表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
70/880

忘れ物のパイともぞもぞ影虫




「僕ね、ネアに教えてあげたほうがいいと思う」



そう言い出したのは、ゼノーシュだった。

朝の会食堂は異様な沈黙に包まれ、エーダリアは暗い目で牛蒡のポタージュを見ている。

カリカリに揚げた牛蒡も乗せられており、とても美味しいスープなのだが、朝食で出ることが多いのでノアはあまり飲む機会がない。



「……………もう無事に帰って来たんだしさ。そろそろかもね」



そう言えば、エーダリアはますます項垂れたようだ。



「…………ああ。だが、それはやはり、私が言わなければならないのだからな」

「わーお、そんなに不安かなぁ…………」



いつものリーエンベルクの朝食だが、今朝はグラストとゼノーシュがいる代わりに、ヒルドは昼まで休みにしている。


以前のように全員が揃う事もあるのだが、リーエンベルクの騎士達が個々に力をつけた結果、それぞれの資質や魔術に合わせた交代制で働く事が可能になり、グラスト達は歌乞いと魔物として外に出る仕事も増えたのだそうだ。


契約の魔物に命を削られると考えていた頃には、考えられない働き方だと、いつだったかエーダリアは話していた。

ヒルドからは、グラストが歌乞いになったと知って、エーダリアがまた心に寄せた頼もしい部下を遠からず亡くすのだと知り、その夜は色々な事を考えたと告白された事もある。



けれどもう、グラストの人間としての寿命は、可動域の違いで大きく離されたエーダリアと同列と言えるくらいに伸びたのかもしれない。

ノアがここに来た頃より若々しくなっているし、ゼノーシュを我が子のように溺愛しているその眼差しには、肉体的な若さとはまた違う煌めくような健やかさがある。



(僕も、そうなんだろうか……………)



そんな事を考えると、心の中がむずむずして落ち着かなくなる。



昨晩は久し振りにヒルドと二人で飲んで、とても色々な話をした。


失くしたものや奪われたもの、知らなかったものや、見付けたもの。

ずっと昔に誰かと共有するべきだった苦しさや、共有出来ると知って驚いた喜びなど。

沢山話をして気分良く眠れば、夜明けの光の筋が鋭いナイフのような絶望を突きつけることはない。



そんなヒルドは、朝食は部屋で軽く済ませてしまい、午前中はゆっくり部屋で読書をするようだが、昨晩あれだけの話をしても、彼が部屋でどんな本を読んでいるのかは知りたくなかった。


ネアと訳知り顔で頷き合っているのを見て以来、ノアは大事な友人が例の作品の愛読者であることに気付いているのだ。




「…………だが、食べ物のことだからな。どれだけの騒ぎになるかと思えば、覚悟はしているが憂鬱でな………」

「そもそも、なぜこのような流れになったのですか?」



そう尋ねたのはグラストだ。


今日の朝食がこの顔合わせになると知ったエーダリアから、是非にも参加して欲しいと言われて、ノアはここに座っている。

問題の人物がいないところで話したい大切な相談があるのだと聞いていたので、もしや、ヒルドに何かあったのだろうかとひやひやしたが、どうやらネアに甘いヒルドのいない場で、ネアの事を話したかったようだ。



(………うーん、確かにここにヒルドがいたら、すぐにエーダリアをネアのところに行かせそうだなぁ……………)



エーダリア自身も、叱られて謝罪に行かされる事が想像出来たのだろう。

そのような事態を避け、ヒルドが不在にしている間に、この問題を解決してしまおうという訳だ。



「情けないことではあるのだが、私も失念していたのだ。騎士棟ではその日にパイが振舞われたそうだな?」

「ええ。こちらでは普通に振る舞われていましたよ。………確か、あの日は祝祭の準備がありましたので、私とゼノーシュは騎士棟でいただきましたが、こちらに用意されたという事は、本棟の食卓にも出ているのだとばかり……………」

「…………その日は、色々なことがあったのだ。…………恐らく、厨房の者達に気を遣わせてしまったのだろう…………」

「ありゃ、その日って何かあったっけ?…………あ、鯨か………」



霧深いウィームに、鯨の群れが現れた事があった。


そんな事を思い出しながらそれだと手を打てば、なぜかエーダリアにとても暗い目を向けられる。



「………………え、鯨じゃない?」

「…………ヴァロッシュの祝祭がずれ込んだり、………その後にも事件があって、尚且つ祝祭の後には鯨の出現があったりしていて、ついな……………」

「美味しい日なのに忘れちゃったんだね。僕がいれば、みんなに教えてあげたのに」

「………………鯨じゃないみたいだけど、何でエーダリアは目を逸らすのかな………」

「でも、忘れてたって気付いたら、ネアはきっと悲しいよね………」




そう呟いたゼノーシュに、エーダリアも頷く。



(クリームの日のパイ、…………確かに、ネアは好きだからなぁ…………)




運命のその日、食べ物が絡む風習を忘れる筈もないゼノーシュは、残念ながら騎士棟でそのパイを食べており、ネアに、その日が待ち侘びたクリームの日であると知らせる者はいなかったようだ。



とは言え、ウィームには古くから伝わる風習で、多くの人達がオレンジのパイを食べる日である。


領主の自分がなぜそんな大切な日を失念してしまったのだろうと、エーダリア自身もかなり驚いているようだが、言われてみればそれは確かに妙な話なのだ。


実際に、ノアもその日のとこはあまりよく覚えていない。



「うーん、ちょっと妙な話だよね。もし、何らかの魔術的な弊害だとしたら…」

「…………ノアベルト。そろそろ真実を伝えようと思うのだが、お前がその日のことを思い出せないのは、………多分、晩鐘の魔物が訪れた日だからではないだろうか………」

「……………あ、僕のボールが取られた日だ…………」

「そっか。それでノアベルトは、その日の記憶が無くなっちゃったんだね…………」

「……………夜の事は覚えてるよ。確か、ネア達がチーズボールを買って来てくれて、もう二度と誰にも取られないようにしなきゃと思ったんだよね…………」

「ノアベルト……………」

「お労しい………………」



エーダリアの指摘を受け、朧げな記憶が戻ってきた。



確かに、晩鐘の魔物の訪れという悲しい事件が起きた日があった。

そして、その日こそがクリームの日だったというのならば、塩の魔物としては黙秘権を行使するしかない。



(もしかして僕の妹は、チーズボールを買いに行ってくれていて……………そのせいで、パイが食べられなかったのかな…………)



そう考え、ノアは慌てて首を横に振った。


もしそれが原因で大事な妹がパイを食べ損ねていたのなら、今日まで気付きもしなかった自分はあまりにも不甲斐ない兄ではないか。

胸が締め付けられるような後悔に、恐る恐るエーダリアに聞いてみる。



「…………僕のせいかな…………」



悲しげにそう尋ねると、こちらを見たエーダリアは鳶色の目を瞠り、淡く微笑んで首を横に振ってくれた。


じっと見つめればこちらを気遣ってくれてはいるが、慰めとして言っている訳ではなく本心のようだ。

ほっとして息を吐くと、エーダリアがくすりと微笑む。



「だいたい、食事を摂る時間もなかった訳ではないのだ。あれが遠慮して言い出せないような事でもないだろう」

「あ、言われてみればそうだ…………」

「うん。僕も、覚えていたらネアは言うと思うな…………」



つまり、エーダリアもノアも、ある程度はクリームの日という風習を失念しかねない状況ではあったが、あのネアがなぜ、クリームの日を忘れていたのかは大きな謎のままである。



(でもまぁ、ちょっとうっかりしてる時もあるから、その日は忘れていたとして…………)



「………でもさ、その何日後かのデザートで、紅茶のジャムのパイが出た日があったよね?あれって、クリームの日をやらなかったから、ネアの為に似たようなデザートを出してあげたんじゃないかな………」

「ああ。私もその日のことを思い出して、料理人に確認したところ、当日のお茶の時間が急遽中止になり、その後、私からもネアからも、パイの要望がなかったので、何らかの魔術の触りで食べられない可能性もあると似たような菓子を出してくれたようだ。…………そこまでされても気付かなかったからか、料理人達は困惑していたようだ。…………まさか本物の障りなのだろうか………」

「え、クリームの日に気付けないような障りって何だろう……………」



思わぬエーダリアの言葉に、ノアは、ゼノーシュと顔を見合わせる。


ゼノーシュが真っ青なのは、そのような触りがあるのなら、見聞の魔物にとってそれ程に恐ろしいものもないからなのだろう。



(……………あのパイに、障りが出るような歴史とかあったっけ…………?)



ウィームには、傘祭りの前の季節の風物詩として、クリームの日と呼ばれ特別なパイが振舞われる日がある。


とある人間の王の誕生日に、その王が好んでいた菓子をみんなで食べる風習が残ったそうで、オレンジ風味のパイに紅茶のジャムを添え、更には檸檬クリームをこんもりと乗せて食べる日としてウィームで親しまれている。



リノアールや市場では、クリームの日が近付くと紅茶のジャムが売り出され、大人達から子供まで、焼きたてのパイを食べるその日を心待ちにするのだ。



つまり、それだけ馴染みのある日の筈なのに、最近まで、このリーエンベルク本棟に住む者達は、誰もオレンジのパイを食べていない事を思い出せずにいたという事になる。



「僕はだめ。そんな呪いにかかったら倒れちゃう………」

「ゼノーシュ…………」



顔色を悪くしてテーブルに伏してしまったゼノーシュを慌てて慰めるグラストの姿を見ながら、もしそれが障りだった場合を少しだけ考えた。


普通に考えればないのだが、何しろノアの妹はとんでもないものを拾って来てしまう達人である。



(あの子に何かがあったら困るんだ………)



瞼の裏側の暗闇には、夜の光に煌めく美しいラベンダー畑が広がっていて、目を閉じれば、ノアはいつだってその記憶の向こうからこちらを見ているネアを思い出せた。



大事な大事な家族なのだ。



そう考えるととてもいい気分になって、ノアは、この姿にはない筈の尻尾を振りたくなる。

家族がいて帰るべき家が出来たということは、何て不思議で愛おしいことなのだろう。


ネアが持ち帰った常春の宝石ではないが、きらきらと細やかな光を散らばらせる美しいものを抱え込んだような気分で、どうしても唇の端が持ち上がってしまう。



もう、燃えてしまったラベンダー畑に蹲らなくてもいいし、誰も戻ってこない砂浜で、楽しそうな宴の声を遠くに聞きながらいつまでも座っていなくてもいい。

火の影や色に息が止まりそうになって、真っ暗な部屋の隅で眠れない夜を過ごす必要もないし、望みもしない熱を求めて、名前も覚えていられないような女性達と夜を共にしなくてもいい。


夜明け前の空の色に胸をいっぱいにしても、その色の鮮やかさを誰にも伝えられないまま誰もいない胸の底に喜びを沈めて、空っぽの城で眠る日とは決別した。


食べても食べても味のしない砂のようなパンを齧り、どんな上等な酒を飲んでも酔いきれずに、どんな香りを嗅いでも抜けない、あの朝のリーエンベルクの焼け爛れた香りに付き纏われることもなくなった。



ここには、ノアの家族がいるのだ。


夜が明けると、いつもの家族が朝食の席に着いていて、部屋の寝台でぬくぬくと丸まっていても同じ屋根の下に誰かの気配を感じる。

真夜中だって夜明け前だって、ここには誰かしらが起きていて、ノアを見ると微笑んでくれる。



世界一大切な女の子や、あの海辺で立ち尽くしていた自分に声をかけてくれたシルハーンや、契約を交わしたエーダリアに、初めて自分から友達になろうと伝えてみたヒルド。


おまけにここには、蜂に追いかけられていたら助けてくれて、ボール投げだって交代でしてくれる騎士達がたくさんいる。

そんな優しい家に連れて来てくれた大事な妹を守る為にであれば、慎重にもなるだろう。



(食事に纏わるものだとしたら、風習としての楽しみや加護を奪うもの。或いは、パイの履歴に纏わるものかな。…………この風習って、元はどんな広まり方をしたんだっけ?)



「エーダリア、………後でこのクリームの日の由来を詳しく教えてくれるかな?」

「ああ。構わないが、そう言うとなると、障りの線が強いのだろうか?」

「うーん、…………障りを仕込む標的としてはあんまりだから、それはないかなと思うけど、ネアだからさ」

「……………そうだな。用心を重ねておいた方がいいだろうな」



生真面目に頷いたエーダリアを見て、ふと、やはり早めにバーンチュアには手を打っておいて良かったと考える。


あの人間が今も生きていたら、このようにしてウィームが力を持つことを良しとはしなかっただろう。

再びこの地に大きな負担をかけるような政策や施策が示されたかもしれず、もはや実現する筈もないその可能性について考えれば、胸が暗く重くなる。



(……………ああ、僕は今のウィームが好きだ。…………リーエンベルクが好きで、ここにいる僕の家族が好きで、どんな欠片だって誰にも奪わせるものか……………)



潤沢だからこそ、複雑でもあるこの土地。


それは、フェルフィーズという人間の履歴や、この国の王達を含めた、豊かなウィームの土地を行き交う人々の思惑など。

カルウィの王子の履歴に、その他の厄介な生き物達の執着や憎悪や興味まで。



色々な糸が絡まって転がり、時々、ネアをどこかに閉じ込めてしまいたくなる事もある。

きちんと側にいれば用意した守護の数だけ安定するエーダリアやヒルドとは違い、ネアだけはいつも振り返るとそこにいなかったりするのだから、心臓に悪い。


けれども彼女は、そうやってこのリーエンベルクの近くに落ちている厄介なものを全部掻き集めてその身に取り込んでしまい、結果としてはこの土地をどこまでも平定させる。



どこかの土地にそんな信仰の形があったなと考えたところで、ネアのかつての名前の所以を思い出してぞくりとした。


こちらの世界にある信仰とは違い、ネアの世界の信仰の形には、信仰される者の犠牲の下で人々が願いを叶えるような奇妙な式が窺える。


そしてネアは、そんな信仰の一つの名前を授けられ育てられたのだ。



(もしかして、…………災厄を集めて浄化するような役目を、ネアは名前として持っている…………?)



だが、その名前はもう切り離したのだ。

シルハーンの伴侶となる際にも細心の注意を払い、先日のガーウィンでもその名前を奪われても、大きな問題はなかったと聞いている。



であるならばもう、繋がっている糸は無い筈だ。



シルハーンの言うように、この世界での運命を持たない者だからこその不安定さで、あれこれと転びやすいというだけだろう。



(うん。…………まさか、………ね)




ひとまずその懸念は置いておき、問題のクリームの日のことを考えようと、ノアは小さく首を振って表情を切り替えた。



「もうクリームの日は、今年はちゃんとやれなかったからって説明して、みんなでぱっとやろうよ。そうすれば、ネアも楽しいだけなんじゃないかな。あの子を招待するなら、僕が上手に伝えるよ?」

「僕、その会には絶対参加する!」

「はは、ゼノーシュはあのパイが大好きだものな。…………エーダリア様、俺の方でも何か出来る事があれば仰って下さい。ネア様にとって、今年はせっかくのご成婚の年でしたのに、気付かず申し訳ありませんでした」

「いや、食事の時間を同じくしていた私の方で、しっかりと気を付けていて知らせてやるべきだった件だ。気にしないでくれ。だが、あらためてクリームの日を行う際には、無理のない範囲で構わないので、参加出来るようであればしてくれると助かる」

「ええ。ゼノーシュも喜びます」

「うん。僕を誘うのを忘れたら駄目だからね!」




こうして、リーエンベルクでは、ネアを鎮める為にクリームの日を独自に開催することになった。


しかし、主賓を招待しようと思ってその旨を伝えると、ネアは思いがけない反応を示した。



「まぁ。………やはりエーダリア様は、あの美味しいクリームの日を堪能出来なかったのですね?」

「ありゃ、ネアはもしかしてやったの?」

「……………ディノ、ここにももぞもぞ虫の被害者がいました」

「おや、ノアベルトも覚えていないのかい?」

「……………え、何のことだろう」




そこでネア達が話してくれたのは、とても悲しい事件の顛末だった。

あまりの悲しさにノアは鼻を押さえて震えるしかなく、すぐさまエーダリアとゼノーシュ達を呼んで事情を説明することにした。



時刻はちょうど午後のお茶の時間であり、会食堂に今回の騒動にかかわる全員が集まった。



用意されたのは春霞と遠雷の紅茶で、これは密かなエーダリアのお気に入りである。


あまり出回るものではないのだが、今年は良い出来のものが売り出されると聞いて、ノアが密かに買い占めたのだ。

その結果、購入予定の数が揃わなかったとアルテアからは文句を言われたが、リーエンベルクの料理人達や家事妖精からはとても感謝された。


皆が、エーダリアのお気に入りの紅茶だと知っているのだ。



「……………私とノアベルトだけが、覚えていないのか?」

「やれやれ、グラスト達を巻き込む前に、なぜ私に相談しなかったんですか…………」

「ヒルド……………」



呆然とするエーダリアに、真実を伝えると、こちらもがくりと肩を落としてしまった。


ノア自身もすっかり意気消沈してしまい、大事な家族を守るのだと息巻いていたくせに、さしたる階位もない妖精にしてやられていたことの惨めさに目眩がする。



「では、しょんぼりなエーダリア様とノアの為に、もう一度お話しますね。………あの日、エーダリア様が持っていたのは緑の革の装丁の魔術書でした。しかしそこには、魔術書に差し込んだ栞に、もぞもぞ影虫めが潜んでいたのです……………」



ネアの言うその影虫とは、用件食いという地味に厄介な事をしでかす妖精である。


その妖精はもぞもぞとした栞の紐のような体を持ち、紡ぎや結びの系譜の者として、ちょうどその直後にやろうとしていた用事を、噛み付いた獲物の記憶から消してしまうのだ。


別名で物忘れ妖精と言われており、お気に入りの本を夢中で読んでいるとあっという間に時間が過ぎてしまうという人々の思いから派生した、比較的近年に現れた妖精の一種である。




「そっか。ネアじゃなくて、エーダリアとノアベルトが、クリームの日の記憶を消されたんだね…………」



檸檬色の瞳に恐怖すら浮かべ、ゼノーシュはこちらを見る。


食べ物が絡む予定を忘れさせられるとなれば、ゼノーシュには堪らない恐怖なのだろう。



「やれやれ。自力でその用件を思い出せば、問題はない弊害だったので、あえて厨房や騎士達には説明していなかったのですが、まさかこのような誤解に繋がるとは…………」

「つまり、エーダリア様とノアベルト殿は、用件食いの魔術を破り、思い出す事は出来たのだな……」

「そうか。…………それで突然に、クリームの日をやっていない事を思い出したのだな………」

「え、僕の鼻、何ともないよね?」

「ノアベルト、その時も鼻は欠けてしまわなかったから大丈夫だよ」




問題の事件があった時、エーダリアは一冊の魔術書を広げていたのだそうだ。


調べ物をしながら、その場にいたネア達と延期としたクリームの日をいつ開催するかという会話をしており、次の頁を捲った時のことだった。



ネア曰くのもぞもぞ影虫こと、紐状の用件食いがエーダリアの手に噛みつき、エーダリアはクリームの日をやらなければいけない事を忘れてしまった。


そして、その時用件食いに襲われたエーダリアの膝の上には銀狐姿のノアもいて、用件食いを仕留めようと前足を振り下ろし、鼻先に噛み付かれて敗北したのだという。



「…………手を尽くして狐さんを解放した後、記憶の照合を行なったところ、エーダリア様が影虫めにクリームの日を忘れさせられた事を忘れてしまったようだと判断されていましたが、クリームの日そのものまでを忘れていたのですね………」

「もしかして、その何日後かにクリームの日っぽいパイがデザートで出たのって、僕達の為?」

「はい。料理人さん達が、記憶を取り戻すきっかけになればとお二人の為に作ってくれたのです………」

「用件食いに食われた用件を自力で取り戻すと、良い祝福になりますからね。厨房には、エーダリア様とネイには、クリームの日を行なっていない事だけを伝えるようにして貰っておりました」

「…………そうか。私が、ネアがクリームの日を忘れているのではないかと尋ねた時に歯切れが悪かったのは、ネアを恐れていた訳ではないのだな…………」

「なぬ。なぜそんな読みなのだ…………」



用件食いは、階位が低い為にあまり重要な用事の記憶は奪えないとされている。

恐らく、これがゼノーシュであれば、クリームの日を忘れさせる事は出来なかった筈だ。


軽微な物忘れの魔術疾患の一つとしてウィームでは珍しいものではなく、時折、妻の言いつけた用事を忘れてしまった夫達の言い訳にも使われるのだとか。


なお、こうして用事を取り戻せると、その一年は大切な用事を忘れないという祝福が与えられ、ノアは、近く銀狐の予防接種が控えている事をしっかり思い出してしまった。


そればかりは、どうしてそのまま忘れていられなかったのだろうと、今から恐怖に震えている。




クリームの日はやはり全員で楽しみたいという事になり、週末のお茶の時間に再開催されることになった。


ネアがなぜ用件食いを影虫と呼ぶのか不思議だったが、後日本の隙間に隠れているのを見付けて納得した。


用件食いは、本の栞の紐に重なるようにして隠れているので、栞の紐の影が蠢いているように見えるのだ。



勿論、塩の魔物として、二度と鼻を噛まれる訳にはいかない。

その用件食いには、速やかにリーエンベルクから退場いただいたのだった。









評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ