春の夜と花影の魔物
その夜は、美しい月夜であった。
だからという訳ではないが、なかなか眠れずに、夜に巣食う妖精達を食べている友人をぼんやり見ていた。
先程までは近くの町で食事をし、珍しく野外劇場で劇を一つ観ている。
竜を題材にしたものだったので惹かれて入ったのだが、なかなか良い舞台だったと思う。
しかし、この町では昨晩から三日間に渡りあちこちの劇場で同時に新しい演目が封切りになっており、宿屋がどこもいっぱいだったのには閉口した。
それなら羽を広げてどこか違う町や国に行けばいいのだが、何だか気分の良い夜だったので、二人で相談して町外れにある桜の森の一番大きな桜の木の下で一晩を過ごすことにしたのだ。
(それにしても、………全部食べてしまうのだな……………)
凄惨だという一言に尽きる光景である。
しかし、その凄惨さには高位の竜らしい優美さもあり、バーレンは、食事に夢中で翻ったダナエの白い尾を避けると小さな溜め息を吐く。
それは静かな悲劇だった。
食べられてしまうと理解していない筈もないのに、夜響きの妖精達は、満開の桜の下に佇む春闇の竜に群がってしまう。
彼女達が人型に転じていないのが幸いだが、ダナエが、縋るように羽を伸ばす妖精たちを躊躇うことなく貪る姿を見ていると複雑な気持ちになるのは確かだ。
夜響きの妖精達は、夜に交わされる密約や秘め事から生まれる妖精で、美しく力の強いものを好む。
愛する男に触れると桜色の大きな鳥の姿から美しい女に転じると言われているが、ダナエは一口で食べてしまうので、バーレンは今のところ鳥の姿しか見ていない。
(仲間達が食べられてゆくのを見ていてもダナエに集まってしまうのだから、これはもはや種族的な業のようなものなのかもしれないな……………)
ホゥと、どこかで梟が鳴いた。
魔物の梟は鳴かないが、精霊の梟は石笛を吹いたような独特な鳴き声で夜をかき混ぜる。
伯爵にあたる魔物梟と同様に、精霊の梟も高位の生き物なのだが、ダナエは見付けると容赦なく食べてしまう。
(だが、俺は精霊梟の鳴き声は好きだ…………)
いつだったか、バーレンがそう言えば、ダナエは暫くの間は精霊梟を食べなかった。
けれどもある日、我慢出来ずにぱくりと食べてしまうと、やはり我慢できないと悲し気に告げられた。
そう言われて初めてバーレンは、ダナエが、自分の為に精霊梟を食べずにいてくれたのだと知り驚いたものだ。
(ダナエは残酷な竜だが、同時に心を傾けた者に対してはどこまでも優しい………)
それは、ネアだったり、そしてバーレンに対してだったり。
カードでやり取りをしているアルテアは、あちら側から念を押され、あくまでも知人という括りであるようだが、そんなアルテアの為にも、ダナエが心を巡らせている場面を何度か見た。
『あの人間はアルテアの魔術の匂いがするから、食べないようにしようかな』
ダナエがそんな風に言うのを何度か聞いたし、旅先で遭遇したアルテアから、この界隈は手入れをしているので襲わないようにと直接に話がされたこともある。
食べきれない程の棘牛を見るといつもアルテアにあげようかなと話していたが、一度届けようとして断られたことがあるらしい。
戦乱の町で、空を飛ぶダナエに向かって手を伸ばしてはしゃいでいた小さな子供の遺体を、丁寧に埋葬してやっているのを見ることもあるし、集落の大人達を食べてしまったダナエを討とうとした少女の言葉に、暫くの間黙り込んでいたことも。
それでもやはりダナエは様々なものを容赦なく食べるし、彼に歩み寄った食べたくはないものに、用心を促しても無防備に心を寄せる。
絶望させたり絶望したりしながら長い旅を続け、最近は旅の仲間がいることに満足してるようだ。
柔らかな声で、ダナエが呟いた。
「この前の森を覚えているかい?…………あの妖精は食べたくなかったな」
夜響きを食べながら、あの時の事を考えていたのだろうか。
そう思えば、無念さや悔しさが心の中で軋んだが、バーレンは何てことはないように頷くと、敢えて小さく微笑んだ。
「俺が、もっと早くどこかに置いてくるべきだった。不愉快な妖精だったな」
「バーレンが気に入っていなくて良かった。一人で旅をするのはどんな風だったか、もう忘れてしまったから」
「仲間が見付かるまでは、共に旅をする約束だろう?」
「うん…………」
淡く微笑んで頷いたダナエの横顔に、少しだけ考えて言葉を付け足す。
なぜだか、いつかのその日がただの決別になるならと、ダナエはその前にどこかに行ってしまいそうで不安になったのだ。
「…………でも、仲間が見付かったとしても、その後も共に旅をしよう。今のようにどこまでもは行けなくなるかもしれないし、時々は仲間の元に帰るかもしれないが、定住出来る土地を探すのも大変そうだ」
「…………いいのかい?」
「どこかに特定の領地を持たない限りは、光竜であることを明かして暮らしてゆくのは難しいだろう。だったら、仲間を得た後もこうしてダナエと旅をしている方が気楽でいい」
「…………うん」
そんなバーレンの返事が嬉しかったのか、尾の先をパタパタと動かしているダナエに、舞い散った桜の花びらが花吹雪のように幻想的に夜を彩った。
満開の花影に差し込む月光は明るく、ダナエの白い角をぼうっと浮かび上がらせる。
夜の向こう側は濃紺に滲み、天上の満月の周囲だけが白くけぶっていた。
はらはらと舞い落ちる桜の色も合わせれば、この夜はこんなにもダナエの色をしているではないか。
(…………喜んでくれるのなら、もっと早く伝えれば良かった)
世界中を旅しても、まだまだ世界は広く、行けるところはどこまでもある。
行き先には事欠かないが、仲間を見付ける為の旅だと同行したことで、ずっと二人の旅にはどこかで終わりがあるような気がしていた。
その先も共に行かないかと言えば、ダナエは困惑するだろうか。
気儘に旅をしていた彼にとって、これからもという言葉を出してしまえば、いつまでもお荷物を抱えているようには思わないだろうかと、バーレンはずっと思い悩んでいた。
仲間の欠片が見付かることや、どこかに生き残った仲間がいればと願いつつ、そんな日が訪れることを怖くも感じていたのだが、やっとこれから先の地図を貰えたようで胸の奥が安堵に暖かくなる。
(これからも、…………ずっと…………)
ついつい微笑んでしまい、バーレンはそんな自分の幼さに呆れもする。
けれど、ダナエは、無防備なようで年長者らしくバーレンを窘めることもあるので、その先もと願っても、これ以上はと却下されてしまうかもしれないと考えていたのだ。
いつか言うつもりでなかなか言えずにいた日々があったのだから、今夜は微笑んでしまってもいいではないか。
ずっとという言葉は、ずしりと重く輝かしい。
友であり、時には少しばかり頼りないところのある兄のようでもあり。
それはもしかしたら、遠い昔に失った家族の繋がりにも似た価値があるのかもしれない。
(沢山の土地を旅してきたが、探し物の一つは、あの夜からずっと隣にあったのだ……………)
夜響きの妖精達を食べて満腹になったのか、静かな夜が戻ってくるとダナエはうつらうつらしていたようだ。
けれども、何やら柔らかな熱を孕む胸の内と夜の美しさに目を細めていたバーレンが、さてそろそろ眠るかなと思ったところで、ダナエはぱちりと目を覚ました。
そのまま体を起こし、春の色をした瞳をすっと細める。
「ダナエ…………?」
「…………良くないものが来たね。バーレンは、私の後ろに」
眠っていたとは思えない明晰な呟きにバーレンが頷くと、ダナエは、淡い光の粒子を纏ってばさりと翼を振るうと人型になった。
このような時の判断は、全てダナエに任せている。
最初の頃は守られるのも性に合わないと自分も前に出たが、すぐにそのような矜持は邪魔になるだけだと理解した。
ダナエは、竜の上位者であり禍子で悪食だ。
そんな彼が退避すべきと判断した場面では、バーレンは足手纏いになることの方が多い。
ひた、と春の夜が揺れた。
薄い夜闇の向こうに誰かの靴先が陽炎のように揺れ、白い長衣の裾が浮かび上がる。
それは蜃気楼のような不確かなものから、魔術の煙が実体化するようにして質量を備えてゆき、足捌きに合わせて硬い衣擦れの音が聞こえてきた。
(曖昧な存在として顕現出来る者……………闇か影、気体化した精霊。或いは事象系の魔物の誰か…………)
竜の気配はなく、ふくよかで透明な甘い香りに恐らくは魔物であろうと考える。
新鮮な果実を割ったような香りに、微かに混じる花の香り。
春告げでも似たような匂いを嗅いだと記憶を辿り、けれども挨拶を交わしたような者ではなかったことにぎくりとした。
「……………ダナエか」
低く軋むような声は、まだ体が完全にこちら側に現れていないからだろう。
ゆっくりと陽炎のような輪郭が凝り、最後に鮮やかな白い髪がふわりと風に揺れる。
けれども、先程までは柔らかく降っていた花びらがざっと春嵐のように風をうねらせれば、もう、穏やかな夜の余韻は一欠片も残っていなかった。
「私を狩りに来たのかい?」
「そう言えば、まだ一本残っていたな」
「ふうん。今夜は沢山の妖精を食べたばかりだけど、君も食べた方がいいのかな」
「お前の角もいずれは手に入れたいものだが、今夜は別の要件だ。春告げで踊っていた人の子は、もう食べてしまったのかな?」
その問いかけに、ダナエが薄く微笑んだ。
竜の姿で嗤う姿も凄艶だが、こうして美しい男の姿で冷ややかに微笑む春闇の竜は、この上なく優しく残忍に見えた。
「あの子は私の友達なんだ」
「そうか。では、家に帰してやったのだな。生きているのなら、俺を見ても恐れなかったあの瞳を手に入れる機会はありそうだ」
「あの子の瞳を蒐集するのかい?私が怒るとは思わないのかな」
「お前が?」
ふっと空気を揺らして、目の前の男が微笑んだ。
空気を軋ませて甘い香りを放つこの男が魔物である事はもはや間違いなく、ビーズ飾りや織り模様のある布を細く裂いて巻いたような独特の装飾を施した髪は、首筋にかかるくらいの長さのようだ。
艶のある巻き髪は白混じりの白灰色で、毛先だけが、絵の具にひたしたみたいに鮮やかな水色になっている。
瞳の色は虹彩の輪郭と中央で色が違うようで、大きな枝に満開の桜を咲かせた花影に入っていると光を透かした乳白色に紫紺色を溶かしたように見えた。
ざりりっと音を立てて一歩踏み出せば、細やかな春の花を咲かせていた草地に染み込んだ夜霧が吐き出されるように、足元を白い霧が覆う。
(……………いや、……霧ではない?)
その白い靄のようなものが複雑に光ることに気付き目を凝らしたが、それが何なのかは判別出来なかった。
「君は、私の友達から目を奪おうとしている。とても不愉快だ」
「それは、我慢して貰うより他にない。それとも、ここで俺を襲ってみるか?背後に隠した竜を守りながら、俺を退けられるだろうか」
「出来るかもしれないよ。君はここがどのような場所なのかを忘れているようだから」
こおっと、風が逆巻いた。
前に進み出るその直前に、輪郭を崩してゆくダナエが、在るべきものを在るべきままにと小さく呟いた。
「…………ああ。そうしよう」
その言葉に応じ、左足だけを少し前に出した姿勢で真っ直ぐに立つと、光竜だけに扱える、場の歪みを強制的に整え照らし上げる清廉な光が足元に幾重にも術式陣を描く。
これは、人間のふりをしていた時に学んだ手法で、竜の魔術を人間の術式に落とし込めば、より頑強で精緻な魔術が展開出来ると知って磨いたものだ。
「……………っ、」
直後、重たいものがぶつかり、湿った悍ましい音を立てた。
その音がどちらの身を傷付けたものか、足元に展開した魔術の檻の中からでは、もはや判別は出来ない。
今のバーレンの目の前にあるのは、形を持たない高位の生き物達がぶつかり合う風に舞い散り、その証跡をなぞる花吹雪ばかりだ。
(ダナエ………………)
胸の奥が引き攣れるような思いで、ただ、目の前に現れた魔物の介入を受けない安全な術式の中から、姿の見えない生き物同士の戦いを見ていた。
バーレンとて無力ではないのだから、厄介な生き物に遭遇してしまった時にはダナエの戦いに手を貸すことは少なくはないが、今回のダナエは、バーレンに身を守る事に徹させた。
あの気儘な竜は面倒ごとを嫌うので、早々に追い返したい相手であれば、手を貸して欲しいときちんと言ってくれる。
けれども、今回はそれをしなかった。
(先程の言葉は、光竜の固有魔術で侵食を断つようにという事だろう。現れ方といい、あの魔物が扱う魔術は事象の領域に違いない…………)
全身の姿を現せば、バーレンにもその魔物が誰なのかは分かった。
春告げの舞踏会で、ダナエやアルテア達が警戒していた白虹の魔物、ヴレメだ。
(アルテアですら倦厭していたのだから、恐らくは侯爵、もしくは公爵位…………)
白虹の魔物は残忍で狡猾だが、あまり城から出てくる事はないと言われている。
凶兆とされる土地と吉兆とされる土地があり、その土地によって齎らすものが変わる珍しい魔物とされていた。
雲の魔物と同じように、条件によって気質が変わるのだ。
バーレンは、一度だけこの魔物が狩りをしている姿を見た事がある。
美しい精霊の乙女であった獲物をいたぶり、蒐集家という評判のそのままに、目当ての素材だけをその体から引き剥がしている様は、実に魔物らしい身勝手さであった。
そんな魔物がダナエの角を狙っているのかと思えば、そして、ダナエが大切にしているネアを狙っているのであれば、きりきりと捻られる不安に胸が押し潰されそうになる。
ダナエがどんな力を持っている者であっても、時としてそれを滅ぼす者がいるのだと、一族を喪ったバーレンが知っているからだろう。
(けれど、…………今は、ダナエが負ける筈もないと、理解はしているつもりだ…………)
ここは、満開に花を咲かせた桜の森の中で、最も古く大きな桜の大木の花影。
夜はふくよかにその色を湛え、春闇の竜であるダナエが最も潤沢な力を得られる環境下であった。
だから、勿論ダナエは負ける筈もない。
それでもこうして、大切な友人を案じて心は軋む。
そっと片手で胸を押さえ、バーレンはこの不安を忘れないようにしようと思った。
いつか、ダナエが側にいることに慣れてしまっても、どんなものにもこの大切な友人を奪われないように。
程なくして、大きな羽ばたきの音と共に、夜空に白い竜の姿が浮かび上がった。
その眼前で魔術を振るう魔物と比べるとあまりにも体格の差があり過ぎるようにも見えるが、そんな魔物達が編み込む魔術の精緻さは、本来竜にとっては不得手なものだ。
しかし今は、仮にも白を持つ魔物がダナエの攻撃に対して防戦の一方であるように見えた。
「やれやれ、面倒臭い。やはりこの竜とは相性が悪い…………」
ふと、そんな呟きが聞こえた気がした。
はっとして目を瞠ると、いつの間にか夜は静まり返っており、ダナエが大きな翼を広げて優雅に羽ばたく姿があるばかりだった。
(……………去ったか)
胸を撫で下ろし、バーレンは深々と息を吐く。
そこに翼を畳み舞い降りると、ふわりと人型に転じたダナエが戻ってきた。
「…………ヴレメは嫌いだ」
「ダナエ!…………怪我などはしていないな?」
「夜に訪れても、夜ではなくても、彼では私を殺す事は出来ないよ。ただ、クライメルに似ているから会うと嫌な気持ちになる」
「………夜ではなくても、か」
「春の中でしか旅が出来ない私に、春の中で襲ってきても彼では勝てないよ。でも、せっかく足を捥いだのに、すぐに元通りにされてしまった」
珍しく苛立った様子のダナエの瞳は、淡い桜色が白に近くなり光るようだ。
まるで魔物の瞳のような色だが、それでもダナエは竜にしか見えない。
けれども、この竜はこんな時、悪食としての精神圧で容易く同種の竜達をも狂死させてしまう。
竜の中に災厄があるのだとすれば、それは間違いなく春闇の禍竜であると、これまでの旅の中でバーレンは何度耳にしただろう。
ダナエよりも階位の高い竜もいるようだが、春闇というものの資質的に、実際に戦えばダナエには敵わないとさえ言われていた。
「……………ごめん。バーレン、大丈夫かい?」
「ああ。俺はダナエの精神圧の影響は受けないから、安心してくれ」
「…………うん。やっぱり、バーレンは良い仲間だね。…………いつもは、こんな時に死なせたくないものもみんな私のせいで死んでしまうんだ…………」
「ネアは死ななかったのだろう?」
「食べようとした藤の妖精を吐き出すように叱られただけだったよ…………」
人間としてそれはどうなのだろうと思ったが、万象の伴侶となるくらいなのだから、それくらいのことはするのかもしれない。
けれど、そうして失われずにいたネアや、この悪食の竜の側でも狂う事ない自分だけが、春闇の竜の禍子の友人であり続けられるのだろう。
「それは、…………彼女らしいな」
「そうだね」
微笑んで頷き、ダナエは小さく欠伸をした。
食事をして眠るだけだったのが、白虹の魔物と戦う羽目になったのだから疲れたのだろう。
見上げれば桜はだいぶ散ってしまったが、その代わりに地面に散ったばかりの桜がたっぷりと敷き詰められ、春の寝床のような様相になっている。
一人で世界のあちこちを彷徨っていた頃は野宿をすることはあまりなかったバーレンだが、幼いころは騒々しい森の中で一人で暮らしていたのだから、野宿は不得手という訳ではない。
だが、光竜であることを取り戻してからは、魔術や収集物を売って資金には困らなくなったし、階位を上げてからは、却って森竜の頃より不用心であろうと思って好まなかったのだ。
だが、ダナエと旅をするようになってからは、野宿をすることも増えた。
最初は久し振りに野に眠ることを躊躇いもしたのだが、兄達に連れられて行った野営を思い出すばかりで、森竜として暮らした孤独や苦痛を思い出すことはなかった。
今日はこの春の夜を褥に眠るのだろう。
ダナエが春闇の魔術を広げておくというので、白虹が戻ってくる心配もない。
ダナエ曰く、少し削っておいたので暫くはこちらに手出しは出来ないだろうという事だ。
「ネアのカードに、瞳がヴレメに狙われていると教えておこう」
「カードがあるのなら、今夜の内にアルテアにも伝えておいた方がいいのではないか?使い魔としてウィームの者達とも連携し、あの周囲にいる魔物達にも話が出来るだろうし、あの魔物は情報を集める事が得意そうだ」
「そうしておこう。バーレンは凄いな」
「いや。俺では白虹の魔物は退けられない」
目を丸くして頷いたダナエに、素直にそう言えばこちらを見て微笑む春闇の竜に、夜風がはらはらと桜を降らせた。
淡く微笑んで首を傾げたダナエは、指先で片方しか残っていない自分の角をそっと撫でる。
「でも、ヴレメはバーレンを傷付けられないよ。良かったなと思う」
「そう言えば、余裕がなかったのかこちらには手を出してこなかったな………」
「うん。ヴレメの魔術はバーレンと相性が悪いんだ。………上手く説明出来ないけれど」
「…………それなら、ディノにその事も伝えておいた方がいいだろう」
「…………いいのかい?」
こちらを見て目を瞠ったダナエに、バーレンはしっかりと頷いた。
ダナエがこんな風に自分の角に触れるのは、かつて、ダナエに歩み寄ろうとしてくれ、その結果失われた誰かを思う時の癖なのだ。
昨年の蝕にリーエンベルクを訪れた時、ダナエは、懐かしい呪いを見たと話していた。
それはネアに取り付いていたものであるらしく、何らかの封じが成された事で本人に対しては呪いとして機能していなかったが、僅かな障りが曖昧な影のようなものになって絡みついていたらしい。
幸いにも、その呪いの残滓がダナエに反応して動いたのでそれに気付き、すぐさま壊してしまったのだそうだ。
(それは、かつての白夜の魔物が、ダナエを傷付ける為だけに残した呪いだと言う。呪いの核とされたのはダナエを慕っていた人間の子供だった…………)
随分と昔の事なのだそうだ。
呪いの核にされた時にはもう、ダナエを慕っていた子供は母親になっており、元より、すぐに食べたくなってしまうであろう可動域の人間だったので、ダナエにとっても友人と呼べるほどに親しくする時間があった相手ではない。
けれども、その人間の子供や他にも多くの人間が巻き込まれ、ダナエはクライメルという魔物に唆されて呪いを錬成した者達を許さなかった。
もし、呪いにされた人間が大人になった姿を一度でも見ていたら、そうはしなかっただろうとダナエは言う。
ダナエは優しい竜だが、全ての者に慈悲深くはないし、食料として認識するものに対しては恐ろしく酷薄なのだ。
けれど、ダナエが覚えていたその人間は幼い子供のままであったので、春闇の竜の禍子は、自分を慕った子供の為に報復をしたのだった。
(だからこそ、彼にとってこれからも友人でいてくれるネアの事を狙う者がいるとなれば、ダナエは許さないだろう……………)
それだけの因縁のある呪いがネアに取り付いていた事は、ダナエにとって少なからず衝撃だったようだ。
調整や交渉の苦手なダナエが、その呪いを知る旧知の魔物を訪ねてゆき、ネアとも親交のあるというその魔物に、呪いが再び現れた事を伝えたりと、彼なりに精一杯の手を打っている様子を見てきた。
おまけに最近出会ったとある妖精から心無い言葉で傷付けられたばかりのダナエは、今夜の白虹の魔物との邂逅まで重なり、決して心穏やかではない筈だ。
バーレンとて、ネアには助けられた事もあるし、リーエンベルクに住まう者達はなぜだか皆気に入っている。
そして何よりも、そんなネアが引き合わせてくれたダナエはこれからも共に旅をしてゆく大切な友人なのだから、自分の魔術が有用であれば備えとしての力を貸す事に躊躇いはない。
「大切な友人なのだろう?」
「うん。食べたくなくて可愛いし、バーレンにも会わせてくれた」
「………っ、」
そんな事を大真面目に言うので、少々狼狽えてしまったが、こほんと空咳をしてバーレンは、だからこそであると説明する。
「…………であるならば、俺もそれを守ろう。……………そう言えば、蝕の時も同じ話をしたな」
「そうだね。あの子は、やっとクライメルから取り戻せた大事な子供なんだ。それに、ずっと友達でいられるように、守ってあげないと」
「ん?…………白夜の魔物から?」
「うん。説明出来ないけれど」
(直接に呪いにされた子供と関係があるようではなかったから、その呪いから守れたという意味なのだろう……………)
ふと、白虹の魔物をああも容易く翻弄し追い払ってしまった、この友人の強さを思う。
そこになぜか、目を輝かせてネアを抱き上げている、万象の魔物の姿が重なった。
(……………孤独であればこそ、そうして得たものは愛おしい………)
手に入らないものや、喪われてゆくものがあまりも多いから、伸ばした手をしっかりと繋ぎ、もう見失わないようにしたくなる。
それはきっと、バーレンがダナエとの旅をこれからもずっと続けたいと思ったのと同じことなのだと思う。
「アルテアもネアを可愛がっているから、白虹の足を食べておいたと話したら、褒めてくれるかな」
「食べたのか?!」
ところが、最後にとんでもない事を聞かされ、バーレンは感傷に浸るどころではなくなって横たわったばかりの桜の褥から飛び起きた。
こちらを見たダナエは、目を瞠って不思議そうな顔でこくりと頷く。
「戦うとお腹が空くし、魔物を懲らしめるのにはいいんだよ。クライメルは美味しくなかったけれど、ヴレメの味は悪くない」
「……………一気に肩の力が抜けた。だから、削ったと話していたのか。魔術の顕現としての要素が強い高位の魔物は、食われた部位を全く同じように再現するのは不得手とすると聞く。白虹の魔物は、今回の事で大きく力を落としたな」
「それなら、良かった。アルテアには棘牛を焼いて貰って、ネアには撫でて貰おう」
「…………ああ」
さすがに光竜だと知られないように、竜の外套を着て擬態はしているが、竜姿に戻ってどさりと桜の絨毯に横たわると、バーレンは目を閉じた。
ダナエも、白虹の足を食べた事がネア達にとって随分な助けになったと理解し嬉しかったようで、また心地良さそうに桜の下に横たわって眠る体勢に入る。
静かな夜が戻ってきた。
今夜は、花影に現れた魔物にひやりとさせられもしたが、気紛れに表情を変えゆったりと微睡むのも春の夜らしい。
その春の夜の揺り籠に守られ、ゆっくりと眠ろう。
隣には、この先もずっと共に旅をする、大切な友がいる。




