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231. 復活祭に倒れます(本編)



霧雨が上がり、真っ白な霧が立ち込めると、視界が悪くなったのに安堵感があるのはなぜだろう。

ディノの説明を聞いていたからなのかなとも思うが、しっとりとした冷ややかな空気にはウィームらしい清涼さがあり、見知らぬものの気配は希薄だった。



余談だが、ネアはとても賢い人間である。



そんな人間が、霧で視界が悪く、今年は特に逃げ沼に落ちてはならないと言われた日に、用もなく外に出ることはあり得ない。

とても賢明なだけでなく、油っぽく臭い泥沼に二度と落ちてなるものかという、切実なまでの願いもあるのだから、それは当然とは言えよう。


また、今朝の仕事で世界の厳しさと己の限界を知ったばかりの乙女はとても傷付きやすいので、この上、泥人形にまでなる訳にはいかない。


そう考えたネアは、鯨に怯える魔物に持ち上げられながら敷地内の見回りをした際にちび逃げ沼を発見し、すかさず輪郭取りを失敗したきりんボールを投げ込んで撃退しておいた。


なお、前述の主張があるのになぜ外に出ているのかと言えば、先程の角鯨事件で、リーエンベルクの騎士が三人も寝込んでしまったからである。

魔物達は、有事の際に目になってくれる乙女を放そうとせず、最も最奥で守られるべきか弱い乙女が最前線に出る羽目になっていた。




「ご主人様………」

「うむ。投擲型の武器を過不足なく使えるように、ヒルドさんに特訓して貰ったのですよ。飛距離が伸びましたね!」

「わーお。滅ぼしたぞ…………」


じゅわっと蒸発して滅びた逃げ沼の後には、からからに乾いた真っ黒なボールがころりと転がるばかりだ。

どこか厳しい眼差しをした義兄が、誰かが玩具のボールと間違えて持ち帰ってしまうといけないからと、そのボールを消滅させてくれた。


ネアは、いっそ凄艶なほどの美貌を見せる冷ややかな眼差しの塩の魔物の横顔を見上げ、恐らく、そうして犠牲になるとしたら銀狐なのだろうなと考える。

ディノとウィリアムも無言でノアを見ているので、皆、同じ思いに違いない。



「それにしても、あの規模の逃げ沼なら、滅ぼせるんだな………」

「………うん。でも、あまり大きなものはやらない方がいいかな。排除出来ずに悪変させると、良くないものになってしまうからね」

「そ、それは困るので、逃げ沼を見付けても、判断はディノ達に任せるようにしますね」

「そうしようか。………それと、この霧は上手く魔術を均しているね。何の犠牲も出ないとまでは言えないけれど、このまま、あまり大きな問題は出ないかもしれないよ」

「まぁ。そうなのですか?」




ほっとして笑顔になったネアに、ディノも微笑んで頷く。


霧の精霊王であるエイミンハーヌが、ここまで大規模な魔術展開をすることは少ない。

霧の系譜の最高位である人物だが、系譜の気質的に表舞台に立つことをあまり好まないのだ。



「ああ。それは俺も思いました。………彼は、想定よりもずっと階位が高いかもしれませんね」

「これ、可視領域の精霊の中でも、上位十人には入るかもね」

「なぬ。それは相当に凄いのでは……………」

「戦いなどには向かない資質の者ではあるけれど、今回の作業は得意な分野だったのだろう。彼の気質に反しないものであったのも良かったのかな」

「そのような部分も大事なのですか?」

「うん。精霊はね、好まない行為を強いられると、あまり力を振るえないものなんだ」



その返答を聞き、ネアは、ああ精霊だものなと思ってしまった。


ミカや他の真夜中の座の精霊達のように、憧れと好意を向けるような素敵な精霊もいるのだが、何かと荒ぶり易い種族的な印象がある上に、死の精霊の界隈では変人ばかりだという感想もある。



(オーブリーさんは好きだったけれど、あの方も、自分の大切な人達を守る為だからあの気質なのであって、他の場所ではまるで違う印象になるかもしれないという感じもするし…………)



そんな話をしながら、ネア達は、霧深い庭園の中や、禁足地の森との境界部分を歩いた。

今回は、グラストとゼノーシュが執務室に入る代わりに、ノアもこちらの見回りに同行してくれている。


まずは、リーエンベルク周辺の見回りを済ませて、騎士達を含めた全員が屋内に入り、ウィーム中央やその他の領内の土地も、正午過ぎまでには外出禁止の措置に従うようになる。


命令という程の強制力は持たない警報の一種であるが、ウィームの領民は、外出禁止という言葉が拡散される意味合いをとてもよく理解しており、尚且つ、今回は霧で領内の魔術調整を図るので、逃げ沼に落ちやすくなる為という、たいへん分かりやすい理由が示されている。


また、領民も領民以外の滞在者にも、外出禁止期間中に正当な理由なく外に出て逃げ沼に落ちた場合は、行政からの支援は受けられないという説明がなされた。

逃げ沼に落ちて誰にも助けて貰えない可能性が示唆されたことによって、人々は思わぬ連携と協力を見せるようになるのだ。



「そう言う意味ではさ、ウィームは楽なんだよね。労力的な意味合いで、手がかからない」

「だが、エイミンハーヌの協力あってこそだろう。本来であれば、この規模での霧の維持は難しいからな」

「うん。それはそうなんだけど、土地との相性があって、広域の展開が容易いって意味では、霧が最適なんだよ。他の領はそうもいかないからなぁ」



ノアの説明によると、このような場合に、ウィームが本来最も相性がいいのは雪や氷である。

だが今回は、日差しが少なくなり易い復活祭の日であったことも幸いし、雨を降らせ、霧で魔術基盤の調整を行う事が出来た。


同様の作業を、ヴェルリアはでは火を焚き、ガーウィンでは教会の鐘や、聖職者や教会騎士達が手に持ったベルを鳴らして音で行うのだ。

アルビクロムに至っては、武装して軍に要所を守らせ、災いが形を示してから漸くの対処となる。

他領よりも魔術的な異変は少ない土地とは言え、後手に回るしかないやり方には負担も大きいだろう。



「その代わり、先程の妖精鯨のようなものは、ウィームにしか現れないだろう。夏至祭や大晦日でもない日に、あの規模の顕現は稀有なものだよ」

「きらきらしていて、とても綺麗でした。ゆったりと空を泳ぐと、体の内側の気泡がシュプリの泡のようにしゅわんと輝いたのですよ」

「…………え、凄く観察してるんだけど……………。僕、ちらっと見えただけでも無理だった………」

「そして、エーダリア様の熱が、早く下がるといいのですが…………」



実はエーダリアは現在、微熱を出してしまい、執務室で安静を言い渡されていた。


先程の妖精鯨が現れた際、各地の異変報告をまとめていたウィーム領主は、現れた異形の鯨が大きな災いを齎さぬように、ネア達が戻るまでは動向を追っておこうと無理をしてしまったらしい。


執務室に行った時にもやけに顔色が悪いなと思ったが、気付いたヒルドが熱を測ったところ、微熱とはいえ発熱してしまう程に消耗していたのだ。


「魔術の障りでもあるからね。あのような反応は、薬や治療で収めてしまうよりも、発散させた方がいいだろう。半刻もすれば落ち着いてくると思うよ」

「薬湯的なものは飲まなくてもいいのですか?」

「うん。……………ネア?」

「なぜ、エーダリア様だけいつも、体調を崩しても沼味の飲み物を飲まなくていいのでしょう………?」


暗い目でそう呟いたネアは、これまでの記憶を辿り、小さくぐるると唸り声を上げる。

慌てた魔物がお口にギモーブを押し込んでくれるが、最近このギモーブも、ディノが数を与えてしまうことに懸念を示したアルテアが、一個の大きさを小さめに改良してしまった。


「私が体調を崩す時だけ、いつもあの沼味なのです!この前、エーダリア様が咳をしてしまう障りに触れた際にだって、甘くて美味しい木苺の飴で治せるものでした………」

「エーダリアの場合はさ、自分でも魔術の付与や調整が出来るから、治療の段階で対価を支払うようなものを取り込まなくていいんだよね。………ありゃ、しまった」

「わ、私の可動域だって、それなりにあるのですよ!」

「うん!そうだよね!!僕の妹、凄い氷の祝福も持っているしね」

「そうなのです!」



(………おや?)



悲しく訴えたネアは、ふと、視線を森の方へ向けた。


ざわりと温度のない風が揺らぎ、ここからではもう、乳白色の霧に覆われてしまい遠く迄は見通せない。

だが、すぐ近くの庭園の中ではなく、そのずっと向こうから不思議な香りが届いたような気がしたのだ。



「ネア?」

「ディノ……………。今、風に少しだけ香ばしいような、………不思議な香りがしませんでしたか?」


不安になってそう尋ねてみたが、暫く森の方を見てくれたディノが、こちらに害を与えるようなものの存在はなさそうだと首を振る。


ここまで深い霧の覆われているので、普段は感じ取れないような木の表皮や、土の香りがしたのだろうかと考えたネアも頷き、念の為にウィリアムが死者の気配なども探ってくれたが、やはり何もないらしい。



(敏感になっていただけだったのかもしれない。お昼までには復調出来そうとは言え、エーダリア様の体調も良くないのだから、このまま無事に見回りが終わるといいのだけれど…………)



霧に濡れた石畳を歩けば、ざりりと鈍い音がする。

ディノやノアは靴音を鳴らす方ではないが、ウィリアムの軍靴は靴底がしっかりしているので土や石を踏む音が聞こえるのだろう。


頬に触れる霧は冷たく、けれども魔術的な展開なので髪の毛や服をしっとり濡らす事はない。

どこかで獣の遠吠えが聞こえたが、切迫したような響きではないので仲間への呼びかけのようなものだろう。


森には雨降らしのミカエルもいるし、復活祭という日に大きな影響を受けるのはやはり人間こそであるので、そちらへの被害はあまり気にかけずにいていいようだ。



「こんなに霧が深いと、何も知らなければ却って不安になってしまいそうな程なのに、なぜだか安心してしまう安らかさがあるのですね」

「それが、今回の霧の魔術の特性なんだ。揺らぎを鎮め、大きな変化がつかないように抑えてくれている」

「ああ。この様子だと、もう大丈夫みたいだな。……………あの鯨が現れた時にはぞっとしたが、霧の展開が間に合ったお陰で、このままどうにかやり過ごせそうだ。…………少し不安定な動きをしている死者もいたが、この近くには来ないようだから問題ないだろう」



苦笑してそう言ってくれたウィリアムは、手櫛で、前髪を掻き上げてしまっている。


これは、ちょっと素敵に見せる為の髪型変更ではなく、先程の鯨騒ぎですっかり弱ってしまった際に、冷や汗の滲む額を拭う為に前髪を上げてしまったからなので、ネアにとっては何事もなく収束してくれそうな復活祭であっても、魔物達は既に影響を受けているのだ。


(こもうれ以上の負荷がかかるような事がなければ、いいのだけど…………)



ぐるりと一周見回りを終え、騎士棟を左手に見ながら正門前のリーエンベルク内側広場に戻れば、いよいよ問題なしと判断され、騎士達も屋内に引き上げとなる。


ネア達に気付いた騎士が深々とお辞儀をし、最後まで正門の守りに立ってくれているゼベルを呼び戻しに行くのが見えた。


騎士達が屋内に入ると、外側の守りが手薄になってしまいそうに思えるが、このまま周辺が霧の中に沈めば、それ以外の魔術要素を動かすと、却って土地の調整を乱してしまう。

今回は、新年の安息日のように、建物の入り口や窓などにはしっかりと鈴飾りをかけ、人間達は外には出ずにやり過ごすという手法を取るのだ。



とは言え、死者の日という側面もある。

死者達を迎え入れる家々では、待ちかねている家族が戻って来た時だけ扉を開けられるように、故人が生前に使っていた品物を扉に吊るしておくらしい。


その品物に触れてノックを出来るのは持ち主だけなので、ノックを魔術承認の代わりとし、家族を迎え入れる際にだけ扉を開けるようにしておくのだとか。

迎えの火は焚くものの、それらの火はそもそも、招かれざる者を退ける役割も持つので問題ない。



「……………誰か来たようだね」



さて、そろそろ昼食のいつもよりも辛いスープに備えなければと考えていると、ディノが足を止めた。


持ち上げられた腕の中でおやっと眉を持ち上げたネアは、魔物と同じ方に目を凝らし、何やら撤収に手間取っている様子の正門前を窺う。



「む。……………門のところですか?」

「うん。…………良くないものという訳ではないけれど、祝祭の系譜の者の訪問のようだ」

「…………やれやれ。何も今じゃなくてもいいだろうに。俺が見てきましょう」

「頼んでもいいかい?今日は、君の方がいいだろう」

「ええ。すぐに戻ります」

「ありゃ。せっかく見回りが終わりそうだったのに、お客を迎える気分じゃないんだけどなぁ…………」



祝祭の系譜からの訪問となると、追い払えないものもいるのだと聞いている。


ネアは、霧がかっていてよく見えない門の方を凝視し、なぜここで現れてしまったのだろうと嘆息した。

門の外側に立っているのは、背の高い男性のようであった。


ディノの様子を見ると悪意のある訪問ではないようだが、予定が狂うのでやめて欲しい。

何とか帰ってくれるといいなと思い見ていると、門のところでその対処に当たってくれていたウィリアムが、突然がくりと膝を突いたではないか。

ぎょっとしたネアは、ディノの腕の中でびゃんと飛び上がってしまう。



「ウィリアムさんが!!」

「……………おっと。様子がおかしいね。僕も見て来るよ」

「わ、私も行きます!」

「ネア、君はここだよ。…………よく分からない影響を及ぼすのであれば、近付かないようにしよう」

「し、しかし、ホラーの定番の展開では、このような時には別行動をしてはならないのですよ?」

「ほらー……………」



ネアはそう主張したが、ディノは頷かなかった。

門の近くでは、蹲ってしまったウィリアムを気遣うように、ゼベルだと思われる騎士が背中に手を当てている。


なぜだか、そんな状況であっても助けを呼ぶような様子がないのが不思議であったが、異変が起きているのは間違いなかった。


(…………どうしたのだろう)


ぎゅっと胸に手を当て、ネアは息を詰める。


しっかりと抱き締めてくれているディノがいるので怖くはないが、念の為に、ポケットの中のキリン箱やハンマー、激辛香辛料油の水鉄砲などが揃っているのかを確認してしまった。

この装備をした際に、魔物達は過剰戦力だと慄いていたが、悪しきものが現れたのなら容赦する必要もあるまい。



「ネア。少しだけ我慢出来るかい?………奇妙な様子ではあるけれど、やはり、この祝祭に紐づく祝福を持っている訪問者のようだ。悪い者ではない筈だから、何か事情があるのかもしれないね」

「むぅ。しかし、ウィリアムさんが心配です……………。むむ!ノアがこちらに戻ってきますね?」

「おや、何か分かったのかな」



しかし、ネア達の方へ戻ってきた塩の魔物は、正門前で何があったのか、綺麗な青紫色の瞳にはすっかり光が入らなくなり、視線が足元に下がってしまったままという、明らかに異常な様子であった。


驚いたディノが事情を尋ねたが、悲し気に首を振ると、ネア達もあの門の前のお客に会わねばならないと、抑揚のない声で呟くばかりだ。



「な、何があったのですか?!」

「……………ごめんよ。言えないんだ。でも、…………復活祭を安全に過ごせるような祝福は貰えるから、……………悪いものじゃないんだよね……………」

「……………ディノ。ノアがしくしく泣いているのですが、何があったのでしょう?」

「困ったね。祝祭の系譜の者からの招待は、断らない方がいいのだけれど………」

「……………ええと、僕がこんなんだから説得力は皆無だけど、……………悪い奴じゃないとは思うよ。ただ、好き好きがあるものだからね。僕は無理だった……………。泣きそう」

「なぬ………」

「ノアベルトが………」



あんまりな様子に顔を見合わせたが、とは言え、この状況では、もうどうしようもない。


悪いものではないと言うノアに、意識の混濁や浸食魔術の影響は見受けられないのでと、ディノは不本意そうであったが門に近付いてみることになる。



「いいかい?どのような事があっても、私から離れないように」

「はい。……………む。……………この香りは」



その時、正門近くから、先程嗅いだのと同じ、独特な香ばしい香りが漂ってきた。

今度はディノにも分かったらしく、もしかするとと呟き、水紺の瞳を揺らして黙り込んでしまう。



「ディノ?」

「……………ネア、…………君は、あまり喜ばないかもしれない」

「正体が分かったのですか?!」

「確かに、ノアベルトの言うような祝福を授ける者ではあるのだろう。……………そうか。認識の魔術が、派生や顕現の状態を底上げしたのかもしれないけど、もう、このように祝祭の側の生き物になってしまっているのだね」

「さっぱり話が見えてきませんが、一体なにやつなのだ……………」




しかし、正門前に立てばもう、ネアにも訪問者が誰なのかは明白であった。




「おお、おいでになられましたな」


正門前に立ち、にこにこと微笑んでいる老紳士が、優雅にお辞儀をして挨拶してくれる。

焦げ茶のスリーピースに鮮やかな赤色を合わせた装いは、絶妙な小物使いがたいそうお洒落で、帽子には、自社製品の広告も兼ねた真っ赤なリボンが巻かれている。


そのリボンに、訪問客の正体が記されていたのだ。



「……………ほわ。激辛スープ専門店……………」

「本日は、復活祭の魔術変異が見受けられましたので、弊社より、各領地の領主館に災い除けの辛いスープをお届けにあがりました。この規模の敷地内であれば、最低でも六人には飲んでいただかねばなりません。さぁ、お二人で最後ですので、どうぞこちらのスープをお飲み下さい。水薬のように気軽に飲んでいただける商品となっておりますので、こちらの小さな紙カップで充分でございます」

「ご主人様……………」

「う、うちの魔物は、辛い物が苦手なのです…………!せめて、代理の方を呼んできてもいいでしょうか?」



お客の正体は判明したが、あまりの恐ろしさに震え上がってしまった魔物を何とか守ろうと、ネアは慌てて交渉に入った。


しかし、どこかアイザックを思わせる慇懃な微笑みを湛えた老紳士は、きっぱりと首を横に振るではないか。



「いえ。私がスープをお渡しすると決めた方にしか作用しませんので、残りのスープはお二人に飲んでいただく必要があります。それに、当社のスープは自慢の美味しさですので、辛いものが苦手な方にも美味しく飲んでいただけますよ?」

「うそです……………。その毒々しい真っ赤な液体は何なのだ………」



ディノを守る体で、あわよくば自分もこの責め苦から逃れようとしていた狡猾な人間は、差し出された紙カップの中に注がれたスープの色に絶望する。


すぐ真横で蹲ったまま動かないウィリアムや、先程のノアがなぜ涙目だったのかが、これでやっとわかった。

ウィリアムの横では、ぶくぶくと泡を吹いて失神している若い騎士がいるではないか。


若干、ゼベルが平静にしている理由が掴めないが、そう言えばこちらの騎士は、貧しさから毒抜きした祟りものも食べていたのだと思えば、辛いスープくらいは何てこともないのかもしれない。



「さぁ、冷めないうちにどうぞ。皆様をお守りしたいという、心優しき弊社社長からの贈り物でございます」

「……………ぐ、ぐぬぅ。おまけに、聞いていた話とは違い、組織化されています………」

「単体派生ではなかったのかな……………」



ネアは、最後の抵抗として、見ず知らずの人から貰った飲食物は口に出来ないのだと主張してみたが、恐ろしい事に、この辛いスープを持ち込んだ老紳士は、祝祭に属する存在でありながらも、食品取扱の特殊魔術を所持しているらしい。


つまりは、街のレストランや屋台での試食と相違ない気軽さで、差し出されたスープをいただけてしまうのだ。




「む、無理でふ!」

「はは、これは飲ませ甲斐のあるお客様だ。美味しいですよ」

「……………辛い」

「ぎゃ!もう、飲まされている!!」

「……………ご主人様」

「私の大事な魔物が、まさかの本泣きではないですか!絶対に、辛い物が苦手な人仕様のお味ではありません!」

「このような土地で暮らしておられるのですから、家族やお仲間の為にも、どうぞ守護を手厚いものにして下さいませ」

「お、おのれ、訴求方法を変えてきました…………。ぐぬぬ」



自分が可愛い人間は必死に抵抗したが、大事な魔物が既にスープを飲まされてしまった以上、その犠牲を無駄にするわけにはいかないことも理解していた。


受け取らざるを得ずに手渡された小さな紙カップには、かつて、因果の精霊王を撃退した時くらいの色合いの液体がとぷんと揺れていて、これを飲んだらどうなってしまうのだろうという恐怖を掻き立てる。



(………でも、ディノが頑張って飲んだのに……!)



砂漠の国の辛い料理に慣れている筈のウィリアムですら、未だに立ち上がれないのだ。


そんなスープを飲まされてディノが泣いているだけで済んだのは驚きだが、それでも、こんなに泣いてしまっているのは、久し振りの事であった。


そんな思いをさせておいて、ネア一人が駄々を捏ねたせいで、この苦しみが無駄になってしまったら、あまりにも可哀想過ぎる。



「ぐっ!…………む、無念です!!!」



外堀が全て埋まってしまい覚悟を決めざるを得なかった人間は、手渡されたカップの中の真っ赤な液体を、真っ白過ぎる伴侶の服にぶちまけないようにしながら、くいっと男前に飲み干した。


スープを飲み終えると手の中の紙カップはしゅわんと消えてしまい、門の向こうに立っていた老紳士も、にっこりと微笑んで消えてしまう。


その不思議さに目を瞠っても良かったが、残念ながら

、ネアはそれどころではなかった。

ディノとゼベルの証言によると、激辛スープ飲まされたネアは、そのままぱたりと意識を失ってしまったらしい。



一人だけ美味しくスープをいただいてしまい、仲間達が次々に倒れて驚いたゼベルが、エアリエルの手を借りて、よろよろしながらもネア達を落とさなかったディノや、一人では立てない仲間達をリーエンベルクの中に運び込み、リーエンベルクは一時騒然となった。



それもそうだろう。

自力では立てないくらいに消耗している終焉の魔物に、ディノとノアは泣いているし、ネアと若い騎士は失神していたのだ。

駆け付けたヒルドが、物凄い剣幕でゼベルに事情を問いただしていたそうだが、失神していたネアがその様子を見る事はなかった。




「……………ほわ。甘い匂いがします」

「あ、起きた!ネア、あのね、リーエンベルクの厨房で、美味しいクリームブリュレを作って貰ったよ。色々試したんだけど、それが一番楽になるって」

「ふぇぐ。……………ゼノです。……………私の喉やお腹は、無事でしょうか……………」



あまりの辛さに心の中に逃げ込んで、真っ暗な闇の中を彷徨っていたような気がする。

目を覚ますと、そこにいたのはゼノーシュであった。



「うん。祝福のスープだから、辛いだけで体には悪い影響はないみたい。でも、辛いってことが、魔術的な対価になって祝福を強めているんだと思う。グラストが羨ましがってたよ。辛いスープ、飲んでみたかったって」

「……………くすん。私も、グラストさんを呼びに行くつもりだったのですが、あのスープの紳士は、とても頑固だったのですよ……………」

「はい。クリームブリュレ。ネア達は、もうスープは飲んだから、お昼のスープは飲まなくてもいいって」

「ふぁい……………。ブリュレ……………」



よろよろと体を起こそうとすると、ネアが寝かされている長椅子の近くにいたらしいディノが、すぐに手を貸してくれた。


こちらの魔物は大丈夫だっただろうかと思えば、目元がすっかり赤くなってしまっているので、あの後も、あまりの辛さに泣いていたのだろう。



「……………ディノは、大丈夫でしたか?」

「……………あんなスープなんて」

「可哀想に、すっかり目が赤くなってしまっています。…………ウィリアムさんは、……………ほわ、死んでる」

「ウィリアムは、辛い物は不得手ではないと話してしまったそうで、三倍辛いスープを用意されてしまったようなんだ……………」

「……………さんばいからいスープを」



ウィリアムは寝込んではいなかったが、テーブルの上に突っ伏すようにして動かなくなっていた。

あまりにも残酷な響きに震え上がったネアは、ゼノーシュが渡してくれたクリームブリュレを、慌てて小さな銀色のスプーンで貪り食べてしまう。


濃厚でとろりとした触感と、冷たくて甘い美味しさが、ひりついた口内を癒すようだ。

確かに、普通に激辛の食べ物をいただいた直後のような痛みや痺れはないが、それでも、果てしなく辛いという味覚の記憶が未だに残っている。


夢中でクリームブリュレを食べるネアを、心配そうに見守っているのは、まだ微熱が続いているのか、少しだけ頬を上気させているエーダリアだ。

どうやらここは会食堂で、失神したままのネアは、長椅子に寝かされ目覚めを待たれていたらしい。



「祝福を得られたのは幸いでしたが、まさかこのような事になるとは。……………ネア様、今日はゆっくりと休まれて下さい」

「ヒルドさん…………。噂に聞いていた辛いスープを飲ませてくるやつめは、単独犯ではありませんでした。いつの間にか、会社まで興しています!」

「ええ。ネイやディノ様から話を聞き、驚きました。明日以降に、ガレンでも調査をするようですが、ディノ様の説明によると、人々の記憶に長らく残った事で、復活祭の固有種として再派生したようですね」

「………ほわ。辛いスープを飲ませる方々が……………」




その後、確認された老紳士は、ガーウィンの辛いスープ発祥のお店で、副店長を務めた御仁だった事が判明した。

十八年前に亡くなった後に、人々の中に残るその人物の記憶を元に派生したようで、今後は、復活祭の系譜の生き物として、広く辛いスープを人々に飲ませてゆくと思われる。


事情を説明された孫たちは、祖父の姿と祖父が愛していたスープがこれからも残るのだと喜んでいたそうだが、辛いスープに馴染みのないウィームの領民は、そんな派生を知り震え上がった。


四領の中で、最も激辛スープに馴染みがないのは、残念ながらウィームであろう。

かくして、逃げ沼に続く復活祭の恐ろしいものが、ヴェルクレア国内にて誕生してしまったのだった。



なお、ウィームでは、事前に多くの魔術変異が報告されていた割には、復活祭に大きな事件や事故は起こらなかった。


それでも死者は出てしまったし、妖精鯨による死者の回収もあったが、例年と変わらない被害規模であったのは幸いだったと言えよう。



だが、辛いスープを警戒し、今後、ウィームでは復活祭に外出する者達が減るだろうという見込みが出されてしまったので、アクス商会の代表は、来年の復活祭には、新規派生したスープ会社の社員達と交渉を試みるそうだ。


ガレンの調査報告によれば、弊社という表現をし、複数個体が確認された辛いスープ周りの生き物達は、祝祭の系譜に種としての派生したのか、いち企業単位の派生なのかはよく分からないという。












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