうか。
「ノアベルトにも言ったのだが、……………お前達は、ネアへの対処法を、私にも使おうとしていないだろうか」
「おや、私はそのようにはしておりませんよ。ネア様の場合、このような事があっても、看病をなされるのはディノ様やアルテア様の役割です。勿論、私も家族として手伝いますがね」
「……………そうなのか?」
「ええ。ですが、あなたが体調を崩した場合に面倒を見るのは、私です。これは、ネイが同席するのは構いませんが、誰かに譲るつもりはありません」
「………っ、」
そう言えば、なぜかエーダリアが顔を両手で覆ってしまったので、やれやれと肩を竦め、使っていた資料を年代順に並べ直す。
開いていた頁には、栞代わりに書き込みの出来る細長い紙にどのように開かれていたかをメモして挟み、並べてあった資料の順番を考え、今夜の配置を再現し易いように重ね、銀水晶のクリップで留める。
全てを片付け終える頃になって漸く、なぜかふらふらしながら、エーダリアが着替えに行くのを見送り、就寝の支度を整えて戻って来たのを確認してから、寝台に入るまでを見届けることにした。
「ヒルド。……………私は、もう幼い子供ではないのだぞ?」
「ええ。存じ上げておりますよ。ですが、妖精鯨を見て熱を出されたばかりですからね。水差しはこちらに準備しておりますが、ここに、妖精の香草茶も準備してあります。もし、寝付けないようであれば、こちらを飲んでみて下さい」
「……………ああ。……………有難う、ヒルド」
「ええ。あなたがしっかりと休んで下されば、私も安心して眠れますからね」
おろおろしがらなも素直に寝かしつけられたエーダリアが、顔を隠すように寝具を引っ張り上げ、目を閉じる。
子供の様に扱われて落ち着かないのかもしれないが、こちらの年齢を考えれば、いつまでだってこのように接してもさして問題はない筈だ。
ヒルドは妖精であるので、先程は魔物達に任せておくと口にしたネアだって、許される範囲があれば手を出すのは吝かではないが、彼女に向ける執着と、明確に自分の領域であると線を引き記したエーダリアは、また別の執着であった。
なのでこの行為は、ヒルドにとっての我が儘であるのと同時に、ヒルドが手に入れた領分の手入れなのである。
この地で漸く心穏やかに共に暮らせるようになり、今はもう、あの頃のように躊躇わず、ただ寄り添う事が出来る。
この大事な子供を甘やかし、これからもずっと守り続けていけるだろう。
「……………おやすみなさい。良い夢を」
あれだけ落ち着かない様子であったが、エーダリアは、思っていた以上にすとんと眠ってしまった。
やはり、魔術で体調を整えても、体は、発熱などで失った体力を回復させようとしていたのだろう。
このまま朝まで眠ってくれればと思いながら部屋に戻り、背中を伸ばすと、未だに痛みの残る首を片手で揉んだ。
ここ数日は、書類仕事が多かった。
今も昔も処理が早いので誰からも気付かれずにいたが、ヒルドの一族の資質では、本来は剣を持って戦うような仕事の方が向いているのだ。
王都でも、他の文官よりも余程作業が早いと言われて任される書類仕事は少なくはなかったが、ウィームに来てからは、前線に出るような作業を他の者に任せておけるお陰で、いっそうにこちら側の仕事が増えている。
(………明日になっても痛みが残るようであれば、水薬を飲んでおくか)
上着を脱ぎ、ジレのボタンを外す。
クラヴァットを解いて首元から引き抜き、髪紐を解きながら、シャツを脱いだ。
そんな就寝準備の合間に、贈り物だったグラスに注ぐのは、冷たい香草茶ではなく、ほんの少しの妖精の酒だ。
近付いてくる夏至祭の気配に、羽の付け根や胸の底に甘い騒めきがある。
その、震えるような高揚感を鎮める為に、氷のように冷たい酒を一口飲んだ。
とは言え、夏至祭の日の魔術の揺らぎに、うっかり足元を掬われるような程に飢えてはいない。
種族にもよるが、ヒルドの一族は、周囲の者達の感情の揺らぎも糧になる。
なので、漸くこの手に得た家族と共に暮らしている限り、他の妖精達が貪るどんな享楽よりも馨しいものが、いつだって潤沢に満たされていた。
(それでも残る夏至祭の揺らぎは、……強い酒を一口だけ飲んだようなものなのだろう)
多くの妖精達が、その夜には伴侶を攫い、或いは、獲物をばらばらに引き裂いてくる。
愛する者達とダンスを踊り、花輪を作って妖精の酒を飲むのが夏至祭のならわしだ。
その中には一族でも引き継がれた伝統もあったが、困った事に、ヒルドはもう、それをせずとも充分に満たされているらしい。
きっと、夏至祭の朝は、いつものようにエーダリアを起こしに行き、家族と朝食を共に食べるだけで、夜通し踊り明かす他の妖精達よりも、遥かに幸福に違いなかった。
酒を飲んだせいか、不思議な高揚感があった。
上機嫌な内にとさっと入浴してしまい、魔術で髪を乾かすと、寝間着に着替える。
寝室に戻ってくると、部屋の入口に途中で力尽きたのか、うつ伏せで眠っている銀狐を見付けたので、ふうっと溜め息を吐くと、持ち上げて寝台に入れた。
「…………ふぇぐ」
しかし、さて寝ようかと思ったところで、ネアが部屋を訪ねてきた。
妖精の部屋を尋ねるという意味を知らないのは承知の上だが、さすがにこの時間であるので動揺していると、どうやらネイが、恋人関係にあった森の妖精を怒らせ、厄介な呪いを受けたらしい。
「その騒ぎが博物館前通りで繰り広げられていた時に、うっかり、私とディノが通りかかってしまったのです。ノアが助けを求めたせいで同居の家族だとばれてしまい、一緒に追いかけ回されたのですが、その際に、ちょっぴり呪いを貰ってしまったのかもしれません」
「…………呪いの解除は行いましたか?」
「ふぁい。ですが、とても怖い夢を見るという呪いだったので、呪いを解いた後も、とは言えもし見てしまったらどうしようと思うとそのせいで怖い夢を見てしまいそうで、ぞわりとして眠れないのです」
「キュ……」
「おやおや……………」
「相手は森の妖精さんでしたので、ヒルドさんの近くに居ると、怖い夢は見ないのですよ。ノアはそれに気付き、さっと狐さんになって走っていってしまいました。なので今夜は、ムグリスになってくれたディノと一緒に、ヒルドさんのお部屋で寝かせて下さい……………」
どうやら、寝室の入り口で銀狐が眠っていたのは、そのような理由があってのことだったらしい。
あの位置にいたのは、途中で力尽きたのではなく、ヒルドが寝室に来るのを待っている間に眠ってしまったのだろう。
「そのご様子ですと、長椅子で眠られるおつもりですか?」
「はい。枕と毛布を持ってきました!」
「キュ!」
「女性をそのようなところで寝かせる訳にはいきませんよ。寝台は広いですから、隣にどうぞ。ネイも既に入っておりますからね」
「……………む。……むぐぐ」
躊躇っているようだったので、妖精の薬草茶を飲ませてしまい、居眠りを始めたところを抱き上げ、寝台の左側にそっと寝かせる。
こちらとの間には仰向けになって眠っている銀狐がいるし、ムグリス姿の万象の魔物は、彼女の首元で丸まって眠るようだ。
寝室の明かりを消す際に、同じ寝台の上に眠る家族を見下ろし、ふっと微笑みを深めた。
気分のいい夜に、一口だけ飲んだ妖精の酒のせいで少しだけ酔っているのかもしれなかったが、たまにはこんな夜があってもいいだろう。
片側の羽を大きく広げ、そっと家族を覆うようにすると、森の妖精の呪いなどが触れないようにして目を閉じた。
こんな風に誰かを守りながら眠ると、例えようもなくいい気分になる。
またどこかで夏至祭の気配が揺れたが、それはもう、しっかりと胸の奥まで満たされた幸福感でしかないような気がした。