食前酒と妖精の隠し歌
妖精の食前酒というものがある。
とても美味しく希少な種類の物も多いので、ひと瓶となると高価な物も多い、愛好家の多いお酒だ。
以前にもお店でそんな事を聞いたが、今夜は、そんなお酒の中でも殊更に珍しいものがリーエンベルクに届けられた。
火の慰霊祭でリーエンベルクの騎士が助けた妖精が、お礼にと一箱くれたので、こちらの食卓にも五本届いた雨かけ苺のお酒は、綺麗な赤紫色のお酒だ。
折角なので、ウィリアムやアルテアもいる本日の晩餐で美味しくいただくことになり、栓を開けたのが先程のこと。
ネアは、晩餐の席で振舞われた甘酸っぱい食前酒がすっかり気に入ってしまい、雨かけ苺という新たな出会いにむふんと頬を緩める。
「……………きゅっとお口に含むと、甘酸っぱくてなんて美味しいのでしょう」
「これは、美味しいな………」
とは言え、妖精のお酒は、種族や系譜によっての相性がある。
素晴らしく美味しいとはしゃいでしまったのは、ネアと、そんなネアの言葉にこくりと頷いたエーダリアで、ヒルドはもう少しからりとしたお酒がいいらしく、魔物達は、美味しいけれど一般的な美味しさであるという評価であった。
そして、そんな嗜好の違いから、おすすめの妖精の食前酒談義が盛り上がってしまい、第一回リーエンベルク妖精の食前酒大会が始まってしまったのだ。
「……………なぜ、この流れになってしまったのだろうな」
少しだけ遠い目をしてそう呟いたのは、小さな食前酒用のグラスを手にしたエーダリアだ。
テーブルの上にずらりと並んだお酒自体は美味しく飲んでいるのだが、この開催までの経緯の記憶を必死に辿っているように見える。
「安息日は今日迄ですので、明日は皆さんお仕事なのですが、どうしようもなく始まってしまう宴というものは、時として避けようがなく訪れるものなのです」
「そうなのだね………」
「なお、私は未だに、この雨かけ苺の食前酒が優勝なのですよ。酸味がきりっとしている甘酸っぱさですし、お酒というよりは僅かに苦みの残るお酢の飲み物のような味わいですが、ついついもう一杯と思ってしまう美味しさです」
「……………ああ。私もこれが好きだ。………だが、この雪檸檬とラベンダーの食前酒も美味しいと思う」
「えー。僕は絶対に、この夜の煙の蒸留酒がいいけどなぁ。酸味がある方がいいなら、花葡萄と水晶のとか出してみちゃう?」
お勧めの食前酒が認められなかったノアが、その名前を出した途端、アルテアが無言で振り返った。
じっと見つめ合う魔物達が視線で何を語り合ったのかは知らないが、静かに頷き合い、その瓶を取り出しているところを見ると、お互いに気に入っているお酒なのだろう。
そろそろこの二人は仲良しでいいのではないかと考えつつ、ネアは、お気に入りの雨かけ苺のお酒を、また一口飲んだ。
「俺は、ヒルドが出してくれた、湖と朝露の酒が好きかもしれないな。喉に残る冷たさがエシュカルに似ているが、かなり辛口なのがいい」
「そのお酒も美味しいですよね。お名前の通りのお酒だという気がします」
「…………これかな」
「まぁ。ディノは、薔薇とお砂糖のお酒なのですね」
「リボンのではなかった……」
しょんぼりとお気に入りの食前酒を教えてくれたディノは、リボンのラベルのある木漏れ日と紫陽花のお酒を楽しみにしていたようだが、飲んでみると、あまりお気に召さなかったようだ。
ネアもいただいてみたが、詩的で繊細なラベルの割には、お酒という印象の強い重たい味わいである。
更に残念なことに、ネアとエーダリアのお気に入りの雨かけ苺の食前酒は、謎のおじさまが悪どく笑っているラベルで、ラベルから受ける印象はあまり好ましくない。
この二つのラベルを是非に交換するべきだと我が儘な人間は思っていたが、いい大人なので、そんな主張は口に出さずに、テーブルの下でじたばたと足踏みをするに留まった。
「あぐ!」
オリーブとトマトのソースをタルタル風にし、かりかりに焼いた小さなビスケットに載せていただく。
僅かなアンチョビ的なものと大蒜の味が効いていて、簡単に作れて止まらなくなるおつまみだ。
ぱくりと食べていると、三枚目のところでアルテアがちらりとこちらを見たので、ひとまずこの戦場からは撤退することにした。
まだまだ美味しい時間を楽しむ予定なので、同じおつまみを食べ過ぎて使い魔の目に留まり、その他の美味しいおつまみとの出会いを損なわれてはならない。
何しろ、テーブルの上には、まだまだ素敵なおつまみが並んでいるのだ。
「…………これは、星明りと物語という酒なのだな」
「あ、それもお勧めだよ。でも、癖があるから、好き好きかな。エーダリアには重たいかも」
「一口貰ってもいいか?」
「うんうん。最初は少なめに注いで、気に入ったら好きなだけ飲んで」
「ああ。そうしてみよう」
次にエーダリアが挑戦したのは、ノアが重ためだという琥珀色の食前酒である。
ウィリアムが興味を示し、二人で飲んでみる事にしたようだが、エーダリアは食前酒用の小さなグラスに僅かに注いだ分を口に含んだだけで、びゃんと椅子の上で固まってしまった。
「……………水はこちらに。何か食べますか?」
すぐさまそう声をかけたのはヒルドで、ノアはにんまり微笑んでいる。
アルテアがやれやれという顔をしたので、このお酒のことは知っていたらしい。
「あ、……………ああ。ここにある苺を貰うので大丈夫だ。……………これは、辛い酒なのだな」
「む。辛口というのではなく、辛い味のお酒なのですか?」
「ああ。……………驚いた」
目を丸くしているエーダリアは、僅かに涙ぐんでいるだろうか。
その様子を見た保守的な乙女は、そちらのお酒については試さずともいいだろうという結論を出した。
ディノも同じ判断をしたのか、怯えたような眼差しで可愛らしい星の絵のラベルの貼られた瓶を見ているが、ウィリアムはこのお酒を気に入ってしまったようだ。
「これはいいな。確かに個性の強い酒だが、満足感がある」
「うんうん。そんな感じだよね。砂漠の方の国で過ごす事の多いウィリアムなんかは、合いそうな食べ物を沢山知っているんじゃないかな。僕は、燻製ハムと合わせる事が多いかも」
「ピミエントを素揚げにして、塩をかけたもので充分だろ」
「ああ、良さそうですね。この辛さは合いそうだ」
「…………むぐ。アルテアさんの提案は、何やら美味しそうな予感の組み合わせですが、辛いものには手を出さないのですよ」
「僕の妹は、お酒全般に強いのに、味としては女の子らしい物が好きだよね」
「はい!それと、喉がしゅんとするエシュカルのような冷たい喉越しのお酒も好きです!」
テーブルの上には、食前酒大会の為に、参加者達が用意したおつまみが並んでいた。
正確には、リーエンベルクからのおつまみと、アルテアの作ったおつまみ。
更には、ウィリアムが提供してくれたおつまみに、ノアがどこからか買ってきたおつまみだ。
中でも絶品なのが、アルテアが用意した殻付き海老の香辛料炒めだ。
ネアの飲みたいお酒との組み合わせは宜しくないのだが、料理としてとても素晴らしいので、何度も小皿に貰ってきてしまう。
ディノは、チーズと野菜たっぷりのリーエンベルクのキッシュが気に入ったようで、一切れをお皿に貰って幸せそうにゆっくりと食べ、淡い水色のグラスを傾けてお気に入りの食前酒を飲んでいた。
(むむ………!!)
そして、ネアが次に目を付けたのは、ウィリアムが用意してくれたおつまみだ。
どのように食べるのだろうと気になっていたのだが、ウィリアムがそんなネアの視線に気付き、くすりと笑って手ずから食べ方を教えてくれるようだ。
「……………まぁ。これは何でしょう?」
「砂漠の方の国の、酢漬けの保存野菜だと思ってくれ。細かく切ってあって辛いのが特徴だな。この、黒胡椒煮込みの肉と一緒に、薄く焼いた小麦粉の皮に包んで食べると、癖になるぞ」
「いただきますね!!」
「お前の飲んでいる雨かけ苺には、少しも合わないぞ。その料理なら、こちら側の食前酒にしておけ」
「ぐぬぅ……………。では、こちらのヒルドさんのお勧めのお酒にします」
「ありゃ。それも人気だなぁ……………」
「……………はぐ!………むぐ?!……………これは、ぴりりとしていて酸味が爽やかで、お肉がとても食べ易くなっているのでぺろりとお腹に入ってしまいます!」
「お前とは最悪の組み合わせだな」
「腰は元気なので、このくらいは問題ないのですよ…………?」
ネアが大喜びなので、ディノもそろりと手を伸ばしてその料理を試してみたが、子供舌な魔物は、美味しいけれどもう一つ欲しいという感じではなさそうな様子であった。
ただし、ネアがお肉を皮に巻いてやるので、ご主人様の手料理という区分にはなるらしい。
そんなディノが新しく見付けたお気に入り料理は、アンチョビのようなものとクリームチーズを載せた、葡萄たっぷりのもちもち黒パンを薄切りにしたカナッペだ。
甘いと塩っぱいの組み合わせの、手堅い美味しさが約束される組み合わせである。
(今日は、リーエンベルクおつまみに、アンチョビ風の味を効かせたものが幾つかあるから、仕入れたばかりだったのかな……)
ネアはこちらも一ついただき、かっと目を見開くと、このテーブルの上のおつまみを今後どのような配分でお腹に収めるかの一人会議に入る。
またしてもお気に入りを見付けてしまったので、欲望のままに突き進んでもいいが、最後に一番美味しい味の余韻をお口に残すべく、残酷な事ではあるが自分なりの優劣をつけなければならない。
そして、今回のテーブルの上には、強豪ばかりが集まっていると言っても過言ではなかった。
「……………何という厳しい戦いでしょう。そして、ノアは脱いではならないのですよ?」
「ありゃ。襟元を緩めただけだから、さすがにまだ脱がないよ」
「…………まだ?」
「ネイ、脱ぐのでしたら、部屋に帰るように」
「ヒルドは冷たいなぁ。……………あ、これね。これは蜂蜜漬けの茹でナッツなんだよね。殻まで柔らかくなっているからさ、初めてだとそれも食べるのかなって思っちゃうけど、殻は剥いて食べるんだ」
「そうなのだな。殻ごと食べるのだろうかと考えてしまった」
途中でエーダリアの困惑に気付き、甲斐甲斐しく食べ方を教えてやっているノアの姿に、ヒルドは、やれやれといった様子で柔らかな微笑みを浮かべる。
ネアは、そのナッツにもたいへん興味があったが、残念ながら、今は甘いものを食べたい気分ではないのだ。
殻を剥いたエーダリアが目を輝かせている姿を見ると、そこにも自分の知らない美味しさがあるのでそわそわするが、ヒルドが指先を洗う水の入った小鉢を出しているのを見ると、大雑把な気質のネアとしては、今はまだ、もう少し食べ易い物を狙いたくなる。
ここで、殻付き海老も同じ区分ではないかと思う者もいるだろうが、海老に関しては指を汚しても殻を剥くだけの価値と緊急性があるので、優先されて然るべき存在であった。
「そして、次にウィリアムさんが出してくれたのは、あのお店のサラミです!」
「君の好きなものだね」
「はい。むっちりしているので、少し厚めに切っていただくのですが……………エーダリア様はもしかして、少し酔っ払っていません?」
「……………そんな事はないぞ?」
ここでネアは、五個目のナッツ剥きに入ったエーダリアの様子に少しの不安を覚えたが、不思議そうにこちらを見て酔っていないと告げた眼差しは、確かに酒精に曇っている様子はなかった。
偏食的な食べ方をするのが珍しいような気がしたのだが、こうして言葉を交わせば意識も明瞭そうであるし、気のせいだったかなと思ってその場は流してしまったのだが、後々にこれが、大きな失態として己の首を絞める事になる。
「そう言えば、アルテアさんの髪の毛は、どうやって生やしたのですか?」
「その言い方をやめろ……………」
「裁ち落とした髪の毛を魔術洗浄して、魔術に戻して取り込んだんじゃないかなぁ」
「となると、髪食いの魔物さん的な……………?」
「あ、食べ方が違うだけで、あんまり変わらないね」
「魔術粒子に戻した上で、取り込みやすい物に変化させている。俺の場合は酒だな」
「となると、魔物さんによって違ったりもするのですね?」
「グラフィーツの場合は、砂糖だろうよ」
「……………むぐ。確かにそんな感じです」
そして、裁ち落とした部位を再循環させて損傷個所を修復する魔物がいる一方で、ディノやウィリアムのように、裁ち落とした部位を切り捨てても、自身の魔術で欠損を補える魔物もいる。
だが、そんな魔物であっても髪の毛というのはやはり魔術の蓄えられる部分なので、捨て置かずに取り戻す方がいいのだそうだ。
「予定よりも早く戻ったと聞いて、ほっとしました。無事にお料理も出来るようになったので、これで使い魔さんは使い魔さんであると宣言しますね」
「料理が出来ると安心なのだね」
「はい!明日用のタルトも仕込んでくれていましたので、いつもの頼もしい使い魔さんなのですよ」
「……………浮気」
「わーお。アルテアの場合の頼もしさって、そこで判断するんだ」
「あのタルトがお前用だと、言った覚えはないがな?」
「……………わ、私以外のどなたかに、無花果のタルトを差し上げてしまうのです?」
「かもしれないぞ?」
ふっと赤紫色の瞳を眇めて、意地悪な微笑みを浮かべたアルテアは、魔物らしい美しさであった。
ぞくりとするような色香を感じさせるのは、仲間内の飲み会らしく、襟元を緩めたシャツ姿だからだろう。
白一色だが生地の織りでストライプ模様の入ったシャツは、小さめの貝ボタンが美しいお洒落なものだ。
生地の濃淡でストライプをつけているので、ストライプの線状に僅かに透け感がある。
「恋人さんなどにも振舞いたいでしょうから、他所への配送を許さない訳ではないのですが、その場合は、私への献上品は倍の二個になるのですからね?」
「何でだよ……………。それと、他所にやると決まった訳でもないだろうが。俺は、基本的には料理は自分用だぞ」
「しかし、アルテアさんご自身は、一人で食べる程には無花果のタルトは好まれていない筈なのです。よって、あのタルトが私用ではない場合、他にもお届けがあると判断しました」
「……………ったく。食べ物については、妙に勘が鋭いな」
アルテアが焼く無花果のタルトは、大抵がネアを懐柔する為のものや、どこかにふるまう為の物だ。
選択の魔物が自分一人で食べる為に作っているお菓子については、統計を取っている途中ではあるものの、オーブンや保存棚の痕跡も参考数値に入れていいのなら、林檎と胡桃のタルトなどが優勢なのかもしれない。
なお、焼き菓子については、無花果が上位に躍り出るので、無花果そのものは好きなのだろう。
「ネア、これも美味しいぞ」
「……………む。綺麗な薄荷色ですが、どのようなお酒なのですか?」
「薬草と蜂蜜の酒らしい。濃密な薬草の風味に甘そうな味の組み合わせに思えるが、飲んでみるとかなり爽やかな組み合わせだな。多分、ネアは好きだろう。一口飲んでみるといい」
「はい。いただきますね」
ウィリアムは自分のグラスを差し出してくれたので、ネアは、遠慮なくそこから一口貰ってしまう事にした。
こちらのお酒はきりりと冷やしてあり、口に含むと、美味しい薬草の喉飴のような風味がある。
けれども、そんなどこか懐かしい味わいに対し飲み口が爽やかなので、意外にぐいぐい飲めてしまいそうな美味しさだ。
「ウィリアムなんて………」
「あらあら、グラスから一口貰っただけなので、荒ぶらないで下さいね?…………このお酒は、大好きさで優勝という感じではない代わりに、毎日の食卓で飲みたいのはどれだろうと言われたら、このお酒を選んでしまいそうな美味しさです!」
「気に入って貰えたようだな。アルバンの妖精の酒のようだから、ウィームでは入手し易いんじゃないか?」
「リノアールで買えます………?」
「その酒は、個人商店での取り扱いのみだ。気に入ったのなら、次の注文の際に数を上乗せしておいてやる」
「まぁ。では、早速アルテアさんにお願いしておきますね!……ご機嫌な夜に、小さなグラスで一口だけ飲みたいという時にも、個性が強過ぎず何となく体にも良さそうでいい気がします」
「確かに、薬草の酒だもんね。どれどれ……」
ラベルを覗き込んだノアによると、眼精疲労などに効く薬草が入っているので、エーダリア達にも良さそうだという事になり、エーダリアもヒルドもグラスに注いでいた。
窓の向こうの夜の色は、美しく柔らかなウィームの夜の光。
会食堂のテーブルに並んだ食前酒用のグラスは、複雑なカットグラスも多いので宝石のように煌めく。
そして、そんな和やかな食前酒大会の後半で、事件は起きた。
「……………ありゃ、今のって詠唱かい?」
「ん……………。ガレンの魔術師達が、酒席で歌う歌なのだ」
「なんとなく詠唱っぽかったけど、気のせいかな。アルテア、魔術はそんなに動かなかったよね?」
「ああ。大丈夫だろう。………それよりお前は、シャツを脱ぐなら部屋に戻れよ」
「えー。このくらいなら気にならないでしょ。それにさ、今日って僕もアルテアもウィリアムも白いシャツに黒系統のパンツを合わせてるから、何だかお揃いみたいで落ち着かないんだよね」
「……………あれ、確かにそうだな?アルテアも揃うのは珍しいですね」
「ふむ。私もそう思いましたが、それぞれに印象が違うので、これでも個性は出ているのですよ。ノアが保守的な白いシャツであるのに対し、アルテアさんのシャツは、ストライプの入れ方でぐっと雰囲気が変わりますし、ウィリアムさんのシャツはちょっぴり聖職者感のある詰襟風で、こちらもまた、印象ががらりと変わります」
このような装いは魔物達の佇まいを素敵に引き立てるので、ネアとしては、とても素敵なものであるという結論が出ていた。
どこか寛いだ様子になるノアとは違い、なぜかアルテアとウィリアムは、そこはかとない男性的な色香を引き立てるのが、魔物によって違うのだなと興味深い。
そんな魔物達が、食前酒用の小さなグラスを傾け、ぐっと呷る様は、どこか無防備な淫靡さがあった。
「……………少し、熱いな」
最初にそう呟いたのは、ウィリアムだった。
怪訝そうにそちらを見たアルテアに、ウィリアムは襟元を緩めている。
袖も少し捲っているようで、腕の筋肉の筋がくっきりと浮き出ていて、ネアは、たいへん結構な騎士要素であると重々しく頷いていた。
「そうか?……………明日からは、イザナルの海洋都市だろうが。くれぐれも、あの港は落とすなよ」
「疫病の対策ですので、閉鎖と隔離を徹底しますから、港は汚しませんよ。あの海域の海は扱いが難しいので、対処に長けた人間を失うと手痛いですからね」
「現王権は、カルウィの息がかかっているが、その支配を抜ける切っ掛けになるかどうかだな」
「……………難しいでしょうね。あの国は、その周辺の海を抑える要所になる。動かして使う駒にはならない代わりに、持っていればそちら側から攻められる可能性をなくせる、有能な駒でしょう」
そんな魔物達の会話をそれとなく聞いていたネアは、向かいの席にいたヒルドが、ふっと眉を寄せた事に気付いた。
「……………やはり、少し酔われているようですね」
「ヒルド…………?」
「水をお持ちしましょう。それと、部屋に帰る前には酔い覚ましの薬を飲んでおくように」
「ありゃ。エーダリアがそんな風に酔うの、珍しくない?」
「……………っ、ノアベルト!お前は、それ以上脱がないようにするのだぞ?!」
「ネイ………?」
「ええと、シャツはもう一度羽織ろうかな………!」
「ノアベルトのその癖も困ったものだな。……………ネア、こっちに来るか?」
「…………ウィリアムさん?」
ネアはここで、なぜウィリアムが、さも当然かのように両手を伸ばすのだろうと首を傾げたが、何か意味があるのかなと思いウィリアムの方に近付いてみた。
また美味しいお酒を一口分けてくれるのであれば、吝かではない。
「……………にゃぐ?!」
しかし、まんまと近付いたネアは、ウィリアムの伸ばした両手に軽々と持ち上げられてしまい、なぜか膝の上に横抱きにするようにして設置されるではないか。
他の魔物を椅子にしてしまったのでさぞかしディノが荒ぶるだろうとぎくりとしたが、はっとして伴侶に視線を戻すと、ディノはぽわんとした眼差しで、ちびりとグラスのお酒を飲んでいた。
その途端、ネアは、嫌な予感を覚えた。
(……………これは、まさか)
「………ウィリアムさんも、そろそろお水など飲まれては如何でしょうか?」
「ん?いや、俺はそう酔ってはいないからな」
「酔っ払いは、皆さんがそう言うのですよ!たった今、エーダリア様が証明したばかりではないですか!!」
「やれやれだな。……………ヒルド、こいつにも水を用意してやってくれ」
「ええ。この様子ですと、人数分お持ちした方が良いでしょうね」
「だが、……………妙だな。こいつが、この程度の酒で酔うか?」
「確かにちょっと早いよね。僕も、こんなに脱ぎたいのって、宴の最後が多いんだけど」
「ぎゃ!!着る筈だったのに、余計に脱ごうとするのはなぜなのだ?!」
「……………まさかとは思うが」
ここで、まだ酔いが回っていなかったのはアルテアだったのだろう。
何かに気付いたようにグラスに注がれたお酒を調べ、ややあってがくりと項垂れる。
ちょうどそこに水を用意したヒルドが戻ってきて、恐るべき事実が明かされた。
「……………まぁ。酔っ払いの歌なのです?」
「言われてみれば、妖精の酒宴では、よく聞くものですね。私は妖精ですのであまり気に留めておりませんでしたが、招き入れた者達を攫う為の宴が多いのも確かです」
「妖精が、妖精の宴に引き入れた獲物を連れ帰る為に、酩酊を誘う隠し歌だ。さっきのエーダリアが口ずさんでいたものだろう。……………となると、その歌を聞いたときの宴の席には、妖精が紛れ込んでいたな」
「おや。……それは、詳しく話を聞く必要があるようですね」
「ヒルド………」
ヒルドの冷え冷えとした声音に、エーダリアは僅かに酔いが醒めたのか、目を瞬き、おろおろしている。
ノアは、辛うじて全部脱いでしまう事はなく、ヒルドから、どこからともなく取り出した布でぐるぐる巻きにされていた。
「……………妖精の隠し歌か。そこまで酩酊の気配に触れているつもりはないんだが、確かに気分はいいかもしれないな」
「ウィリアムさん、ディノが心配なので、そろそろお膝の上から下りてもいいですか?」
「……………さて、どうしようか」
ネアが退出のお願いをすると、こちらを見たウィリアムは、ぞくりとするような魔物らしい微笑みを浮かべてみせたが、むぐぐっと眉を寄せたネアに気付くと、ふっと小さく笑った。
顎先に指をかけてネアの顔を上向かせると、額に一つ口付けを落としてくれる。
「俺はまた明日から鳥籠だからな。その間に、ネアが損なわれたりしないように」
「おい。さっさとそこから下りろ!…………お前は、大人しく水を飲んでおけ」
「はは。アルテアは狭量ですね」
腹部に回されていた拘束用の手を外して貰えたので、ネアは、よいしょと自分でウィリアムの膝の上から下りたのだが、その際になぜか、おかしな動き方をするなとアルテアに叱られてしまう。
たいへん解せない思いでディノの様子を見に行けば、幸いにも、こちらの魔物は、ぽわぽわしているだけで酩酊という感じではなかったようだ。
ヒルドの用意してくれた水を与えると、構って貰えたと思ったのか嬉しそうに飲んでいたので、これで少し酔いが醒めるといいのだが。
そう考えていたネアは、直後、最も面倒な酔っ払いに遭遇する事になる。
「シルハーンは問題なさそうだな」
「はい。ヒルドさんが気付いてくれなければ、皆さんの明日のお仕事に響いてしまうところでしたね。……………む?なぜ私は、アルテアさんに持ち上げられたのでしょう?」
「お前はいつも、目を離しておけないような危うい歩き方ばかりしやがって……………」
「私は、今のところ足取りも怪しくないですし、さして酔っ払っていない筈なのですよ?最後に、まだ残っている、ナッツの蜂蜜漬けをいただく予定なので…………ぐるるるる!!」
解放を要求した人間は、すっと瞳を細めた使い魔に鼻先をがぶりとやられ、怒り狂って大暴れをした。
そして、残念なことにこちらも酔っ払っていたらしい選択の魔物は、暴れる荷物を抱えたままでいられるくらいに復調はしていなかったようだ。
寧ろ、体調が万全ではないところで深酔いしたので、意識が明瞭に思えても、体幹などは不安定であったらしい。
ふいに乗り物がぐらりと傾いだので息を呑んだネアは、こちらの様子に気付いたヒルドが駆け付けて抱き取ってくれなければ、使い魔諸共床に倒れるところであった。
「……………ふぁぐ。……………びっくりし過ぎて、息が止まりそうになりました」
「間に合って良かったです。……………アルテア様もでしたか……………」
その夜、食前酒大会の会場に於いて、ヒルドが唯一妖精であったことが幸いした。
ネアはその庇護を受けており、妖精のお酒の魔術効果があまり浸透しなかったようなのだ。
二人は顔を見合わせ、ほうっと溜め息を吐く。
「アルテアさんは、床の上で死んでしまいましたが、打ちどころが悪かったりはしていないでしょうか……………」
「魔物は頑強だと聞いておりますので、この程度ではどこかを損なう事はないでしょう。さて、皆に酔い醒ましの薬を用意した方が良さそうですね」
「……………そのようです。それと、エーダリア様がまたしても蜂蜜ナッツを食べ始めてしまったので、せめて一個はお味見で確保したいのですが、手を貸していだたけますか?」
「ええ。勿論」
ネアを抱き上げてにこりと微笑んだヒルドは、その後、すっかり蜂蜜ナッツが気に入ったエーダリアからお皿を取り上げて手渡してくれたので、ネアは、思っていたよりも癖になる味だった蜂蜜ナッツをもぐもぐしながら、倒れている使い魔のお口に、加算の銀器で百倍にした酔い醒ましの薬を投入しに行く。
なお、会の終わりに、他の妖精が作った隠し歌の影響を受けないようにと、ヒルドは、指先に移した妖精の粉を、そっとネアの口に押し込んでくれた。
むぐむぐと美味しい妖精の粉を味わい、ネアは、素敵なデザートの美味しさに酔いしれたのだった。