232. 復活祭の夜は劇場に向かいます(本編)
深い霧に包まれたウィームの夜には、こんな夜にだけ現れる劇場がある。
とは言えそれは魔術異変や特異点ではなく、同じ土地で確認され続ける蜃気楼のような、ある種見慣れた光景でもあった。
復活祭の夜だからといって、その出現が変わることはなく、条件を揃えた場所に現れるのが、魔術の理なのだ。
「……………不思議な夜ですね。この劇場に足を運ぶのは二度目ですが、よく知る方々がいるような気もするのに、視線を向けると、見知らぬ方しかいないのです」
「今夜の君には、どのように見えるんだい?」
「仮面をかけた方や、鳥の羽のような髪の毛を持つ方もいますし、妖精さんや、……………謎のけばけば生物もいます。いつものウィーム中央市場を訪れるような感覚で、周囲の方はお名前などは知らずとも見慣れた方のように感じられますが、焦点を合わせてみれば、やはり見知らぬ方しかいないのですよ」
ここでは、同じ場所にいても互いに見えるものが違う。
ディノにはどのように見えているのか聞けば、お客には人外者が多く、今はもういない魔物達の姿もちらほらあるそうだ。
そんな事を聞いてしまえば、ここで姿を見かけてしまう事が苦痛になる者はいないだろうかと心配になったが、幸いにも、ディノにとっての失い得ない人は戻ってきてくれているので大丈夫であるらしい。
追憶の劇場と呼ばれている場所は、今夜も賑わっていた。
晩春から夏の終わりまでの、死者達が地上に上がる霧の夜にだけ現れ、滞在出来る時間は僅かで一刻程。
訪れ方はとても簡単で、霧の夜の中に立ち目を閉じると、訪問を希望する者の瞼の裏に劇場の明かりが揺れ、耳朶を震わせる開演前の賑わいが聞こえてくる。
(そして、目を開くとそこには劇場があるのだ)
周囲は観劇の為に着飾った人々が多いが、どこから迷い込んだのだろうという服装の水夫などもいる。
この大きな劇場の内装は、現在の形になる前のウィーク歌劇場だと言われているが、客席の仕様が少し違うので、訪れるお客の記憶などを取り込み変質している可能性も高い。
客席に続く大きな階段に、紳士たちの社交場となるシガールームのような場所。
表通りに面しているカフェとは別に、飲み物を買う事が出来るカウンターもあり、パンフレットは劇場の記念品と一緒に置くの売店で売られている。
窓から見れば外には美しい街並みが広がっているが、この劇場を出てそちら側に向かう事は出来ないと言われていた。
開かれているけれど閉じていて、美しく賑やかで、どこか胸が痛くなるような穏やかさがある。
「今日の表通りは、晴れた日の夜のようですよ」
「こちらは雨が降っているよ。コートは着ていないので、夏の終わりだろうか」
「まぁ。今夜は、ディノとお天気も違うのですね。こうして一緒にいるのに、何だか不思議な気分です」
実際に訪れてみるまで、ネアはこの劇場が苦手であった。
しかし、きっと怖かったり、胸が痛んだりするのだろうと考えて一度素敵な観劇の時間を得てしまうと、ウィームに数多くある不思議な劇場の一つだと思うようになった。
よく見てみれば、かつての記憶の中の劇場には少しも似ておらず、奇妙な空間ではあるが、実は、数あるあわいの中でもずば抜けて安全な場所だとされているらしい。
実際にネアは、この劇場を訪れても少しも怖くなかった。
(この劇場が、私の追憶も過去も映さないのは、祝福の領域にある場所だからなのだろう。私が望まず、私が怖いと思うからこそ、ただの見知らぬ劇場でいてくれるのかもしれない)
祝福の領域にあるこの劇場は、在りし日の記憶を辿る追憶の庭だという。
多くの者達は、追憶を覗くためにこの劇場を訪れるが、その種の追憶や思い出を持たない者達は、一夜の夢のような劇場を楽しむばかり。
見た目では分からないが、ネア達のように、ただの不思議な場所として訪れている者も少なくはないらしい。
祝福管理のあわいなので、公演の体験以外に押し付けられるものはないが、入場にはチケット代が必要で、出かける前に金貨を一枚ポケットに入れてくといいと言われていた。
チケット代を持たずに訪問してしまった場合も、元居た場所に戻されてから十日以内に枕元に金貨を置いておけば問題ないそうだが、それ以上に支払いが遅れると、相応のものが失われることになるので要注意だ。
うっかり迷い込んでしまっても、支払いが出来ないのでと帰る事が可能であると聞けば、成る程、祝福の庭らしい善良さであるとも言えよう。
それでも、チケット代が払えると信じて劇場を訪れ、必要なお代を揃えられないままに、目や手足を失う人もいると聞けば、それはもう人間らしい愚かさなのであった。
「……………うん。劇場内には、影響は出ていないようだね」
「こちらも、事前に聞いていたような変化は出ていないように見えます」
「内装にも問題はなさそうかい?」
「はい。壁にひび割れもなく、家具や施設が古びて見えることもなく、前回来た時のままのとても綺麗な劇場ですね。以前に訪れた際には、秋の公演をさっと観て帰るばかりでしたので、こうしてじっくり観察したのは初めてですが、入り口の前でスケッチをしていた方がいたのも分かるような、綺麗な建物です!」
ネア達が劇場を訪れたのは、ダリル経由で届いた調査の為であった。
追憶の劇場は特殊なあわいになるのだが、こうして足を運ぶ領民も多い為、激辛スープの祝福を貰い安心して動けるネア達が、劇場の領域で異変がないかどうか様子を見てくることになったのだ。
「先程の絨毯のところまでであれば、入場料はかからないんだ。それを知って、劇場の入り口を毎晩のように訪れる者達もいるそうだよ」
「ふむ。そのような時間も、素敵なものかもしれませんね。中に入って舞台を楽しまなくても、この壮麗な劇場の玄関ホールに佇むだけで、何だか素敵な気分になれるような気がします」
そうして毎夜劇場を訪れる者達は、この夜にどんな夢を見るのだろう。
ネアが見かけた画家のように、劇場の絵を描く為に何度も足を運ぶ者もいるかもしれないが、ディノがもういない筈の魔物達を見かけるように、ここでは、失われた筈の者に会う事も出来る。
ただし、だからこそ留意しなければいけないことなのだが、失われた筈の者達に本当に会えているのかは若干怪しいようで、ここは交差路ではなく、あくまでも追憶の劇場であることを忘れてはいけない。
(…………だからこそ、追憶の舞台なのだ)
多分ここは、劇場の入り口から舞台の上なのだろう。
訪れた客人の記憶を参照し、その願いと懐かしい人の姿を劇場という箱の中に映し出す。
残念ながら、ネアの家族を見る事は出来ないようであるし、もしかしたらネア自身が、この世界を知らない家族との思い出を、わざわざこちら側に持ち込む事を望んでいないのかもしれない。
だが、目を閉じて懐かしい人との時間を夢想するように、愛する人の微笑みに出会える場所だと思えば、金貨一枚でも足りないくらいの恩寵とも言うべき舞台でもあった。
とは言え、何もかもが無尽蔵に叶う訳でもない。
どれだけ大切な人でも、何の関わりもなかった人の姿は遠くの方にしか見えないし、一度も会った事がない人が目の前に現れる事はないのだそうだ。
なので、投影された追憶の中に入り込める、体験型の思い出加工装置のようなものだと自分を戒めておかなければ、望みが叶わず失望する事もあるのだろう。
おとぎ話の魔法がない世界のように、おとぎ話の中の魔術にも、しっかりとした現実の配分がある。
「ふと思ったのですが、追憶を持たず、不思議な夢として劇場を訪れる方達こそ、本来のこの場所を見ている方達なのかもしれませんね」
「そのような者達は、劇場を訪れている本物の客を見ているとも言われているね。今夜の招待客の中にも、私達を見ている者もいるだろう。……もしかすると、君に見えているのはそちら側なのかもしれないね」
「まぁ。だとすれば、周囲のお客さんが、どこか見た事があるような気がする方ばかりなのにも、意味があるのですか?」
「得てして、思い出の中の自分の姿は、本来の姿とは少し違うことが多い。そのせいで、見知ったようだけれど見知らぬ者達がいるのかもしれないよ」
「むむ。……………となると、スフレ屋さんのお嬢さんはいたような気がしますし、紅茶専門店のご店主もいたような気がします。………なぜ、きのこ屋さんのおかみさんは、仮面姿なのだ」
「どうしてだろう………」
(そうか。劇場が賑やかなのは、今夜だからなのかもしれない)
ディノの説明を聞けば、前回来た時よりも遥かに賑やかな夜の説明もつく。
復活祭は、死者の国に家族がいる者達からすれば、家族との再会が叶う日だ。
だが、既にそこからも旅立ってしまった家族を持つ者達や、死者の国を経由しない大事な人を思い偲ぶ者達もいるだろう。
そんな人たちの瞼の裏の思い出の舞台として、霧の夜にだけこの劇場が開くのだとしたら、死者の日だからこそこの劇場を訪れる者達もいるに違いない。
また、今夜のウィームには外出制限がかかっているので、特に用事もなく家にいる者達は、であればあの劇場に行ってみようと思うこともあるだろう。
折角の復活祭なので、懐かしい追憶に浸ってみようかというくらいの柔らかな気持ちで劇場を訪ねる者もいるのかもしれない。
そう思うと表側の世界と密接に繋がっている感じもして、何だか面白いではないか。
(…………だとすると、私のようなお客は、この夜を楽しんでいる人達にこそ、この場を譲るべきなのだと思う)
「さて。こちらの見回りも終えましたので、そろそろ帰りますか?」
「うん。そうしようか。………あのスープは辛かったけれど、祝祭の祝福を貰っておけたお陰で、こちらの見回りが出来た事は、良かったのかもしれないね」
「あのスープは二度と飲みませんが、こちらに、よくお見掛けするウィームの皆さんが遊びに来ているのであれば、今夜は思っていたよりも穏やかな夜なのでしょう。そのような意味でも、領民の皆さんの様子が窺い知れて良かったのかもしれませんね」
開演の前の客席も少し覗き、そちらも問題がなさそうであるので、出口に向かうことになった。
豊かで美しい夜の光が窓から落ちていて、大きな窓が特徴的な劇場の一階には小さなカフェがあり、本日の演目が始まる前に、同伴者と共に、美味しい紅茶やメランジェ、ケーキなどをいただく者達もいる。
劇場内での飲食は、味の記憶は残るがお腹は膨れないものであるらしく、こちらも、食べた事のないメニューは表記されないそうだ。
その代わり、お気に入りのお菓子を食べた記憶の追体験が出来るので、ゼノーシュはその為だけに劇場を訪れた事もあるらしい。
(……………あ、)
カフェも賑わっているなと思いそちらを見たネアは、見知った魔物を見付け、目を瞠った。
追憶の中にいるからかこちらに気付いている様子はないが、漆黒のスリーピース姿で窓際の席に腰かけているのは、グラフィーツではないだろうか。
手前のお客の影になっていてよく見えないが、向かいの席には女性が座っているような気がする。
ネアは、誰かの思い出に立ち入っているような申し訳なさを感じ慌てて目を逸らしたが、あのような魔物にとっても一夜の追憶が必要なことあるのだろうかと思うと、ついつい隣のディノを見上げてしまう。
「………ネア?」
「手を繋いでもいいですか?このような場所ですから、一緒にお出かけをしたような気分で帰りたいです」
「………うん」
目元を染めてこくりと頷いたディノは、どんなお客達の姿を見たのだろうか。
ネアは差し出してくれた手をぎゅっと握って魔物をへなへなにしてしまうと、にっこりと微笑む。
「お家に帰ったら、まずはウィリアムさんの様子を見に行きましょうね」
「今夜はこのまま休めるといいのだけれど………」
「王都では事件もあったようですが、無事に収束したそうですので、後はもう、皆さんが今日しか会えないご家族と穏やかに過ごせるといいのですが」
「………うん」
「私の家族はこうしてぎゅっと出来るので、ずっと一緒にいられる贅沢さなのですよ」
「そうだね。………ずっと側にいるよ」
「むぐ」
ふわりと微笑みかけてくれたディノがあまりにも綺麗で、ネアは胸が潰れそうになる。
こちらの強欲な人間は、あまりにも強欲過ぎるので、死者の日に愛する人と再会出来る贅沢さにすら我慢出来ないのだ。
ずっとずっと、一緒にいなければならないと、ふんすと胸を張る。
しかし、そんなネアの大事な我が家には、不在にしていた僅かな時間で、とんでもない襲撃が仕掛けられていた。
「…………ほわ」
「ああ、ネア。そちらは大丈夫だったか?」
ばさりと真っ白なケープを揺らし、爽やかに微笑んだのは終焉の魔物だ。
夜闇の中で光る長剣を振り捌き、出かける前までの具合の悪そうな様子はどこへやら、とても元気そうである。
「はい。追憶の劇場は、いつも通りで賑わっていました。………何かをとても切り捨てていましたが、悪いやつがいたのですか?」
「死者の凝りのようなものだ。土地の奥深くや、あわいの隙間に残る記憶の残滓のようなもので、現れるというよりも、表層に浮かび上がる染みのようなものだと言えばいいかな」
「この周辺の霧の調整が、少し多かったみたいだね。君がいてくれて良かった」
「やり過ごすことは出来ますが、折角なら片付けておいた方が土地が安定しますからね。体を動かしたことで、………あのスープの影響も少し和らぎました」
「…………うん。辛かったね………」
「まぁ。ディノがよれよれに………」
ネアが目にしたのは、正門前に立ったウィリアムの前で、ウィリアムが全て切り捨てられてしまい、ざあっと塵になって崩れてゆく黒い霧のような姿の者達だ。
門の内側を見ると、立っていたノアがふにゃりと微笑み、ひらひらと手を振ってくれた。
だが、霧に滲むリーエンベルクの明かりを背に立つ漆黒のコート姿の塩の魔物は、光の尾を引くような青紫色の瞳がぞくりとする程に魔物らしい。
「お帰り、ネア、シル。予定外の大掃除になったけど、お陰で土地の負担が軽くなったみたいだから、今年の夏至祭の備えにもなったかな」
「地下にあわいの駅で流れを作っても、円環の中に凝りが溜まるのだろう。………もしかすると、その仕組みを作る前に、この土地に願いをかけて彷徨い壊れた者達かもしれないね」
「死者さん、………なのです?」
なぜだかネアは、ほんの一瞬だけ目にした影達に、グリムドールと呼ぶべき人物に引き摺られていた影達を思い出す。
話の流れとしては人間の死者なのだとは思うが、どうにも異形という感じがした。
「うん。とても古い時代のものだ。もしかすると、この土地にリーエンベルクが建てられる前のものかもしれないね」
「まぁ。そんなに前のものだったのですね………」
「霧の魔術で、染み抜きをしたみたいになったのかな。僕の家の前に現れるなんて、困った連中だよね」
「…………あのような状態になると、灯りに向かうようになるんだ。この周辺ではリーエンベルクしかないからな。それで正門前に集まってしまったんだろう」
「…………まぁ、僕達はあのスープを飲んだ訳だから、こんな風に、土地の負担軽減に駆り出されたのかもね」
「………ノアベルト、思い出させないでくれ」
最後に、とても遠い目をしたノアが一言付け加え、ウィリアムが、これこそ噂に上がる死者の王ではないかという暗く荒んだ眼差しを向ける。
けれど、そんな事もあるのかもしれないと考えたネアは、深い深い霧の向こうに夜の光を湛えた禁足地の森や街に続く並木道を眺め、ゆっくりと深まる復活祭の夜の香りにくしゅんと鼻を鳴らした。
「…………まだ、刺激臭が残っていますね」
「中に入ろうか………」
「はは、暫くは辛いものは食べたくないな。トマトの時はそう思わなかったが、………さすがにこれはな」
「来年も来た場合はさ、グラストとゼベルに迎え撃って貰おうよ」
「むぅ。人数が足りないのでは………?」
「え、………アルテアも呼んじゃう?」
「アルテアを………」
お喋りをしながら歩いていると、なぜかノアがどしんとぶつかってくるではないか。
むがっとなったネアは叱るべきか悩んだが、口元をむずむずさせてどこか嬉しそうにしている義兄を見上げ、首を傾げる。
「………ノア?」
「おかえりって、いい言葉だよね」
「あらあら。それでご機嫌なのです?」
「僕の家族だからかな。………スープを飲まされたのは最悪だったけど、………僕がここの家の家族だって認められたのかなと思えば、それは評価してもいいかなと思うんだ」
「それなら、俺も仲間に入れて貰えたみたいだな」
「ウィリアムさんは、私の騎士さんでもあるのですよ!」
ネアがそう言えば、こちらを見てウィリアムが悪戯っぽく笑う。
先程の、不穏さすらもが素敵な騎士ぶりを思い出し、ネアはむふんと頬を緩める。
「それなら、俺の剣の主人に、今夜の仕事を労って貰おうかな」
「…………ウィリアムさん、お疲れ様でした」
「…………思っていたよりも、ぐっとくるな」
「わーお。腹黒いぞ」
「ウィリアムなんて………」
ネアは、きっと騎士はこうして労うべきだという言葉を選んでみたのだが、ウィリアムはとても気に入ってくれたようだ。
ディノが少し荒ぶってしまうのだが、こちらの魔物にも日々の仕事の後に伝えている筈なので、より親密な労いとして、頭を撫でてやると、今度はすっかり恥じらってしまう。
「ネアが可愛い………」
「どうすればいいのだ………」
「あ、そう言えば、アルテアから連絡がきてたから、僕達がスープを飲まされた話をしておいたよ。今回は、アルテアは飲んでないんだってさ。おかしいよね。いつもなら最初に飲むのにさ……」
「ふむ。であれば、来年は使い魔さんにお任せしてもいいかもしれませんね」
「これで三人か。もう三人必要なんだな………」
(…………あ、)
ふと夜空を見上げたネアは、夜闇の中をゆうゆうと泳ぐ鯨の影を見たような気がしたが、すぐに霧の中に見えなくなってしまった。
妖精鯨は探していた死者を連れてどこかへ去っていったので、これはまた別の個体だろう。
昼間見た妖精鯨が連れ去ったのは、妖精の障りに触れて亡くなった死者だったらしい。
本来連れて帰る筈だった死者は、あの鯨の様子からすると、とうに死者の国での滞在期間を終えているのではないかというのがウィリアムの考えだ。
なので、妖精鯨のお迎え案件となる死者を見つけ、代わりに連れ去ったのだろう。
妖精鯨に連れ去られる死者達の顛末を思えば、悲劇としてもいい事件であったが、その死者を、元婚約者と友人達がカボチャで死者の国に追い返そうとしていたらしく、皆がとても喜んだらしい。
戻ってきた先の地上でそんな風に思われてしまうのは不憫な気もしたが、何度も迂闊な言動で騒ぎを起こし、亡くなる際には、家族を巻き込んで妖精の呪いにかけられたと聞けば、妖精鯨にお任せするしかない御仁だったのだろう。
巻き添えで亡くなった妹の伴侶だった妖精などは、声を上げて妖精鯨を呼んだそうなので、かなり恨まれていたのだろう。
そこまでとなるとウィーム領民にしては珍しい気質だなと思っていたが、なぜか、ザルツからの移住者だと聞いて納得してしまう。
なお、その事件での他の犠牲者達は、親族や元伴侶に婚約者にそれぞれ迎え入れられ、今夜は久し振りの団欒を楽しんでいるそうだ。
(追憶の劇場と、この死者の日と………)
亡くした人達に再び会える日の優しさに、ずっと昔に離れ離れになった家族を思わないとは言えない。
でもネアは、きっともうどこかでネアハーレイとは違う分岐を選び、あの場所から随分と遠くに来たのだろう。
今のネアが一緒にいたい家族は、とてつもなく長生きしてくれる筈なので、迎えの火を焚いて死者の日にノックを待つのはまたまだ先の事だろう。
扉を開けた先に立っていたエーダリアが、ふっと安堵の微笑みを浮かべる様子に、ネアはそんなことを思う。
これは、何か事件があってその帰りを待ち侘びていたという表情ではなく、毎日使ってもいい、いつものお帰りの眼差しだ。
それがとても幸せなものだったので、ネアは、胸の中がほんわりと温かくなる。
「まぁ。エーダリア様はもう、熱はいいのですか?」
「あわいまで出掛けて貰うようになってしまい、すまなかったな。夜にまた熱が上がるかもしれないと言われたが、この通り大丈夫だったようだ。………っ、ノアベルト、もう、手を引かなくても普通に歩けるのだからな?!」
「ありゃ。だって家族が体調を崩した時には、こうするんだよね?」
「うん。そうするかな」
「ほら。この点に於いては、シルの方が物知りだからね」
「………それは、ネア用の対処法なのではないだろうか………」
玄関ホールまで迎えに来てくれたエーダリアは、ノアに大事にされてしまい目元を染めていたが、ネアは、助けを求めるような視線には気付かないふりをした。
ヒルドは引き続き領内の情報の確認に当たってくれているらしく、とは言え、今夜はもう皆が家から出ずに領内も落ち着いているのでと、騎士棟でグラスト達とお茶をしているだけで済んでいるようだ。
ちりりと、風に鈴飾りが鳴る音が聞こえた。
ネアは、追憶を映さない劇場の賑わいを思い出し、今夜はその中で大切な人とお茶を飲んでいるに違いないグラフィーツにとっても、穏やかな夜でありますようにと祈っておく。
「今年は、誰も逃げ沼に落ちませんでしたね!」
「うん。……………スープを飲んだからかな」
「何という嫌な二択なのだ………」
静かな静かな夜が更けてゆき、復活祭は無事に終わった。
だが、思いがけない出会いが関わった人々の心に少なからずの傷と残したようで、その後数日間、終焉の魔物は、赤いスープを見ると動揺してしまうようになったという。
そんなウィリアムに対し、系譜の同僚達は、トマトソースの夜の怨嗟が届いたぞと喝采を上げ、系譜の王様にとても叱られてしまったらしい。
明日は少し少なめ更新となります。