本継ぎ妖精と砂糖バター
ウィームの職人街には、有名な修繕工房が幾つかある。
履き潰した靴を新品同様に戻してくれる靴職人の工房や、水壺や割れたお皿などの陶磁器の修繕工房、更には、曲がったりひびの入った杖や傘を直してくれる工房に、魔術書の修繕工房と様々だ。
ネアがその日訪れていたのは、古い本を直してくれる修繕工房である。
リーエンベルクでは、幾つかある契約工房に、少し前から古い蔵書を少しずつ預けては修繕していたが、今日は、騎士達では運ぶのに難儀する気難しい本たちが、ネアの手によって持ち込まれた。
稀覯本などは、ダリルダレンの書庫を通じて、より高度な修繕が可能な職人に依頼されるので、こうして持ち込まれて修繕されてゆくのは、調査した結果、魔術的な価値は低いとされた本ばかりなのだが、だからこそ、統一戦争の戦火を免れて残った大事な蔵書が多い。
戦火の中では、数多くの本が失われていった。
そんな中で、本の扉裏の頁に押されたリーエンベルクの蔵書であるという印が、王家の紋章や王族の署名ではなく、ただのリーエンベルクの外観を模したものだったことが、この本達を救った要因であった。
(……………おや)
目当ての妖精の工房の扉の前で、扉にかかった看板を見たネアは立ち止まる。
営業時間である事を示す雪結晶の看板が、裏返っていたのだ。
これはまさか、お休みになってしまったのかなと立ち尽くしていると、ふっと足元に影が落ち、振り返る。
「おやおや、リーエンベルクの方ですか?」
「はい。今日は、以前にお預けした本の引き取りと、入れ替えで三冊、ウィームの伝統料理の本と、薬草の本、不思議な生き物図鑑を持ち込ませていただきました。お休みかなと思っていましたので、お会い出来て良かったです!」
「おお、生き物図鑑はいいですな。ええ、たいへんにいい」
幸いにも、工房の入り口ですぐに出会えたのは、この工房の主人である本継ぎの妖精だ。
ネアの胸くらいまでの身長の小柄な妖精種で、元は、頁が外れてしまい捨てられそうになった本から派生したと言われている。
(そして、やはり忘れられてしまっているみたいだわ…………)
こちらの妖精は、本の修繕は並ぶ者がいない程の技量であるのだが、本に関わらない事はすぐに忘れてしまうので、初対面ではなくても初対面になるし、必然的に会話の内容には、本の話題を盛り込むようになる。
ネアが蔵書を持ち込んだり引き取ったりするのは四回目くらいなのだが、恐らく今日も、初めて工房に来たお客さんかなと思っているに違いなかった。
(今日も、なんて綺麗な羽なのだろう)
目の前に立つ妖精は、淡い水色の髪に羽を持つ、はっとする程にあたたかな藤色の瞳の持ち主だ。
人外者の中では多数派ではない、老人姿を特徴とする一族で、背中は僅かに曲がっている。
そして、なんとも素敵な色合わせの妖精であることは勿論だが、何よりも目を奪われるのはこんな時なのだ。
本の話題に触れると、こちらの妖精の羽は、ざあっと風に揺れる草原のように光る。
「確か、リーエンベルクの本は、四冊仕上がっていた筈だよ。前回の本達は、少しだけ草臥れていたけれど、紙の疲労を払っておいたので、今は元気になっているからね」
「はい。いつも有難うございます。こちらでお世話をしていただいた本は、これからもずっと大切に読んでゆけるようになって戻ってくるので、皆さん喜んでいるのですよ」
「一冊の本を長く読み伝えていくのは、いい事だね。必要とされる情報に流行り廃りはあれど、本そのものの完成された佇まいは、生涯変わらないものだ」
嬉しそうにそう言うと、工房主は、まだ工房の扉を開けていなかったことを思い出したのか、不思議そうに目を瞬き、鍵を開けてネアを中に入れてくれた。
華奢な手でぐいっと勢いよく扉を開けたので、扉に吊るされているリースの上で居眠りをしていた小さな鼠姿の妖精が、慌ててリースのリボンにしがみついている。
工房の中は古い紙と皮の匂い、そして、何に使うのか分からない薬草や、小瓶に貯め込まれた宝石たちの発する硬質で冷たい匂いがした。
どれだけ複雑でも、こんな風に独特の匂いというものは覚えているようで、ああ、以前に来たあの工房だと思えるのだから、香りの記憶というのは思いがけず強いものなのだろう。
工房主の妖精は、沢山の道具が見ていて不安になるくらいに積み上げられた狭い工房の中をすたすたと歩いてゆくと、自分の胴幅をよく理解し、その後を付いていこうなどとは思わなかったネアのところへ、青い紙袋を持ってきてくれる。
「これだね」
「確認しますね。………はい。発注書の控えと同じ本です」
ずっと昔に自分の名前を忘れてしまったというこの妖精は、職人街のご近所さん達から、ご老人やご老体、少し外周の者達からは、工房主と呼ばれていた。
ネアは、前回の訪問時に少しだけ仲良くお喋りさせて貰い、ご近所さん達のような親しみを込めた呼び方を許されたばかりだったので、初対面のお客さん扱いは寂しいが、忘れられてしまったのなら仕方ない。
(またいつか、この工房でお茶を出して貰って、仲良くお喋り出来たなら、呼び方を戻してもいいかしら)
発注書の控えを引き渡し、納品書を受け取る。
物忘れの多い店主だが、特殊な紙と、妖精の契約インクを使ったこの書類があれば安心だ。
それに、傷んだ本や手入れの必要な本が近くにあると、仕事ではなくても修繕してしまうのがこちらの工房主である。
(……………む)
ここでネアは、次の本を預ける為の発注書を書いている間に、工房主が準備しているものに気付き、目を光らせた。
午後の遅めの時間だが、工房主はこれから昼食なのだろう。
工房のテーブルに置かれたウィーム陶器のお皿の上には、薄切りにして焼かれたパンが載せられていて、シュガーバターをたっぷり塗るようだ。
決して豪華な食事ではないのだが、あまりにも美味しそうで、ふいに心を奪われてしまうということがある。
この時のネアがまさにそうで、受け取った本を魔術金庫に入れながら、すっかり頭の中はシュガーバターでいっぱいになってしまう。
工房主もそうだったのか、手続きを終え、本を預けたネアはすぐにお店から出されてしまい、外の扉にかけられた看板は、休憩中の文字に変わった。
「……………もういいかな」
「はい。ディノ、ムグリスになっていてくれて、有難うございました」
「うん。あの妖精は、魔物の気配が苦手だと聞いたからね」
「頼もしい伴侶のお陰で無事におつかいが終わりましたので、私は、ここから急遽、砂糖バターを入手するべく市場に行こうと思います」
「先程のパンかい?」
「ええ。あれは、絶対に美味しい組み合わせなのですよ。……………じゅるり」
「では、連れていってあげようか。この先の路地で、揉め事が起こっているようだから、転移がいいだろう」
思いがけないディノの言葉に、ネアは、おやっと眉を持ち上げる。
該当の路地はここからは見えないが、こちらの魔物は、何が起こっているか把握出来るようだ。
「まぁ。街の騎士さんを呼んだ方がいいでしょうか?」
「…………散歩に連れ出した竜が、地面に寝転がってしまって、皆で押しても動かないようだよ」
「ふむ。とても和やかな事件ですので、そのままでも大丈夫そうですね」
淡い転移を踏んで、ウィーム中央市場に向かったネア達は、移動した先で、珍しく、騎士の休日かなという服装で歩いていたウィリアムに出会う。
「ネア。ここで会うとは思わなかったな」
「まぁ。ウィリアムさんです!ウィームに来ていたのですか?」
「ああ。グレアムが、…………諸事情でトマトの被害を受けてな。家まで送ってきたんだ」
「……………トマトの被害?」
「トマト………なのだね」
「俺もまさか、トマト農園を中心とした鳥籠を展開することになるとは思わなかったが………」
「何があったのだ……」
ネアは、トマト問題がとても気になったのだが、暗い目をして微笑んだウィリアムは多くを語ってはくれなかった。
その後、昼食がまだなので食材を買いに来たという、本日は自炊気分らしいウィリアムに厨房を貸し出す事にして、一緒に買い物を済ませた。
自分の昼食用の食材と一緒に、ウィリアムがシュガーバターを買ってくれたので、ネアは、保冷庫の備蓄から美味しいソーセージを提供することにして、素敵な物々交換が決まる。
「あぐ!」
「美味いか?」
「はい。これはもう、定番メニューにするべき美味しさです!」
ウィリアムが作った、白身魚と黒オリーブのパスタも少しいただいてしまい、ネアは、バルバの最後に出た魚料理の話をした自分にご褒美をあげたくなった。
その話を聞いて魚が食べたくなったというウィリアムが作った新作パスタは、それくらいの美味しさだったのだ。
「………しゅが、バター」
「ふふ。ディノは、シュガーバターが気に入りましたね?」
「うん。……………美味しい」
「……………シルハーン、ここにグレアムを連れて来ても構いませんか?自宅で寝かせておくよりも、回復が早そうですから」
「構わないけれど、グレアムも、食事をしていなかったのかい?」
「いえ、そういう訳ではないんですが…………」
なぜか言葉を濁したウィリアムがすぐに運んできたグレアムは、最初は少しぐったりしていたが、ディノが新しい出会いであるシュガーバターを塗ったパンを食べている様子を見ていると、いつの間にかすっかり元気になっていた。
とても幸せそうなので、グレアムらしい元気の出し方ともいえるのかもしれなかい。
繁忙期の為、本日のはSS更新となります。