アニスの飴と惨劇の夜
例えばそれは、よく晴れた夜空の下で行われる。
風にたなびく葬列の旗のように、火葬の煙のように。
ぞろぞろと並び歩き、多くを呑み込み、畏怖と嫌悪の囁きを残してまた消えてゆくのだ。
死者の行列と、多くの人々は呼ぶのだろう。
(だから、このような美しい夜に僕達が現れること自体は、少しも不思議じゃないんですけれどね)
そんな事を考えながら、夜空を見上げた。
夜空には星が瞬き、夜風は肌に柔らかい。
こんな夜は、テラス席で冷えたシュプリを飲みながら、オリーブや鍋で蒸した貝などを食べていてもいいだろう。
小さな劇場にお気に入りの音楽家の演奏を聴きに行って、帰り道で等間隔に並んだ街灯の下を歩いてもいい。
つい先程まで、周囲にはいつもの夜と同じ喧噪と静謐があった。
ここは、規模は大きくないが美しい街で、仕立て工房が多いので、小さな食堂はそこかしこにある。
工房を自宅としている者達は、布や糸に食事の香りがつくのを嫌がり、香りの強い料理を食べたい時には外食する事が多いのだ。
立ち並ぶ食堂はどこも良心的な価格設定なので、服の仕立てで生計を立てている住人達でも、たっぷりの料理に一杯のシュプリを添えて注文する事が出来る。
仕事終わりにそんな店のどこかに足を運べば、必ず見知った顔があり、こちらもいつの間にか顔見知りになった、品物を引き取りに来る商人達と共に陽気な夜を過ごしていた。
けれども、今はどうだろう。
小さな街は赤く染まり、家に逃げ帰ることが出来た人々は、しっかりと扉や窓を閉ざしていた。
しんと静まり返った街はいつもの景色の中に酷く異様なものが広がっていて、その騙し絵のような残酷さが、心の裏側を強張らせる。
取り返しのつかない事になった鮮やかで絶望的な色を見ると、ふうっと溜め息を吐きたくなった。
「……………なので僕は、こんな鳥籠の中で、涼しい顔をしているあなたに腹が立ちます」
「色々な形の終焉があるが、その兆しに触れるかどうかは、誰にも分からない時がある。俺がここで悲嘆に暮れる必要はないだろう」
「僕は、あの角にある店の、アニスの種を糖衣で包んだ飴を気に入っていたんです。損なわれずに残ったものがあったとして、次に今迄のように買い物に来られるのはいつになる事か」
「生者が残っているだけ、この鳥籠はいつもよりはましだろう。…………少なくとも俺は、そう考えるな」
夜風に、真っ白なケープが揺れていた。
赤い染み一つないその白さを見ていると、胸の奥に込み上げるような羨望と怒りを噛み締めねばならない。
皆が等しく、耐え難い悲劇に片足を突っ込んだこの夜、この、終焉の魔物だけは晴れ晴れと微笑んでいた。
どれだけのものが犠牲になったのかは、考えるまでもない。
無事だった人々は、明日の事を考えるのも嫌だろう。
そんな夜は、終焉の予兆と絶望や犠牲の悲鳴を聞きつけてこの場に集まった者達の全てを飲み込み、漸く、終息が見えてきたところだ。
夜明けまでの時間はまだ長いが、惨劇の元凶となった者達が粛清された事で、これ以上の犠牲は出ないという段階にまでは落ち着いてきている。
けれども、それまでに、どれだけの者達が蹂躙されたのか。
アンセルムを始め、系譜の高位の者達や、犠牲の魔物ですら例外ではない。
今日は所用があって来られなかったという絶望の魔物は、もしかしたら、親しくしている終焉の魔物の助言があり、この街を避けたのかもしれなかった。
「それにしても、……………とんでもない範囲だな」
「あなたはいいですよ。どんな資質や特性が影響したのか知りませんけれど、染み一つないでしょう」
「グレアムやナインまで被害に遭うとは思わなかったんだが、俺だけが無事だった理由がさっぱり分からないな」
「……………あのねぇ。こんな時に、理由なんてどうでもいいでしょう。…………っ、おまけにこの赤い染みは、もしかしなくてもオリーブの油まで入っているんですよ?!」
「トマトソースだからな…………」
我慢出来なくなって声を荒げると、つられてしまったのか、系譜の者達が、次々と呻き声や悲鳴を上げ始めた。
どうやら皆、声を上げるのを堪えていたらしい。
中には途方に暮れて泣いている者もおり、その全員が未だに呆然としている。
「トマトの……………いや、名前を出すのはやめておくか。……………さすが植物の系譜だな」
「だから、何であなただけ他人事なんですか!!大変なのはこれからですよ!!」
「あ、ああ。……………事件を引き起こした人間の内の一人は回収したんだが、……………残りの三人はどこにいるのか、皆目見当がつかないな。死者は、呪いのトマトソースをかぶると、判別がつかなくなるのだと、初めて知ったな………」
小さな街の大通りやそこを中心とした様々な場所を深紅に染めているのは、オリーブ油でまろやかにした、大蒜とバジルを使ったトマトソースだ。
そんな、どれだけ量があるにしても、せいぜい大鍋一杯を見るのが最大値だろうというソースが、今や、街中の見渡す限りの場所を赤く染めている。
トマトの偉大なる覇王。
それこそが、この街を恐怖と混乱の渦に叩き落とした、鳥籠を必要とするだけの災厄の名前であった。
「うーん。暫くの間は、パスタを食べるなら、トマト系のソースは避けるとするか……………」
「ああ!あなたの無神経さは、そういうところですよ!!!」
事の発端は、小さな食堂で出されているトマトとバジルのパスタであった。
挽肉を使った伝統のソースはこの街でも大人気で、夜には行列も出来る有名店だったと言う。
そして、そこを訪れた四人組のお客が、高価な絹の織物の仕立てを請け負っていた事が、思わぬ事件を引き起こした。
彼等は、いつもの料理でいいかと尋ねた店の主人に、今日ばかりはトマトソースは結構だと伝えた。
たまたま、近隣の国で淡い水色の絹織布が出回り、その国に程近いこの街には、他国ながらもその布を使った仕立ての依頼がまとまった数で舞い込んでいたらしい。
従って、今夜の食堂には、その四人と同じように、赤い染みなどがついたらとんでもない織物を長く見過ぎており、明日もその仕事が続くのでと、どうにもトマトソースを受け付けなくなった者達が多かったのだろう。
いつもの量で作ったトマトソースが余ってしまうと嘆いた主人に、その四人組は、残念だが、明日も売れないようであれば捨てるしかないし、この傾向は少なくとも五日は続くだろうと告げたのだ。
そして、折り悪く、その店の厨房には、どこからかやってきたトマトの偉大なる覇王がいたのだった。
つまり彼等は、その、正式な名前を呼ばないととんでもない目に遭うが、そのまま呼ぶのも馬鹿馬鹿しい、トマトの偉大なる覇王とやらの怒りを買ってしまったのだ。
(そして、街はトマトソースに沈んだ………か。口にするのもうんざりするような事件に、まさか駆り出される羽目になるとはな……)
どこかに歩いてゆくウィリアムを見送り、アンセルムは深々と溜め息を吐いた。
街に着いたばかりの時は、この赤さは血飛沫だと思っていた。
とんでもない惨劇だなと呆れはしたが、誰かがトマトソースだと叫ぶまでは、まだ平静でいられた。
「……………お前もその様子か。何でウィリアムは、あの装いで全く汚れていないんだ?」
背後から声がかかり、どうにも見通しの悪い視界を呪いながら振り返ると、片眼鏡はどこかにやってしまったのか、こんなことになる前に外したのか、滅多に見ないような荒んだ目をしたナインが立っている。
勿論、トマトソースまみれだ。
「ナイン、……いつの間に、頭からトマトソースを被ったんです?いい眺めだと笑うには、僕も、髪が絞れるくらいには、トマトソースまみれですけれどね」
「植物の系譜の苛烈さは知っていたが、……………まさかここまでだとは」
「はは、…………もう、笑うしかないですよね。全ての系譜に於いて、ここまで階位の高い者達が集まる事はないと言われる終焉の系譜の死者の行列が、まさかの、トマトに完敗しかけたんですから…………」
トマトソースに含まれる油分のせいで、べたべたとしている片手を振ってそう言えば、ナインはどこか懐疑的な表情になる。
「勝ったと言えるのか?……………これが」
「ウィリアムが、あの、………トマトと、その仲間達を街から追い出したので、勝利と言えば勝利でしょう」
「……………何となくだが、心が折れる者達が出始めるのは、これからという気がするがな」
これもまた、滅多に聞かないくらいに平坦な声でそう言ったナインには、どんな予感があるのだろう。
眉を顰めて続きの言葉を待てば、大きく息を吐いたナインが、恐ろしい事を指摘した。
「このソースは、なぜか排他結界では防げなかった。………ウィリアムだけを除く、我々の全員がだ」
「ええ。ウィリアム曰く、味あわせるという顛末までが、あの、…………トマトの障りだったからみたいですよ。彼だけなんで無事なのか、さっぱり分かりませんが」
「彼だけが持つ何らかの資質のお陰だろう。………それと、このソースの魔術洗浄が出来ない事は、気付いたか?」
「……………え、……………魔術洗浄が出来ない、……………んですか?」
「ああ。どうせまた汚れるからと、元凶が排除されるまでは洗浄せずにいたが、………街中を飛び跳ね回る赤いトマトが見えなくなってから洗浄魔術を展開したところ、……………無効だった」
あんまりな報告に、アンセルムは無言で首を横に振った。
ずっと、この凄惨な事件が片付けば、魔術洗浄をかけられると思っていたのだ。
まだ試さずにいたのは、行方不明の死者の捜索が残っている為に、どうせまだ汚れるだろうと考えていたからである。
それがまさか、無効化されるとは。
(いや、さすがにそれは……………。ナインより僕の方が、洗濯も得意だし、少し工夫すれば…………)
言われたことが信じられず、竦み上がるような恐怖を覚えながら、いつもはもっと手際よく展開出来る筈の洗浄魔術を、自分にかけた。
しかし、そんな筈はないという儚い希望を打ち砕くように、展開した筈の魔術は、何の効果も示さないではないか。
べたべたしたトマトソースは、少しもなくならない。
「……………嘘ですよね?……………じゃあ、この惨状を、どうしろと?!」
「向こうにいた犠牲の魔物によると、この手の災厄は、夜が明けると呪縛が解けるらしい」
「いやいや、おかしいでしょう?!そうなると、僕達は、夜明けまでトマトソースまみれだって事になりますよ?!」
「だから、……………心が折れる者達が出るのは、この後だと言ったんだ」
「……………何てことだ」
思わずそう呟き、膝から崩れ落ちそうになって何とか踏み留まった。
足元の石畳には、トマトソースの雨でも降ったのではないかというくらいの、トマトソース溜まりが出来ていて、油断をすれば、街灯に飛び散ったトマトソースが、頭上から落ちてくることもある。
魔術洗浄が出来ないのであれば、これ以上汚れるのは絶対に御免であった。
引き攣れるような悲鳴が、どこからか聞こえてくる。
声がした方を見れば、街の住人であろう男が、トマトソースで汚れた自分の体を抱き締め、意味をなさない言葉を叫び続けていた。
(それもそうだろう……………)
トマトの偉大なる覇王を激昂させた者達と同じように、問題となった水色の絹織物の仕立てを引き受けている者達は、他にもいる筈だ。
また、それとは別に、赤いトマトソースの染みなど絶対にあってはならない、淡い色合いの布を使った仕立てを受けている者達とて多いだろう。
布の種類や色によって、香りを吸着しやすかったり、他の成分が加わると、変色し易いような布もあるだろうし、仕立てられていく服の中には、洗濯を想定していない素材で作られるものもある。
儀式用の装いなどは、その儀式を執り行う日にだけ袖を通すが、使われている装飾や生地が繊細過ぎるので、洗濯をせずに済むような管理を取り、状態保存などで清潔さを保ち続けると聞く。
新調されることは滅多にないが、仕立てを依頼するのであれば、繊細な手仕事を誇るこの街だろう。
この街で、堅い糖衣に包んだアニスの種の飴が好まれるのも、他の菓子類を口にいれることが難しい、仕立てに関わる者達が多いからだ。
そうして、用心に用心を重ね、商品を守り続けてきた者達の暮らす街が、とんでもない量のトマトソースに襲われたのだから、命を脅かすような災厄ではないにせよ、住人達の精神的な負担は計り知れないだろう。
普段のアンセルムであれば、こんなことまで考えはしないが、今日ばかりは同志に近い気分で彼等の苦悩や絶望に寄り添えてしまうのであった。
「もう、鳥籠は解くみたいですから、ウィリアムには帰って貰っては?」
「それがいいだろうな。………この状況下で、一人だけ真っ白でいてみろ。系譜の暴動が起こるぞ」
「そしてそうなると、いっそうに、トマトソースが飛び散ると……………」
ナインと顔を見合わせ、これはもう、早急にウィリアムを追い出すべきだという結論に至った。
先程までは近くにいた筈の系譜の王を探しにゆけば、汚れ一つない純白の佇まいで、すれ違う者達の心を容赦なく折りながら、ウィリアムは随分と街の中を歩いてしまっていたようだ。
通りの端にある雑貨店の前で、犠牲の魔物を助け起こしているところを発見する。
「ウィリアム、もう、鳥籠は解きましたよね?」
「アンセルム?……………ああ。何かあったのか?」
「率直に言わせて貰うが、その姿で近くに居られると、仕事が捗らない。退出してくれ」
「ナイン?……………二人して、どうしたんだ?」
「……………ウィリアム。……………恐らくだが、二人がそう言うのは、君が、一人だけトマトソースで汚れないからだろう」
「………ああ、そう言う事か」
相変わらず、繊細さの欠片もない終焉の魔物がこちらの意図に気付くまでには時間がかかったが、犠牲の魔物が重ねて指摘してくれたお陰で、こちらの提案が腑に落ちたようだ。
「だが、まだ見付かっていない死者がいるだろう」
「僕達で捕まえて、死者の国に落とします。………僕達はもうこの通りなので、一刻も早く仕事を終わらせる為にと言えば、皆が団結して仕事を進めると思いますよ」
「ウィリアム。彼等の言う通りだ。傷付いている者達を、あまり刺激しない方がいい。……………俺は、友人だから呑み込めるが、……………それでも、君がトマトソースで汚れていないことを、羨ましくは思うからな」
「…………うーん。トマトソースという言葉が、今夜程どう扱えばいいのか分からなくなった事はないな………」
「ああ、もう!!さっさと帰って下さい!!真っ白過ぎて、だから落ち着いて考え事も出来るんだろうと思うと、堪らなく腹が立つんですよ!!!」
呑気に考え事などを始めたウィリアムは、悍ましい事に、トマトの偉大なる覇王の障りに触れるのが初めてではないという犠牲の魔物に付き添い、街を離れる事になった。
犠牲の魔物は、何とか意識を失わずに堪えていたようだが、一度に、何と引き換えにしてもいいからトマトソースの染みを取ってくれと願う者達の声に飲み込まれ、自身もトマトソースをかぶり、かなり危うい精神状態であったらしい。
あれだけの階位の魔物が立てなくなるというのも壮絶だが、ウィリアムに抱えられてこの街から離脱した。
「……………ナイン、立って下さい。他の同胞たちは、真面目に働いているでしょう?」
しかし、限界が近付いていたのは、犠牲の魔物だけではなかったらしい。
最初の被害者達を捕獲しなければ仕事が終わらないのに、トマトソースをかぶってどこかに紛れ込んでしまった死者達が発見出来ないまま一刻が経つと、街角にあるベンチに腰掛けたまま、ナインまでもが動かなくなった。
「アンセルム。これは、局長命令だ。さっさと、残りの死者を見付けてこい」
「いや、ここは教会でもなければ、異端審問局でもないですからね?!」
「私は、……………ここで、立ち上がれるようになるまで休む事にする」
「いいですか、そのまま動かずにいると、ソースの油分が固まってきますよ?!」
「………っ?!」
自分で料理などしないのだろう。
当たり前のことなのだが、この状況下ではあまりにも恐ろしい事実を伝えると、ナインの顔色が如実に悪くなる。
近くにいた死の精霊も、会話が聞こえてしまったのか、真っ青になって慌てて腕を動かしていた。
(本当は、時間経過で乾いてくるので、………どちらにせよ、避けられはしないんですけれどね………)
だが、こうでも言わなければ、ナインは頑固に動かずにいただろう。
今は、一人でも多く捜索の人手が欲しいところだ。
何しろ、トマトソースをかぶり過ぎていて、死者だか生者だか分からない全ての者達に、死者かどうかを問いかけながら歩かねばならない。
中には、あまりの精神的な苦痛に、路地裏や、歩道の隅で動かなくなってしまっている者達もいる。
おまけに、時間が経てば、この地で回収しなければいけない死者が増え、探している者達との見分けがつき難くなるのも、頭の痛い問題であった。
鳥籠を展開した際には、死者の行列が通った場所に死者を残さないのが暗黙の了解だ。
ただし、立ち去った後に死者が増えても、もう後から勝手に死者の国に来るようにと言えるようにもなるので、厳密にその全てをということでもない。
(とは言え、事件を引き起こした死者達は、絶対に連れ帰らないといけない)
そして、その大事な死者が、どうしても見付からないのだった。
「おまけに僕は、結構トマトソースが好きなんですよね……」
「知るか。お前の嗜好は、どうでもいい………」
「何か話していないと、おかしくなりそうなんですよ。……………あれは死者では?」
「死者だが、報告にあった人間ではないな」
「どこかで見切りをつけるにしても、この災厄の引き金となった死者だけは、連れて帰らなければなんですよ。もっと真剣に探して下さい」
「お前とは違い、私の前髪は、トマトソース塗れで掻き上げられないんだ。視界が悪い」
「……………もしかして、その髪の短さだと、……トマトソースで濡れた前髪を上げられないんですか?」
「前髪に付着したソースが、それを不可能とするような固まり方をしているらしい」
「僕も、髪が長いせいでソースで重いんですが、まだ、前髪を分けて流せるだけ、僕の方が良かったみたいですね……………」
そんな話をしながら街を歩き、漸く目当ての死者を見付けたのは、夜明けの少し前のこと。
系譜の者達は疲れ果てており、これ程までに弱りきって帰っていく死者の行列も初めてだろう。
或いは、トマトソースまみれの一団が、死者の行列であると考える者もいなかったかもしれない。
「……………念の為に聞きますが、どうしてまだ、ここにいるんですか?」
「グレアムのトマトソースが、まだ落ちなくてな」
だが、アンセルムを始めとした系譜の者達を待っていたのは、解放ではなく引き続きの恐怖であった。
随分前に現場を離れた筈のウィリアムと犠牲の魔物が、近くの町の洗濯場にまだいるではないか。
自身の領域を汚したくなく、何とか一刻も早くトマトソースを落としたいとそこを訪れた者達は多く、アンセルムもその一人であった。
「………あれから、どれだけ時間が経ったと?」
「これはもう、洗浄の魔物を呼ぶしかないかもしれないな………。………グレアム?大丈夫か?」
「………ああ。すまないな、意識がなくなりかけていた………。以前、名前を呼び間違えたらしくてな、…………念入りにやられたんだ」
脱げるだけ脱いでしまい、上半身は裸で水浴びをしていた犠牲の魔物は、もう一度狂乱しかねないほどに暗い目をしていた。
肌や髪の汚れは少しは落ちているようだが、艶のない髪の毛の表面を見ていると、まだ洗浄が完全ではないのがよく分かる。
どれだけ洗い続けたものか、衣服は見当たらないので、恐らく諦めたのではないだろうか。
「………もう朝ですよ?」
「ああ。夜が明けても、まだ続くみたいだな」
「…………ふと思ったんだが、トマトソースの料理を食べてみるか?」
「……………は?」
突然、ウィリアムがおかしなことを言うではないか。
「それが障りの発端だろう。であれば、トマトソースを食べるという姿勢を見せればいいんじゃないか?………実は昨晩、あの街に来る前にトマトソース煮込みのトリッパを食べたことを思い出したんだが、………まぁ、それが対処法になるかどうかは、賭けにはなるな」
「……………やりましょう。近くで店は………なさそうですね。ウィリアム、何でもいいので、トマトソースの料理を買ってきて下さい」
「やれやれ、何で俺が、アンセルムの面倒まで見ないといけないんだ。………それと、抱えているのは、まさかとは思うがナインか?」
「ええ、そうですよ。今回は、あなただけ楽をしたんですから、系譜の王としての役目を果たすべきでは………?」
「………っ?!グレアム?!………まずいな、意識を失いそうなのか。…………買ってくるしかないな」
ウィリアムは協力しかねると言いたげな目をしたが、犠牲の魔物がぐったりとしてしまったので、そうも言えなくなったようだ。
慌てて友人を抱え上げ、なぜだか、誰かに魔術通信を入れたようだ。
その場を離れるにしても、犠牲の魔物を置いていけなかったのだろう。
「…………おい。何だこれは」
そして呼び出されたのは、なんと選択の魔物であった。
「アルテア、助かりました。料理はこれですね。………グレアム、目を覚ましてくれ。少しでいいから、食べられるか?」
「……………ウィリアム」
「ああ。今は見るのも辛いだろうが、トマトソース煮込みの野菜だ。これで、少し楽になるかもしれないぞ」
「…………ああ」
呼びつけるだけ呼びつけておいて、ウィリアムが何も説明しないので、とある街で起こった惨劇については、アンセルムからアルテアに説明しておいた。
途中で項垂れてしまったのでどうしたのかと思えば、あの街に発注しておいた仕事があったらしい。
ここで、新たに一人の魔物の心を折りながらも、ウィリアムの考えた対処法が奇跡的に正解を引き当て、恐ろしい惨劇は漸く幕を下ろした。
なお、あの街でも、同じような対処法がすぐに発案され、人間達も無事に復興に向かったようだ。
こんな時にはいつも、人間という生き物の頑強さに感心させられるし、途中からは、騒ぎを聞きつけた小さな生き物達がトマトソースを食べに集まり、復興が早まったともいう。
お気に入りの飴店は、一月後に営業を再開した。
件の食堂では、トマトソースの料理を頼む者達が増えたそうだ。
それを心から欲しているのかはさて置き、もう二度とあんな目に遭うのは御免なのだろう。
同じ思いを抱き、アンセルムも、時折トマトソースの料理を無理にでも食べるようにしている。