古い書店と青いボール
塩の魔物の転落物語の新刊が出るその日、ウィーム中央の各書店では厳戒態勢が敷かれていた。
何しろ、先行発売の冊数は限られている。
観光客や領民のふりをした買い付け人も紛れている為、限定数のその最新刊を望んだだけの者達が手に出来るかどうかは、未だに未知数でもあったのだ。
加えて、多くの領民にとって、今や塩の魔物は身近な存在であった。
銀狐会の会員やその幹部等は、どうあっても発売日に新刊を手に入れなければという思いもあるのだろう。
そしてそれは、家族であるネアやエーダリアも例外ではない。
それはもう、エーダリアが珍しくお忍びでお店に並んでしまうくらい、大事な日なのであった。
そんなウィーム中央の街角では今、とある老舗書店の前で、事件が起きていた。
「…………もの凄い作戦に出てしまったな」
「狡猾だと言わざるを得ません。狐さんの会の方々は、どんな思いで耐えていらっしゃるのでしょう」
てんてんと、石畳の上を青いボールが転がる。
書店が開くのを待ちながら、用意された指示に従ってお行儀よく並んでいるお客達は、皆が何とも言えない顔で、石畳の上を転がっていく青いボールを見ていた。
塩の魔物の転落物語の新刊を求めて並ぶ人達の列の前で、そのボールを口から落としたのは、けばけばになった銀狐だ。
物語で転落させられ続けている塩の魔物は、もふもふの愛くるしさを以って、行列に並ぶお客に訴えかけるという捨て身の作戦に出たのである。
楽しそうに新刊の話をしていた領民達が押し黙り、何とも重苦しい沈黙が横たわる。
何も気づかずに会話を続けていた観光客や、領外からのお客が不思議そうにしてしまい、ウィーム領民っぽさを出してさり気なく列に混ざっていた者達の素性が知れたりもした。
「……………っ、私が………」
「困った狐さんですので、あちらは見なくていいのですよ」
「……………あのままでいいのかい?」
堪えきれずにエーダリアが列から飛び出していこうとしたが、ネアは、その腕を掴んで引き留めた。
一緒に居るディノもしょんぼりしているが、こちらは魔物らしく、ネア達から離れようとはせずに、ただ悲し気に銀狐を見ている。
誰も拾ってくれないボールを涙目で見ている銀狐は、お散歩用のリードはつけていない。
となれば、お近くまでは塩の魔物の姿でやって来て、悪辣にも購入列のお客を減らす為だけに銀狐姿になったに違いないので、ネアは、何と恐ろしい魔物だろうと考え、意識して目が合わないようにした。
すると、誰も列から離れてくれないことに我慢がならなかったのか、ムギャワーという悲痛な鳴き声が聞こえてきた。
「……………っ、無理だ!!!」
わぁっと声を上げて、そんな銀狐に駆け寄ったのは、休日を利用して列に並んでいたアメリアだ。
地面に落ちた青いボールを拾いながら銀狐に駆け寄ると、地面に仰向けになって、お腹を出して暴れていた塩の魔物の筈なもふもふをさっと抱き上げる。
拳を握り締め、涙を堪えるようにして列に残っていた者達が、わっと拍手をし、また領外からのお客達を驚かせた。
ウィーム領民にとってはとても感動的な光景だが、これはもう、塩の魔物の作戦勝ちと言えよう。
アメリアは、その犠牲になったのだ。
「……………アメリア」
大事な騎士の一人が、まんまと銀狐の罠に落ちる姿を、エーダリアが呆然と見ている。
アメリアはまさかの自分用のリードを持っていたらしく、迷子にならないようにと銀狐にリードをつけているのだが、塩の魔物としては、そこで尻尾を振ってしまっていいのだろうか。
「一人一冊迄ですので、ディノにも新刊を購入して貰い、アメリアさんの分としましょう」
「ああ。そうしてくれるか?……………私が戻るべきだったな」
「今日のお忍びの為にかかった準備の手間を思えば、エーダリア様は、こうして列に残っていて良かったのですよ。バンルさんだって、一緒に並んでくれているのですし、狐さんの会の皆さんもぐっと堪えていました」
「……………ああ」
そう言われてしまうと、困ったように悲し気に微笑み、エーダリアは小さく頷いた。
それでも、アメリアの腕に抱っこされてムギャムギャと狐語で何かを訴えている銀狐を見ると、そわそわしてしまうので、ネアは、掴んだままの手は離さない方がいいだろうなときりりとする。
本日のエーダリアは、髪色をぐっと暗くして黒髪に近い色相に擬態していた。
そうすると受ける印象ががらりと変わるのだが、表情が動くと、ああエーダリアだなという感じもする。
エーダリアが領民に混ざって購入列に並ぶ事になったのでと、護衛として同行してくれているバンルは、ウィームの旧王家の色合いに近いなと、どこか楽し気であった。
(そんなバンルさんの様子を見ると、ダリルさんの作戦はやはり凄いのだなと思ってしまうな……………)
今回のエーダリアのお忍びは、人気の本を購入する為にと、エーダリア個人のお買い物目的で設定されたのではない。
勿論、エーダリア自身が、大事な契約の魔物の登場する作品を自分用の物も手に入れたいと思っていたのも事実なのだが、当初は、ネア達が買いに行き、ディノがエーダリアの代理で購入してくる予定だったのだ。
だがそんな話を聞いたダリルが、お忍びでの買い物が出来るように調整をつけるので、自分で買ってくるようにと言ったのである。
(エーダリア様自身が購入列に並ぶことで、領民からはより親しみを持って貰えるようになる。加えて、こうしてエーダリア様の会の方々の力を借りて街に出ておけば、何らかの事情で、そのような活動が必要になった際の予行練習にもなる)
かくして、幾つもの目的を同時に叶える絶好の機会として、ウィームの頭脳とも言われる書架妖精は、塩の魔物の転落物語の発売日を逃しはしなかった。
些細な出来事を額面通りに受け流してしまわず、先々の事までを考えて活用出来るのは、ダリルが代理妖精でいてくれるからこそなのだろう。
エーダリアの最も近くに寄り添うのはヒルドであるが、そのヒルドには考えつかないであろう作戦なので、ネアはこんな時、ダリルの目線や思考があって本当に良かったと思ってしまうのだ。
(思想や嗜好が違うからこそ、得られるものは大きいのだと思う)
家族として寄り添うヒルドが思いつかないことを、ネアならば気付けるということはないし、魔物達がどれだけ愛情深く老獪でも、人間の組織の運用にまでは手が及ばないだろう。
だからこそ、ダリルにしか出来ない事が沢山あるのだと誇らしい思いでいたネアは、書店の入り口近くに人影が動いたことに気付いた。
まだ、開店時間ではないが、今日の営業はいつもとは違う。
であればこちらも、心の準備をして、脳内で店内の経路確認などを行わねばなるまい。
「いいですか、エーダリア様。お名前を呼べるようにと作った音の壁があるので、今の内にここでお話してしまいますが、このような場合は、店員さんの動きがあれば、予定よりも早く開店する事も在り得るのです。気配や姿に注意し、動きがあった場合は心を整え、店内での経路確認などの、意識の最終調整段階に入りますよ!」
「そ、そうなのだな。この書店は昔からあるので、店の中にも何回か入った事があるのだ。店内の配置は覚えているので、それを基準にしてみよう。………新刊はどこに置かれるのだろうか」
「恐らく、入ってすぐの場所に特設の販売区画が設けられている筈です。薔薇のカタログもそこですから。我々の順番であれば、予測よりも入荷数が減らされていない限りは問題なく手に入れられるでしょう。となると必要になるのは、本を手にしたらすかさず、お会計の列に向かうという配慮になります。くれぐれも、後からお店に入る方々の進路を遮ってはなりません!」
「そうか。…………後方の者達を、気遣ってやらねばならないのだな」
「はい。後ろにいけばいく程、その方達は生きるか死ぬかの戦いになります。そんな時の進路妨害は、憎しみを買いますので、くれぐれも気を付けましょうね」
「わかった」
一息にそこまで告げると、エーダリアははっとしたように瞳を揺らし、しっかりと頷いてくれた。
ネアは、震え上がってしまった魔物が三つ編みを持たせてこようとするので、このような会場では邪魔になってしまうのでと却下する。
「ご主人様……………」
「ディノは、素早い動き自体は出来る筈なのですから、人の流れを見て、適切に行動して下さいね。もし、私の隣にいることで、商品棚の本が取れなかったり、周囲の方の邪魔になるようであれば、状況に応じて立ち位置を変える必要があります」
「……………本なんて」
「こらっ!皆さんは、今日を楽しみにされてきたのですから、そんな荒ぶり方をしてはいけませんよ。ましてやディノは、アメリアさんの分を手に入れるという大事なお役目があるのです。ディノの家族でもある狐さんがお世話になっているので、この任務は疎かにしてはいけませんよ」
そう言われてしまうと、ディノは水紺の瞳を瞠ってふるふるした後、こくりと頷いた。
ご主人様が時として自分よりも優先してしまう本は好きではないが、家族の為に頑張る任務については、満更でもないらしい。
「ですが、私の方が状況の判断には慣れている筈ですので、もし、手元に余裕があれば、私が二冊掴んで一冊をディノに渡しますね。その代わり、私が本を手にしていなければ、ディノが自分で取るのですよ」
「……………うん」
「この店はなぁ。入荷数が多い代わりに、並んだ順に引換券の販売にはしていないからな………」
少し遠い目をして、そう呟いたのはバンルだ。
ネアも、最初は、並んだ順の引換えにしてくれるような書店での購入を考えたのだが、そちらの書店の入荷数は、どの店も十冊程度だったのだ。
王様ガレットの時の惨憺たる結果を考えると、そちらの書店での購入を選ぶ者達には、誰よりも早く並べるという自負があるのだろう。
入荷数の少なさも、大きな懸念材料であった。
「その代わり、こちらの書店では二百冊も入荷するのですよね」
「ああ。売り方への拘りで失点だが、仕入れの力としては、相変わらず随一だな」
「バンルさんは、ウィームには長く暮らしているのですよね。その頃からあった本屋さんなのですか?」
そう尋ねたネアに、見慣れた魔物達に比べると僅かに肉の薄い感じのするバンルがにやりと笑う。
「俺がウィームに運び入れられる以前どころか、俺がまだ若い頃からここに店があったぞ。どんなに稀少価値の高い本も、一定の刊行数さえあれば、ウィームのこの店なら必ず一冊は入荷すると言われていたな。今の店主は八代目だが、仕入れの腕は最も有能だったと言われる二代目を彷彿とさせる技量だそうだ」
そう言われたネアは、以前に買い物に来た際に見かけた、ご店主の姿を思い浮かべる。
確かその時は、綺麗な薄緑色のドレスに菫の花飾りのある帽子を被っていて、難しい色合いを何て素敵に着こなすのだろうと思ったものだ。
淡い銀糸の髪は柔らかく波打ち、垂れ目がちな表情はふんわり微笑んでいるようであった。
「一度、お見掛けしたことがありますが、とてもお洒落で、優しそうな雰囲気のご婦人でしたよね」
「……………どれだけ優しそうに見えても、本の仕入れの場で、あいつの敵になるなよ。場合によっては、消されるぞ」
「……………なぬ」
「本を粗末に扱う様子を見せることと、経営方針に口を出すのも危うい。……………ダリルと同じ系統だ」
「さ、逆らいません!!」
ダリルと同じと聞けば、危険度は言うまでもない。
ぴゃっとなってしまったネアに、バンルは重々しく頷いた。
ギルド長にこの表情をさせる御仁となると、相当に用心せねばなるまい人物なのだろう。
「因みに、うちの副会計だ」
「……………まぁ。エーダリア様の」
「ネア……………?」
そう聞けば、やはり過激な会員を揃えている領主の会ではないか。
エーダリア当人は何の話だろうかと困惑しているが、ネアは、淡く微笑んでそっと首を振っておく。
であれば、ダリルが今日のお忍びを計画したのには、もう一つ理由があったという訳だ。
恐らくは、このお忍びは、会員への領主参加の感謝祭のようなものでもあるのだろう。
(でも、副会計ということは、特別に前に出たいという方でもないのだろうか………)
それでいて聞いた通りの苛烈さならば、本や書店経営にかける思いが、特別に激しいのかもしれない。
ネアは、こちらの書店の、天井が高く木製のシャンデリアのある独特な造りが大好きだったので、その美しい佇まいや、丁寧に仕分けられた書架の本の選びやすさには相応しい敬意を払おうと、そろそろ扉が開きそうな書店を見つめる。
新刊を巡っての戦争を起こす前に、店主の気質を知っておけたのは幸いだ。
くれぐれも粗相がないようにしよう。
「この後、開店いたします。店内は走らぬようにして下さい。特設の販売棚は入って正面にございます。他の商品との同時購入も可能ですが、売買契約を交わせば魔術的にお客様の持ち物になりますので、安全を考慮し、先にお目当ての品物の会計を済ませておくことをお勧めします」
ややあって、すらりとした男性店員が出てくると、そのような案内があった。
ネアは、早めの購入を促す背景には、手に持っていた筈の大事な新刊が、誰かに奪われる事件があったのだろうと暗い目になる。
並んでいるのは人間だけではないので、非合法な商品の召し上げは、絶対にないとは言い切れない。
それは、僅かな風が吹き始めた定刻より少し前のこと。
両開きの大きな扉が開かれ、二人の店員が扉を固定する。
庫の扉も木製で、はめ込まれたエッチングの美しい硝子窓は、観光客にも有名である。
(いよいよだわ………!)
まずはゆっくりと列が進み、ネア達の少し前で早足になった。
ネアの見立てでは、ネア達がちょうど、百番台の前半くらいだろう。
ぎりぎり買えるという程ではないが、後ろからの追い上げ次第ではまさかもあり得るので、それなりの注意を払う必要があった。
石床には絨毯が敷かれ、誰かが本を落としても損傷が少なくなるように計算されている。
とは言えそれは、絨毯から埃が立たないように魔術を敷ける店主がいるからこそで、大きく取った窓から差し込む陽光も、店主がかけた魔術障壁で本を傷めないような契約がなされている。
だが、この店内に張り巡らされた魔術は、決して優しいものばかりではない。
うっかり商品を乱暴に扱ったり、盗もうとしたりすると、場合によってはそのまま二度と帰れなくなる。
一定の年齢以下のお客様の入店を禁じているのも、幼い子供達が知らずに排除術式に引っかからないようにする為であるらしい。
児童書については、大聖堂近くに別店舗があるので、そちらに買いに行けばいいのだ。
「……………つ、捕まえました!」
「良かったね、ネア」
「はい。ディノにはこちらですよ」
「ご主人様!」
「どうぞ、エーダリア様」
「ああ、すまないなバンル。…………っ、」
幸い、先頭ではなかったので前のお客を追ってゆけば、無事に売り場に着いた。
テーブルの上に並んだ新刊は、思っていたよりも少なくなっているような気がするが、無事に手にする事が出来、素早く会計待ちの列に向かう。
展示台から離れようとした際に後続のお客が押しかけ、エーダリアが少し戸惑ってしまったが、すぐにバンルがその腕を引いて戦場から遠ざけてくれた。
「お会計の列でも少し並びそうですが、先程よりは心穏やかですね」
「……………そう思えるのは、今の内だけだぞ。………用心しておけよ」
「なぬ……………」
腕の中には、待ちに待った新刊がある。
大事に抱き締めてほくほくしていると、なぜだかバンルに注意を促された。
ネアは首を傾げ、目を瞬いたエーダリアは、バンルの影になるような位置に押し込まれ、滅多に見ないくらいに鋭い目をしたバンルが、何かを待つように店内を見回している。
(……………あ、)
ここで、テーブルの上に並んでいた新刊の最後の一冊を、一人の老紳士が手に取った。
その後ろにいたご婦人が憤怒の表情になったので、僅かに並び順に前後があったのだろう。
販売数以上のお客を受け付けるとても不平等な売り方のような気もするが、これは、ウィームの王国時代に起きた悲しい事件の戒めが影を落としているのだそうだ。
「……………確か、並んでいるお客様がいなければと、前に並ぶ方をごっそり減らしてしまった精霊さんがいたのですよね」
「ああ。人間とは価値観が違う者達には、先着順という認識を好まない者も多い。であれば、列を乱してはならないだとか、店内を走らないなどの規則を作っておき、それを踏まえた上での実力主義も取り入れておいた方が、大きな問題が起り難いのだ」
「仕入れ数が多いからこその、弊害でしょうね。元々の仕入れ数が少ない書店では、数が少ないのでという先着順や、店内が狭いのでという理由がまだ使えるので。……………来たな」
「……………む?」
ふっと影が落ちる。
ここで、ネア達の前に、背の高い男性が立った。
ゆらりと揺れる大きな体からは、どことなく潮の匂いがする。
美麗な面立ちであるだけに、人間らしい表情の抜け落ちた眼差しは暗く、不穏なものだという感じがひしひしと伝わってきた。
「その本を譲って欲しい」
「お断りします。これは私が買うものですので、お引き取り下さい」
まず、その男はネアに声をかけた。
だが、ネアがきっぱりと断ってしまい、隣に立ったディノがすっと瞳を細めると、慌てたように隣に移る。
正面に立たれたバンルが断り、次はエーダリアだ。
(……………エーダリア様は、大丈夫だろうか)
先程、バンルが何か耳打ちしていたのは、このようなお客が現れるという話だったのかもしれない。
ネアは、大事な家族の買い物が脅かされないかとはらはらしたが、よりにもよってこちらにも二人目の交渉者が現れてしまい、そちらに注意を向けざるを得なかった。
「お前にはその本は早いだろう。俺が代わりに買ってやろう」
「命が惜しければ立ち去って下さい。この書店で騒ぎを起こせば、お家に帰れなくなりますよ」
「ふん。生意気な小娘が…………………………申し訳ありませんでした」
「あらあら。……逃げていきました」
「私に気付かなかったようだね。…………気配を抑えているからかな」
「ふむ。ですが、抑えておかないと、列に並ぶという近しさ上、他のお客様に影響が出てしまいますものね。さて、エーダリア様は、……………ほわ」
エーダリアは大丈夫だっただろうかと視線を戻せば、市場で見かけた事のあるご婦人が、ぐったりとした先程の大柄な男性をひょいと肩に担いだところだった。
隣には、この店の制服を着た青年がいて、ご協力有難うございますとにこやかにお礼を言っている。
ご婦人は肩に担いだ獲物を持って書店を出ていってしまい、店内には、どこか満足げな空気が漂った。
「……………エーダリア様」
「断る際に、少し躊躇いが滲んでしまったのだろう。バンルから、交渉に持ち込まれないように強い意志を持てと言われたのだが、子供達の話をされたせいで、僅かに隙が出来てしまった」
「……………完全に、狙いをつけられています?」
ネア達より交渉が周到なので、これはもう、しっかりと狙われたと見て間違いない。
「あの手の連中は、獲物を見定めるからな。一人一冊という決まりがある商売の場では、他人の持つ品物と、それを得ようとして行われる交渉に口を出す権利は俺達にもない。そのせいで、あの手の悪質な交渉人が現れるんだ」
「そして、会の方に折りたたまれてしまったのですね……………」
「こちらで調査の上、処分しておく」
「処分………」
「バンル、…………くれぐれも、穏便にな?」
「はは。ご安心を。ギルド長の名にかけて、不届きな連中は生きて帰しませんよ」
「そういうことではないのだぞ?!」
(そうか。バンルさんが警戒していたのは、お会計前に交渉を持ちかける悪質なお客だったのだわ)
商売という領域における、そのやり方は、とは言え厳密には間違いではないのだそうだ。
ただ、暗黙の了解の上で、上品なやり口ではないとされ、ウィームでは好まれない。
だが、そのような交渉が当たり前の土地から来る者達や、誰かから取り上げてしまおうと最初から狙っている悪質なお客もいるので、用心しなければならないらしい。
「他の商品については、後がけの契約魔術で交渉そのものを禁じてあるんだが、知識というものが元より共有される財産として認識される為、このような古い魔術書を多く扱う書店では、その排除が難しくなる」
「ふむふむ。そのようなものなのですね。存じ上げていませんでしたので、すっかり勉強になってしまいました。………ディノ。そろそろお会計ですが、大丈夫そうですか?」
「……………これでいいのかな……………」
「むむ。金貨だと大きいので、銀貨からのお支払いにしてみませんか?」
「銀貨がいいのだね」
「ええ。お会計時に、お釣りが少ない買い方をすると手間が減らせますよ」
最近では、屋台の支払いも経験した魔物だが、この金額帯の商品の支払いは初めてだ。
なのでネアは、すかさず指導を行い、ちょうど銀貨三枚で買える本を、銀貨十枚分の金貨で買わないようにと教えておく。
なお、他領に流通する硬貨類は、レートのようなものがあり価値が変動する事がある。
ヴェルクレアとしての統一硬貨に於いては、価値変動のような問題はないが、各領の生活水準や価値観に大きな差異あった為、ヴェルリア王族があまり貨幣統一に積極的ではなかったのだという。
その結果、今でもヴェルクレア四領は、それぞれの土地のお金を使えていた。
(……………ウィーム硬貨も、王族の肖像や国章などが刻印されていなかったお陰で、今も使えている)
人外者達には、古くからのウィーム硬貨を好む者が多い。
魔物達もそうだが、となればヴェルリア側が恐れたのは、そのような者達を怒らせる事だったのかもしれない。
少し時間がかかるなと思っていたが、お店では、帰り道に襲われないようにと丁寧な梱包をしてくれているようだ。
ネア達は魔術金庫があるのでその包装を辞退したが、荷物を奪われそうになった場合、相手が一度痺れて動けなくなる包装紙というのも、なかなかのものだろう。
「ふは!無事に買えましたね!」
「うん。アメリアには、ノアベルトと引き換えでいいのかな」
「ええ。けばけば狐さんを引き取りつつ、本をお渡ししましょうか。ディノからの贈り物にしてくれると、道中で盗人に奪われる事もないのですよね」
「売買契約とは違うものだけれど、贈答にも魔術契約を敷けるからね。……………あそこかな」
探していたアメリアの姿は、店の外の広場にあった。
そこでは、本を買い終えた銀狐会の会員達が、尻尾までけばけばにした銀狐を、順番に撫でてゆくという不思議な参拝のような光景が繰り広げられている。
そんな銀狐を抱いたアメリアは、さながら、忠義を貫いた一人の騎士のようでもあった。
「……………大切な催しが行われているようですので、先に帰る旨を伝え、会員の皆さんの贖罪が終わるのを待って差し上げた方がいいかもしれません」
「相変わらず、あっちの会も相当だな……………」
「い、いや、こんな時だからこそ、一緒に帰った方がいいのではないか?」
「では、あちらにあるジェラート屋さんで勝利のお祝いをします?」
ネアがそう提案すると、バンルがいいなと頷いたので、四人は、美味しい果実のジェラートをいただきながら、銀狐への謝罪行列が終わるのを待った。
途中でなぜか、四個目の青葡萄のジェラートを食べようとしたネアのおでこをばしりとはたいた使い魔が現れてしまい、ネアは、あまりにも危険な目の前の光景に息が止まりそうになってしまう。
「……………何だあれは」
「皆さんが、遊んで欲しいという狐さんの訴えを無下にして、新刊を買いにいってしまったことを謝罪しているのです。……………それだけなのですよ」
しかし、ネアがそう告げると、アルテアは呆れ顔で頷いていたので、今暫く、本の中で新たなる転落を迎える塩の魔物の最大の秘密は、守られる事になったのだった。