レモネードとブーゲンビリア
その朝はよく晴れていて、港の方に向かう海鳥の影が白い木の机の上に落ちた。
読んでいた本を置き、からりと氷の音が鳴ったグラスを持ち上げながら、小さく溜め息を吐く。
グラスの中は、この島の名産の檸檬が使われたレモネードで、独特の切れのいいほろ苦い味わいから、多くの者達のお気に入りの嗜好品になっている。
ウィリアムもこのレモネードは気に入っているが、女性には少し苦味が強いかもしれないので、ネアへの土産にした事はまだない。
港の方を見ると、穏やかな海が、きらきらと朝日に輝いている。
昨晩は遅くまで親しい者達と過ごしていたが、酔い覚まし代わりに夜明け前からこの屋敷を訪れていて、青白くどこか花の香りが綻ぶような、南洋の島の夜明けの光の中でこうして過ごしていたのだ。
庭園の石壁には、鮮やかな赤紫色のブーゲンビリアの花が満開になっている。
綺麗に手入れされた庭だが、通いの庭師しかいないので、今は花壇の花は控えめだ。
けれども、遠くに見える海と港の景色があれば、それだけで充分な景観だとも思う。
漸く夜が明け、街が動き出そうとしていた。
港では、まだ朝日が昇らない内から夜の漁から戻ってきた者達がわいわいと船を降り、夜明けの漁に出かける船が賑やかに行き来していたが、王都を有する街の中心部が活気付くのはこれからだ。
先日から少しずつ読んでいた本は巷で流行りの物語本で、一人の勇敢な青年が困難を乗り越え、文壇での評価を受けるまでの半生が、巧みな文体で描かれている。
いささか詩的で軟弱だという評価もあったが、引き込まれる描写であったし、彼が今やこの国の新進気鋭の作家である事は間違いない。
だからこそ、この朝迄に読んでおきたかったが、華やかな舞台に立ち喝采を浴びる青年が、思わぬ病を得て早世する物語の結び近くになると、このような事もあるのだなとやるせなさを感じて手が止まってしまった。
ごく稀に、己の言葉に呪われる者達がいる。
それは、魔術の階位や系譜や資質とは無関係である事が多く、この世界を司る者にも分からない、魔術と運命の理の変異として、時折、歴史の中に現れる黒い染みのように記録に残されていた。
そしてウィリアムは、そんな特異点の中を度々歩き、何も知らずに特異点を宿した犠牲者が、突然の悲劇に見舞われるその瞬間を何度も見てきた。
(このような場合の終焉の予兆は、その特異点の記した文字や、言葉の語られた場所、歌われた曲の譜面に現れる)
だからウィリアムは、その予兆に気付いてこの島を訪れ、流行りの物語本を書店で手に取ったのだ。
そして、筆者である青年が物語の運命を追いかけるように、未知の病で命を落とすことを知っていた。
「さて、そろそろか」
小さく呟いて立ち上がると、背後のテーブルに着いていた者達にも続いて立ち上がる気配がある。
振り返った先で、この屋敷の庭に出されていたテーブルは一つではない。
明日行われる筈だった庭園での食事会の為に、既に幾つかのテーブルセットが庭に並べられていたので、ウィリアム達はここでその時が来るのを待っていたのだ。
夜明け前から来ていたのは、昨晩からこの屋敷に用のあったナインとローンくらいだが、振り返ればいつの間にか、主要な者達が揃っている。
「………己の言葉に呪われた男の魂も、そろそろ死者の国に迎え入れられた頃合いだろう」
そう呟いたのはナインで、今回のような場合、最初に特異点を訪ねるのは、死の訪れを司る彼の役目だ。
特に疫病を得ての最期となる場合は、鳥籠の規模としてはさして大きくない。
特異点が引き起こす終焉の障りの範囲によってはその役目を死の精霊王に譲る事もあるが、この程度であればナインで事足りる。
「はぁ。内乱や戦乱の方が余程いいですよ。疫病だと、発症から死亡までの期間が短い場合は、大抵が僕にも仕事が回ってくる。一昨日まで、あれだけの規模の戦場に駆り出されていたのに、大した休みもなくまた仕事だなんて」
「戦乱でも、君が呼ばれる可能性は高いだろう」
既に疲れ切った様子のアンセルムにそう言えば、神父服の死の精霊は、大仰に肩を竦めてみせた。
飄々とした物言いで穏やかに微笑んでいることの多いアンセルムだが、まだ生還者の余地があるナインよりも遥かに、死の静謐を司るアンセルムの方が、残忍な顛末を司る事が多い。
死の静謐が安らかに齎されるのは主に死者達だけで、健やかな生者を訪ねる静謐は、即ち、望まぬ不意の終焉と、その完了そのものでしかないのだ。
「きっと、この国の戦乱なら賑やかでしょう。僕が入り込む隙はないと思いますよ。………ええと、軽薄は呼ばれていないから、今回の疫病は、そこまでの拡散はしないのかな。鳥籠の範囲はかなり狭くなりそうですね」
「ああ。昨晩の南風が、障りを運んだ範囲だけだ。この屋敷の後方から、奥に見える大聖堂までが鳥籠となる」
「へぇ。昨晩は門を閉ざしていた筈の大聖堂もこちらの内側ですか。さては、罹患者が駆け込むのかな」
今はまだ、この屋敷の主人の命を奪った疫病は、多くの人間達には拡散されていない。
耳を澄ましてみると、数人は既に事切れているようだが、潮風が運ぶ疫病の障りにより多くの者達が触れるのは、朝になって住人達が家の外に出てからだ。
この疫病は魔術的な障りを風に舞う花びらのように拡散させるが、一つの障りで奪われるのは一人の命のみだ。
本来なら大きな感染力は持たないものの、今回は、疫病を得た青年が窓を開けていたことで、窓から風に落とされた原稿用紙が、何箇所かに拡散している。
それを拾った者が感染し、その異変に気付いて駆け寄る者達が感染する。
突然苦しみ始めて、半刻も経たない内に亡くなるので、呪いや事故だと思って、患者や遺体に触れてしまう者達も多いだろう。
人々が動き出す時間と共に劇的に広がり、けれども、感染した人々の足が止まる頃合いで拡散が止まる。
特定の土地のみを滅ぼすのに、これ程有効な疫病もあるまい。
(もしこれが、人為的に作り出された疫病だった場合は、…………だが)
「………成る程な。今回の疫病は発症までの時間が短い。あの大聖堂で助けを求める者達を集約するからこそ、その後方には被害は広がらないという事か」
「おやおや、こちらを見ながら言わないでくれ給え。私は、この土地が竜を祀るからこそ参加しているだけで、今回は我々の落とした疫病ではないのだよ」
ナインに視線を向けられ、そう微笑んだのは黒髪の青年だ。
ともすれば、ネアより僅かに高いくらいの身長の彼は、総じて小柄な体格を持つ疫病の竜である。
切長の瞳は細く瞳の色を窺い知るのは難しいが、一族の中で薬師をしているイツェルは、鮮やかな緑の瞳を持った疫病の竜の中でも高位の一人だ。
見習い従者のような身綺麗だが簡素な服装は、雑踏に紛れる終焉の質らしいものでもあるし、より多くの資質を預ける疫病の系譜らしいものでもあった。
「ローン。最初に現れた疫病の回収と封じ込めは済んだか?」
「ええ。………これはまた、厄介で残忍で珍しい。特異点に現れる疫病は新しく派生したものが多いですが、今回も、既存の疫病の特徴を持たない、生まれたての疫病ですね」
「であれば、今日の仕事を終えた後で、疫病の門に投げ込むしかないな。この本によると、誰もが知り得ない未知の死病だそうだ」
「そんな事を書いたせいで、特異点にされるんでしょう………」
黒いフードを目深に下ろし、ローンは溜め息を吐く。
その通りでもあるし、これはウィリアムにすら予期出来ないものでもあるので、ただの不安な人間だとも言えた。
鳥籠を展開し、こちらの犠牲者達の迎え入れが進んだところで、ローンとイツェルには残りの疫病の回収を進めて貰い、最終的には全てを一つの箱に収めて、疫病の門に閉じ込める。
そこまでをして、漸く今日の仕事が終わるのだ。
鮮やかなブーゲンビリアの花が風に揺れ、また、港の方では大きな帆船が出港していく。
今回の船は漁船ではなく、積荷を積んだ商船のようだ。
仕事場に向かう死の精霊達に頷きかけ、振り返ったまま見上げた瀟洒な屋敷は、作家として成功した青年が、初めて手に入れた大金を投じて購入した屋敷だ。
元はこの国の中階位の貴族が住んでいたが、老齢と共に屋敷を手放し、ここ五年程はアクス商会が建物の管理を任されていた。
港の見える高台に屋敷を買い、この屋敷に一人で暮らしていた青年は、幸福だっただろうか。
夢と希望に満ち、今は通いの者達しか雇えない使用人を、いずれは住み込みで雇うつもりだったのだろうか。
青年の周囲の者達は、手に入れたばかりの大金をすぐに手放してしまうのは愚かだと諌めていたらしいが、青年は、この屋敷を買うのが夢だったのだと微笑んで取り合わなかったという。
そこにどんな願いや憧れがあり、どんな目的や思いを抱いていたのかを知る者達はいない。
早くに家族を亡くして天涯孤独だった青年は、恋もせずに執筆活動にのめり込んでいたという。
そんな青年が書き上げた作品は、決して幸福なばかりの物語ではなく、寧ろ、青年自身の生涯の記録書のようですらあった。
(……………ごく稀に、己の終わり方を、なぜか悟っている人間がいる)
それは、予言でも託宣でもないどこか曖昧な知覚で、けれどもきっぱりとした確信として、その者の心にずっと佇んでいるらしい。
ずっと昔に己の死期を悟り、ひどく刹那的な生き方をしていた女性に出会った事があるが、終焉の子供であった彼女は、幼い頃からずっと、自分がいつ死ぬのかをぼんやり知っていたと言う。
それもまた特異点なのかもしれないが、魔術的な裏付けのない彼等をどのように分類するべきかは、ウィリアムにも分からない。
シルハーンなら或いはと思う事もあったが、万象が司るのは、あくまでもこの世界なのだ。
もし、その要因や継承に前世界の要素があれば、その先はシルハーンにも推理の範疇となる。
また、無知さをも司るシルハーンだからこそ、この世界と他の世界層がどのように重なるのかなどについては、知覚し得ずにいる事もあるのかもしれない。
例えば、シーヴェルノートのような領域については、シルハーンも勿論把握はしているが、その外側に続く世界層は、シルハーンには属さないものであるらしく、境界の向こう側では、シルハーンだからこそ視界を遮られる事もあるという。
もし、今代の万象だけが見えない土地や層があるとすれば、そこは、先代の万象や、それ以前の管理者達の統括地である事が多いのだそうだ。
それが世界の境界なのか、混ざり合い残るこの世界のかつての一部の一層なのか、或いは、ただの時間の交差なのかも含め、その全てを正確に判断出来る者は誰もいないだろう。
一つだけ判明しているのは、そのように交差していたどこかから、地続きのどこかから、ネアがこの世界に招き入れられたという事だ。
ばたばたと、ケープを風が揺らす。
海からの風が強まったようだが、既に鳥籠を展開してあるので、疫病が予定より拡散する事はないだろう。
(彼女が生まれ育った場所が正確にはどのような関係性の土地であるのかは、そちら側へ行かなければ分からないのだろう)
ウィリアムが、こんな時にネアの履歴について考えていたのは、一人の作家が記した物語の悲劇が、こちら側の誰にも知り得ない未知のものとして姿を現し、この世界の一部を食い荒らすからだ。
そのような事が起きるからには、青年が記した言葉を魔術や結実として結ぶ規則性がこの世界のどこかにあり、シルハーンやウィリアムも含めた者達が、偶々それを認識していないだけだという可能性もある。
シルハーンが万象であるからこそ得られないという因果の死角の領域に、ウィリアムやアルテア、その他の多くの者達の死角が重なり合い生まれた、不在の領域は、もしかしたらあるのかもしれない。
また、そのような領域を、自分達こそが特異体なのだと気付かないままに、当たり前のように知覚する者達が、どこかにいるのかもしれない。
魔術の反転の理として、知らないという事は、知られないという事なのだ。
「ウィリアム、考え事か?」
「……………グレアム。君も来たのか」
思わず考え込みかけ、後ろから声をかけられた。
もう一度振り返れば、そこには友人の姿がある。
「ああ。君の系譜の者達は、皆、仕事に向かったようだ。君もそろそろ、街に向かう頃合いだろう」
「…………少しだけ、考えていたんだ。このような特異点が、ただの死角に過ぎないのだとしたら、世界にはどれだけの未踏の死角があるのだろうと」
そう切り出せば、グレアムは困ったような微笑みを浮かべ、そうだなと頷いた。
「それはあるだろう。例えば、ネアや、シルハーンが話していた先代の万象の伴侶の生まれ育った土地がそうであるし、……例えば、この世界での終焉を司る君が反転を受け入れている蝕の間、この世界の中で終わっていると認識されていたものはどうなっているんだ?死者の国は変質しないよう魔術誓約で守られているし、死の規則は君だけが治めるものではないからいいが、…………どこかや何かで、その反転の影響を受けた在らざるものが、その時だけは在るようになっているという可能性もなくはない」
グレアムの指摘は尤もだ。
そして、実際にそのような事はある。
「それについては、実際に影響が出ている気がするな。蝕の間に、シーヴェルノートに見知らぬ大きな橋を見たという者達の話を聞いた事がある」
「となると、そこは………失われた筈の土地か」
「前世界や、この世界から切り落とされたあわいや影絵なのかもしれないし、場合によっては物語のあわいのような土地ですらあるのかもしれない。何しろ、そのようなものは普段から時折観測されているしな」
その先に続けようとした言葉を口に出すべきか迷い、こちらを見たグレアムの眼差しに、続けてみることにした。
今言わなければ、そのまま胸に収めておくばかりになるかもしれない。
秘密にしてはおらずとも、そうなることは少なくはないのだから。
「ネアと出会った頃、不思議に思った事がある」
「ネアと?」
「彼女にとっての、魔物や妖精、竜や精霊は、ずっと物語中の存在だったらしい。………それはまるで、こちら側が物語のあわいかのようだろう?」
「………そうか。となると、転じてその向こう側こそが、物語のあわいであるという可能性もあるのか」
「可能性だけれどな。それに、……どちらかと言えばやはり、失われていた筈の層という可能性の方が高い。…………彼女の名前は、俺の終焉としての名前にあまりにもよく似ているからな」
その事実を、ウィリアムがネアに直接知らせる事はないだろう。
必要になった時まで秘めておかねば、言葉が結ぶ縁が、彼女に不要な終焉の要素を齎すかもしれない。
「俺は、その元となった、ネアの生まれ育った世界で完成していた彼女本来の名前を知らないが、シルハーン曰く、こちらの世界には、切り分けた響きはあるものの、続きの綴りでは結ばない名前だと聞いている。………とは言え、本来は冬とイブメリアに相当する祝祭の子供として生まれる筈のネアが得たのは、夏至祭と終焉を司る者の名前であった可能性は高いそうだ。………その名前の主が、実在したにせよ、架空の存在だったにせよ」
「…………俺としては、知りようのない事はどうしようもない。ただ、シルハーンやネアに何の影響もなければいいんだが、…………今年は漂流物が現れる。ネアの履歴が、この世界から失われた土地で、尚且つ先代の世界層だった場合は、注意をしておかないといけないかもしれない」
「だから、知ろうとしたのか?」
「……………そうだな。この屋敷に暮らした青年を知れば、死角の向こうが見えるかもしれないと思ったんだが、どうやら無駄な努力だったらしい」
苦笑してそう伝えると、グレアムも頷いた。
終焉の庭はいつも多忙だ。
そんな中で、この世界の全てを解き明かし、知りたいと思うような事は一度もないのだが、今は、ウィリアムにも失い得ないものが増えた。
その為にとあまり深く考えずに受け流してきた特異点について考えてみたが、そう簡単に答えを得られるものでもないらしい。
もしくは、答えなど見付からないままかもしれない。
「おっと。流石に、そろそろ出ないとだな。今回は鳥籠が狭いから、あっという間に終わりそうだ」
「………この街には、暫くの間、鎮魂の鐘を鳴らせる者がいなくなるんだな。少しだけ、信仰の庭からこぼれ落ちた願いが聞こえるが、残念ながら今回は誰の願いも叶えてやれない」
「君の魔術領域でも、難しいのか」
「ああ。これも、俺達の死角なのかもしれないが、ここでは俺の力が及ばないのだと、なぜか分かる」
そう呟いたグレアムが溜め息を吐き、どちらからともなく、美しく整えられた庭を出た。
一帯を襲い、あっという間に多くの人々を犠牲にした疫病はこの国に大きな痛手を与えるだろう。
王家の保養地に来ていた王族達も犠牲となるので、この屋敷で一人の青年が命を落としたことが周知されるのは、一連の疫病騒ぎが終息し、国内がもう少し落ち着いてからになる筈だ。
いずれ死者の日が来れば、その病で最初に亡くなったのが作家だった青年だと、どこかで判明するかもしれない。
また、彼の本を読んだ者達が、まるでこの本の主人公のような生涯だったと、その不思議な符号に驚くこともあるかもしれない。
けれどもそれはもう、終焉の領域のものではない。
とは言え、またいつか、ウィリアムがこの国を訪れた際に、どこかでレモネードでも飲みながら、そんな話や噂を耳にする事もあるかもしれなかった。
ふと、思い立ってカードを開き、ウィリアムは僅かに眉を顰める。
「…………どうした?」
「ネアからだ。………アルテアから、鳥籠の外周にある檸檬畑も潰さないようにという伝言を預かったらしい。………となると、アルテアはまだ、リーエンベルクにいるみたいだな」
そう言えば、こちらを見ていたグレアムが、小さく微笑んだ。
怪訝そうにグレアムの方を見ると、手のひらでばしんと背中を叩かれる。
「………っ、グレアム?」
「今日の仕事は早く終わるんだろう?であれば、一度家に帰って魔術洗浄をしてから、またリーエンベルクを訪ねる事も出来るんじゃないか?」
「………流石に行き過ぎだが、アルテアを引き取りに行くのなら、ありだな」
「では、そうすればいいさ」
「そうするか………」
屋敷を出ると、入れ替わりにアクスの職員がこちらを訪ねてきていた。
資産的な価値のある屋敷なので、住人の亡骸の回収はさておき、管理の為に職員が派遣されたらしい。
今回の疫病は人間にしか影響を及ぼさないので、さして注意をするでもなく、屋敷を引き渡した。
“それと、ヒルドさんから珍しい妖精のお菓子をいただいたので、またお時間がある時に食べに来て下さいね。体にいいお菓子のようなので、ウィリアムさんの分も取っておきます!”
そのメッセージをもう一度心の中で読み返し、微笑みを深める。
この世界にどれだけ知らない事があっても、それも実のところはさして悪くはないのだ。
それが例えばシルハーンであっても、全てを知り得て完成していれば、あっという間に生きることに疲弊してしまう。
「機嫌が良くなったな?」
「体にいい妖精の菓子があるらしい。ネアが取っておいてくれるそうだ」
「何だろう。………美味かったら教えてくれ。職場の同僚が、菓子の研究をしているんだ」
「ああ。そうするよ。……………さてと、死者の行列を動かすか」
一人の作家の訃報が伝えられたのは、それから半月後の事であった。
作家の愛した高台の屋敷は、次の買い手が現れるまでは、アクス商会が管理しているという。