呪いの綿と祝福の酒
ネア達はその日、ヴェルクレアを離れたとある国で、小さな食事会を行っていた。
ウェルバやグレーティアとの会食のようなものではなく、ごくごく私的な食事会である。
参加者は、ネアとその家族に加え、ウィリアムとアルテアに、ダナエとバーレンで、この食事会は、素晴らしい妖精のお酒の祝福を得るのと同時に、血族関係があると判明したばかりのエーダリアとバーレンに共に過ごす時間を取らせようという意図での開催でもあった。
(今回、ダリルさんまでもが快諾したのは、バーレンさんの資質が大きいのだろうなぁ……………)
バーレンは光竜の唯一の生き残りである。
在るべきものを在るようにという資質を持つバーレンと親しくしておくことは、非ざるものが現れる漂流物の年には、得難い祝福や助けであることを、書架妖精であるダリルは知っているのだろう。
そう話してくれたディノも、ネア達がこの国の食堂に遊びに行く計画に協力してくれた。
ウィリアムとアルテアが来てしまったのは、計画が持ち上がった際にリーエンベルクにいたアルテアが、絶対に何か事故を起こすので同席すると言い出し、そんなアルテアに用があって来ていたウィリアムも、どうせなら一緒に行こうと言ってくれたからである。
結果的に、かなりの大人数の食事会になってしまったが、小さな町の食堂には、ギルド職員や騎士団などの宴席用の個室があったので、有難くその部屋を借りる事となった。
食堂の主人は、お客の顔ぶれを見るとにやりと笑い、この町の妖精の酒は自慢の美味しさなので、時々高位の人外者がやって来るのだと教えてくれる。
それなら擬態しなくても良かったかなという空気になりかけたが、もしかすると魔物の貴族も来るかもしれないよとがははと笑ったご主人の様子を見ていると、いきなり魔物の王様が来てしまったら刺激が強すぎるかもしれない。
かくしてネア達は、素朴だが美味しい大皿料理のお店で、お目当ての妖精のお酒をいただいた。
「綺麗なお酒でしたね。淡いラベンダー色に、グラスの中の氷の色がちかりと光って」
「土地の魔術を紡ぐとそうなるんだろうね。ここは、昔チェスカの一部だったから」
感慨深くそう呟いたノアに、ネアもこくりと頷く。
ノアと出会った日のラベンダー畑はもうないが、目を閉じればあの色を思い出す事は出来た。
こんなに大切な思い出になるとは思わない大忙しの夜だったが、あの夜があったからこそ今があって、ラベンダーは、ネアにとって家族に纏わる大切な花となっている。
「バーレン、今日は良い物を教えて貰った」
「こうして皆で楽しめて良かった。土地の収穫と作り手を選ぶ酒が、この時代まで残っていたのも僥倖だ」
本日の食事会をこの土地で行ったのは、ダナエの教えてくれた妖精の酒が目当てである。
先日の妖精の食前酒の話が、偶然ダナエとのバルバの打ち合わせで出たところ、一緒にいたバーレンから、是非にエーダリアにこの町の妖精の酒を飲ませておきたいという申し出があったのだ。
持ち帰り販売は行っていない土地の酒なので、出掛けていって飲むしかないと判明し、今日に至る。
けれども、それくらい珍しい酒であるので、案外、ウィリアムやアルテアもそちら目当てかもしれなかった。
かつて光竜のお城で働いていた妖精達の造る酒は、季節の果実と一緒に家族や仲間と飲むと、その仲間たちの助けを得られるようになるという効能があったそうだ。
元は、家族が増えた時に行う祝いの儀式や、戦に出る騎士達が戦勝祈願の儀式の時に飲んでいた儀式用の薬草酒なのだが、受け継がれていく中で嗜好品として認知されるようになってしまったらしい。
今では、かつての光竜の儀式の酒だと知る者もおらず、作り手の妖精達は、美味しくて体にいい酒として提供しているようだ。
「そんな妖精さんのお酒を飲みましたので、これでもう、万全なのですよ」
「お前の場合、飲んだ端からその効果を使っていたけれどな」
「あの疫病の竜めは、洗剤開発の被験者になったので、もはや何も言うことはありません」
「洗われてしまうのかな……………」
和やかな筈の食事会で、うっかり疫病の竜などに遭遇してしまったりもしたが、その事件も綺麗に片付いているので、ネアの心は晴れやかであった。
ウィリアムが、あのようなお仕置き方法を選んだことに驚いたが、洗浄の魔物には、以前から疫病の系譜の者を一人貸して欲しいと言われていたそうなので、これ幸いと先程の迷惑竜を預けてしまったらしい。
そもそも、疫病を資質とする竜に対し、疫病対策の洗剤開発の実験体になって貰おうとするのだから、その開発現場がどんな様子になるのかは、言葉にせずとも察せるというものだ。
だからこそ、ウィリアムは系譜の者達を守る為にその申し出を断り続けてくれていたのに、うっかり悪さをしかけてしまったのは、間が悪いとしか言いようがなかった。
「正直なところ、これで商品の開発が済めば、疫病の蔓延を防げる土地が出るかもしれない。俺の立場からしても、恩恵はあるんだ。……………ただ、系譜の者を差し出すのは、さすがに気が引けてな」
「考えてみれば、そうでした!世の中の為になる、素敵なお仕事ですね」
「……………そうなのか?」
「そうなのだろうか……………」
バーレンとエーダリアは顔を見合わせて項垂れていたが、聞けば、先程の疫病の竜は、ネアを疫病の研究に使う材料として狙ったというではないか。
ただの意地悪な見知らぬ人というだけでなく、実害が及びかけていたのであれば、報復は正当なもの。
ウィリアムに見付かるとあっという間に自白したあたりは、階位が高くとも、まだ若い竜だという感じがした。
「さてと、この町で一番古い魔術の宿る木は、これかな」
「ええ。この木でしょうね。…………大事に手入れされているようですので、信仰の対象でもあるのでしょう」
「これは、……………何の木なのだろう」
「星マロニエじゃないかな。……………うん。やっぱりそうだ。グレアムの魔術系譜の気配があるから、この土地の人間達が、古くから願いをかける木なんだろうね」
さくさくと小花の咲く下草を踏んで、ネア達は、町外れの小高い丘の上に来ていた。
先程飲んだばかりの妖精の酒は、酒席を退出した後に、その土地で豊かな魔術を備える樹木に触れると、更に祝福の循環が良くなるのだそうだ。
元は儀式的な魔術の上で飲まれていた酒なので、そうした手順を加える事によって、付与効果が強くなるというのは当然の履歴である。
どこから得た情報なのかが問題になるのでガレンには下ろせない知識だが、エーダリアは、バーレンの説明を熱心に聞いていた。
最近のバーレンは、出会った当初のつんつん感を失い、すっかりダナエの弟分になってしまったが、竜種を導く役割を持っていた光竜は、師として弟子への教えを授けるのにも長けた一族であったらしい。
もう、引き継ぐ相手を得るとは思わなかったという一族の知識を授ける相手を得て、バーレンもちょっぴり嬉しそうだ。
(ただし、エーダリア様に授ける知識や技術は、ノア達が精査した一部のものだけという事になったけれど……………)
バーレンも多くの時間を人間達の中で過ごしてきた竜だが、とは言え、人間社会やそれ以外の盤面に於いて、どの程度なら過ぎたる知識で、どの程度までは許されるかの判断は難しい。
よって、その線引きに長けたノアが一度預かり、判断する事になったのだ。
「そう言えば、この森は残ったんだったな。チェスカの前の時代からある、古い森だ」
「ウィリアムさんは、この地の戦乱にも参加されたのですか?」
「ああ。とは言え、俺は王都の方にいる時間が長かったから、この辺りの土地で仕事をしていたのは、ネアも会った事のある、死の精霊王だ」
「む。オーブリーさんだったのですね」
この丘の上やそこから見える範囲には、苛烈であったという戦乱の影は残っていないように思えた。
だがそれは、長く生き、この土地の古い景色を知っている人外者達の目には、くっきりと映るのだろう。
町の中にいた時に感じられた風はなく、丘の上は長閑であった。
丘から続く森の中には、ぽわぽわした黄色い花が沢山咲いていて、ウィーム近郊の森で見慣れた色彩とはまるで違う。
草木の葉には黄緑色が多く、咲いている花も黄系統が多い。
ネアは、単純に陽光の系譜かなと思ってしまったのだが、この丘の魔術基盤は正午と星の両方なのだそうだ。
「面白いですねぇ。星と正午だなんて」
「相反する魔術資質を持つ土地は、後付けで系譜が付いた場合が多い。星の魔術を育んだのは、間違いなくこの木の影響だろうな」
そう教えてくれたアルテアに、ネアは大きな木を見上げる。
枝葉からこぼれる木漏れ日はきらきらと透き通っていて、やはり、ウィームで見るものとは光の強さが違うようだ。
「バーレン、ただ、この木に触れればいいのだろうか?」
「ああ。手のひらを幹に押し当てる感じでいい。願い事も詠唱も必要ない。触れる事が魔術の結びになる」
「では、やってみよう」
「ご一緒しましょう。……………良い土地ですね。この奥に広がる森の住人達が、穏やかな目をしている」
「この辺りはさ、一度戦乱で酷く焼けたから、残った物を大切にする住人が多いんだと思うよ。この木や森が大事にされているのは、土地の住人にとっての、手の中に残った財産の象徴だからなんじゃないかな」
そう微笑んだノアに、ネアは、かつて大事なものが燃えてしまったと信じていた塩の魔物は、この地を訪れる事は出来たのだろうかと考えた。
ずっと昔に美味しいパテを食べたお店の事を思い出し、馬姿のノアの元恋人に一緒に追いかけ回されたのは、こんな森だった気もするぞと眉を寄せる。
すると、遠い目をしたネアが心配になってしまったのか、すかさずディノが三つ編みを差し出してくれた。
「三つ編みを持っているかい?」
「初めての土地ですので、念の為に持っていますね」
「うん。…………妖精や精霊を宿しているものではないけれど、とても穏やかな木だよ。君を傷付ける事はないから安心していい」
「まぁ。こんなに立派な木なのに、妖精さんや精霊さんは、いないのですか?」
「信仰の魔術の領域に入ると、派生させたものが意思を持つのか、本来の姿のままでそこに在るのかの分岐点が現れる。この木や、この木を信仰する者達は、元のままの姿でいる事を望んだのだろう」
ネアは、目を瞬き頷くと、立派な枝ぶりの木を見上げた。
どうしてその二つが分岐となるのかには、きっと、魔術的な理由もあるのだろう。
だが、確かに信仰を得る樹木というのはそのような感じだなと、何となく分かるような気がした。
(あたたかい……………)
そっと触れた木の幹はざらりとしていて、陽光に温められた温度がとても素敵なものに思えた。
しゅわんと、どこかで細やかな金色の光の粒が揺れたような気がしたが、目を凝らしても何も見えない。
気のせいだったのかなと周囲を見回したネアは、エーダリア達が目を丸くしている様子に気付いた。
「思っていたよりも強い祝福の光で驚いてしまったが、このようになるのだな」
「木より齎されたものではなく、儀式上での祝福でしょう。このような形で結ばれるものは、随分と久し振りに見ました」
「こういう反応が出るのか。確かに、随分と古い魔術だな」
「だが、あの酒を飲めば動かせるとも限らないだろうな。この儀式文化の本来の主人がいてこそ、動くものなのかもしもしれないぞ」
「うん。バーレンの周囲の光が一番強いから、確かにそんな感じだね。さてと、これで僕の家族は一安心かな。……………ありゃ、ネアはどうしたんだい?」
無言で足踏みしたネアに気付き、ノアが、おやっと目を瞠る。
悲しく眉を下げた人間は、こちらには、みんなの見えている祝福の光とやらは見えないのだと訴えた。
「……………あ。そっか。ネアの場合は可動域が……………」
「ぐるる……………」
「ネアは、食べたくならなくてかわいい…………」
「そうか。その可動域だと、このような祝福の光ですら見えないのか」
「ぐるる!」
「っ、ネア。バーレンを威嚇してどうするのだ。祝福は付与されていたので、安心していいのだぞ?」
「きらきらが見えないなんて……………」
「ギモーブを食べるかい?」
「ふぁい……………」
「おい、こいつが、あの店でどれだけ食ったと思っているんだ!」
「ぎゅむ。心の安定の為に、美味しいお菓子は必要なのですよ?」
「はは、アルテアは意地悪だな」
全員で食事をしてきたばかりであるので、何となく気の置けないやり取りである。
先日の妖精の食前酒大会のような酔い方はしていないが、お酒もいただいているから尚更だ。
しかし、そんな時だからこそ、おかしな生き物は現れるのかもしれない。
「……………ええと、これなんだと思う?」
「おい、今度はお前かよ……………」
「ありゃ。これってもう、事故った事になっちゃうのかな」
「エーダリア様、こちらに」
こちらの会話に入らずに近くの茂みをじっと見ていたノアが、何かを見付けたのはその時のだった。
どこか困惑した様子のノアに、一体どんなものがあるのかと気になったネアが覗き込もうとすると、慌てたディノにすぐさま持ち上げられてしまう。
竜達は警戒する様子もなく近付いていき、けれども、すぐさまバーレンだけ逃げ帰ってきた。
「ノア。バーレンさんがくしゃくしゃになったのですが、どんなものがいるのですか?」
「……………ええと、黒ずんだ……………綿?」
「黒ずんだ綿……………。それは、ただの不法投棄の綿なのでは?」
「うーん。牙を剥いて威嚇してるんだよね。……………それと、気配的には祟りものかなぁ」
「わ、綿が威嚇?」
ネアは、そうなるとちょっともう想像出来ませんとなってしまい、ノアと一緒に茂みの方を覗き込んだアルテアの反応待ちとした。
しかし、茂みを覗き込んだ使い魔は、すっと表情をなくすと無言でこちらに戻ってくるではないか。
ウィリアムは茂み近くに残っているが、明らかに困惑顔である。
「……………使い魔さんの苦手な形状となると、ボラボラ………?」
「何でだよ」
「バーレン、大丈夫か?」
「……………よく分からないものは、気持ち悪い」
「まぁ。バーレンさんのぐったり感からすると、さては、雷鳥系の生き物ですね?」
「ネア?雷鳥は、雷鳥だろう」
「エーダリア様には見慣れた雷鳥でも、私には、こわこわのタオルハンカチなのですよ……………」
そんな話をしていると、あっという声が響く。
何かがあったようだと慌てて視線を戻せば、どうやら、その綿生物を捕まえようとダナエが手を伸ばしたところ、茂みの中から逃げてしまったらしい。
ぽひゃんぽわんと、あちこちを弾んだ黒ずんだ綿の塊は、もふぁとネア達のすぐ近くに落ち、とうとうネアにもその全容が判明する。
そこにいたのは、確かに黒ずんだ綿としか表現のしようがないものであった。
綿犬のように、綿のようなもこもこ具合というのではなく、ただひたすらに綿の塊に見えるのだ。
しかし、酷く汚れているばかりか、牙だらけの口だけがついており、恐らくこちらを威嚇しているようである。
「……………まぁ。黒ずんだ……………綿?」
「ご主人様……………」
「そして、ディノは苦手な形状だと判明しました。確かに、どことなくもわもわ妖精めの要素を感じずにはいられません………」
どう見ても黒ずんだ綿となれば、見ているネア自身も何だか不安定な気持ちになってしまうし、何よりもディノが弱ってしまうので、ネアは、大事な魔物を後退させることにした。
だが、ネア達が後退するだけ、もわもわした黒ずんだ綿の塊は、ふしゃーと威嚇しながらもこちらに詰め寄ってくるではないか。
「唸り声を上げるだけの、声帯などは保有しているようです。おのれ、あっちへ行って下さい!!」
「フシャー!!」
「おい、後退するな。この手合いは、逃げる程に追いかけてくるぞ」
「………であれば、こやつはどうすればいいのでしょう?水をかけてべしゃべしゃにするか、燃やしてしまいます?」
「ご主人様……………」
「この通り、ディノが弱ってしまうので、早々に追い払いたいですね」
「今のってさ、ネアが冷酷過ぎたからじゃないかなぁ……………」
ここで、無言で近付いたウィリアムが、すらりと剣を抜いた。
少し可哀想な気もするが、祟りものの気配ともなれば致し方ないという空気になる。
綿生物をじっと見ていたダナエも、しょんぼりと肩を落とし、美味しくなさそうだという判断を下したので、後はもう、誰かが駆除するしかなさそうだ。
「ダナエさんの目から見ても、美味しくなさそうだったのですね」
「うん。……………食べない方がいいかな。………食べ物ではなくなった感じがした」
「食べ物ではなくなった感じ……………?」
「…………っ、まさか。…………ウィリアム、剣は使うな!!」
ネアがダナエとそんな話をしていると、突然アルテアが声を上げた。
はっとしたようにウィリアムが剣を引けば、ぎりぎり剣先が綿生物を掠めそうではあったが、何とか触れる前に手を止められたようだ。
「アルテア、どうしました?」
「ダナエの言葉で、該当するものを思い出した。廃棄食材だな」
「……………ああ、廃棄食材か。…………これは、随分と大きいですね」
「わーお。廃棄食材なのかぁ……………」
「はいきしょくざい……………?」
「理不尽に捨てられた食材から派生する、祟りもののことだよ。ウィームでは、ここまで食材を損なう事がないのでそのままの姿で現れるけれど、こうして悪変してしまうものもいるからね」
「あ、そうか。この辺って、湿地帯もあるから、湿度が高いんだよね」
「という事はまさか、……………かびなのです?」
「そういうことになるな」
神妙な面持ちで頷いたアルテアに、ネアは、バーレンがこの綿生物を嫌がった理由が腑に落ちた。
在るべきものを在るようにという光竜にとって、食べて貰えず綿生物化したかび食材は、とても嫌なものだろう。
ダナエが食べたがらないのも当然の恐ろしさである。
「あのもわもわは、かび……………」
「誰かが、この森や木に、食べ物などを供えたのではないかな。それが悪変してしまったみたいだね」
「そのような経緯であれば、在り得ますね。この森は、珍しいくらいに系譜が統一されているので、供えられた食材によっては、森の生き物達は手を付けなかったでしょう。供え物をするのであれば、派生のないこの木の周囲では、森の生き物が食べなければ腐るしかない」
小さく溜め息を吐き、ヒルドが頷く。
怖々と綿生物を見ているのは、そんなヒルドにしっかりと腕を掴まれているエーダリアだ。
「かび、……………なのだな。このような形状のものは、初めて見た…………」
「念の為に伝えておきますが、持ち帰るのはやめて下さい」
「……………ヒルド。私とて、さすがにこれは持ち帰ろうとは思わな……」
そんなエーダリアの言葉は、廃棄食材の祟りものの怒りに触れたのだろう。
突然、怒りに満ちた動きでぼふんと弾んで飛び上がった綿生物に体当たりされそうになり、エーダリアを抱えたヒルドが素早く後退する。
慌てて追いかけた綿生物は、ノアがすかさず展開した排他結界に阻まれ、ぼふんと地面に落ちた。
「キシャー!!!」
エーダリアに体当たり出来なかった事が余程悔しいのか、雄叫びを上げて地面を転がる綿生物を、魔物達が無言で見つめている。
ネア達は元々ディノが怖がったので離れていたし、ダナエは、綿生物が食べられないと分かるとバーレンのところまで後退してしまったので、廃棄食材の周囲には、ウィリアムとアルテアに、ノアだけが残っていた。
だが、なぜか魔物達は、その綿生物をじっと見るばかりで、何もしようとしないではないか。
「さ、さては、全員が苦手ですね?!」
「……………お兄ちゃんはさ、さすがにかびと戦った事はないんだよね。壊そうとしたら、………こう、胞子的なやつが散らばりそうじゃない?」
「ああ。……………だろうな。おまけに、食われなかった事が、こいつが祟りものになった原因だろう」
「その障りを祓う為に、この状態のものをどうにかしたいとは思えませんね。……………うーん、困ったな」
「どこかに閉じ込めて、燃やしてしまえばいいのでは?」
ネアはひたすらに焼却処分派であったが、それでもいけないらしい。
正午の時間の座の上にあり、星の守護の強いこの土地では、湿気によりかび玉になった祟りものですら、それらの資質を帯びている可能性があるのだと言う。
もし、火の魔術に耐性があった場合、火を与えてしまうといっそうに扱い難くなる。
また、食品を粗末にしたことで現れた祟りものなので、このまま放置して帰ってしまい、後々に障りが出ると方向性的に日常生活に響くので厄介なのだそうだ。
「困ったね。元の姿が分れば、まだその系譜の魔術で対処のしようがあるのだけれど、……………ネア?」
「では、これにはこれですね!私は、除草剤だけではなく、きちんと消毒剤も持っている乙女なのですよ!」
「消毒してしまうのだね……………」
ネアがよいしょと取り出したのは、二種類の消毒液だ。
あちこちに迷い込んだり飛ばされたりする人間にとっては、衛生管理は重要な課題である。
よってネアは、消毒液だって金庫の中に常備してあるのだ。
「もしくは、こちらのお子様にも安心、植物性の消毒液にします?元が食べ物であれば、こちらの方が荒ぶらないのかもしれません」
「ちょっと混乱してきたぞ。……………ええと、この場合、どうするのが最適なのかな」
「……………後から出した消毒液を貸せ」
「はい!」
手を伸ばしながらも、アルテアはとても嫌そうだったが、他に誰もかび玉と戦おうとしないので、こんな時に貧乏くじを引きがちな魔物は、色々と覚悟を決めたようだった。
排他結界はノアが動かす事になり、怒り狂う廃棄食材の祟りものを箱状の結界の中に閉じ込めると、ネアの持っていた、お子様がいても安心印の植物性消毒液がじゃばんと注がれる。
その瞬間、森には、凄まじい咆哮が響き渡った。
「ご主人様……………」
「まぁ。ディノがこんなに震えて……………。む、アルテアさんも、戻って来てしまったのです?」
「え、僕も無理。……………これ、どうしよう……………」
あまりの激しさに、アルテアとノアはすっかり弱ってしまったようだ。
ウィリアムだけがその場に残り、腕を組んで排他結界の箱からぼしゃんと転がり落ちてきたものを観察している。
「元は丸い塊パンだったんだな。………この色合いだと、冬小麦と夜の雫の高級品か。供物として、この土地では珍しいものを持ってきたつもりだったんだろうが、そのせいで、森の生き物達が嫌がったのかもしれない」
「ご家庭用の消毒液が素敵なオレンジの香りでしたので、何だか周囲がいい匂いになりましたね」
「おい、やめろ……………」
「なぜ、ますます弱ってしまうのだ……………」
(……………というよりも、ウィリアムさんも逃げていないだけで、ちょっぴり弱ってしまっている?)
ネアは、周囲を見回し、これだけ頼もしい仲間達が揃っているのに、全員が、無事に消毒液で正体が判明するに至った廃棄食材の祟りものを遠巻きにし、青白い顔をしていることに気付いた。
もわもわのカビは排除出来たので、後はもう、祟りものになった消毒液まみれの塊パンとの闘いである。
言葉の響きとしてはあんまりな敵だが、先程よりは、ずっと難易度は下がっているのではないだろうか。
しかし、珍しくヒルドも固まってしまっているので、ネアは小さく溜め息を吐いた。
こちらにいる人外者達や上司は、かびだらけの廃棄食材の祟りものとどうやって戦えばいいのか分からないようだが、幸いにしてネアは、悲しくも霧と霧雨の国の出身者だ。
このようなお掃除は、好きではないが得意である。
あまり近付きたくはないが、丈夫なゴミ袋にでも入れて集積所に引き渡せばいいだろう。
その際にしっかりと消毒液を重ねてかけておけば、暴れる危険も少ないのではないだろうか。
そう考えかけたネアだったが、完璧に思えた作戦の、大きな弱点に気付いてしまった。
「……………この国は、焼却処分のゴミ捨て場はあるのでしょうか?」
「ど、どうなのだろう。私には分からないが、町の住人なら知っているのではないか?」
振り返ったところで目が合ったのがエーダリアだったので、そう尋ねてみたところ、ウィーム領主は困惑したように首を横に振った。
ネアは、それが分からないとゴミ袋に入れていいのかどうかの判断が出来ないので、ぎりぎりと眉を寄せる。
しかし、祟りものの綿の最期は、思っていたよりも呆気なく訪れた。
「みゅん!」
突然、どこからともなく現れたもさもさ猪のような生き物が、びっしゃり消毒液にまみれて転がっている祟りものを、ぱくりと食べてしまったのだ。
その途端、全身の毛を逆立てぱたりと倒れ、さらさらと灰になってゆく。
「……………まぁ。最後に、廃棄食材の祟りものさんの願いが叶って良かったのでしょうか?」
「わーお。食べて貰えたから、本当に浄化してるぞ……………」
「……………あれは、食べたくない」
「猪さんは、食いしん坊だったのですね」
「お前の持っていた消毒液の、香料のせいだろうな……………」
「む?」
「ご主人様……………」
現れた猪は森の精霊の一種で、陽光で育つオレンジが大好物なのだそうだ。
ネアは少しだけその因果関係について考えてみたが、意図しての事ではないので気にしない事にした。
帰りは、なぜか同行者達がとても弱ってしまったので、近くの国で美味しいジュースを飲んでいくことにする。
ネアは、白かびの祟りものが出たら高位なのかなと思ったが、そんな事を尋ねたら仲間達が弱ってしまいそうであったので、その疑問をぐっと飲み込んだのであった。
6/2明日の更新はお休みとなります。
TwitterよりSSを書かせていただきますので、もし宜しければご覧下さい!