バルバと雨上がりの蜂蜜 2
バルバの醍醐味と言えば、焼き立てのお肉を頬張れる事だろう。
じゅわっと火に炙られる音や、ぱちぱちと油の弾ける音。
漸く焼き網の上に載せられたのは、新鮮な棘牛のお肉たちだ。
「香草塩だれのいい匂いです!焼きスグリと一緒にいただくと、堪らない美味しさですね」
「焼きアザミも美味しいね」
「ふふ。ほくほくでも、しゃくしゃくでもいただけるのですから、あざみ玉は素敵な季節の味覚ですよね。…………あぐ!」
ネアは、見れば見る程に困惑してしまう青い胡瓜な鯨を頬張り、味わい深い白身魚のような美味しさの最後の一口をいただいた。
さっぱりした酸味のあるソースは、細切りにした野菜を漬け込みヴィネグレットソースのようにしていただくのだが、淡白な鯨の身に合うように、慣れ親しんだソースとは違う味の奥行きが感じられる。
ぐつぐつとろり。
焼き網の上に置いた水色のお皿の上でチーズを蕩けさせるのは、バルバ用の簡単なグラタンだ。
バルバではなくても食べられるウィームでは馴染みの深い料理の一つだが、美味しいお酒を飲みながらお肉を食べていると、ふとした折りにこちらも一口、二口と食べたくなる。
さっぱりとした雨の花の和え物に、焼き物よりはさっぱり感じられるが、後引く美味しさの、お馴染みの棘牛のタルタルまで。
悪食のダナエがいるのでと、嵩増しの為に用意されたのは、最近、ヴェルリアからウィーム中央市場に持ち込まれ人気だった、月光手長海老だ。
「こちらの海老は、随分と大きいのに、大味にはならないのですね」
「下拵えで、強めの蒸留酒を使うと、味が複雑になる。海の近い土地では、どれだけ新鮮でも簡単な調理では味が引き立たないとされる扱い難い海老だが、調理に手間をかけるウィームの市場には合っているかもしれないな」
「これって、最初は外れ海老って言われていたんだよね。でも、誰かが美味しい食べ方を見付けてさ、それから人気が出たような気がするなぁ」
「レシピを見付けたのは、アイザックの抱えていた料理人だ。身の大きさを生かした商売が出来れば、かなり稼げると見込んで研究させたらしい」
そう聞けば、様々な土地で、その土地なりの美味しい料理が存在するこちらの世界では珍しい事であった。
ネアの印象では、豊かな資源と文化に裏打ちされた世界に相応しい潤沢さで、この世界の様々な土地の料理は、目を瞠るような美味しさである事が多い。
勿論、嗜好に合う合わないがあったり、ごく稀に、アルビクロムのような食事一般のまずさで名を馳せるような土地があったりもするのだが、基本的にどこにでも美味しいものはある。
なので、美味しくないという食材を、商売の為に工夫してゆくという過程を知る機会は少なく、完成した料理を口にする事の方が多かったのだ。
「こうして、利益優先で、美味しさを探った食材もあるのですね」
「あいつは、商人としての興味を優先させるからな。様々な資質があり、各系譜の得て不得手があってこその発見だが、この手の食材は、何も月光手長海老ばかりじゃないぞ」
「まぁ。他にはどのようなものがあるのですか?」
「そう言えば、最初から好まれて美味だとされた鯨と違って、川鱒にも調理が難しい種類がいたと記憶しているな」
そう呟いたのはエーダリアで、ネアは、しんなりした青い胡瓜にしか見えない鯨を思い、なぜ最初から好まれたのがそちらだったのだろうと、怪訝な面持ちになる。
ああと声を上げたバーレンによれば、夏の終わりに出回る柳川鱒は、苦みが強く美味しくないのだそうだ。
「菊の花と一緒に食べると美味しいよ」
そんな柳川鱒の食べ方を教えてくれたのは、食いしん坊のダナエだ。
「……………ダナエの場合は、生の花と一緒に食べるが、調理の上でもそのようにすると聞いている。私が暮らしていた頃にはなかった調理の知恵なので、誰かが発見した食べ方なのだろう」
「そのレシピは、人間の料理家によるものだな。系譜の相性と魔術作用によるものだが、菊の花で蒸したり、菊の花のソースをかけた柳川鱒は、なぜか、白身の身が赤くなる。味としては、鮭に近い、大衆に好まれる味への変化を産むレシピだ」
「まぁ。菊の花と一緒に料理するというのも、何だか素敵ですねぇ」
「どういう訳か、柳川鱒の取れる川の近くって、川菊が良く咲くんだよね。あれって、何でだろう?」
そう言って首を傾げたノアに、ディノとアルテアが首を振る。
どうやら、川から直接柳川鱒を頬張っているらしいダナエも、一緒に食べると美味しいと人間の食堂で知る迄は、美味しくない魚だと思っていたそうだ。
「…………お料理や食べること、魔術などに詳しい皆さんが揃っても、なぜだか理由の分からない事というのもあるのだと思うと、まだまだ未知の食材もあるのかもしれません」
「そのようなものも、まだまだ多いのだと思うよ。私の代の世界層は、完成がない事で、成長過程に世界の盤上から削ぎ落されていく情報や規則が多い。予め揃った破片を積み重ねる構成ではなく、成長しながら変化してゆく世界だからね」
ディノがそう教えてくれたので、ネアは、この世界が選ばなかった完成のある世界について考えてみた。
それはもう、うっかり完成してしまったらとんでもなく退屈に違いなく、どこか、そら恐ろしいような平坦さを感じてしまう。
(良かれと思って前に進み、ある日突然、する事がなくなってしまったら、どうすればいいのだろう)
ネアが思い出したのは、酷く無気力だった後期のラエタの人々の表情や、強欲さのままに豊かであったゴーモントのような国の情景だ。
あんな風にはなりたくないなと考えれば、古い時代にこそ、そのような気質の国が多く生まれていた事が気にかかる。
そこで、この世界での古い時代に影響を及ぼしたという前の世界には、完成に近い条件を有するような資質があったのではないかと考えた。
「もしかして、前の世界層では、完成という特徴がどこかにあったのですか?」
「うん。一つ前の世界では、それに近しい形状を好んでいたね。整った正しさが強く、階位の高い精霊が気体化するのは、完璧な者程、無に近しくなる世界の反映でもあったのだろう」
「私は、そう聞くと少し怖く感じてしまいますが、そのようなものの方が良いとされたのであれば、今のこの世界で暮らす人々とは、価値観そのものが違っている部分も多いのかもしれませんね…………」
会話に重なるように、じゅわっとお肉が焼ける音が響く。
アルテアが、お皿の上に香草塩だれのお肉を置いてくれたので、ネアはその素敵な供物をはぐはぐしながら、奥の席で、メモを取り出そうとしていたエーダリアが、食事中ですよとヒルドに叱られている姿をちらりと見る。
グラスを傾け、会話に参加したのはノアだ。
「一つ前の世界層の欠点を埋めるように世界を育てたら、そうなったって聞いてるけどね。そうしたら今度は、そんな世界の欠落を埋める世界になった訳だから、相反する特徴を持つ世界が、交互に編み込まれていくのかもしれないなぁ」
「その前の世界層は、精霊の世界だ。色々と察せるがな」
「……………まぁ。なぜ次の時代で完成を目指したのか、分かるような気がしてしまいました」
完成とは即ち、答えがある物語や、世界の秩序そのものだったのだろう。
最初から最後までお行儀よくコース通りに食事をしてゆき、デザートを食べた後には、一杯のお茶以外の何も残らないテーブルだ。
であればネアは、このバルバのテーブルのような賑やかさで、思い思いに美味しいものをいただける世界こそが、やはり魅力的だと思う。
それは多分、ずっと終わらない楽しい宴のように、くるりと円環を描く循環の道。
(そう言えば、この世界の魔術では、円環を示すものが大きな意味を持つ事が多いけれど、ここまで身近なのは、ウィームだけなのかしら。…………ウィームの場合は、街造りにも円環が使われているし、季節や祝祭を飾るリースをこれ程に入れ替える土地は、ウィームくらいだと聞いた事があるような気がする)
「ネアの生まれた世界は、何が運航を司っていたのだろう」
「ダナエさん?………………………運航、ですか………」
「ウィームでの暮らしが合っているということは、この土地の性質に似ていたのかもしれない……………」
「……………いえ、そのような事はないような気がします。私は、そちらではとても生き難かったので、寧ろ、相反するようなものだったのではないかなと思うのですが……………」
お皿の上が空になると、次に置かれたのは、お待ちかねの月光手長海老だ。
丁寧に身を洗ってお酒で下拵えをした後、バターを使って塩焼きにするか、コラトゥーラのような調味料を使って漬け込むといいらしく、本日は、アルバンのバターと薔薇塩でいただくことになった。
ぴりりと辛い香辛料を一つまみ投入することで、更に美味しくなった選択の魔物のレシピでもあるので、ネアは躊躇いもなくお口に入れた。
「……………むぐ。……………海老がぷりぷりなのに、生臭さもなく美味しさばかりが溢れる美味しさです」
「アルテアは、ずっとこれを焼いていてもいいと思う……………」
「おい……………」
「ダナエは、棘牛も好きだろう?」
「じぁあ、棘牛と、この海老にしようかな……………」
「重ねて言うが、バルバの準備をしてやっているのは、お前達に任せきりにするとろくでもない事を引き起こしかねないからだ。そうそう何度も準備をすると思うなよ」
「……………そう言えば、初めてお買い物に出た時には、とんでもない食材があれこれ買われてしまったような記憶があります……………」
(私の世界の運行を、……………司っていたもの)
むぐむぐと海老を食べながら、ネアは、ダナエの問いかけの答えを探していた。
一つの話題だけではなく、幾つもの会話が重なるのが、バルバのような席の賑やかさだ。
なので、他の話題に移っている内に、先程の問いかけをもう一度噛み砕いてみる。
こちらの世界に来たばかりの頃のネアは、自分が生まれ育った世界は、魔法も魔術もない人間の国だと思っていたのだが、こちらでの暮らしが長くなると、その簡単な言葉では言い表せないもっと大きな括りがあったのではと考える事もあった。
だが、それが何なのかと問われると、さっぱり分からないのだ。
「むぐぐ……………」
「先程の質問かい?」
「……………ええ。あの世界は、見渡す限り人間だらけでしたが、この世界が先程の言葉で表現されるのであれば、人間だらけで魔法のない世界というのではなく、もっと別の表現があったような気がするのです」
思えば、なんて不思議な世界だったのだろう。
魔法もなく、人ならざる者達もいない筈なのに、世界中がそのような知識や共通認識で溢れていた。
多くの人々が知り得る迷信や信仰や物語を基盤としていたそれ等の知識は、何の土壌もないままには育たないのではないだろうかという疑念もある。
(そうなると、…………その要素は、存在しなかったのではなく、失われたものだったのかもしれない)
そう考えれば、様々な理由で弾圧され、削ぎ落されてゆく知識や歴史の多い世界でもあった。
思ったままをディノに話すと、水紺色の瞳を揺らした魔物は小さく頷く。
「……………そう考えると、より大きな区分としては、影響力のあった信仰に近しいものでしょうか」
「君の話を聞いていると、一つの庭しかなかったという感じでもないから、信仰に近しい形で共有されてはいても、……………より原始的な表現にすると、祝祭のようなものだったのかもしれないね」
「祝祭……………」
「季節の廻りに祝祭が紐づき、その運用が随分と厳格に信仰に結んでいたような気がするんだ。けれど、ノアベルトは違う意見を持っているようだから、こちら側からその姿を定める事は難しいのだろう」
「ノアは、どう思っているのですか?」
「うーん。音楽もどこかに影響している気もするんだよなぁ。ネアの生まれ育った世界ってさ、音の禁則がやけに少ないし、広域での共通音楽が多いのが気になっていたからね。……………でも、祝祭なら音楽も有しているから、僕の妹がイブメリアの愛し子になったってことも考えると、やっぱり祝祭かなぁ」
言われてみれば、季節の運行は確かに、あの世界を縛っていたのだと思う。
また、世界の均衡が崩れてきたというような言葉が囁かれ始めたのは、大きな気候変動が問題視され、報じられるようになってからだ。
時代の進みは気候の変化を伴い、同時にそれを慈しむ為の祝祭への畏怖も失われていったような気がする。
「おい、考えながら余分な肉に手を出すな。わざとだろ」
「……………むぐ。考え事をしていたので、うっかりそちらのお肉も食べてしまいました!」
「ネアが可愛い…………」
「ったく………」
「棘牛がなくなった………」
「次は、味を変えた漬けだれのものだ。塩だれはもうないぞ」
「……………ない」
「ダナエ、次の肉を楽しめばいいだろう」
「……………塩だれは、ないんだね」
「まぁ。ダナエさんは、香草塩だれがお気に入りだったのですね」
「うん。とても美味しかった」
先程の問いかけには明確な答えは出ないままだが、けれども、これでいいのだろう。
お酒を飲み、美味しいお肉をいただき、沢山の話をしてゆく。
その中には、高尚なものも、しょうもないものも、しっかりと答えが出るものも、出ないものもある。
魔物達のグラスの中のお酒は、いつの間にかシュプリや葡萄酒から蒸留酒に変わり、甘辛い漬けダレの棘牛がじゅわっと焼き網に載せられた。
(……………あ)
ここでとうとう、水晶のグラスに入った小さな蜜粒のようなものが、テーブルの上に登場したではないか。
蜜粒の粒は胡椒くらいの大きさで、透明な檸檬色できらきらと光っている。
「ここで、雨上がりの蜂蜜を使うが、………これはまぁ、好き好きだな」
「お、きたきた。この味の肉には、確かに合うねぇ」
「食後のデザートでも使えるようにしてあるから、甘みを足した食べ方が好きであれば、勝手に使え」
「ど、どうやっていただくのですか?……………なぬ?!」
ここで、大興奮のネアの前で、さっと手を伸ばしたダナエが、スプーンですくった蜜粒を一つ、ぱくんと食べてしまった。
ふわりと目元を染めて幸せそうにしているので、蜜だけでいただくのもありなのかもしれない。
「おい、全員分だぞ。食い過ぎるなよ」
「うん。一粒だけ食べた。……………美味しい」
「じゅるり……………」
「……………なんだ」
「蜜粒だけでも、美味しいのですか?」
「ったく」
呆れ顔のアルテアが、スプーンで器用に一粒の蜜粒をすくいあげる。
ネアは、手のひらにぽとりと落として貰った、小さな蜜粒を、わくわくして口の中に放り込んだ。
「っ、ま、待て!!」
「ぎゃ!!!」
次の瞬間、ネアは、口の中に広がった刺すような痛みに、悲鳴を上げてしまう。
がたんと椅子を揺らしたネアを、慌てたディノが抱き締めてくれた。
何やら直前にエーダリアが制止したような気がすると、優しい伴侶から渡されたグラスからごくごくと水を飲みながら見上げると、どこか痛まし気な鳶色の瞳がこちらを見ている。
「……………やはり、こうなるのか」
「わーお、話していた通りだぞ………」
「雨上がりの蜂蜜でも、この判断でしたか………」
「……………にゅ?なぜ、皆さん、こうなるのが分かっていたかのような反応なのです?」
ネアに蜜粒を渡してしまったアルテアは呆然としていたし、ダナエ達も驚いている。
だがなぜか、エーダリア達は、さもありなんという様子ではないか。
「……………ネア様、この、雨上がりの蜂蜜というものも、……………レインカルの好物でして」
「……………ほわ、まさか」
「あまりにも貪られるので、レインカルが近付くと苦くなるという伝承があるのだ」
「……………おい。スグリは兎も角、まさか、こっちでもその指定なのか………?」
「そんな目で見るのはやめるのだ。私は、レインカルではありません……………」
「雨上がりの蜂蜜は、祟りものや、暴れ竜が口に含んでも苦くなるそうだよ……………」
心配そうにそんな事を教えてくれたのはダナエだったが、しかしその追加情報は、哀れな乙女を悲しみに震えさせただけであった。
「……………ふぎゅ。祟りません………」
「となるとお前は、この蜜はなしだな」
「ぎゃ!!」
「可哀想に……………。タルタルを食べるかい?」
「……………食べまふ」
伴侶から、タルタルボウルを取って貰い、ネアはくすんと鼻を鳴らした。
テーブルでは、お待ちかねの甘辛たれ味のお肉が次々と焼き上がり、皆は、これから甘辛い濃い味のお肉に、雨上がりの蜂蜜をぷちりと溶かしかけ、甘じょっぱい美味しさを堪能するらしい。
無言でわなわなしていたネアのお皿に、ふうっと息を吐いたアルテアが、どこからか取り出したきらきら光る粉のようなものを振りかけてくれる。
「ぎゅ……………」
「雪菓子だ。味としては、これでいいだろ」
「……………ふぁい。とろりとしていませんし、初めましてではありませんが、これで美味しくいただきますね」
「ご主人様………」
ネアは、雪菓子ふりかけのお肉も美味しくいただいたのだが、あまりにも羨望に満ちた眼差しで家族のお皿を凝視するからか、魔物達は震えながら食事をしたようだ。
どんなに、折角なので楽しむように伝えてもディノは震えてしまい、見るに見かねたアルテアが、特別な花蜜を取り出して、ネアのお肉にかけてくれる。
「むぐ。……………先程の苦みで、味覚がびっくりしたままですが、それでもお肉は美味しいです。やはり、とろりとしてなければですね!」
「やれやれだな。もうお前は、レインカルでいいんじゃないのか………?」
「……………ぐるる」
じっとりとした目で使い魔を睨んだ人間は、忘れてはいなかった。
ネアの楽しめない雨上がりの蜂蜜は、デザートにも使えるというではないか。
であれば、そちらでの救済措置もなければ、本物の祟りものが生まれてしまうかもしれない。
なお、ダナエは少しの苦みを感じる時もあるが、今日は今までで一番甘く感じたらしい。
幸せそうに教えてくれたので、ネアは、にっこり微笑むより他になかった。




