230. 復活祭は不慣れから始めます(本編)
復活祭のその日、ネアは、初めて参加する行事の場にいた。
とは言えもう帰り道で、同行してくれたダリルにエスコートされ、天井の高い回廊を抜け、魔術の道に入るところだ。
ふくよかな青緑の絨毯を踏み、壮麗な天井画のある回廊から側廊に入ると、百合の花の咲く庭園が見えた。
白百合ばかりのそこが実際にある庭園なのか、それとも魔術の道の彩りなのかはネアには分からない。
招かれていない者が立ち入れない空間であるので、今日の仕事には魔物達は参加していなかった。
ディノまでがいないのは、この訪問が、リーエンベルクの歌乞いとしてのものではなく、ダリルの弟子の一人としてなされたものだったからだ。
「で、どうだったかい?」
その静かな問いかけに、ネアは深い溜息を吐く。
「……………惨敗でした。私は、同年代のお嬢さんたちの会話には馴染めず、あまり面白くない人という評価を受けたに違いなく、最後はただ皆さんの話を聞いて曖昧に笑っているばかりという有り様です」
「まぁ、そんな感じだったね。恐ろしい程に適正がなくて、見ていてひやひやしたよ」
「………ふぁい。お役に立てませんでした」
こうして、ダリルから政治的な場への参加を促されるのは、二度目であった。
一度目はザルツでの任務であったが、そちらでもあまり振るわなかったなと思えば、この書架妖精は、ネアが苦手そうな仕事を選んで体験させる役目に就いているのかもしれない。
そっと、隣を歩く漆黒のドレスの美女を見上げれば、割れそうな程に青い瞳がこちらを見る。
気遣いからの観察ではなく、純粋な品定めの眼差しに、ネアはへなりと苦笑するしかない。
「ネアちゃんは、同性の友達が欲しいんだろう?」
「………ええ。ですが、相変わらずそちらの才能は、皆無のようです」
「ふうん。…………そこまで女友達に固執する理由って、何なんだろうね。今のままでも、さして不自由はないだろう。まぁ、男ばかっかりのあの環境じゃ苦労もあるだろうけれど、それは、毎年の星屑を全て使う程のものかい?」
何気ない問いかけであったが、ネアは、今回の任務に駆り出されたのは、そのせいなのだと気付いた。
なにも復活祭の日に調整するようなものではないが、どんな機会も逃さずに使うのが、このダリルダレンの書架妖精なのだ。
そして、定められた日にちがあるからこそ、魔物達を説得し易かったのかもしれない。
「………ダリルさんは、私が、同性の友達を欲している事を、危険視されているのでしょうか?」
「まぁ、多少はね。でも、ネアちゃんにそれを上手く扱うだけの才能があれば、別に禁じる程でもないよ。…………なかったって言うべきかねぇ」
であれば先程までの朝食会は、ダリルなりの選定の場でもあったのだろう。
そして、友達が出来るかもしれないとわくわくして参加したネアは、まんまと惨敗したのである。
「長くお付き合い出来るような同性の友達を得る事は、こちらに来るまでの私の憧れでもありました」
「へぇ。以前からということは、…………その頃からいなかったんだねぇ」
「……………むぐ。……………いませんでした。表面的な会話をする方が皆無だたっとは言いませんが、…………私はやはり、変わり者でしたから。とは言え大人ですので、会話を合わせて取り繕えば継続可能なお付き合いもありましたが、更には、生活が困窮していたことで、それも難しかったです」
努力をしても可能だったのは、所詮表面的なものまで。
そう認めてしまうと当時の情けなさが蘇り胸が締め付けられるようだったが、ダリルには理由を説明しなければならないと考え、素直に告白する。
「だろうね。それを得る為に必要な条件の不足。今回のネアちゃんの失敗も、それが理由だよ。………まさか、今の自分なら、思い描いていたような凡庸さを得て、その願いを叶えられるとでも思っていたのかい?」
「…………確かに私は、…………こちらでも凡庸ではないのでしょう。何しろ迷い子ですし、大好きですが、あんまりな家族に囲まれているという自覚はあります」
「それが分かっていれば、いいんだけれどね」
ふうっと息を吐いてそう呟いたダリルが、久し振りにその名前を出した。
「アリステルは、そういう女だった。自分は誰よりも凡庸で当たり前の選択が出来る人間で、普通に過ごす事や唱える綺麗事は、当然の権利だと吐き捨てる、愚かな人間だったよ」
「私が、そちらに傾かないように、ご指導して下さったのですか?」
「ネアちゃんの場合は、普段は問題ないんだけどね。ただ、人間っていうものは、思いがけない執着で転ぶから、この部分の問題はいつか精査しなきりゃならないと、ずっと思っていたんだよ」
その言葉に頷き、ネアは、昨晩頑張って考えた、初めて会う女性達の前で、感じの良さを最大限に引き出してくれそうなドレスの裾をそっと握り締める。
このドレスが大活躍することはなく、たくさん考えた話題が糸口を得て花開く事もなかった。
席を共にした女性達の話題は移り気で、ネアが苦手とするものが多く、尚且つ、話題が巡ってきた時にもさしたる愉快さを示せずに無難な返答で終わってしまい、そこからはもう萎縮するばかりである。
だから、とても悲しいが、そろそろ認めざるを得なかった。
「……………私が同性の友人に拘るのは、……………そのような人を得ているのが、……………普通だからなのだと思います。勿論、以前にその存在を望んだのは孤独からでもありましたが、今は、少しも孤独ではありません。ですが、かつて、それを持っていなければ他の皆と同じテーブルに載せて貰えないと思っていた同性の友人という存在は、やはり、私にとっての引け目や執着でもあるのだと思います」
それはとても勇気のいる告白であったが、ダリルの返答はあっさりしたものだ。
「であれば、そんな執着は捨ててしまいな。………あの女達だって、慈善事業で友人を増やす訳じゃないんだよ。ネアちゃんだって、不要な獲物は、踏んで転がして、アクスに売り払ってお終いだろう」
決して厳しい言い方ではなかったが、言われている事はなかなかに容赦がない。
しかしその通りなのでネアはこくりと頷き、リーエンベルクに戻った後は、この悲しみを癒すべく、甘いお菓子を沢山食べるしかないと考える。
そして、大事な魔物にたくさん抱き締めて貰おう。
「…………友人関係に不足のない方達が、私を友人に格上げする理由がないのということなのですよね」
「敢えて言葉を選ばずに言えば、それに値する魅力がないということかもしれないね。……………多分、ネアちゃんの持つ異端の資質は、ディノや他の魔物達や、うちの馬鹿王子なんかとは相性がいい。でも、今回の方向では、無意識に排除され弾き落とされるくらいに見栄えのしないものなんだろう」
「……………ふぁい」
「念の為に聞くけれど、興味を持たれるような要素が自分にあると思うかい?」
そう言われてしまえば、ネアは、もうぐぅの音も出ない。
何しろ、年頃の女性達が好む話題を、殆ど知らないのだ。
こちらの世界で暮らし始めて生活を安定させてからは、多少話題が広がったにせよ、彼女達と日常の話題や感情を共有するには、やはりネアの過ごす環境は特殊だと言わざるを得ない。
いや、そうなのだと思い知らされたのだ。
(私は、困窮から解放されれば、その間口は広がるばかりだと考えてきた………)
だが、大して使われる事がないままに寝かされていた友人獲得の技術や、そちらの方面の価値観は、当然と言えば当然ながら、使われないだけ錆び付いていたのである。
加えて、もはや、一人上手の期間が長過ぎたネア自身の嗜好も、かなり頑固な域にあるのだろう。
例えば、休日にみんなでどこかに遊びに行きましょうと言われても、ディノを一人ぼっちで置いていくことを考えると躊躇ってしまうネアは、やはり、本質的にそのような付き合いには向かないのだ。
いっそ清々しいくらいの惨敗であったが、憧れを断たれたのだから、心内は穏やかではない。
「………私はずっと、同性のお友達を得るということを、甘く見ていたのだと思います」
「だろうね。だからといって、話題や嗜好が合う子がいないって言ってる訳じゃないんだよ。ただ、ネアちゃんがそちら側の誰かに心を開いて手を伸ばすには、…………やっぱり、今の環境は特殊なんだろうねぇ。……………いいかい、こんな話は私も一度しかしないから、ただ黙って聞くように」
「はい」
珍しく憂鬱そうに切り出したダリルに、ネアは、しっかりと頷く。
隣に立っている美しい書架妖精は、決してネアの友達でも家族でもないけれど、それでも頼もしい同僚で仲間なのであった。
「言うならば、ネアちゃんの今の財産は、ネアちゃんが憧れるような付き合いに於いては、どれも足枷になるものばかりだ。例えば、何とか作った女友達にあの魔物達を紹介して、ただで済むと思うかい?そんな事を考えれば、返す言葉も鈍るものさ」
その問いかけにぴっとなるのは、それがネアにとっての宝物であるからだ。
もう、どちらかを取れと言われたなら、ネアは、躊躇いもなく家族や今の仲間を取るだろう。
「ネアちゃんにとっては家族でも、その誰かにとっては、魔術浸食を招く脅威であり、もしかすると恐怖の対象にすらなるかもしれない。それならばと、耐えうる可動域の相手をと思っても、過ぎたるものっていうのは、あるべき場所ではまともだったものを壊すこともある。……………それにね、そうして招き入れられた誰かが、真っ先に近付くのは、恐らくエーダリアだろう」
「……………ええ。私の家族の中では、エーダリア様が、……………一番、順当ですから」
「その通りだ。腹立たしい言葉だけど、そうとしか言いようがない。そして、あの馬鹿王子もね、………異端に違いないんだよ」
(だからこそ、ダリルさんは、私自身に不相応なものを持たせないよう、ここで確認と牽制を行っておいたのだろう)
ダリルは、エーダリアの代理妖精だ。
ダリルがすぐに虐めてしまうのでたいへん分かり難いが、ダリルにとってのエーダリアは、決して楽な道ではないこの先も共に歩くに相応しいだけの、大事な存在なのは間違いない。
だから、こうして指導が入るのは、組織の上長としての責任であるのと同時に、ダリルがエーダリアを守ろうとしてのことでもあるのだろう。
「私の手綱が緩めば、私の希望や理想に甘さがあれば、その反動がエーダリア様に向くのは間違いありません。あまりいい見立てではありませんし、まだ見ぬお友達候補に失礼な予測かもしれません。………ですが、往々にしてあることというのは、………やはり、見過ごしてはならない可能性なのでしょう」
「私はね、今のネアちゃんの鋭敏さや、いっそ極端なほどの線引きを気に入っているんだ。………その鋭利さを曇らせるなと言うのは、もしかしたら酷なことかもしれない。こちらとしては、まんまとエーダリアに異性の友人枠を、家族としてのネアちゃんを用意しておけたのに、ネアちゃんだけに諦めろというのも不公平かもしれないしね」
そう言ってくれたダリルに、ネアは小さく微笑む。
ダリルの言葉はどれも本音だけれど、多分これは優しさだ。
「私に、逃げ道も用意してくれるのですね」
「とは言え、手にする資格が完全にない訳でもないのに得られないってものは、本当は、自分が思うほど必要でもないんだろう。恐らく、ネアちゃんが女友達を欲しがるのは、自分に都合のいい理想や憧れを叶える為だ。そして、そんなものの為に歩み寄るほど、相手も都合良くは生きてないってことさ」
「ふぁい………」
力なく頷いたネアの隣で、美しい書架妖精は、満足げに微笑んだような気がした。
もし、ネアの成果がダリルの懸念を長引かせるものだったなら、この帰り道での会話はどんなものになったのだろう。
少しだけそんな事を考えないでもなかったが、深く考えるとひやりとしたので、答えを出さないようにする。
きっと、線引きの内側にいない人外者は、優しいばかりではないのだろう。
「これに懲りたら、不用意に魔物達を刺激するんじゃないよ。………私が、ネアちゃんにその懸念を向けたように、あいつ等だって、今の環境に慣れてくれば我が儘にもなる。歩み寄って作り上げた規則や認識が機能するようになった反面、ネアちゃんよりも老獪なあちら側も、より多くをとこちらを窺うようになる。気を引き締めておきな」
「はい。そちらでも、対応や観察が雑にならないようにしていきます」
二人の会話はそこまでだった。
魔術の道から出ると、経由地で待っていてくれたディノがいて、ネアは、どこかほっとしたような魔物の表情から、恐らくダリルが事前に話を通しておいたのだろうなと推察する。
(多分ダリルさんは、私が、今回の任務で惨敗するのを予測した上で、私自身にそれを理解させる為の仕事だと予めディノに話しておいたのではないだろうか)
そう考えるとあまりにも無慈悲な計画でもあるが、自分のことを理解していなかったのはネア自身に他ならない。
なのでここは、たっぷりと伴侶に甘えて傷心を癒してもらいつつ、我慢して待っていてくれた魔物を大事にしよう。
「……………ディノ、お仕事は大失敗でしたが、なんとか無事に終わりました」
「うん。…………ギモーブを食べるかい?」
「むぅ。ここで、大喜びせずに慰めてくれるので、私の伴侶はやはりディノで良かったです」
「………ずるい」
「人間は強欲なので、この野望を捨てはしませんが、私には過ぎたものだという自覚もしておきますね。そして、私はやっぱり家族が一番です!」
「ご主人様!」
ぎゅうぎゅうと抱き締められるネアを見て苦笑しつつ、ダリルは、このまま書庫に帰ると言う。
「因みに、代役の弟子が使えなかったから私が代わりに調べておいたけれどね、今年の復活祭は、やはり上限調整しておいた方がいいね。西寄りの人間達の嗜好に、少し変化がある。漂流物の訪れる年はやはり、この手の境界の揺らぐ日に変化を与え始めたようだ」
「では、エーダリアにもそう伝えておこう。ネア、今年のスープは少し辛くなると思うよ」
「ぎゃふ………」
漂流物の訪れが近くなるこの季節からは、世界の表層にも、徐々に目に見える影響が出始めるのだそうだ。
こちらではない向こう側のものが現れるという相似性から、今年の復活祭では各地の警戒が強められていた。
(現れる死者さんに、見慣れぬ死者が混じっていたら気を付けなければいけないし、土地の魔術の変化は、些細な嗜好や行動にも現れ始めるのだとか…………)
だからこそ行われた、今日の朝食会であった。
ウィーム各地からご婦人やご令嬢たちが集まり、男性達よりも細やかな変化に敏感な者達の会話を、各々に収集し、各地の変化を測るのが目的の会である。
表面上は懇親会であったが、政治的かつ、防災的な意味合いがしっかりあるもので、とは言え、それを表だった討論にしなかったのは、長年の知恵からであるらしい。
「変化を変化として認識すると、その認識を門にして繋がる可能性があるからね。あまりあけすけに多くを共有するのは、得策じゃないんだ。だから、今回みたいな場合は、少ない言葉で察してくれるディノ達がいてくれて助かるよ」
「今日は、ウィリアムが出来る限りウィームに留まるそうだ。大きな問題がなければ、こちらの管理は問題ないだろう」
「うん。そのまま、ウィリアムがいてくれると、こちらとしてもいいんだけどね」
ひらりと手を振り立ち去るダリルを見送り、ネア達もリーエンベルクに戻る事になった。
経由地にされたのは、ウィームの公共転移門近くにある屋根付きの待合室で、窓際には、黒いリボンと銀色に塗った松ぼっくりと銀色の鈴の飾りがある。
今年は警戒を強め、街中では、例年よりも鈴の多い飾りが使われているそうだ。
「ネア、今年は逃げ沼にも気を付けた方がいい。水辺などもまた、境界や扉として認識されるものだからね」
「はい。今年は落ちないようにしますね。……そして、そうではなくても逃げ沼は嫌なのです…………」
「うん。ヨシュアも落ちないといいのだけれど…………」
「まぁ。今年も、ヨシュアさんはウィームに来てくれるのですか?」
「このような年だからね。ずっとはいられないだろうけれど、午前中は滞在していると聞いているよ」
ヨシュアにも統括地がある。
漂流物の影響は各地に現れる為、そちらの管理もしなければならないヨシュアは、午前中にウィームに雨を降らせるまでがお仕事なのだそうだ。
仕事とは言え、イーザに頼まれてのものであるので、どの程度対応出来るかは、統括地の状況にもよるらしい。
「今回の雨は、霧を作る為のものなのですよね」
「うん。ヨシュアの雨を媒介にして、イーザが霧雨の魔術を敷いてゆくそうだ。後は、霧の精霊王がいるから大丈夫だろう。季節の系譜は春から夏に傾きかけているけれど、霧はウィームの資質に近い。土地の魔術をこちらで扱いやすいものに変化させ、大きな災いを避けるという役割もある」
「はい。エイミンハーヌさんがいてくれるのも、頼もしいですね」
「……………うん。エイミンハーヌなんて………」
「あらあら、でも私が一番頼もしいのは、伴侶な魔物なのですよ?」
「可愛い……………」
魔術の道から転移をかけ、リーエンベルクに戻ってくると、正門側の土地に降り立っただけでも、禁足地の森がいつもよりも静かなのが伝わってくる。
逃げ沼が現れるこの日は、森の生き物達は木の上や巣穴に避難してしまうのでいつも静かになるのだが、別の懸念がある今年に限っては、この静けさが不穏なものにも感じられてしまう。
「死者の門が開く王都では、よりしっかりとした警戒をしなければならないのですよね」
「アルテアは、そちらから離れられないだろう。海の近くに王都を構える国は他にもあるけれど、ヴェルリアの海は、やはり扉に近い。その上で死者の門が開く今年は、………少しの被害は想定しなければならないからね」
元より、こちらの世界の死者の日は、死者の門が開くというばかりではない危うさがある日だ。
これはもう完全に自己責任の範疇であるが、血気盛んな若者が死者の門探索の冒険に出てしまったり、死者の門という素敵な隔離施設を強欲な人間が利用しない訳もなく、気に入らない伴侶や友人、時には隣人までをその中に放り込む犯行も多発する。
喪った筈の人が戻る事で二次災害的に引き起こされる事件もあるが、そのあたりも前者と同じように、元からある火種によるものが大きく、復活祭だからこその災いというよりは人為的な傾向が強い。
とは言え、やはり死傷者や行方不明者が増える日であった。
(でも今年は、……………そこに、土地の魔術の不安定さが影響し、思わぬ事件が起こる可能性がある)
そう思えば背筋がひやりとしたが、続く夏至祭に比べれば魔術の揺らぎは少ないので、まずは、この最初の波をやり過ごさねばならない。
悪夢の被害が出たばかりではないかと思っても、訪問時期を選ばないのが季節の災いだ。
「あ、お帰り。女の子達の朝食会はどうだった?」
「むぐ。お友達を得よう作戦は、完敗しました。最近流行の恋物語の舞台のお話や、そこに出てくる有名な役者さんのお名前がさっぱり分からず、美容品のお話にもついていけません……………」
「ありゃ、落ち込んでるぞ………。でも、ネアには僕達がいるんだから、そんな連中なんていらないからね。……シル、スープは辛めでいいかな?」
「うん。ダリルとも話をしたよ。やはり、西側で味覚や嗜好に変化が出ているらしい。鈴飾りも、用意していたものを予定通りに増やした方がいいだろうね」
リーエンベルクに入ると、入り口で待っていてくれたのはノアだ。
ディノの言葉に頷き、連絡を取っているのは執務室にいるエーダリア達だろう。
訊けば、今日の朝食は執務室で食べたというので、やはり忙しいのだと思う。
「ウィームでも、既に影響が出ていたりするのですか?」
「ヨシュアが頑張っているから、今は大丈夫かな。この後、霧の魔術で基盤を均すから、大きな変化が出てくる前には落ち着くと思うよ。……ただ、ここも匙加減って感じなんだよね」
「むむう………」
歩きながら話そうかと言われ、ネア達もエーダリアの執務室に移動することとなった。
ウィリアムは禁足地の森に出てくれているようで、グラスト達が同行しているらしい。
この季節のいつもの朝よりは薄暗い廊下を歩き、ネアは、雨に濡れる庭園の薔薇やライラックを眺める。
今はただ美しいばかりだが、これから、復活祭の日の揺らぎも見えてくるのだろうか。
「ではやはり、外出制限を出すことにするのかい?」
「うん。人間に知覚できる嗜好に、この時間でもう影響が出始めているなら、やった方がいいと思うよ。そこ迄の変化があれば、出した方がいいだろうって、さっき意見が揃ったところだし」
「おや、ではアイザックも同意したのだね」
「そこが一番難色を示してたけど、霧が深くなることで土地の魔術は安定する分、視界が悪くなる。今年は逃げ沼にも気を付けた方がいいから、となると、動かないのが一番なんだよね」
その施策に最後まで反対していたのは、アクス商会であったらしい。
復活祭の為の商品も扱うので当然なのだが、商会としての階位上、この程度の揺らぎには影響を受けないお客が多いというのも、アイザックが反対していた理由であるようだ。
とは言え、さすがに外出制限が発令されると、であれば家にいようかとなる者は少なくないので、アクス商会にも影響が及ぶことになる。
少しでも損失を減らしたいと思うのは、商人としては突然のことだろう。
同意の条件として、より環境の変化に鈍い人間においても変化が出るようであればと話していたようだが、ネア達の情報が持ち帰られる前に同意となったのであれば、アクスの調査でもそうするべきだという結果が出たのかもしれない。
「……………ありゃ」
ネアが、あまりその辺りの判断や思考に明るくない人間なりに、各ギルドや行政の判断が、今後どのように変わってゆくのだろうと考えていた時のことだ。
ノアが驚いたように声を上げ、窓の外を見た。
何があったのだろうと視線をそちらに向けたが、何も変わったものは見えず、ネアは首を傾げる。
「……………ご主人様」
「まぁ。なぜ、突然弱ってしまったのです?」
「……………え、ずるい。僕だって妹に甘えたい……」
突然、魔物達にへばりつかれたネアは、ぎりりと眉を寄せる。
ネアが窓の外を見た際には何もいないように思えたが、魔物達は、窓の外に何かを見てしまったようだ。
「何か、怖いものがいたのですか?」
「……………いた」
「え、……………なにあれ。鯨って、あんな形してたっけ?」
「まぁ。上にいたのですね。森の方を見てしまいました」
まとわりつく魔物達を少しだけ押し下げ、腕の間から顔を出したネアは、今度は空の方を見てみる。
するとどうだろう。
(……………わ!)
そこには、ネアが昔からよく知る形の鯨が、悠々と空を泳いでいるではないか。
頭には一本の角があり、体は青い硝子のように透き通っていて、きらきらと光る宝石のような気泡がその中で揺れている。
何て美しいのだろうと思わず見入っていると、ディノが慌てたように手を伸ばし、ネアの目を手のひらで覆ってくしまう。
「にゃぐ?!綺麗な鯨さんが見えなくなりました!」
「……………綺麗、なのかい?」
「ええ。きらきらしていて幻想的で、とても素敵な鯨さんです!」
「…………わーお。あれも大丈夫なんだ」
「寧ろ、あのくらいの造形の何がいけないのかが謎めいているのですが、角でしょうか?」
無神経な人間がそう尋ねてしまうと、魔物達はきゃっとなり、ますますしがみついてくる。
たったそれっぽっちの変更も受け入れられないのだなと驚きながら、ネアは、合成鯨が怖いと震える魔物達には目を閉じるように言い、そんな魔物達の手を引いて歩く介護スタイルで執務室までの移動を再開した。
窓辺に吊るした鈴飾りが、ちりりと音を立てたのは鯨の鳴き声のせいだろうか。
オオンと響いたのはどこか物悲しい鳴き声で、ディノ曰く、そちらは本来のものと変わらないそうだ。
また、今回のものは悪変した妖精鯨だということなので、よく話に聞き、バルバでは焼いて食べてしまう鯨とは違う種族らしい。
「あのようなものが、どこかのあわいにはいるのだね………」
「多分だけど、迎えに来た罪人を回収出来ないまま彷徨っていたんじゃないかな。死者の日に現れたことを踏まえて考えるとだけどね…………」
「あら、ノアは、すっかり涙目になってしまっています」
「あれは酷いよね。大きいし、………目立ち過ぎじゃない?」
「妖精鯨なんて……………」
妖精の齎す災いや呪いに触れた死者を迎えに来るのが、妖精鯨なのだそうだ。
しかし、回収する死者達には厳密な取り決めがある訳ではなく、対象だと思われる者であっても、妖精鯨が現れない場合は、普通の死者として、死者の国に回収されてしまうこともある。
今回現れた個体は、何らかの事情でそうして獲物を見失い、彷徨い続けているらしい妖精鯨ではないかというのが、ディノとノアの見解であるようだ。
ネアは、この二人が弱るとなると、森に出ていたウィリアムは大丈夫だろうかと心配になったが、ネア達がエーダリアの執務室に辿り着いた頃に駆け込むように合流したウィリアムが真っ青だったので、やはりとても苦手であったらしい。
「……………すまないな。私もやはり………苦手なようだ」
「いえ、私は全く問題ないのですから、皆さんの代わりに、このまま鯨さんの行動観察をしますね」
「……………ネア、ここからだと、窓の外が見難いだろう。少しだけ我慢していてくれ」
「ウィリアムさんの心が落ち着くまでですね!」
「ウィリアムなんて………」
ダリルとの仕事では無力感に苛まれてしまったが、やはり、ネアの活路はこちら側なのだろう。
角鯨の出現で家族達はすっかり弱ってしまっていたが、活躍の場を見い出したネアはふんすと胸を張る。
戻ってきたばかりの終焉の魔物に、まるでお守りのように膝の上に抱え上げられてしまったネアは、たいそう顔色の悪いウィリアムを、ひそかな安堵と共にそっと撫でてやったのだった。