赤い花の香りと夏至祭の糸
辟易とするような仕事を終えて屋敷に帰る途中で、ふと、歩きなれた街並みに違和感を覚えた。
小さく影を踏み直し、石畳の響きを聞けば、やはり何かがおかしい。
ふうっと溜め息を吐き、魔術金庫の中から銀水晶のケースを取り出して開くと、薔薇煙草を咥える。
魔術で火を点け、吐き出した紫煙はどこへともなく流れてゆく。
そうすると、何もなかった筈の石畳に、踏み荒らされたような乱雑な足跡が浮かび上がるのだった。
「騒々しい夜だと思ったら、ゴーモントの道化師達か」
ふいに背後からそんな囁きが落ち、顔を顰めて振り返る。
そこに立っていたのは、この時刻に王座を離れていたものか、真夜中の座の精霊王であった。
「時間の座を空けてきたのか?」
「会長が疲弊しているようなのでと、連絡が入ってな。…………夜の子供達の話によると、君も同じ街に行ってきたようだが、事態が収束してからの到着で済んだようだ」
「興味があるなら行ってみろ。まだ、トマトソースの匂いしかしないだろうよ」
「はは、さすがにやめておこう。食楽の資質を持つ私でも、街そのものにかけて楽しむ趣味はない」
小さく笑い、すっと夜の気配が遠のく。
真夜中に紛れどこへともなく姿を消したミカは、とは言え今夜は、ウィーム中央に留まるようだ。
(グレアムが体調でも崩したか……………)
そう思えば、最後に見かけた時には、ウィリアムに抱えられていたので、かなりに消耗はしていたのだろう。
植物の系譜の呪いに触れたのであろうし、相手が知名度の低い植物などではなくトマトともくれば、ああなるのも不思議ではない。
ふうっとまた煙草の煙を吐き、どうしたものかと考えながら石畳の足跡を目で追う。
この様子であれば、リーエンベルクに暮らしているあの人間がまた何かを引き当てているかもしれないし、そんなことに気付きもせずに、守護の覆いの中でぐっすり眠っているのかもしれない。
いつもであれば様子を見に行ったかもしれないが、今夜は、予定していた商品の納品が未定となって、少しばかり機嫌が良くなかった。
(どうせ、シルハーンもノアベルトもいるだろう)
それでも足を取られるのは、あの人間の持つ因果とも言うべき危うさなのだが、たまには手をかけてやらずとも、自分達でどうにかするに違いない。
元はと言えば、あの人間は、脆弱な自分の手で運命を引き剥がして前に進むようなところもある。
しかし、そう考えると、もし、そのいつもとは違う選択を見過ごしたらという思いが、ちりりと揺れもするのだった。
(……………馬鹿馬鹿しい。あの程度の亡霊共が、リーエンベルクの守護層の内側に、どれだけの事を出来る?それであいつが巻き込まれたとして、どの段階で解決出来るかなんて、考えるまでもない)
もう一度だけ煙草の煙を吐き、乱れながらも目的を持ってどこかに向かうような足跡を眺め、背を向けた。
真夜中の座の精霊王が動いているのであれば、他の会員達も動くだろう。
守り手として足りないという事がある筈もなく、今夜は早々に帰宅しようと決める。
踵を返し、屋敷に続くあわいに歩を進めるその時に、ふっと、濃密な甘い花の香りを嗅いだような気がした。
屋敷に戻ると、入浴し、簡単な料理を作って食事をする。
今夜のうちに済ませておきたかった調べ物を済ませ、仕事の連絡を何件か済ませると、飲みかけの蒸留酒の瓶を持ってきて、少しだけグラスに注ぐ。
からりと氷を鳴らし注がれた琥珀色の酒は、かつて、ヴェルリアの王族達が好んで飲んでいた酒だ。
なぜ、こんな夜にこの酒を飲もうと思ったのだろうと思いはしたが、さして気に留めなかった。
ざあざあと、雨音が響く。
ゆるやかに波打つ雨のヴェールの騒めきは、どこか波音にも似ていた。
天候を遮断していない今夜は、ウィーム中央と同じ空模様をこちらでも共有しているので、誰かがあの旅団を追い払うために雨を降らせたのだろう。
であれば安心である筈なのに、何かが心の端に爪を立てている。
ざざんと打ち寄せる波音を思い、久し振りに飲んだ酒をまた一口含んだ。
はらはらと。
はらはらと舞い散る真っ赤な花びらが、風に散らばる。
記憶の中のその日、港では進水式が行われていて、賑やかな声をかき分けるように、どこか疲弊した目で振り返った男がいた。
想い人に求婚しようとしているところなのに、戦などを始められてしまったと悲しげに笑った男はしかし、望まない戦争が終わっても、何よりもと愛していた海と造船所の仕事に戻る事はなかった。
彼が、あの真っ赤な花を捧げて求愛した一人の女は、ウィームの王族の手で討ち取られたという。
踏み躙られ、その全てを滅ぼされるどころか、魂までをも壊されたとしても、あの国の者達は決して脆弱ではなかった。
進水式の日にあの男が持っていた花束こそが、求婚した火竜に捧げたものだったと聞き、強い酒のように甘ったるい執着にうんざりとしたのを覚えている。
心に残るものが特にあった訳ではなく、達観したような物言いのくせに面倒そうな男だったと辟易したばかりで、今日の今日迄思い出す事はなかった。
あの花の香りを、こうして思い出すまでは。
「……………っ!!」
乱暴にグラスを置き、そのまま深く転移を踏んだ。
転移のあいわいを渡りながら装いを切り替え、手に持ったのは、より多くの魂を切り分けて作り上げた白い杖だ。
気付いて帽子も被ったのは身なりを整える為ではなく、あの男がこちらを見た際に、何かに気付き余計な事をしないよう、たまたま立ち寄ったかのように見せる為であった。
じゃりっと濡れた石畳を踏み、けれども転移の証跡の全てを重ねた魔術で覆い隠した。
こちら側の空気を乱さず、降り注ぐ雨のヴェールを揺らさぬよう下り立つのと同時に、この転移によって動いた魔術の全てを押さえ込む。
だが、その直後にリーエンベルクを覆う鳥籠に気付き、一瞬だけ、呼吸を揺らしてしまった。
(……………くそ、ウィリアムか。……………紛らわしい真似をしやがって!)
そして、そんな一瞬の揺らぎを、こんな時だからこそ見逃さずに振り返ったのは、あの日以来見ることのなかった、造船所の魔物だ。
「……………ああ、君か。久し振りだな。…………まさか、こんなところで再会するとは」
「妙な所で妙な事をしているな。…………言っておくが、ウィームは、俺だけでなくアイザックも贔屓にしている土地だ。今の均衡を崩すような浅慮は避けろよ」
立っていたのは、魔物らしからぬ体格の男であった。
竜だと言われてしまえば竜にしか見えないのだが、人間達が造船所の魔物はきっと逞しい大男に違いないと想像を膨らませたせいで、魔物ではあまり見かけない体格を得た一人だ。
体格などの傾向にも種族性はあるが、そうして、派生したものの影響や、派生を助けた認識にその境界を超える者達も少なくはない。
「……………浅慮、……………浅慮か。随分と長い間、私は、……慎重であり過ぎたような気がする」
幸い、その声にはまだ理性があった。
正気でもあるようだし、酩酊もしていない。
(だが、………あの道化師共は、ほんの僅かな過量で狂う天秤であれば、人間以外の者達の心も崩しかねない厄介さがある……………)
だからこの男は、こんな真夜中にリーエンベルクの正門前に立っているのだろう。
あの日と同じ真っ赤な花の花束を持ち、まるで喪服のような装いで、雨を避けずにずぶ濡れになって。
「今の振る舞いが平素のものでないのなら、そのまま元来た場所に戻れ。リャミアータの旅団がこの地を通り抜けたらしい。お前が燻らせている感情は、本来であれば、このような形では動かなかったものの筈だ」
「……………そうだな。確かにこれは、私らしくない行為だ。……………だが、私らしさなどというものに、今更何の意味があるだろう。………彼女はこの地で殺され、彼女が戻らないのに、この地には、再びウィーム王家の人間が戻ってきた」
ゆっくりと、その声がひび割れてゆく。
もう無駄だろうなと思いはしたが、それでも言葉を重ねたのは、何もこの男を惜しんだからではない。
ただ、この場所の魔術を揺らがせたくなかったのだ。
「いいか。勝者が敗者を妬むな。お前が何を失おうと知った事か。あの時に蹂躙し奪ったのは、お前たちの側だろうが」
「戦と終焉の理だったか。……………だが、あの戦で勝ったのは我々なのだから、残った者をもう一度無残に引き裂いて殺したとて、何の問題があるだろう。………おまけにここには、女の王族が戻ったそうじゃないか」
統一戦争最後の夜に、造船所の魔物の恋人を殺したのが、男か女かだなんてことには、欠片も興味がなかった。
だが、今のこの男が殺そうとしているのが誰なのかは、その一言で明白であった。
「……………ほお。お前が殺そうとしているのは、その女という訳か」
「私は、造船所の魔物だ。平素は堅実であっても、時には、向こう見ずな旅や挑戦があってもいいだろう。もう長らく慎重に生き過ぎたし、船というものは、危うい挑戦にも向かうものだ。今のリーエンベルクには、高位の魔物の守護があるというが、だとしても、僅かにでもその娘を引き裂き嬲り殺しに出来る可能性があるのであれば、何だってしよう」
失ったものが戻らないから、仕方のない事なのだと、男は言う。
遮蔽もなく雨に打たれ、琥珀色の髪はべったりと顔に張り付き、あの青い瞳は見えなかった。
(だが、お前がそれを理由にあいつを狙うのなら、あいつは、見知らぬ者の為に慈悲などかけはしないと言って、お前を容赦なく排除するだろう)
勿論、そんな事になる前に、シルハーンなり、ノアベルトなりがその脅威を排除するであろうし、今夜はリーエンベルクに滞在しているらしいウィリアムであれば、躊躇うどころか事情を知ろうともしないだろう。
目の前の男はまだ擬態を解いていなかったが、その端を僅かにでも解きさえすれば、彼等らが気付かない筈もない。
(けれども……………)
けれども、杖を取り上げるまでのほんの僅かな時間で、ここに立っているのが、ネアであったらと考える。
雨の中に立ち、自分を殺そうとする男を見上げたその時、あの人間は恐れるだろうか。
その動機を憐れむことはなくとも、本来であれば抗う事も出来ない筈の男爵位の魔物を見上げ、ネアは、どんな目をするだろう。
そう考え、一度だけ目を閉じた。
(……………怒りだな。………いや、憎悪かもしれない)
それは、暗く静謐で、おおよそ人間が持つ筈のない苛烈さと残忍さを湛えた、静かな静かな眼差しだ。
足元の円環か、その影の中に残る災いの何かが育てた、選択を重ねた先に生まれた、混ざり気のない怪物で、きっとその眼差しの鋭さは、賞賛に値する程に美しいだろう。
けれども多分、そこに焦がれ、その瞬間を思い描くことを楽しみはしても、アルテアはもう、そちら側の選択を取り上げる事だけはないのだった。
「であればお前は、道化師達の残した喧噪に踊らされ、らしくもない選択をしたせいで、出逢わなければ良かったものに遭遇したのだろう。………俺は、誰か程に気が短くはないからな。理由だけは教えておいてやる」
「……………アルテア?」
「お前が殺そうとしているのは、俺の…」
ざあっと雨が揺れ、灰色のヴェールが大きく揺らいだ。
石畳の上に崩れ落ちた喪服の男の傍らで、一人の女に捧げ続けた花が、献花のように雨に散ってゆく。
傍に立ち、灰になり崩れてゆく様子を見ていると、なぜか、血相を変えたグレアムがどこからか走ってきて、ウィリアムの鳥籠に向かって剣を構えるではないか。
「……………は?」
「っ、アルテア?!……………それは、……………まさか、やはり…………!!」
「…………おい?!よりにもよって、最悪の勘違いをしやがったな?!」
グレアムは、目敏くこちらの足元のものを見付けたようだ。
まだ全てが崩れて消えておらず、その最後の残滓を見てしまったのだろう。
そして、最も面倒な勘違いをしたらしい。
振り回した大剣で、力任せに鳥籠を切りつけたのものだから、それはウィリアムも飛び出してくるだろう。
リーエンベルクという敷地の特性上、すぐさま転移は踏めないが、窓から飛び降りて正門前に広場に降り立つと、そこから慌てて転移を踏んだらしい。
「グレアム?!」
「ウィリアム、我が君は?!」
「…………っ、落ち着いてくれ。何もないからな?!何も起こっていない!!落ち着け!!」
とんでもない寸劇を見せられている思いでその様子を見ていると、幸いと言うべきか、漸くと言うべきか、グレアムは納得したようだ。
ふっと肩の力を抜き、剣を握った手をも下ろすと、紛らわしいだろうと、力なく呟いている。
「………はぁ。………何事かと思ったぞ。……アルテア、もしかして、あなたもですか?」
「いや。俺は、私用だ」
「……………足元の花は、あなたの趣味じゃなさそうですね。誰かがここに?」
「道化師共に踊らされた亡霊が、少なくとも一人はいたようだな。夜明けまで、鳥籠はそのままにしておけ」
「……………そうですね。俺の方でも注意しておきましょう。あなたも泊まっていきますか?」
「自宅で飲んでいたところだ。帰って、飲み直しだな。そいつは、今夜はリーエンベルクに泊めておけ。そうでもしないと、使い物にならなくなるぞ」
「ええ。……………グレアム、立てるか?………今日は、リーエンベルクに泊めて貰おう。シルハーンも心配していると思うから、その方が早いだろう」
「………ああ。そうした方が良さそうだな。迷惑をかける」
「いや。こんな夜だからな。君がいた方が、却って手堅いかもしれない」
そのやり取りを聞きながら背を向けると、ウィリアムから、とある酒を一定数仕入れておくようにと注文が入った。
その酒を飲んだネアが道化師達の騒ぎに気付いたと聞けば、やはり、何も知らず通り過ぎる事は出来ないのだなと、呆れるばかりだ。
(しかもあの酒は、飲ませる為に渡したものじゃなかった筈だが………)
帰り道は少し歩くことにした。
雨のウィームを歩きながら、指に嵌めたリンデルに反対側の手で触れる。
それでもその酒を飲み、ゴーモントの道化師達の気配に気付くのが、ネアの役回りなのだろう。
それはもしかしたら、あの人間の生まれ育った世界の資質や、背負わされた祝福と災いの配分故のものなのかもしれないし、あの人間を愛し子としたイブメリアと、その祝祭の庭であるこの土地の采配なのかもしれない。
また、ネアが生まれ育った世界のイブメリアに相当する祝祭に於いても祝祭の系譜の子供であったのだとしたら、そちらの祝祭に記され宿った者の資質を、僅かなりにも受け継いだという可能性もある。
(シルハーンが、あちら側のイブメリアには、予言や予兆の分量が多かったのではないかと話していたが、ネアが話していた神の子とやらの履歴にもその記述があった。符号という意味で、間違いないのかもしれないな)
神という表現もまた、随分と古いものだ。
ランシーンなどには根強く残る信仰の肩書きではあるが、本来、この世界層では、あまり常用されない。
なぜか人間達がどこからともなく持ち出してきた、前の世界や、それ以前の世界の流行りの表現である。
(生まれ落ちた庭を司る祝祭が生誕祭であったが故に、あいつは、終焉に近しい何かの名前を借りねばならなかった。強引に、対極に座する季節の祝祭をも紐付けられ、夏至祭の円環の中で育てらた…………)
だから、全てが殺し合い、何も得る事が出来ず、何も手の中に残らなかった。
そのくせ、人間が背負うべきではない名前を持って生まれたからこそ、こちら側に繋がったのかもしれない、おかしな人間だ。
「……………ったく。忙しい一日の最後に、手を煩わせやがって」
そう呟き、けれども微笑んだのは、契約の先にいるその人間が、同じものなど得ようもない程に複雑で愉快な生き物だからだろう。
あんな脆弱な人間がこの身に鎖をかけたのだから、勿論、相応しいだけの相手でなければならない。
(そうだ。だから、これでいい)
こちら側でも充分に愉快で、このままでも充分に退屈はしないだろう。
そう考えて満足すると、その夜は屋敷に戻り、今度は、灰雨と紫陽花の酒を飲んで気分を変えた。
雨は夜明けまで降り続き、ウィームの朝にはこの土地らしい霧がかかる。
鳥籠を解いたリーエンベルクに再び足を運んだのは、とは言え念の為に、他の騒ぎを起こしていないかを確認する為だ。
「……………で?それは何だ」
「な、何も、狩っていません……」
「おかしいだろ。それなら、お前が踏み殺しているのは何なんだよ」
「まぁ。いつの間にか、足の下におかしな生き物がいます?」
「ご主人様……………」
リーエンベルクの中に入るまでもなく、正門の外に立っていたネアは、まるで敷物のように精霊を踏みつけて立っている。
ある程度覚悟はしていたが、どう考えてもおかしな光景だ。
「………いいか、それは、竜種に近い災いの精霊の一種だ。昨晩の道化師達の証跡を好んで、どこかのあわいから這い出してきたんだろうが、本来なら、廉価版の咎竜くらいの影響は及ぼすんだからな?」
「まぁ。であれば、すかさず踏み滅ぼしておいて良かったようです!ノアが、あのような訪れがあった後は、良くない小さなものが出て来る事もあるので、外に出るのなら、戦闘靴を履いていくようにと教えてくれたのですよ」
「ほお?正門の守りは、いつからお前の仕事になったんだ」
「ディノが、騎士さんには少し荷が重い相手だと言ったので、今回は私が多めに踏んでおきました!」
「私が壊してあげるよと、言ったのに……………」
「昨日は私だけ活躍していなかったので、ここで、戦果を一つくらい上げておきたいではないですか!」
「それで踏んでしまったのだね……」
案の定というべきか、もはや、期待を裏切らないというべきか、また本来なら階位上在り得ないものを踏み壊していたネアをその上から持ち上げ、正門の中に押し込んでおく。
(道化師の証跡というよりは、…………あの男が崩壊したその残滓を食いに来たようだな。崩壊を待って洗浄しておいたつもりだが、グレアムの一件で見落としがあったか………)
「その敷物精霊は私の獲物なので、アクス商会に売ろうと思います」
「やめておけ。この手のものは、商売人は喜ばないぞ」
「では、アルテアさんにあげますので、代わりにグラタンなどで手を打ちましょう」
「おかしいだろ。朝食が終わった頃合いだぞ」
「……………お、おやつに、甘い物ばかりとは限りませんよ?」
「お前な……。せめて昼食にしろ………」
いつの間にか慣れ親しんだ門を抜けて敷地内に入ると、リーエンベルクの庭園には、季節の花々が昨晩の雨にも散らずに咲き誇っていた。
清しい香りには甘さもあったが、あの男が好んでいた赤い花のような、べっとりとした濃密な甘さはない。
だからウィームがいいのだと思えば、あの花はやはり、ヴェルリア向きなのだろう。
やはり気付いていない筈もなかったのか、シルハーンの物問いたげな眼差しに短く頷き、ネアがこちらのやり取りに気付く前に視線を戻すと、強欲な人間がさり気なく追加しようとしていた海老料理の要求を却下する。
雲間からは青空が覗き、光の筋が、草木に残った雨の雫を煌めかせる。
「そう言えば、私の生まれ育った国では、この時期が夏至の日だったのですよ」
ふと、ネアがそんな事を言った。
それが祝福でありながらも災いだったのかもしれないと知ってか知らずか、懐かしむように瞳を細める。
けれどももう、その瞳の色も、髪の色も、その全てが夏至の色どころか、夏の系譜の色彩すら宿してはいないのだ。
「そうか。もう二度とそちらの祝祭には出られないだろうよ。残念だったな」
「あら?私は、それがいいのですよ。こちら側のものこそがずっと欲しかったもので、今の私の持ち物なのですから、もう他のものはいらないのです」
磨き抜かれたナイフのように、その言葉は過去に繋がる糸を、あっさりと切り落としてゆく。
まぁそうだろうなと答えながら、微笑んだネアがまた一つ重ねた選択に触れ、その強欲さに満足して、リーエンベルクに入る為の扉を開けた。
呆気なく、躊躇いもない冷酷さもまた、選択の断面としては美しい。
やはり、こちら側でも愉快なことは多いようだ。