衣裳部屋と髪結い
衣裳部屋には様々な服が収められているが、その中でも特別な一着がある。
勿論、家族に贈られたケープや、この世界に来て初めて手に入れたちくちくしない理想のセーター、更には各舞踏会で着たドレスに、思い出深いラムネルのコートなどの特別な服もあって、特別なものが圧倒的に多い部屋なのだが、その中でも思い入れのある一着という意味だ。
目を離した隙に数が増える恐ろしい仕組みの衣裳部屋は、幸いにも、魔物達がネアの嗜好を理解してくれるようになると、ただ無尽蔵に増えるような事はなくなった。
贈る為だけのドレスや衣服ではなく、必要な物が増え、最近では、ネア主導で開発を進めさせていただいた、隠しポケットだらけのドレスなども多い。
実用的ではないがお気に入りのドレスや、特別に気に入ってはいないのだが着易いので着用回数が増えるドレスなど、揃えられた品物の質は圧倒的だが、このような暮らしになっても服との関わり方には変わらない部分もあるようだった。
そして、そんな衣装部屋の中には、その中でも最も感慨深い一着として、ネアがこの世界に呼び落されたばかりの時に、リーエンベルクから支給されていた支給服がある。
これは、ネアがこの世界で手に入れた、唯一の魔術師としての仕立てのもので、最初に同じようなデザインで何着か支給され暫く着たのだが、そのままのデザインでは危ない部分もあったので、すぐにエーダリア主導で細部の変更が為されてしまった。
「なのでこれは、私がもし魔術師さんでもあれば、もっとびしばしと着こなしていた筈のドレスなのです」
「……………びしばしと」
そう繰り返しこくりと頷いたディノにも、前述の揃えの中で一着、お気に入りのネアの支給服がある。
そのドレスは、ネアがリーエンベルクに保護されてすぐに着用したもので、禁足地の森でディノと初めて出会った夜にもその装いであった。
この土地の服飾文化やお作法を理解した今になって見ると、少なくとも可動域があと三百はないと着こなせないドレスなのでたいへん心苦しいのだが、ずっと近くにはいたというディノのお陰で、最初から軽々と着こなせてしまい何の支障もなかったのだろう。
「夜菫のような、綺麗な色のドレスですよね。………以前の私は、このような色合いがあまり似合わなかったので、初めてこちらのドレスを渡された時は、とてもわくわくしました」
「飾り帯は、魔術師のものだね」
「ふふ。かつては、このようにエーダリア様とお揃いの飾り帯なども着用していたのですよ」
物語の魔法に憧れたネアを、ほんの僅かな時間だけ魔術師にしてくれたドレスは、今も状態保存の魔術をかけて衣裳部屋に大事にしまわれている。
だが、この装いでいると特徴的な意匠から魔術師として誤認されてしまうので、残念ながら、今はもう公の場で袖を通す事はない。
それでも、幼い頃のネアの夢を叶えてくれた魔術師のドレスは、変わらぬ宝物の一つなのだ。
「残念なのは、このドレスを着ていた時には、そのようなものであるという認識がなかった事でしょうか。ウィームの魔術職の伝統的な装いを取り入れていると知っていれば、もっとうきうきしながら着ていられた筈なのですが、あの頃の私は、ただの異世界風ドレスだとばかり思っていました…………」
「魔術師の装いがしたいのかい?」
「いえ、それはやはり、実力が伴わないととても悲しい事になるので、今はこのままでいいのです。ただ、…………ほんの僅かな時間だけ、エーダリア様すらもが私に魔術師としての装束を支給してくれていたのだという記録として、このドレスは自慢のドレスなのですよ」
「……………あの森で、君が着ていたものだね」
これは、二人の出会いの記念のドレスでもある。
ネアは、その大事なドレスをそっと指先で撫で、祝福結晶の飾り帯の美しさに唇の端を持ち上げた。
刺繍模様や織り模様のある布に祝福石や結晶石などの魔術を有する石を飾った飾り帯は、ウィームの伝統的な魔術職の装いで、エーダリアは今もそのような様式を装いに取り入れている。
現在のエーダリアが使う飾り帯の付属の祝福石はノアのものであるし、その役割は守護にのみ振っているようだが、その他の魔術師達の付属の石の使い方は様々だ。
常時展開するような魔術の補填に使う者や、使い魔や契約の魔物との契約石を持ち歩く者もいる。
とは言え、最も多いのは魔術的な保険としての所持で、魔術師達はそのような備えを装いのあちこちでしているのだそうだ。
ウィームのような魔術の豊かな土地では、魔術師は、給金や待遇などの面に於いても上位職と認識される事が多いが、そこに魔術師がいるのだと知らしめる為の職業上の特徴的な装いは、人外者の標的になり易いという弱点もある。
これはもう、騎士が騎士服であるからこそ狙われるというのと同じようなことなので避けようもないのだが、その際の備えとして、飾り帯は有用なのであった。
(飾り帯だけではなく、飾り布や、帯布やケープ、それ以外の装飾やリボンなども)
魔術師達は、所持する魔術道具とは別に、身に付ける衣服にも様々な備えをしている。
刺繍や織り柄で魔術式を宿し、或いは多くの魔術を宿す祝福石や結晶石などの、いざという時に身代わりや糧に出来るものを少しでも多く持ち歩くという工夫は古来からのものなのだそうだ。
身に付けられればいいというものでもない。
指輪や耳飾りなどの魔術道具の装飾品だらけにすると扱う魔術が乱れてしまうので、可能な限り衣服の中にも魔術を取り込み、それを伝統的な装いとして纏う知恵は、ウィームでも代々受け継がれてきた。
例えば、飾り帯の石は、人外者に襲われた際に毟り取って投げ渡すという事も出来る。
襲ってきた人外者がそれで満足すれば、石一つを対価にその場を逃れる事が出来るのだ。
また、襲ってきた人外者を滅ぼしたり怯ませたりする程の力を持つ石もあり、投擲型の武器として所持している魔術師も一部だがいるらしい。
(なので、この腰帯の刺繍や付属の祝福石には、魔術師として有用な魔術付与がたっぷりなされている)
ネアの初期支給については、ネア自身の資質も反映した為、装飾的なものは飾り帯の祝福石だけとされた。
だが、その一番最初に渡された支給着を飾るのが、雪と霧雨の祝福石なのだと思えば、何やら感慨深いものがある。
「とても素敵に見えるものの、鎮静効果の高い霧の系譜のものを持たせ、騒ぎを起こしてくれるなよという意味合いもあったそうです」
「君にとっては悪くないものだったから、そのままにしておいたんだ。土地との親和性を高め、新しい場所で過ごす不安を和らげるものばかりだったからね」
「その次に支給されたドレスは、ちょっぴりディノも参加してくれているのですよね?」
「うん。君が過ごし易いようにしたかったからね」
「ドレスの裾も少しだけ上がって、足捌きが楽になりました。あれ以降、踏み滅ぼしの技術が上がったと言わざるを得ません」
「ご主人様……………」
ウィームは貴族文化を基盤としているので、貴職にある女性や爵位のある女性達の装いは、しっかりとしたドレスになる。
夜会や舞踏会に出掛けて行くような華美なものではないが、スカート裾は短くはない。
だが、ネアの装いは足元にも可動性が求められる為、はしたなくならない程度の足首が少し見えるくらいの丈に、ドレスの裾を調整して貰っていた。
とは言えその運用は、働く女性達には珍しくないので、何もネアだけという事でもないらしい。
傘祭りの日などに道行くご婦人達を見ると、いつもより僅かにスカート丈が短くなっていたりもするのは、傘との肉弾戦を想定しているからなのだろう。
その辺りの対応は柔軟なのがウィームで、真冬でも未婚女性のスカート丈が短いままなアルビクロムは、意外に融通の利かない独自の規則性がある。
「そして、すっかり心が思い出のドレスに向かってしまいましたが、探しているリボンは、この辺りの小物の棚の抽斗に、しまっておいた筈なのです」
「リボン……………」
「幅広の女性用リボンなので、ディノ用ではないのですよ?」
「……………うん」
「ディノの持っている灰雨のリボンと素材が同じで、尚且つ刺繍まであるので、どうしても欲しくなってしまって購入してしまいました。………むぐ、どこにいったのだ………」
ネアが探していたのは、購入したものの、使いどころが分からずに死蔵していたリボンだ。
惚れ惚れとするような美しさは見ているだけでも充分な程なのだが、実は最近、異国の街で同じようなリボンを上手に楽しんでいる女性を見付けてしまった。
その髪型に憧れてしまった人間は、これから遊びに来る終焉の魔物に、お気に入りのリボンで同じ髪型にして貰う約束を取り付けているのだ。
「あのリボンと同じ素材であれば、こちらの抽斗かな」
「そちらは確か、お気に入りハンカチの抽斗………、ありました!!」
「見付かって良かったね」
「ディノのお陰で見つかりました。有難うございます、ディノ」
「可愛い……………」
「幅広のリボンを上手に保管出来なくて、ハンカチ用の抽斗の深さが丁度いいと、こちらに移したのをすっかり失念していました。危うく、衣裳部屋の中で迷子にするところだったようです……………」
取り出したリボンは、しっとりとした灰色の天鵞絨に、灰色に虹色がかった糸での刺繍がある。
淡い灰色は繊細な色合いで、冬の雪の日にぴったりなのだが、名前の通り、晩秋の雨や霧の日にも似合うし、少しだけ肌寒くなる初夏前のこの季節の雨や霧の日にもぴったりなのだ。
(使われている糸に、淡く淡く様々な色が見えるから、晩春から初夏にかけての霧の庭園や雨の庭園のような色にも見えるのだわ…………)
ここが、しっかり日差しが強く暑くなるヴェルリアであればそれでも使える時期は限られるが、ウィームは夏でもそこまで気温が上がらないので、このような素材にも春夏物がある。
お陰で、秋冬に買った品物でも、通年で使えるような色合いや質感を上手に選べば、長く楽しめるという便利さであった。
「一つの上等な品物を大事に使う土地ですので、通年で使えるように工夫したことで、そのような文化になっていった可能性もありますね」
「そちらの面が大きいのではないかな。身に馴染んだ道具は、宿した魔術の季節的な不和がなければ、使い続ける方が扱いやすくなるからね」
「以前に、エーダリア様から聞いた事があります。だからこそ、ウィームでは霧や夜の系譜の方々が多く見られるのだとか。ウィームは雪の国とも言われていますが、通年で扱える織物や道具類は、霧や夜の系譜の品物に勝るものはないのだそうです」
ネアの手の中にあるのは、雨の日の色も宿したリボンだが、そんな霧の系譜の紡ぎ糸も使われている。
また、僅かに雪と氷の魔術も宿しているそうで、その複雑な織りのお陰で、雪の日や霧の日にも使える素敵なリボンでいてくれた。
(今迄は、上手に髪に使えずにいたけれど、今日はこのリボンでお洒落編み込みにして貰うのだわ!)
そう考えてふんすと胸を張り、ネアは笑顔になった。
件の髪型の女性を見た場所にウィリアムもいたので、この運びとなった次第である。
「お目当てのリボンも見つかったので、私の髪結いの前に、ディノの髪の毛のお手入れでもしましょうか?」
「……………虐待する」
「むぅ。どうしてすぐに弱ってしまうのでしょうね。それとも、庭でお散歩でもします?」
「……………髪の毛かな」
おずおずと申し出たのはディノなので、申請の上で始まったお手入れだった筈なのだ。
しかし、丁寧に髪の毛を梳かして貰った魔物は、綺麗な三つ編みが完成してお揃いになる予定のリボンを結ばれ、出来上がった三つ編みにネアが口付けを落とすと、呆気なく倒れてしまった。
「ですので、ディノが長椅子の上で死んでいるのは、耐久性の問題なのだと思います」
「それだったのか。何が起こったのかと思ったけれど、それなら大丈夫そうだな……………」
ネアは、約束通りの時間にリーエンベルクに来てくれたウィリアムにそう伝え、真実を訴えた。
幸いにも、部屋に入るなり長椅子の上で儚くなっているディノを見付けてしまった終焉の魔物も納得してくれたようだ。
くすりと微笑むと、ままならない思いを足踏みで示したネアの頭を、ウィリアムはふわりと撫でてくれる。
微かな水の香りは窓の外が霧雨だったからだろうか。
触れた場所から肌の温度が伝わり、不思議な秘めやかさが落ちる。
「ザハに出掛ける時間までもう少しあるが、始めてしまおうか」
「はい!」
微笑みを深めたウィリアムに促され、ネアは、わくわくしながら鏡台の前に腰かけた。
さぁさぁと雨音が響く。
静かな雨は、一人暮らしだった頃のネアハーレイの好きだった天気だ。
程よく詩的だが一人でいるのが寂しい程には特別でないこの天気は、特に初夏の霧雨が好きだった。
かつて暮らしていた屋敷では、しっとりと雨に濡れた紫陽花は、庭の中でも懲りずに大きな花を咲かせてくれていて、栄養が足りなくなると頑固に蕾をつけなくなった薔薇とは違い、菫たちと同じくらいにジョーンズワースの庭を彩ってくれた。
「ですが、その頃は実は鏡台が苦手だったのです」
「そうなのか?」
ネアの後ろに椅子を置き、そこに腰掛けたウィリアムが丁寧に髪を梳かしてくれる。
さりさりとブラシの通る音が響き、ネアは、心地よさにうっとりとした。
お手入れされる人間があまりにもくしゅんとなるので、ウィリアムは最近、首筋や頭皮のマッサージをしてくれることもある。
そうすると、ネアはもうくたくたになるばかりなので、長椅子の上で儚くなっている伴侶の気持ちも、少しだけ分かってしまうのだった。
「……………ふぁふ!……………ええ。私はホラーと呼ばれる区分の、怖いお化けなどの話が大嫌いでしたので、一人きりの屋敷の中で鏡台の鏡を見るのが、時々怖くなってしまうのです。……………にゃぐ」
髪の毛を編みこみ始める前にと、耳の後ろと首筋を軽く揉んでくれたウィリアムに、ネアは、ついつい頬を緩めてしまう。
指先の温度は心地よく、優しい手のひらで首筋をじんわりと柔らかくして貰った。
へなへなになったネアを見て、ウィリアムがまた微笑みを深める。
「確かに、鏡などは、場になる事も多いからな。実際に何かが現れはしなくても、門となるものがそこにあるだけで落ち着かなくなる場合もあるだろう。今は、もう怖くないのか?」
「まぁ。そのような理由もあったのですね。今はもう、少しも怖くないのですよ。初めての場所や、何か気になる音や反応があるとびっくりしてしまいますが、ここは、ディノと暮らしているお部屋の中なのでそうしたものが入り込まないという安心感もありますし、もし怖いものがいてもディノがいれば安心なのです」
そのような感覚は、こちらの世界に来てからこそ得られた安心感であった。
共に暮らしているのが、エーダリアとグラストだけであれば、ネアはきっと、一人ぼっちではなくなっても、真夜中に鏡台の鏡を覗き込むのが怖いと思う事もあったかもしれない。
だが、今の家族は、謂わば向こう側の高位者達なのだ。
また、こちらでは人ならざる者達の数の方が圧倒的に多いので、多少奇妙なものがいても慣れっこであるという感じがしないでもない。
加えて、今は、多少のものであれば滅ぼせるという自負もある。
「ああ。大抵のものは、シルハーンがいれば大丈夫だろう。……………だが、漂流物の最初の漂着が確認された後から、最後の漂着迄の間は、世界の境界が不安定になる。夏至祭の夜のように、入り口や扉になりそうな場所は気を付けてくれ」
「ノアから、その期間は、普段使う部屋の扉は出来るだけ開けておいた方がいいと言われました。それも、世界を切り分けない為の工夫なのですよね?」
ネアがそう尋ねると、ウィリアムは静かに頷いた。
今日の装いは少しだけ寛いだものなので、仕事場から直接来たのではなく、少しはどこかで休めたのだろう。
最近はずっと忙しそうであったので、久し振りに見る穏やかな眼差しにほっとしてしまう。
「閉じた扉の向こうに何があるのかは、扉のこちら側の者には分からない。…………そんな言葉がある。これは、人間の学者の言葉だが、俺は真理だと思っているんだ」
「ふぁい。それは、こちらに来てすぐに経験しました………。扉を開けたら廃墟があって、当時は野生の使い魔さんがいたのです……………」
ネアがそんな思い出話をすると、ウィリアムがふうっと息を吐く。
「………その頃に、取り返しのつかない事故がなくて良かったと、今になってひやりとするよ。何度か、真剣に損なわれかけたと話していたものな」
「ええ。あの頃の私はまだ面倒臭がりでしたから、ディノを悲しませるような結果にならなくて良かったと思います……………。場合によっては、アルテアさんは踏み滅ぼされてしまい、私の素敵なパイ生活もなかったかもしれません………」
「ああ、そうか。アルテアが狩られていた可能性もあるのか………」
そう呟き、ウィリアムはちょっとだけ遠い目をした。
その場合はちびふわにも出会えていなかったので、ネアは、ふるふるしながら頷く。
「世界の境界も、扉のようなものなのですか?」
「境界が揺らぐと言われている日は、そうなる事が多い。認識や知覚の外側は、未知の場所となるだろう?………最近、グレアムとそんな話をしたばかりなんだが、……………俺の管理する死者の国も、中に入る事が叶わない者達にとっては、別の世界層として認識される事が多い。妖精の国や精霊の国も、竜達の国も、世界という言葉で分割すると魔術の繋ぎが薄れるのでそう言わないだけで、厳密には別の世界層に近いからな」
「個人的には、影の国とあわいは、もはや別の世界のような気がします………」
ネアは、この世界に来た頃はまだ、その区分がよく分からない事が多かった。
妖精の国と簡単に言ってしまっても、その中には様々な妖精達の国が幾つもあるのだから、大枠の表現はもはや国ではなく世界なのではと考えた事もある。
だが、この世界という大きな領域は、今代の万象の認識や、曖昧にでもこのあたりにこれだけのあわいや影絵があるだろうという推測、更には、万象の知り得るあわいや影絵などの特徴を有する層を仕切ったものだと聞けば、やっと理解がしやすくなった。
また、世界は古い層の上に新しい層が重なり生まれるが、なぜだか時間軸の交差や蛇行で古い世界に出会う事もある。
(……………そして、そんな全てのものが一つの同じボウルの中のものだと考えるのなら)
多分、ネアの生まれ育った世界も、その中のどこかに紛れているのか、或いは、ボウルの中身をかき混ぜる際に飛び散った飛沫のようなものなのかもしれない。
ディノも、ネアとネアが暮らしていた世界の話をあれこれするようになってから、ネアが生まれ育った世界はこちら側とも無縁ではないのかもしれないという見解を示すようになった。
となると、閉じた扉の向こうに、そんな見知らぬ世界との境界が現れるのかどうかも、やはり未知数なのだ。
「ああ。俺も、正直なところ、影の国については別の世界層でもいいような気がしているんだ。シルハーンの知るところになった事で、こちらの世界の理の領域に収められてはいるが、やっぱり、あちらの死者を受け入れると、今代の世界とは成り立ちや仕組みがあちこち違うからな」
「ですよねぇ。……………でもディノは、死者の国と、隔離地や隔離層のあわいが、最も別の世界に近いと話していました」
「…………成る程な。シルハーンにとってはそうなるのか。となると、シルハーンにとっての異世界は、やっぱり死角なんだな」
「むむ。……………死角、なのです?」
「ああ。魔術の理に於いて、知るという事は知られる事なのは知っているよな?」
「はい!」
「それはつまり、知覚によって場が繋がるからなんだが、言葉を返せば、知らないという事は、繋がっていないという事にもなってしまう。シルハーンは、そちら側の認識なんだろう。それに、この世界の公式的な見解としては、それでいいのだとも思う。シルハーンが万象な訳だからな」
「なんとなく、……………色々と腑に落ちた気がします」
そう言われると、何だかわかってしまうのだ。
ネアがこの世界に呼び落して貰えたのは、ディノがネアを見付けてくれたからだ。
ディノにだけ、生き物の根本的な練り直しが可能なのは、ディノがそう認識する事が世界にとっての正解と出来るからだろう。
だが、そんなディノに不可能なことも多く、ディノが知らないことも沢山ある。
それはつまり、本来の世界のテーブルには、まだまだ世界を広げる可能性を有する未知の場所が広がっているという、可能性でもあるのだろう。
それが、今代の、万能と無能の両方を司る万象の選んだ、成長や変化の可能性を有する世界なのだと思う。
「……………因みに、アルテアはどちらかと言えばシルハーン側だ。俺とグレアムは、それぞれの資質上、もう少し広域を認識しているのかもしれない。…………魔術の根源からの追跡が可能なノアベルトも、俺たちの側なのかもしれないな」
「不思議ですねぇ。人によって見えているものが違っていて、もしかすると、世界はここまでだと考えている線引きの位置も違うのかもしれないだなんて。因みに私は、あわいの駅の一つにある、脱脂綿妖精の国のようなところは、異世界でいいと思っていまふ……………」
「はは。俺もそれでいいと思うぞ。………今代でも、人間以外の生き物の終焉の管理も任されたらと思うと、ぞっとするな……………」
ウィリアムの声は静かだが、その言葉にはきっぱりとした拒絶があった。
今の終焉の魔物の忙しさを思えば、無理もない。
おまけに、場合によっては自分の友人や同族の最期までを看取る羽目になるのだから、部外者として想像しただけでも耐え難い役目であった。
「…………今代でもという事は、以前は違ったのです?」
「先代の世界層では、終焉は全ての命を管理していたらしい。今代の世界程、生と死の境界が明瞭じゃなかったんだ」
ネアは、そんな不思議な話を聞きながら、ふむふむと頷いた。
生と死の境界が明瞭ではなくても、その世界が滅んだのは、先代の万象が亡くなってしまったからなのだろうか。
同じ魔物の代の世界でもこの有り様なのだから、精霊や竜が治めていた世界の事などは想像しようもない。
ふと、ネアハーレイが生まれ育った世界というか、世界層は、どんなものが治めていたのかが気になった。
人間以外の生き物がいた気がしないのに、だからといって、単純に人間の治める世界というものでもないような気がしたのだ。
「さて、………」
鏡台の上から取り上げられたリボンが結ばれ、鏡越しに見上げるウィリアムが満足気に微笑んだ。
鏡の中で目が合うと、はっとする程男性的な美しさでふっと瞳を眇めると、取り上げたネアの髪の毛の先に口付けを落とす。
その仕草が酷く優しくて、ネアは、遠い遠い昔の子供の頃に戻ったような気分で、出来上がった髪型を見つめ、目を輝かせた。
「出来上がりです?」
「ああ。完成だ。………この部分の編み込みを緩くすると、花冠みたいになるだろう?」
「ほわ……………耳上から後頭部の結び目までの編み込みが、ふんわり素敵です!」
「後ろは、簡単な一本結びでいいんだな?」
「はい。少しだけ高めの位置で、幅広の綺麗なリボンをふぁさりと結ぶのです」
「柔らかなリボンだと立ち上がらずに下に落ちるから、背面から見ても編み込み部分が綺麗に見える筈だ。解く時だけ、下から丁寧に解いた方がいい。俺がまだこちらにいれば、声をかけてくれ」
「はい。……………まぁ!前から見ても寂しくならない、理想通りの一本結びです。少し、短めの髪の毛をくりんとさせて落としてくれたので、可愛らしい感じも見えますね!」
立ち上がって鏡の前でくるりと回ると、こちらを見たウィリアムが、にっこり笑って良く似合うと褒めてくれる。
こんな風に、舞踏会でもない日に髪結いを頼んでしまうのは気後れもしたが、完成してみれば、家族に甘えるような擽ったさもあった。
「これで、ザハに行けそうか?」
「ええ。グレアムさんがいらっしゃる日なら、それとなく後姿を見せて自慢してしまいますね!」
「今日は店にいるみたいだぞ。さて、そろそろシルハーンを起こそうか」
「ふふ。新しいご主人様を、自慢してきますね!」
ぴょいと弾めば、結んだ髪の毛が弾む。
すっかり嬉しくなったネアは、すぐさま伴侶の魔物を起こしに行ったが、目を覚ましたディノは、見た事のないご主人様がいて可愛いとまた弱ってしまったので、ネアは、普段はあまり着ない、髪を結んだときに似合うドレスを引っ張り出してきて着替える時間を充分に得てしまった。
ディノとウィリアムと出掛けたザハでは、美味しいチョコレートケーキとメランジェをいただき、少しだけひんやりとした気温になる霧雨の日を、最高のお出掛け日和とする。
この季節に、チョコレートケーキとメランジェの組み合わせを美味しくいただけるのは、こんなお天気の日だけの贅沢だ。
すっかり満ち足りてしまったネアは、物語のような雨の街を映す窓を眺めながら、奥の壁にある鏡に映るいつもとは違う髪型の自分も、合わせてこっそりと鑑賞してしまったのであった。




