インクの部屋と紫色のカーテン
リーエンベルクの中には、不思議な部屋が幾つもある。
それは、現在の領主であるエーダリアも、この土地で暮らす高位の魔物達も知らない不思議な部屋ばかりで、統一戦争迄の日をこの地で暮らし続けたウィーム王族と、彼等に寄り添ってきた人ならざる者達の足跡そのものでもあった。
そして今日、そんな普段は開かない部屋の一つが扉を開き、うっかり迷い込んだおやつ前の人間は危機に瀕していた。
「おやつ………」
「まさか、扉が閉まるとはな。………ネア、大丈夫か?」
「ぎゅむ………」
「もの凄い数なのだな………」
お茶の時間が近付き、たまたま、会食堂前の廊下で出会った三人である。
ぱたんと開いた扉の奥にどんな部屋があるのだろうと覗き込んだ途端、この中にいて、後ろで扉がばたんと閉じたのだ。
「…………見渡す限り、インクの収納棚です。これは、あわいの列車から見たスープの駅を彷彿とさせますね」
「ここまでの数を集めるのに、どれだけの努力があったのだろう。………これを見てくれ。竜の溜め息と夜の月影のインクではないか!」
「そして、エーダリア様が大はしゃぎです…………」
「二人とも、俺から離れるなよ。リーエンベルクの中とは言え、普段はない空間みたいだからな」
くすりと笑ってそう言ってくれたのは、その後、幸運にも大きな仕事がなかったのでと、復活祭までウィームに滞在中の終焉の魔物である。
ディノは、恋人に刺されて帰って来たらしいノアの様子をヒルドと共に見に行ってくれていたので、ウィリアムがネア達と一緒にいたのだ。
一緒にいてくれると安心感が違うので、ネアは、エーダリアと二人きりにならなくて良かったとほっとしていた。
(リーエンベルクに傷付けられる事はないだろうし、エーダリア様も凄い魔術師なのだけれど、知識や経験も含めて、ウィリアムさんがいてくれて良かった………)
部屋の中は、ひんやりとした空気に包まれていたが、寒いと感じる程ではない。
この時期のウィームの雨の日くらいの室温で、とは言え、部屋を満たす淡い陽光は、晴れの日の夜明けくらいの光量はあるようだ。
澄んだ光は青白く、ほんの少しだけ水に滲むような緑が混ざる。
この季節の色だなと思えば、瞼の裏に、雨に濡れる紫陽花が浮かぶような色彩でもあった。
今はもう、一般的な紫陽花の花の時期は終わりになりつつあるが、もう少しすると夏紫陽花、その後には秋紫陽花に冬紫陽花と次の季節の品種が咲くので、紫陽花は、ウィームでは薔薇やライラックに次いで多く見られる花でもある。
とは言えやはり、夏前の季節の紫陽花は例えようもない美しさなのだ。
(……………天井にゆらゆらと光が映っていて、まるで水面の影のよう)
見上げた天井は高く、部屋の壁は白い漆喰を塗ったような質感である。
ネアは、明らかに手をかけて作られた質感だと思っていたが、ウィリアム曰く、霧の系譜の鉱石の一種であるらしい。
特別に華美ではないが優美なアーチ状の装飾があり、清廉な佇まいの修道院のような空間だ。
窓枠は黒檀結晶が使われていて、彫り込まれた模様はオークの木とラベンダーだろうか。
「棚に並んだインク瓶に光が反射して、天井や壁に落ちる光と影の色が、なんて綺麗なのでしょう」
「……………僅かだが、グレアムの魔術証跡があるな。彼がリーエンベルクの中で働いていた時期に作られた部屋だとしたら、昨日迄の滞在で、建物の記憶が蘇ったのかもしれない」
「まぁ。そうだとしたら、グレアムさんのお陰で、こんなに素敵な部屋を見付けてしまえたのですね。……………むぐ」
ここでネアは、ぐぅと鳴ってしまったお腹を素早く押さえる。
このような部屋は、滅多に見れないものなのはわかっていた。
なのでネアは、お茶の時間の直前だったのだと悲しみに暮れる心を、頑張って並んだインク瓶の美しさに向け、数えきれない程の複雑な色のインクを楽しもうとしたのだが、すっかり心が杏のタルトに向かってしまっている今、どうしてもお腹はまだおやつの時間ではないのだろかと訴えかけてくる。
お腹を押え、素敵な部屋を楽しく拝見しつつも、実は出口も探さねばならない現状を悲しく思った。
勿論、非常食は持っているが、最高の状態でタルトをいただくには、今は何も食べずにいるべきだろう。
一緒にこの部屋に迷い込んだエーダリアは、すっかり、お茶の時間の事など忘れてしまっているのだろう。
夢中で収納棚の上に並んだインク瓶を眺め、珍しい物がある度に目を輝かせている。
ネアだってこの部屋を見ているのは楽しいのだが、なぜおやつを食べた後の時間の開放にしてくれなかったのかを恨めしく思うばかりだ。
「なんらかの条件を満たせば、出られると思うんだがな。………大丈夫か?」
「ふぁい。こちらの苺インクが、美味しそうに見えてしまいました……」
かつこつと床石を踏むと靴音が響き、窓枠と同じ黒檀鉱石の棚の間を歩く。
支柱と天板しかない棚は、奥の列の収納棚の方まで見渡せるので、目の前のインクの色を見ながら、奥のインクも視界に入るという造りのようだ。
光がよく入るので遮光魔術の工夫がなければ難しい収納方法だが、このように並べておけば、棚や引き出しの中に隠れてしまうインクがないので、購入したもののすっかり存在を忘れていたということは防げそうな気がする。
また、淡い光を透かしたインク瓶が並ぶ様子にはやはり、思わず目を奪われるような美しさがあった。
「…………これは、王家固有の色だな。ウィームとイブメリアという名前のインクのようだ」
「なぬ。み、見たいです!」
エーダリアが足を止め、ネア達も立ち止まる。
そんなインクは特別な展示をされるのでもなく、他のインクと同じように棚に並べられていた。
「七色展開で作られたものだったのだろう。この並びだ」
「ほわ…………綺麗なインク瓶ですね。全体的にシンプルなのですが、蓋の部分の細工がとても素敵です」
「この質感は、雪陶器なのかもしれないな。祝祭の祝福石で飾られているようだ」
静かな声ではあるが、なかなかに興奮しているエーダリアに珍しいインクを教えて貰い、ネアは、イブメリアの色を閉じ込めたというインクの色を覗き込む。
ネアが目を止めたのは、白に近いがふくよかな色の深さを感じる白緑で、雪に覆われたウィームの森や、飾り木やリースなどの葉の色を思わせる。
その隣にあるインスの実に似た艶やかな赤い色のインクは、よく見ると紫色にも見えるような違う色相の深みがあって、そんな複雑さは、艶々とした赤い実の彩りが目の前に浮かぶような瑞々しさを表現していた。
(……………ああ、でもやっぱり綺麗だな)
目を向ければ、タルトのことは、少しだけ忘れていてもいいかもしれない。
並んだ瓶は宝石のように煌めき、棚の縁には丁寧にラベルが貼られている。
(リーエンベルク内工房、イブメリア記念発売インク。何かの記念で作られたものなのだろうか………)
購入したのは、どんな人達なのだろう。
まだ、このウィームのどこかにこのインクを持っている誰かがいるかもしれないと思えば、何だか不思議な歴史を感じてしまう。
色というものはどこにでも溢れている月並みさだが、その実、思っていた以上に贅沢なものである。
例えばここで、イブメリアの限定インクの色彩を揃えたいと思えば、目の前に並ぶ高価そうなインク瓶が七つ必要なのだ。
それは例えば、一枚のスカートに合わせるブラウスの色で、無難な白以外の綺麗な色が欲しければ、それは、常用の備えとは違う余分の出費となる。
汎用性の高い色でなければ、そうそう毎日は着られないので、そのとっておきの一枚の為に使うだけのお金の余分が求められるのだ。
そんな、ウィームに来る迄のネアにとっての手の届かない贅沢だった溢れるばかりの色が、今はそこかしこにあって、このような美しいインク瓶を集めた部屋が同じ屋根の下にあるのだと思うと、やはり心が躍ってしまう。
毎日のお茶の時間が幸せで堪らないように、こうして並べられたインク瓶もまた、この世界がどれだけ素敵なものなのかの象徴に思えたのだ。
「不思議ですねぇ。普段は好んで使わないような色も、こうして他の色と並ぶと、突然、全部が美しくて特別なものに思えるのです。…………そのひと瓶だけが置かれていれば、これではなく、私の好きな色はないだろうかと思う筈なのですが、より多くの物を並べて貰える贅沢を得ると、途端にもっと欲しくなるのは人間の強欲さかもしれません」
「色を治める様々な資質や魔術は、互いに補い合い均衡を保つものだ。そのような影響もあるのだろうが……………だが、単純に美しい彩りにも心を奪われてしまうな………」
「ふふ。エーダリア様は、インクを集めてはいらっしゃらないのに、それでも夢中になってしまうのですね?」
ネアがそう言えば、エーダリアは僅かに目元を染めていたが、そうだなと小さく頷く。
きっと、ネアがこの部屋の贅沢さを感じて胸を弾ませているように、エーダリアも、このようなものを眺められる時間の贅沢さを思っているのかもしれない。
「工房や職人が失われているものでなければ、この部屋を出ても手に入れられるだろう。欲しいものがあれば言ってくれ」
「むむ。ウィリアムさんが甘やかしてくれようとします……………。お部屋のインクはせいぜい三種類という私なのに、このお部屋にいると欲しくなってきてしまうのはなぜなのだ…………」
実は、以前にもインクの熱に浮かされたことのあるネアなのだが、残念ながら、沢山揃えてそれらを素敵に使いこなすという技量には恵まれていなかった。
それなのに、また欲しくなってしまうのだか、困ったものではないか。
「………この部屋に収集されているインクは、どれも、魔術特性があるものばかりだな。ここまでグレアムの管理魔術の気配が残っているとなると、彼が管理していた部屋だったのかもしれない。……………となると、どうしてもと欲しくなったインクがあれば、見過ごさない方が良さそうだな」
そのウィリアムの言葉に、エーダリアが振り返る。
はっとしたように瞳を揺らしたので、何か意味があることなのだろうか。
「……………そうか。リーエンベルクが必要に応じてこの部屋を開けたのであれば、犠牲の魔術の何某かに触れる形で、必要なものを示されていることもあるのだな」
「ああ。これだけのインクの全てを、彼が自分の為だけに集めたとも思えない。となると、リーエンベルクで暮らす者達に必要であればと、部屋を残していった可能性が高いからな」
(……………ああ、そうか)
様々な魔術を帯びるインクは、その全てが、小さな小さな手助けや守護にもなる。
魔術付与のあるインクはとても有用で、現在のリーエンベルクでも、契約書や魔術書、時には封印用の術符を書くのに使われている。
であればここにあるインクも、そのような作業の際に力を借りられるようにと蓄えられていたのなら、グレアムの滞在で何かが繋がったにせよ、部屋の扉が開いたということにも、意味はあるのかもしれなかった。
「……………私が気になっているのは、このインクなのだ」
ややあって、おずおずとそう申し出たのは、エーダリアだった。
ネアも、どこかに必要としているインクがあるだろうかと鋭い目で周囲を見回したものの、綺麗なインクがどれもこれも欲しくなるばかりで、何か一つに不思議な程心を引かれるということはないようだ。
「綺麗な青色のインクですね」
エーダリアが選んだのは、小さなインクの瓶である。
ラベルには鷺に似た鳥の絵があり、生き物の固有色などを集めたシリーズの一つのようだ。
「……………俺は、アルテアやグレアム程詳しくはないだろうが、これは、渡り鳥のインクだな」
「渡り鳥………。そうか、ハフレックスの夜鳥は、季節で棲み処を変える鳥だったな………」
「ああ。そして、このインクとなると………因果の報いや技術踏襲など、効果はかなり広いものになる筈だ。戻ってから、まずはノアベルトとヒルドに相談してみるといい。……………或いは、ダリルもだろうな」
エーダリアは、そのインクを、ウィリアムが躊躇いもせずに取り上げた事に驚いたようだ。
ウィリアムがそのインクの瓶をエーダリアに持たせると、どこかで、ガチャリという扉の開く音がする。
ネアは、魔術の動きが見えないなりに、これは招かれた者が必要な道具を得たので帰り道が開いたということなのだなと頷き、おとぎ話のような展開に笑顔になる。
「そうか、これを渡してくれようとしたのか……」
「何とか帰れそうだな」
「タルトが焼き上がっている筈なので、報告会は、お茶の席でいいのです?」
「ああ。その方がいいだろう」
(……………おや?)
ゆっくりとインクの収納棚の間を抜けて、開いた扉に向かう道中、ネアは、誰かに呼ばれたような気がした。
ウィリアムに手を繋いで貰っているのでと安心して振り返ると、インク棚の向こうに窓際に置かれた大きなテーブルがあり、そこに、魔術師の装いをした髪の長い男性が立っていて、灰色の瞳を細めてこちらを見る。
ローブの色は深い紺色で、髪は綺麗な灰青色。
長い髪の毛は、前に流して三つ編みにしてあった。
つられて微笑み返したくなるような、優しい眼差しの、とても綺麗な男性だ。
(この人は……………)
はっとして目を瞠ると、ざあっと風が吹き、窓にかかっていた深い紫色のカーテンを大きく揺らす。
風を孕んで膨らんだカーテンが落ちると、そこにはもう、誰もいなかった。
それどころか、窓辺に置かれたテーブルもない。
「ネア?」
「……………今、あの窓辺に大きなテーブルがあって、そこに立っている人が見えたような気がしたのです。……………擬態をされていましたが、…………あれは多分、グレアムさんだったのではないでしょうか」
「……………そうか。何か言っていたか?」
「はい。こちらを見て微笑んで、部屋を出る時に明かりを消すようにと」
「はは、グレアムらしいな」
そんな話を聞いてしまったエーダリアは、慌ててきょろきょろしていたが、もう、部屋の中には誰もいないようだ。
開いている扉を見付けて出口に向かえば、確かに、扉の横に、証明用の魔術制御板が張られている。
リーエンベルクの敷地内の明かりは魔術制御されており、今は、軽く手を振るだけで明かりを入れられる部屋も多いが、この部屋は、古くからある魔術式に触れて明かりを灯す仕組みのようだ。
「…………また、来られるだろうか」
「ああ。インク瓶を戻す時が来たら、また扉が開くだろう。だが、中に入る際には、ノアベルトか、シルハーンに同行を頼んだ方がいい」
「そうしよう。……………このインクを借りさせて貰う。部屋を開けてくれて、助かった」
こんな時、部屋を出る前に律儀にお礼を言ってしまうのがエーダリアなので、ネアは、この部屋はきっとまた、エーダリアを助けてくれるだろうと考えて、にんまりしてしまう。
部屋の明かりはウィリアムが消してくれ、ぱたんと扉が閉まると、そこにはいつものリーエンベルクの廊下があるばかり。
「戻ってこられたようだな………」
「ええ。これで、おやつに間に合うといいのですが………」
「うーん、あの中にいた時間と同等であれば、そう長く不在にしてはいないんだけどな」
三人でそんな話をしていると、ばたばたと音がして、廊下の向こうからノアが走ってきた。
ネアとエーダリアはすぐさま抱き締められてしまい、慌てて一歩離れたウィリアムが苦笑している。
「急にいなくなるのは、驚き過ぎるからやめて!」
「ほわ、……ノアに轢かれるかと思いました………」
「す、すまなかった。リーエンベルクが、見知らぬ部屋に招き入れてくれたのだ。……その、大丈夫なのだからな?」
おろおろするエーダリアと一緒にノアに抱き締められていると、続いて姿を現したディノまでもが、慌ててこちらに来ると、重ねるようにぎゅうぎゅうと抱き締めてくる。
「ネアが逃げた……………」
「ぎゅ!………に、二重締め技はやめるのだ………ぷは!」
「シルハーン、お騒がせしました。どうやら、リーエンベルクが、エーダリアに必要なインクを渡そうとしたようですよ。グレアムが作った仕掛けみたいですね」
「グレアムが作ったものだったのだね。………ネア、怖くはなかったかい?」
「はい。ウィリアムさんがずっと手を繋いでいてくれましたし、おやつ前で腹ペコでしたが、お部屋の棚いっぱいに並んだインクはとても綺麗でした」
少し離れた位置にヒルドも立っているので、どうやらみんなで探してくれていたようだ。
こうならないよう、出来れば部屋の扉は開けておいて欲しかったのだが、そうは出来ない事情もあるのかもしれない。
「まぁ、では私達が姿を消していたのは、中に居た時間と同じくらいの時間で済んだのですね」
「どうやら、時間の流れに差異はなさそうですね。この会食堂前の廊下は、古い時代の改修工事の記録なども残っているようですので、必要とされる場所に現れる部屋なのかもしれません」
「ああ。窓から見える景色が、中庭のものだった。本来は、別の場所にあった部屋の扉が、あの場所で開いたのだろう」
会食堂に集まり、お待ちかねのお茶の時間が無事に始まると、会話はやはり、ネア達が見てきたインクの部屋のことになる。
ヒルドは自身でもインクを好んで使い分けているようなので、返却の際には部屋の中を見てみたいそうだ。
インクと言えば妖精のインク工房というだけあり、妖精種は基本的にインクは好きなのだという。
「そういう意味だとさ、魔物は、絵の具の方が好きだよね」
「精霊はペンを好むと聞いた事がある。種族的な嗜好があるのだろうか」
「その系譜の最高位を、どの種族が持っているかでもあるのだろう。自分達の領域のものとしての執着が、嗜好の分岐の始まりだったと聞いているよ」
「という事は、ペンは、精霊さんが作るものがあるのですか?」
「うん。精霊のペン工房がある。けれど、そこで作られるペンは特殊な用法の物ばかりだから、君が使う事はないかもしれないね」
精霊が作るペンは、信仰の系譜の書き物に向いているのだそうだ。
その結果、信仰の庭に暮らす信徒たちは何かと書き物をするので、精霊と言えばペンであるという印象や執着が深まっていたようだ。
日用使いも出来なくはないのだが、文字がなぜだか仰々しくなるので、あまり好まれないそうだ。
また、可動域上の問題で、ネアは使えないらしい。
「ぐるる……………」
「君が見たグレアムは、幾つかの指示を、魔術の影として部屋に残してあるのかもしれないね」
「という事は、明かりを消さずに部屋を出て行く人が、多かったのかもしれませんね……」
「そのような事もあるでしょう。私も、部屋のカーテンタッセルが何度も紛失しますので、犯人を叱る為の魔術刻印を用意しようかと思った事がありますからね」
「……………ごめんなさい」
「狐さんが……………」
「ノアベルトが……」
テーブルの上に置かれたグラスには、ニワトコのシロップを使った冷たい飲み物が入っている。
小さな白い花をふんだんに使ったシロップの入れ物も置かれていて、お代わりの際には作り足す事が出来るようになっていた。
焼き立ての杏のタルトには、クリームチーズを添えていただく。
果実部分の酸味のしっかりとした杏のタルトは、このように、クリーム類が添えてあることが多い。
待望の美味しさを頬張りながら、ネアはふと、妙に記憶に残っている紫のカーテンの話をしてみた。
「……………紫のカーテンですか」
「名簿では見かけた事がないので、今はもう残っていないのかもしれないな。だが、お前の記憶に残ったとなると、何か意味があるのかもしれない。インクを返しに行く際に、そのようなカーテンを納めた方がいいのだろうか」
そう首を傾げたエーダリアに対し、ノアは何かを考えるように顎先に手を当てた。
だが、ディノが、啓示かもしれないねと呟くと、うんうんと頷いている。
「その色ってさ、白色と合わせて、啓示や予兆って意味でも使うんだよね。意識に色の記憶を残したのが意図的なものだと考えると、インクを使うような場面の安全を、もう一度確認し直した方がいいかな」
「恐らく、書類や契約書だろう。そのインクの瓶には、約束の魔術の祝福が見えるから、そのような中で災いを宿したものを退けようとしているのではないかな」
「わーお。シルはそこまで分かっちゃうんだ」
「夏至祭が近いこの時期にその鳥ののインクを選んだのは、報復という意味合いかもしれないね」
説明をしてくれるディノの声は静謐だが、話している内容はそこそこ物騒なものなので、ネアは、ぎりりと眉を寄せたまま、美味しいタルトをぱくりと頬ばる。
「どなたかが、エーダリア様に悪さをしようとしているのですか?」
「その渡り鳥は、夏至の日に渡りをするんだ。ウィームやこの近隣の土地で子供を産み育て、渡りの先では、夏から秋にかけての豊かな食料を求めるのではなかったかな」
「ええ。そちらでは、害鳥とされますが、巣作りの前に周囲の災いを祓うので、ウィームと、ガーウィンの一部では益鳥とされております。となれば、魔術の因果は、災いや呪いを返すという方向に動くのかもしれませんね」
そんなヒルドの言葉通りだったと判明するのは、夏至祭の朝の事だった。
この世界では、特定の魔術が動く日に処理しなければならない書類というものも少なくないのだが、その中の一つに不自然な点を見付けたノアが、エーダリアの代わりに渡り鳥のインクで承諾文章を記載したところ、その書類はたちまち燃え上がり、じゅわっと消えてしまったらしい。
後日、ダリル主導で調査が行われたところ、新規の仕入先であった異国の香料商社も、発注を取り付けた工房が何も知らず、その契約書が持ち込まれる道中で何者かが細工をしたことが判明した。
書類運搬の道中で、商社の職員が宿泊したホテルの中に、競合商社の傘下の施設があった事が判明し、更なる調査がなされたところ、その経営陣の中で、夏至祭の日に不審死を遂げている一族がいたようだ。
政治絡みというよりは、商売敵の信用を失墜させようとして企まれたものだったらしいが、夏至祭の祝福直下という、夏の系譜の者達の守護の厚い土地で仕掛けられた災いだった為、何事もなければ、見過ごされていた可能性もあったらしい。
「エーダリアの場合は、守護が厚いから、多少の切り傷や、……………どれだけ重くても骨折程度で済んだかもしれないけど、それでも許せないよね」
「このような効果のあるインクが作られていた事は、知りませんでしたが、あなたも何かしたのですか?」
「ううん。僕はまだ、何もしてなかったんだよ。まずはインクの力を見てみようと思ったんだけど、……思っていたより容赦ない感じだったね」
「……………何も、一族の全てを滅ぼさなくても良かったのではないか?」
「私の家族を狙ったのですから、相応の報いです」
「……ありゃ。怒ってるぞ」
「ネア、ギモーブを食べるかい?」
「むぐ!……………渡り鳥のインクさんは、今度、瓶を磨いて艶々にしておきますね!」
しかし、大事な家族を守ってくれた恩返しのつもりでインク瓶をぴかぴかに磨いてしまった人間は、翌朝目が覚めると、寝台の横に山ほどの麦粒が積み上げられているという事件に巻き込まれた。
ハフレックスの大好物だと言うが、麦粒を絨毯も敷かれた部屋の中に積み上げると片付けが大騒ぎになるので、次回からはお礼の品は辞退したいと思う次第だ。
明日の通常更新は、お休みとなります。
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