疫病と結び目
その日、イツェルはハルスメントの北西部にある小さな町にいた。
ここは、妖精の酒で有名な土地で、かつてはチェスカと呼ばれていた広大な農場地帯の一部を有する小さな国だ。
疫病として足を運ぶには美しく長閑な町であるが、薬師として訪れるにはうってつけである。
そして、その奇妙な一団に出会ったのだった。
「まぁ。何か事故があったのでしょうか?」
「ありゃ。…………うわぁ。面倒な事になったなぁ………」
通りに面したテラス席で珈琲を飲んでいたイツェルが座っているテーブルの近くに姿を見せたのは、一組の男女で、少し離れた十字路での事故の騒ぎの様子を見に来たようだ。
男の方は美麗な顔立ちをしているが人間にしか見えず、女の方は極端に可動域が低い。
一瞬、恋人同士だろうかと思いかけ、同じ色相の髪色に目を瞬く。
(兄妹か、血族なのだろうか。……………妙に親和性の高い気配がある。成る程。という事は、あの娘は、一族の中に生まれ落ちた出来損ないのようなものなのだろう)
それは、決して珍しい事ではなかった。
整った容貌や優れた特徴を多く受け継ぐ人間の一族は、その財産を継承させる為に、他の血を取り入れなくなるので、時折、血の濃さ故に魔術の障りを持った欠陥品が現れる。
親の因子を子供が受け継ぐような種族にのみ見られる思想だが、人間の貴族はこのような嗜好が強い。
人間は、その他の生き物達とは違い、魔術を体内に蓄える事は出来ない。
それなのに、高い可動域や身に宿る祝福や守護を、血を継ぐ子供達に重ねようとすることで、魔術浸食を引き起こしてしまうのだ。
そうして生まれ落ちる子供は、体に様々な魔術の不具合を有しており、見目麗しく才能に溢れた者達の中に、一羽の黒い雀のように紛れ込むのだった。
イツェルはそんな子供が大嫌いだったが、己の司るものを宿す材料として、様々な検証を行うのには便利な素材である。
だが、より優秀な者達に囲まれて生まれ落ちた黒い雀は、負の盤面ではあるものの、魔術の顛末としての特異な成果物にもなるので、こちらまで材料が下りてくることは滅多になかった。
異質さというものもまた、一種の資質である。
ごく稀に何も持たずに生まれ落ちても、黒い雀は、その異端さ故に何某かの歪みを宿すのだ。
それは疎外感や絶望であり、憎しみや羨望や孤独であって、疫病の魔術を育むには都合のいいものばかり。
疫病の魔物のローンは、そのような資質を尊ばないし、疫病の竜の中にも穏健派は多いが、イツェルはそのような哀れな雀たちを苗床に育つ、悍ましく美しい災いが大好きであった。
疫病の竜の中でも薬師の肩書を持つイツェルは、疫病の管理でも回収でもなく、本来は悪変こそが好きなのだ。
これは、薬の魔物や薬竜、薬草の系譜の精霊や妖精達とは対極にある嗜好で、どれだけ薬師という肩書きを得ていても、所詮イツェルは疫病の系譜の者なのだから仕方がない。
対岸の者達が薬と治療方法こそを携えるなら、イツェルが揃えるのは様々な疫病そのものである。
(……………悪くないな。今のところ、あの娘には終焉の予兆もない。であれば、滅多にお目にかかれない、まだ悪変していない黒い雀なのだろう)
そんな獲物が都合よく目の前に現れたのだ。
休暇の暇潰しとして、小さな悲劇を育み鑑賞していたが、優先順位を変えてもいいだろう。
哀れな馬車の事故で暇を潰すのはやめてしまい、イツェルは獲物を捕らえる為の方法を考える。
「馬車の事故のようですよ、お嬢さん。御者が、急に具合が悪くなって意識を失ったようだ」
そう話しかけると、こちらを見たのは不思議な灰色の瞳だ。
ただのまっさらな灰色なのだが、なぜか、本当にこの色だろうかという、奇妙な違和感を覚える。
それならばきっと、この娘は、本来有する筈の色彩を失い生まれてきた子供なのだろう。
可動域の上ではまだ子供に違いないその人間の少女は、いきなり話しかけてきた青年を、僅かに訝しむような目で見ている。
(見目は、……………いい方ではないな。少なくとも、私は好まない)
魔物達のような嗜好であれば、これを端正だと言う者達もいるだろうが、イツェルにとっては凡庸な造作であった。
華やかさも可憐さも足らず、重たく見栄えのしない色を持つ不格好な子供。
そう考えると、探していた貴重な材料である筈なのに、なぜか強い嘲りを覚える。
材料としての条件は見事だが、生き物としての質が悪いから致し方ないのだと考え、生きている内は不愉快だろうが研究の材料として諦めて回収するしかないのだと自分に言い聞かせる。
可能であれば、見目が整っている黒い雀が良かった。
美しさと悍ましさの対比があってこそ、良い標本になるのだが。
「この方の仰るように、馬車の事故のようですね。馬車の事故は嫌いなので、お店の中に戻りましょうか」
「うん。そうだね。僕の大事な妹が、変な騒ぎに巻き込まれてもいけないしね」
「おや、こちらであの騒ぎを見ていかないのですか?」
思うように会話に乗ってこないので、弄うようにそう問いかけると、静かにこちらを見返した少女の眼差しは、どきりとする程に静かである。
その静謐さが、この不格好な入れ物には不相応な刃に思え、ますます不愉快になった。
「…………あの、お気の毒な方々を?」
「では、手助けにいかれては如何でしょう?そうして、善人のように、私を見つめるくらいであれば」
「私は、あなたのように悪趣味ではありませんし、見ず知らずの方々の為に尽力するような善人でもありません。それに、既に町の騎士さん達や、手助けの方々が駆け付けておられるのですから、通りすがりの素人の助力などは無用でしょう」
「いやいや、まさか。あなたには何も期待しておりませんよ。ですが、兄上は魔術師でしょう。…………いや、そう聞こえたような気がしたのですが、どうやらご兄妹ではなさそうですね。あまりにも…………似ておられない」
イツェルの言葉に、兄である男が目を細めた。
僅かに紫がかった青い瞳は冷ややかであったが、それはもう、悪意を込めた言葉であったので、気付かない方がどうかしている。
イツェルはただ、目の前の人間の娘が、どんな劣等感や苦しみを抱えているのだろうかと、傷口を開くようにしたばかりなのだから。
「……………へぇ。そういう感じで絡んでくる訳か。こいつと話をするから、僕の大事な妹には先に中に戻っておいでと言いたいけれど、こういう時は君から離れるのはやめておこうか」
(…………やはり魔術師か。思ったより冷静だな)
恐らく、本当に似ていないが兄なのであろう男の言葉に、イツェルは小さな溜め息を飲み込む。
ここで、あの男がこちらに残り、イツェルと話している間にあの娘が一人になれば、こちらの魔術領域に引き摺り落としてしまおうと思っていたのだ。
とは言え、他にも方法がない訳ではないので、まぁいいかと考えた時の事だった。
「このような場合は、あの方に、きりんさんのぬいぐるみを投げつければいいのですか?」
「うーん。遊びに来た先だし、ここの酒は気に入っているんだよね。少し我慢してくれたら、お兄ちゃんがどうにかするよ。ほら、ある程度しっかり片付けておかないと、後で面倒な事になるからね」
「べたべたキノコはいります?」
「……………すごく魅力的だけど、次回以降にしようか。薬師みたいだから、変な反応が出てもいけないしね」
「もはや、踏み滅ぼしてどこかの沼にでも沈めておけばいいのでは?」
「そうするとさ、こういう立場の奴は厄介なんだよね。場合によると大騒ぎになるし、減らしておくと、僕の妹の騎士の仕事に響くかもしれない」
「まぁ。そちらの方なのですね。では、あの黒髪を毟り取っておくぐらいにしておきましょうか」
「……………わーお。思っていたよりも怒ってるぞ」
そのやり取りの何かが、僅かに引っかかった。
会話の内容としては、こちらが知らせている以上の事には触れていないし、恐らく貴族に違いない身なりの人間達なので騎士を連れていても不思議はない。
擬態をしていても、今のイツェルは人間の薬師の装いと荷物である。
だが、幼児程の可動域もない人間が、こちらを静かな眼差しで見下ろし、まるで、値踏みするような表情を浮かべた時に、何かが妙だと感じたのだ。
イツェルが、その感覚について思案してみようとした時、店の扉が開いた。
「追加のソーセージが来た……………」
からんと店の扉についていたベルが鳴り、背後からそう話しかけられた二人が振り返る。
その二人に親し気に話しかけた背の高い男は、長い黒髪を片側に流し、三つ編みにしていた。
「…………っ?!」
「イツェル」
目が合った瞬間に、しまったと思った時にはもう遅かった。
いつの間に近付かれたのか分からないまま、首筋にぞっとするような痛みが走り、そのまま体が宙に浮く。
直後、激しい衝撃と共に地面に投げ出され、石畳の上を情けなく転がった。
恐らく、首を掴まれて、力任せに投げ捨てられたのだろう。
そんな事をされた体がどうなっているのかが気になったが、ここで大人しく転がっている時間などない。
慌てて飛び起きると、体を低くし、すぐさま魔術構築を再編しようとする。
何しろこの相手は、最高位に近しい同族だ。
「……………なぜ」
だが、それが叶わずに呆然とした。
今すぐに防壁を展開しなければ、この竜に対抗しようもないのに、擬態を解く事が出来ない。
「イツェルは嫌いだ」
こちらを見て、簡潔にそう言ってのけたのは春闇の悪食であった。
多少の擬態はしているようだが、見間違える筈もないその姿に血の気が引く。
稀に、相手がその場にいるだけでも我慢がならないという存在がいるが、あの悪食にとっては、それがイツェルなのだ。
貪食の魔物の事も嫌っているようだが、それはこの際どうでもいい。
ダナエは、いつだってイツェルの容易ならざる天敵であった。
「あ、擬態は解けないようにしてあるよ。僕の妹に爪を立てて遊ぼうとしたんだから、当然の報いだよね」
おまけに、あの青紫色の瞳の男はそんな事を言うではないか。
一瞬、何を言われたのか理解出来ずに呆然としていると、視線の先で先程の少女が首を傾げた。
「ダナエさんは、あの方とはお知り合いなのですか?」
「……………イツェルが通った後は、色々な物が不味くなる。嫌いだ」
「ふむ。となると、美食班の敵なのですね。であれば、このあたりで歴史上から抹殺しておくのもいいかもしれません?」
「おっと。それは本当にやめようね!どれだけ目障りでも、この役割の竜って意外に少ないから、終焉の畑では貴重な労働力なんだよ」
「であればもう、ウィリアムさんに程よいお仕置きをして貰います?」
「あ、それも却下ね。ウィリアムの場合、後々で自分の首を絞めても、イツェルを殺すと思う」
「むむぅ……………」
考え込むように、更に首を傾げた少女が、先程と変わらぬ値踏みの目を向ける。
その辺にいる小さな獣にも及ばないような脆弱な魔術の気配ながら、なぜその眼差しは、狩り立てた獣を腑分けするような冷徹さを帯びるのだろう。
ひたりと背筋を伝う冷たい汗の温度に、イツェルは何とか状況を整理した。
(ダナエと顔見知りのようだ。……………となると、あの男の気配と姿は擬態か。……………私が人間だと思わされるような気配を構築出来るとなると、高位の魔物か精霊程度しか…………)
そして何よりも、あの少女は今、系譜の王の名前を出さなかっただろうか。
イツェルは死の精霊達に関しては特に何も思うところもなかったが、さも物分かりの良さそうな言動をしておきながら、誰よりも終焉の中央にいて、繊細な程に心を揺らしているかのように見せかけながら、死者の行列の先頭に立ち、愉快そうに笑っているあの魔物が、大の苦手である。
終焉の領域の中では、疫病の竜は最高位の竜だ。
近しい資質を持ちながらも竜種の中で高位とされる咎竜は、竜種に分類するのには異質な生き物であるので、終焉の系譜の中では疫病がその席次の筆頭に立ち、その中でもイツェルは、まだ若い竜ではあるが決して階位の低い立場ではない。
だが、そんな終焉の系譜の中の高位の者達と同じテーブルに着く事も少なくはないイツェルであっても、どうしても、系譜の王である終焉の魔物に対する苦手意識は払拭出来なかった。
それなのに、ナインあたりであればまだしも、よりにもよってあの人間は、ウィリアムの名前を出したではないか。
ただの人間が。
あんな可動域の低い人間が、まるで、旧知の相手のように。
(…………くそ、またいつもの人間遊びか!)
目の前の少女が特異点だと思えば、そのような理由で接点を持ったのではないだろうかと思う。
イツェルにとってのまっさらな特異点がいい材料であるように、それはきっと、人間がお気に入りの終焉の魔物にとっても目を引く存在なのだろう。
何しろ、このような黒い雀は、大抵がどこかで終焉に結び、終焉の子供となってしまうのだから。
(だが、そうなるとあの男は何なのだろう?)
容易くイツェルの擬態を固定してみせ、それでいてやはり、ただの人間にしか思えない精度の擬態を維持する青紫色の目の男は、どんな階位のどんな生き物なのか。
正体の分からぬ者がそこにいる事に、大きな不安を覚え、イツェルは鈍く痛む体を折り曲げた。
「そう言えば、私の家族も、あちら方をご存知の方だったのです?」
「あ、僕は初対面かな。まだ若いから、一緒に騒いだことのある連中の輪の中にはいなかったし、僕はあまり疫病には興味がない上に、この性格じゃ、関わっても少しも楽しくなさそうだからさ」
「疫病と聞くと、とても嫌な記憶ばかりです。スプーンで一万倍くらいにした、消毒液をかけておくと、すっきりするかもしれません」
「イツェルは、疫病の竜だ。……………薬師だから治す事もあるけれど、竜の姿に戻って近くにいると、食べ物が不味くなる」
「ふむ。ぽいですね!」
「うん。捨ててこようかな。ソーセージもあるし…………」
「そうでした!折角の焼き立てなのですから、であれば、後にしませんか?あやつめは、どこかに繋いでおけばいいでしょう」
「ええと、いつだってそういう認識の僕の妹の為に一言付け加えるけど、一応は、そこそこに高位の竜だからね。…………あ、消毒液も出さなくていいよ。………って、それ消毒液じゃないよね?!除草剤じゃない?!」
「む。こっそり滅ぼそうとしたのがばれましたので、私は、ソーセージの下に駆けつけることにしますね。ダナエさんがあの方をぽいしてくるのなら、ソーセージが冷めないようにして貰っておきますか?」
「うん。……………イツェルは、……………どこかのあわいでいいかな」
「あ、それならいいかもね。でも、僕が誓約をかけておくから、…………って、ありゃ」
ここで、もう一度店の扉が開き、からんとベルが鳴った。
その音を、もはやどこか諦観と共に聞きながら、イツェルは、店のテラス席に座っていたお客が前の通りに投げ飛ばされても、周囲の人々が騒ぎもしない事に気付いた。
隔離結界が展開されているという事はないようだが、なぜか、誰もがイツェルや彼等の姿が見えないかのように通り過ぎてゆく。
こんなことに今更気付いたのが情けないが、とうにこの周囲に魔術の場を作られていたらしい。
(魔物だな。……………こんなことが出来るのは、侯爵位………或いは白持ちの魔物くらいだろう)
小さく呻き、己の迂闊さを呪った。
だが、小さな町の決して貴族向けでもない食堂の店先で、そんな者達に出会うかもしれないと警戒する訳もない。
何しろ、彼等の擬態は、イツェルに気付かせる隙もないくらいに完璧であったのだ。
扉の向こうから、今度は、擬態をしていても明らかに選択の魔物だと分かる男が出て来るとは、思う筈もないではないか。
正直、ダナエ一人に出会っただけでも、最悪に等しかったのにだ。
「おい、また騒ぎを起こしたんじゃないだろうな?……………ほお、イツェルか」
「……………アルテアだな。……………となると、そちらの男は、アイザックあたりか」
「…………おい。何で俺が、あいつと私用で一緒にいなきゃいけないんだよ」
「他の方々には、そう思われているという事なのでは…………?」
「やめろ。……………それとお前は、店の中に入っていろ。疫病なんぞ貰ってないだろうな?」
「ダナエさんが放り投げてくれたので、まだ踏んでいないのですよ?」
「竜を気軽に踏むな。何度懐かせれば気が済むんだ!」
「……………普通は、踏んでも懐かない筈なのです……………」
「え、僕、アイザックの擬態だと思われたの?……………ちょっと嫌なんだけど…………」
まさかここに居るとは思わなかったアルテアは、不満そうに足踏みした少女を軽々と抱えてしまい、イツェルは、あの選択の魔物がそんな風に誰かを腕の中に入れた事に驚いた。
駒として育てているのだろうかと思いはしたが、それにしてはやはり、あの少女との魔術の繋ぎがおかしいのだ。
青紫色の瞳の男と同じように、不思議な親和性を感じさせる魔術の繋がりは、血族を持たない筈の魔物にはある筈のない、深い結びと魔術の誓約を示していた。
まさかと思い視線を巡らせたイツェルは、少女の指に白い指輪が光るのを見てしまい、蒼白になる。
(指輪持ち……………。それも、白い指輪となれば……………)
だが、そんな事を考え、どうにかしてこの場から少ない損傷で離脱しなければと考えていられたのは、まだ幸福な事だったのだろう。
不意に、ぐっと周囲の気温が低くなり、不揃いな石畳がかつりと鳴った。
その硬質な靴音が誰のものに似ているのかに気付いてしまったイツェルは、ずしりと圧し掛かるような精神圧に、ひゅっと喉を鳴らす。
突然上手く息が出来なくなり、足元に落ちた影の形を、どうしても見たくないと思ってしまう。
「……………驚いたな、イツェル。どうして俺よりも早く、君がこの店にいるんだろうな?」
その声はいっそ穏やかな程で、振り返らなくても、ウィリアムがにっこりと微笑んでいるのが分かった。
だが、あの白金色の双眸は、擬態で色を変えているにせよ、少しも愉快そうではないのだろう。
「……………ウィリアム」
「まさかとは思うが、俺の守護を与えてある彼女を損なうような真似は、していないよな?」
「はは、……………あなたらしくない酔狂だ。選択の魔物の指輪持ちではないか」
こんなに怯えているのに、そう返してしまったのはなけなしの矜持だろうか。
だが、言ってしまってから己を罵りたくなった。
「だそうですよ、アルテア?」
「おい、その目をこちらに向けるのはやめろ。お前の系譜だろうが。そっちで処理しておけよ」
「あ、それは僕がやるよ。僕の目の前であんな物言いをしたんだからさ、その責任を取らせるのはやっぱり僕じゃないとね。それとほら、ウィリアムだと気軽に壊すからさ…………」
「壊す以外にも方法があるだろう。イツェルの苦手なものを知っているのは、俺くらいだがいいのか?」
「ありゃ。それじゃあ僕は、不可侵の誓約作りだけにしておこうかな。それと、この肩書の疫病の竜って少ないんじゃなかったっけ?働けない体にはしないといいよ」
「ああ。それは問題ない。精神的に強い負荷はかかるが、体は損なわない筈だ。…………まず間違いなく、疫病の苗床探しで声をかけたんだろうから、しっかり反省はさせておかないとな。幸い、疫病の仕事は終わったばかりだ。ひと月ぐらいは、ゆっくりと考えられるだろう」
「は!素敵な術符を貰ったばかりなのを、思い出しました。折角なので、私の義兄に預けておきますね」
「……………え、何この邪悪な術符。効果を見ただけで、泣きそうなんだけど…………」
アルテアが抱えたままの少女が、その状態を気にもかけずに取り出したのは、一枚の紙片であった。
こちらからは良く見えなかったが、青紫色の瞳の男が露骨に顔を顰めたので、さぞかし悍ましい苦痛などを付与された魔術符なのだろう。
だが、幸いにもイツェルは疫病の竜であった。
苦痛などの緩和に向いた疫病もあるのだと、人間の娘は知らないのだろう。
また、イツェルがどれだけ薬師としての研究を重ねているのかを、系譜の者達にさして興味のない終焉の魔物も知らない筈だ。
系譜の王がどのような事を考えているにせよ、この身を損なわずにいるつもりであれば、多少の苦痛や恐怖は寧ろ、不得手な相手と対峙するよりも不安を紛らわせてくれるに違いない。
そう考えていたのに。
「……………っ、……………もう二度と、あのような人間には近付かないぞ」
だが、イツェルはその後ひと月、洗浄の魔物が商品開発の為に作り上げた、頭の痛くなるような清廉な空間に閉じ込められる羽目になった。
強い刺激臭が立ち込める強制的に清廉に保たれた空間は、目がおかしくなりそうなくらいに白く、けれどもその白は階位を持たぬ汎用の白なので、そこには何の彩りもないのだ。
ウィリアムは、以前から洗浄の魔物に、疫病の系譜を一人貸して欲しいと頼まれていたらしい。
商魂逞しいかの魔物は、疫病の予防に効くという洗剤類の開発を行いたかったのだそうだ。
だが、何よりもイツェルを恐怖させたのは、あの人間の娘が取り出した術符であった。
イツェルはその術符を使われ、この真っ白な空間の中で、ちょこちょこと指を動かして硬い結び目を作られた紐をいじり続けている。
ひと月の間、ずっと。
渡された結び目が解きたくて堪らないのに、絶対に解けない呪いなどというものに触れたのは初めてであったし、そのような効果を軽減するような魔術を、イツェルは知らない。
この紐を疫病の魔術で腐りなくしてしまってもいいのだが、そうしたら、解きたくて堪らないのに解けないまま、この結び目を失ってしまう事になる。
「やあ。僕の息子はまだ正気かな。……………うわぁ、……………号泣しながら何かしているけど、……………ウィリアム、イツェルに何をしたんだい?」
「相応しい対価を取られただけだろう。次の仕事までには、支障がないように調えておいてくれ」
「はは。そういう冷酷さが、如何にもウィリアムって感じですねぇ。やあ、イツェル。ナインが仕事で忙しいみたいなので、代わりに僕が冷やかしに来ましたよ。…………うーん。僕のレイノは、毎回いい仕事をするなぁ」
「アンセルム。折角来たのなら、僕の末の息子の介護を手伝っていくかい?」
「いくら疫病の竜の宰相の頼みでも、嫌ですよ。僕はただ、よりにもよってあの子を怒らせたイツェルを、楽しく見に来ただけですからね」
そう笑ったアンセルムに、父が何かを言っていたが、ようやく部屋の扉が開いた安堵のあまり、よく聞こえなかった。
大事な紐を握り締めたまま、父の肩を借りて外に出ると、ウィリアムは既に立ち去っているようだ。
あの日、小さな町の食堂で出会った少女の事を思い出そうとしたが、なぜだか上手く思い出せず、激しく体が震え出す。
イツェルの婚約者の兄でもある一族の王が、選択の魔物の所有する商会を通じて、術符を無効化する薬を手に入れてくれたのは、その三日後の事であった。
父からは、ウィームには竜を簡単に狩ってしまう恐ろしい人間達がいるので、仕事もないのに近付いてはいけないと叱られたのだが、あの日のイツェルがいたのは全く別の国であったので、少しだけ理不尽だと思っている。