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安息日の朝と大浴場




ちゃぽんと、水音が響いた。


大浴場でいい匂いのするお湯に浸かり、ネアは、ぐいんと体を伸ばす。

この機会を逃さずに体をほぐしてしまおうと考え、んぎぎぎと背中を伸ばしていると、珍しい動きをするご主人様に、ディノが目元を染めているのが見えた。



「……………ふぁ!」

「可愛い…………」

「たっぷりのいい匂いのお湯に、汲み上げられるお湯の流れる音が聞こえる、この素晴らしい大浴場なのですよ。朝に来たのは初めてなので、また印象が変わって素敵ですねぇ」



柔らかな水音に、馨しい香り。

窓の向こうからは雪曇りのような朝の光が差し込んでいるが、それだけでは光源が弱いので、大浴場のシャンデリアにも明かりが灯っていた。


淡い朝の光はどこか水色がかっていて、琥珀色の屋内灯の色と混ざり合うと不思議な美しさがある。

ふんだんに生けられた花と、少しだけ混ざる石鹸の香り。


そんな穏やかさに心を緩め、じんわりと心や体に沁み込むようなお湯の温度に心を蕩けさせたネアは、ちらりとお隣を見る。



「……………ほわ、動きません」

「動かなくなってしまったのかい…………?」

「時折、うっかり浴槽の底に沈んでいないかどうかだけは、確認しておいた方が良さそうですね」

「………浮き輪があった方がいいのかな…………」

「むぅ。そうなると、体を伸ばしきっているところに拘束感がかかりますので、今暫くはこのまま様子を見ましょうか。……………なぬ。あちらも死んでいます…………」

「動かないのだね…………」




この、ウィーム最盛期に愛用された大浴場が開くのは、大抵が夜である。


誰も知らない間に今は使われていない大浴場にお湯が張られ、シャンデリアに明かりが灯るのだが、ただの幻ではなくお湯に浸かり体を休めることも出来るので、ネア達は、これ迄も大浴場が開く度にお世話になってきた。


今日は、まさかの朝食後の開放であったのだが、エーダリア曰く、昼間に大浴場が開いたという前例は少ないもののあるにはあるらしい。

それが今回は火の慰霊祭の後の安息日だったのだと思えば、かつてのこの朝までに失われた者達の悲劇を思い、少しだけ胸がいっぱいになってしまうではないか。



ちゃぽんと、また水音が響く。

汲み上げているお湯が流れる音ではないので、今度はどちらかなと思えば、一度ざぶりとお湯に沈んでしまったウィリアムの顎先から落ちたらしい。

僅かに色のついたお湯の表面に、波紋が広がる。



朝の光にいつもとは色相を変えた大浴場の中で、ネアの家族達は皆、くしゃくしゃのくたくたになってお湯に浸かっていた。



昨晩までの火の慰霊祭の疲労も残っているのだろうが、そんな労働と気苦労の明けた安息日の朝に、この大浴場に入ったら、気持ち良過ぎてこうなるのは致し方ない。

立ち昇る蒸気には汲み上げられるお湯の香りが宿り、息を吸うだけでも疲労が抜け落ちるような気持ちの良さなのだ。



香気といえば狐温泉だが、人間用のこちらも負けていない。



浴場の空間そのものが素晴らしい造りなのだが、入浴者が気持ち良く、そしてゆっくりと長く浸かれるお湯加減に感じられるという浴槽の祝福の効果も凄まじく、心も体もふわふわにしてくれる。


そんな効果のあまりに、最もお疲れであったウィリアムとグレアムは、お湯に浸かったままぐてんと伸びてしまっているし、アルテアも珍しく目を閉じて無言で浸かっていた。



(グレアムさんが帰ってしまう前に開いてくれて、本当に良かったな。エーダリア様達も、午後からは少し仕事があるようだから、この時間だからこそゆっくり出来ているのだろう)



奥では、同じようにくたくたになっているエーダリアに、その隣のヒルドはまだきちんと座っているように見えるが、一番奥でくしゃくしゃになっているノアと同じように目は閉じている。


なお、朝食の席までは一緒だったヨシュアは、伴侶であるポコが大好きだったというリーエンベルクの庭園の薔薇を切って貰ったばかりなので、一刻も早くぬいぐるみの伴侶に見せるのだと言って帰ってしまった。


折角の大浴場なのでと声はかけたのだが、分けて貰った薔薇を嬉しそうに見ていたヨシュアにとっての最優先は、最愛の伴侶との思い出にこそあるのだろう。



ふうっと、誰かの深い溜め息が落ちる。



ネアが考え事をしている間に、誰かが身動ぎしたのかもしれなかったが、目を覚ました人がいるのかなと周囲を窺ってみても、誰も動く様子がない。

けれども、こうして誰も喋らずに体を休められるような関係というのは、こんな時間を堪能しきる為にはたいへんに得難いものであった。



「ふふ。ディノは、顎先までお湯に浸かってしまうのですね」

「…………うん。ネアは、肩までなのだね」

「ええ。のぼせそうになると、もう少し浅く浸かったりもしますよ」

「可愛い…………」

「こうして見てみると、皆さんそれぞれの楽しみ方なのですねぇ…………」



ネアは、隣で顎先までお湯に浸かっている生粋の入浴好きな魔物を見てくすりと微笑むと、よく見ればそれぞれの嗜好がよく分かる魔物達の入浴スタイルを観察してみる。



ウィリアムは、浴槽の縁に腕をかけているので、浴槽に浸かっているのは胸下くらいまでだ。

上体を反らして天井を仰ぐような姿勢で、目を閉じている。

近くにいるグレアムも似たような浸かり方で、ネアは、受ける印象が違うのに思いがけず男性的な感じなのだなと驚いてしまった。


とは言えグレアムは、今朝の寝起きの状態を見るとなかなかに荒々しい一面もあるようだ。

この大浴場でやると惨事になりかねないので、ネアは、起こさなければならなくなったら、ディノに名前を呼んで貰おうと思っていた。



(アルテアさんが、こんな風に無防備にしているのは珍しいのかもしれない………)



すぐ隣にいるアルテアは、鎖骨の下くらいまでをお湯に浸け、浴槽の壁沿いにある段差に腕を組んで座るような姿勢で体を固定している。

こちらの魔物はもう少し浅く浸かる事もあるが、ウィリアムと比較すると少し深めという判断だろうか。


ノアは、浴槽のへりに突っ伏すような姿勢になっている。

ただし、こちらの義兄の入浴スタイルは時と共に変化してゆくので、一人だけ全裸で飛び込んでしまった悪い魔物には、あまり立ったり座ったりはしないで欲しいと祈るばかりであった。



(エーダリア様とヒルドさんは、お行儀よく段差に腰かけて浸かっているけれど、エーダリア様も、ディノと同じように、時々顎先まで沈んでみたりするのだわ…………)



ネアはあまり長湯する方ではないのだが、この大浴場については別である。

普段の入浴よりはずっと長い時間を素晴らしいお湯に浸かって過ごし、途中でざぶりと立ち上がって、準備してあった冷たい紅茶を取りに行くことにした。



「僕も……………」

「はい。ノアもですね」

「…………わーお。ネア、その角度にもう少し立っていて欲しいな」

「解せぬ」

「……………ネア様、甘やかし過ぎませんよう」

「エーダリア、ヒルドが虐めるんだけど………」

「………ん?………何かあったのか?」

「ネアが逃げた……………」



家族で少しわしゃわしゃしていたが、お疲れ班は未だに微動だにしない。

これはもしや、誰かこっそり儚くなっていまいかと不安になったネアは、振り返って様子を見てみた。



「あちらの方々は、…………息はしてますよね」

「ああ…………。余程疲れていたのだな……………」

「ありゃ。またお湯を抜かれないように、沈ませないようにしなきゃかな」

「個人的に、髪の毛がなくなってしまった使い魔さんが心配なのですが、何か、体に問題が現れているという事はありませんよね?」


そう尋ねたネアに、隣に立ったディノが頷く。

こちらの魔物は、髪を濡らさないようにまとめて上げているので、いつもとは違う、僅かに色めいた雰囲気であった。


「うん。ただ、怨嗟に触れて自分で絶ち落とした部分とは別に、損傷した箇所の回復を行っていたことで、その部分と合わせての疲弊が大きいのだろう。今回は傷薬や回復薬で修正箇所を埋めてしまえないし、火の慰霊祭は、祝祭としての形を備えてしまっているから、時間をかけて回復させていくことにしたのだと思うよ」

「後で、ジッタさんのパンをお口に入れておきます?」

「ご主人様………」

「え、もしかして今じゃないよね!?」

「入浴中は、避けてやるのだぞ……」

「なぜに、パンを持って入浴している疑惑がかけられたのか、とても謎めいています………」



(…………おや)



ここで、グレアムが目を覚ました。

寝覚めはどうだろうと密かに慄いていたネアの心配を他所に、ぱちりと目を開くと、隣のウィリアムに気付いてくすりと微笑む。


その眼差しの柔らかさに仲良しだなぁと考えていると、こちらに気付いたグレアムも、お湯の中を歩いて来て、冷たい紅茶の会に加わった。



「久し振りに、ウィームの大浴場を使いました」


微笑んで嬉しそうに周囲を見回したグレアムは、ディノと同じウィーム風の浴室着である。

この大浴場を使い慣れていた犠牲の魔物は、幸いにも浴室着を身に着ける事に抵抗がないようだ。


「君がここで働いていた頃は、よく使っていたのかい?」

「ええ。基本は、ウィーム中央に持っていた屋敷に帰っていましたが、泊まり込みで仕事をする事も多かったですからね。流石に、全面的な開放ではありませんでしたが、仕事が終わった後で同僚達と入浴したり、真夜中に仕事を終えて一人で入りにきたりと自由に使わせて貰っていました」

「そう言えば、以前の屋敷は王都内にあったと仰っておりましたね」


思い出したようにそう言ったヒルドに、グレアムも頷く。

こちらの犠牲の魔物は、一介の魔術師としてウィーム王家に仕えていた時代があるのだ。


「ああ。当時住んでいた屋敷は、今の商業ギルド周辺に、前任の魔術師長が作った隔離空間を使って建てられていたんだ。統一戦争を機に、区画整理が行われた土地だな」

「……………あの辺りは、土地の魔術階位が高いので、ヴェルリア側に拠点を作られないよう、終戦と同時に区画整理と再編が行われたと聞いているのだが、隔離空間があったからなのかもしれないな………」

「終戦後となると、ウィーム側だけで調整が出来る問題ではないから、オフェトリウスあたりが裏で手を回したんだろう。……………今は眠っているようだが、アルテアが何か知っているかもしれない」


そう教えてくれたグレアムに、エーダリアは目を瞠ってアルテアの方に視線を向ける。

相変わらず、ぴくりともしないのが引き続き心配だ。



「商業的な再編ってなると、アイザックの担当じゃないかな。アルテアは確か、職人や工房の保全を優先させていたって聞いたけど」

「オフェトリウスさんが、リーエンベルクの毛布や備品の在庫確保を行った話は聞きました!」



ネアは、自分も知っている話が出てきたぞとふんすと胸を張り、ノアもそれは聞いていたのか、だよねと頷いてくれた。


魔物達が分担の上で暗躍していたのは驚きだが、アルテアやアイザックなどは、居住地や拠点としての思い入れもあるのだろう。

より効率的に保護を行うのであれば、確かに分担して行った方が効率が良いだろう。



「封印庫とシカトラーム、美術館や博物館については、ウィリアムの方でも不可侵の要求をヴェルリアに出したようだ。その上でも、ウィーム王家に関する品物などは失われてしまったそうだけれどね」


続けてそんな事を教えてくれたのはディノで、ここでは唯一、ヴェルリア側の侵攻に関わった魔物である。

エーダリアとヒルドは知らないままであったが、この二人であれば、その事実を知ってもディノを責めるような事はないだろう。


そこに明確な悪意がない限り、人外者とはそのようなものなのだ。



「封印庫とシカトラームは、アルテアとアイザックも動いたんじゃなかったかな。扱いに慣れていないヴェルリアの連中が品物を移したりしたら、下手すると、旧王都を吹き飛ばすくらいの災厄になりかねないからね」

「まぁ。そんな危険があったのですね………」

「私にも事前報告があったから、真夜中の座の精霊からも、幾つかの要請があったのだと思うよ。封印庫とシカトラームについては、私も、扱いに間違いがないかどうか見ていたけれど、ヴェルリアの民は敷地内に足を踏み入れないという、かなり慎重な対応を取っていたようだ」



戦勝国がその土地に踏み込まずにいたと聞けば、人ならざる者達からの申し入れは、それだけ大きな意味を持つのだろう。



(様々な人外者からの要請があった事で、ヴェルリア側で介入出来ずにいた土地もあったのだわ…………)



そんな裏事情をあらためて聞くと驚いてしまうのだが、土地の管理に人外者達が意見をするのは珍しい事ではない。


そのような申し入れや注文が相次いだのであれば、戦後にウィームを任されたオフェトリウスも、様々な要所を守り易かったことだろう。



「それと、そろそろ、ウィリアムとアルテアも起こした方がいいんじゃないか?」

「むむ。お湯の中でぐっすりですので、水分補給をして貰った方が良さそうですね。起こしに行ってきますね」

「あ、僕がやるよ。こうすればいいんだしね。……………よいしょ」



ここでノアは、じゃばんとお湯を揺らし、アルテアの方へ大波が行くようにするではないか。


ネアがぎゃっと悲鳴を上げる間もなく、ざばりとお湯をかぶった選択の魔物が、ぽたぽたと頭からお湯を滴らせながら目を開く。


とても暗い目をしているが、疲れは少し抜けたような気がするので、ネアはほっとしてしまった。



なお、浴槽の縁に当たったお湯が上手い具合にウィリアムの方にも向かい、波となってざぶんと体に当たっている。

距離があるので、アルテアのように頭からお湯を被るという事はなかったが、ふっと目を開いた様子からすると、肌に当たった事が感じ取れたくらいの波であったのだろう。



「……………おい。浴室くらいは、大人しくしていろ」

「なぜ私が怒られたのでしょう?そろそろ、お二人にも水分補給をして貰おうという話になり、ノアが起こしてくれたのですよ?」

「ほお、ノアベルトか…………」

「わーお。起こされて不機嫌だぞ………」

「他にやりようがあっただろうが」

「アルテアが、ここまでぐっすり寝入っているというのも、珍しい事だな」



アルテアは剣呑な眼差しであったが、苦笑したグレアムにそんな風に言われてしまうと、それ以上は何も言わなかった。

顔を顰めたままざぶりと立ち上がり、こちらにやって来るとグラスを手に取る。



みんなでこちらに集まっていたせいか、少しだけ詰るような視線を向けられたが、ネアはたいへん賢い人間であったので、手にグラスを持っている間は浴槽の中を歩いたりはしないのだ。

うっかり転んで浴槽に紅茶を混ぜてしまうと、折角のお湯が台無しになってしまう。



「…………今度、そのろくでもない浴室着もどうにかするぞ」

「ダリルさんがくれた、既婚者用のものですので、これからも大事に使おうと思います」

「っ、……おい!足踏みをするな!」

「解せぬ」

「えー、僕は好きだけどなぁ」



小さく笑ったノアが慌てて振り返ったのは、手を滑らせたエーダリアが、紅茶のグラスに牛乳を入れ過ぎてしまうという、悲しい事件が起こったからだろう。

浴槽に落とさなくて良かったが、びっくりしてしまったのか、エーダリアは胸に手を当てて深呼吸している。



「………ああ。ウィリアムも起きたな」

「沈んでしまわずに目を覚ましてくれて良かったです。………ウィリアムさん、こちらに冷たい紅茶がありますよ」

「……………ネア?………ああ、有難う」

「少しでもお疲れが取れたらいいのですが、沈んでしまわないようにして下さいね」

「思っていたよりも、疲れていたみたいだな。だが、ここでもぐっすり寝たせいか、驚く程に体が軽くなった」

「今回の戦場は、作業が多かったからな。死の精霊達も、疲弊しきっているんじゃないか?」

「かもしれないな。予定通りなら、明日迄は大きな終焉の予兆はない筈だから、せめて今日くらいはゆっくり休めるといいんだが………」



グレアムに渡されたグラスを受け取り、ウィリアムが小さく笑う。


その様子をついつい観察してしまえば、目が合ったウィリアムがふわりと微笑んでくれたのだが、ネアは、うっかり魔物達が集まってしまったので肌色具合が高くなり、可憐なる乙女は、そろそろ先程の場所に避難しようかなと考えていた。


今日は、浴室着をしっかり着るようにという推進派が、ヒルドだけでなくグレアムもいたので、普段は浴室着を軽んじるウィリアムやアルテアも、無用な戦いを避ける為にとしっかり浴室着を着用してくれている。


お陰で全裸の魔物はノア一人に抑えられたが、こうして浴槽の中に立って飲み物を飲んでいると、見えている範囲は肌色ばかりではないか。



「……………ふぐ。水分は補給したので、もう一度軽くお湯に浸かってから、そろそろ上がりますね。ディノは長湯派ですので、ゆっくりしていって下さい」

「ネアと一緒でいいかな……………」

「あら、せっかくなので、ゆっくりしていっていいのですよ?」

「ご主人様……………」



長湯派の魔物らしくディノは少しだけおろおろしてしまったが、幸いにも、エーダリアやヒルドもそろそろ上がると言えば、少しだけ大浴場に残ってゆくことになった。


アルテアもそろそろ上がるそうなので、大浴場に残るのは懐かしい顔ぶれでもあるのかもしれない。


ネアは、この大浴場で先代のグレアムに出会った夜の事を思い出し、またこんな風にみんなで過ごせる日々が訪れてくれた運命の優しさにこっそり感謝する。

若干ウィリアムとアルテアがお疲れのご様子だが、積もる話でもしてみたらどうだろうか。


冷たい紅茶を飲み終えたグラスを、魔術のお片付け術陣の中に戻すと、もう一度だけさっとお湯に浸かり、浴室を出た。




「素敵なお湯に浸かったので、すっかり、心も体もすっきりです!」

「……………おい、まさかとは思うが、体を拭いただけで終わらせるつもりじゃないだろうな?」


更衣室を出たネアが真っ先に再会したのは、濡れ髪のアルテアだった。

ネアを見付けるなりすっと目を細めたので、なぜだろうと考えた人間は首を傾げる。



「更衣室を出るのが同時でしたね。こちらは、ふかふかのタオルで体を拭き、室内着に着替えたのでもう終わりなのですよ?」

「お前と俺が同時に出て来ること自体が、どう考えてもおかしいだろうが。軟膏やクリームはどうしたんだ?髪の手入れはしたのか?」

「……………おへやにかえってからでいいのですからね」


思わぬ指摘にその道具一式を持って来ていなかったネアは、今日は安息日なので肌の手入れものんびりでいいのだと慌てて胸を張ったが、そこに、思わぬ使い魔の援軍が現れてしまった。



「ネア、肌の手入れは大事だぞ。可動域の問題もあるので、クリームや軟膏が必要になっているんだろう。であれば、アルテアが用意したものはきちんと使っておいた方がいい」

「……………ふぁい」

「ありゃ。グレアムもそっち派なのかぁ…………」

「そして、グレアムさんは、思っていたよりも出て来るのが早かったですね。もう少しゆっくりされるのかなと思っていました」

「ああ。俺は、午後から仕事なのを失念していたので、慌てて出てきたんだ。安息日だが、今日は職場で試作品の試食会があってな」

「試作品…………!!」

「そろそろ、夏のメニューを決めないといけないらしい。楽しみにしていてくれ」

「はい!」

「……おい、弾むな!」



どうやら、本日のザハでは、素敵な試食会があるようだ。


是非にネアも仲間に入れて欲しかったが、大浴場のお湯に浸かった後の素敵なほこほこ具合を思えば、今日はこのまま、ごろりとお昼寝などをする怠惰な一日でいいような気がする。


アルテアは今日もリーエンベルクに泊まるそうだが、未だに本調子ではないというよりも、火の慰霊祭の被害確認や今後の王都との調整なども含め、統括の魔物として参加しておきたいやり取りがあるからなのだそうだ。


とは言え、その打ち合わせも午後からなので、その時間まではのんびりと過ごせそうだ。


そんな使い魔は、僅かに湿っている前髪を掻き上げていたが、ふわりと魔術で水気を飛ばし、前髪を下ろしている。


その輪郭に目を止め、ネアは、はっと息を呑んだ。



「か、髪の毛が生えました!」

「その言い方をやめろ!」

「髪の毛のある、元通りのアルテアさんです。…………うむ。ぐるりと回ってこちら側から見ても、いつものアルテアさんですね」

「あ、もう修復したんだ。思っていたよりも早かったね」

「………こいつが、自分の好みじゃないと煩かったからだな。ったく、これでもういいだろ」

「体調を健やかに保っていただくのが一番ですが、やはり髪の毛は、足りないよりも多い方がいいですからね」

「ありゃ。地肌からやられたみたいな言い方になってるぞ………」

「短くなっただけだ。くれぐれも、誤解のある表現をするな………」

「しかしこう、………髪色が白く地肌色に近いので、…………やはり、いつものアルテアさんがいいですね」

「……………やめろ」

「わーお。僕の妹は冷酷だなぁ………」




浴室への入り口前でそんなやり取りをしていると、大浴場に残っていたディノとウィリアムも出てきた。


ディノは、お湯に三つ編みが沈まないようにとネアがまとめた髪型のままであったが、濡れたり湿ったりした部分は魔術で器用に乾かしてきたらしい。


まずは、結い上げていた部分だけ下ろしてやり、髪の毛の手入れは部屋に帰ってから行う事にした。



「ディノ、アルテアさんの髪の毛が、無事に生えましたよ」

「おや、あのお湯が良かったのかな」

「あ、元に戻ったんですね。髪を損なったのは久し振りでしたね」

「これで、いつでも両ちび結びが出来ますね!」

「……………やめろ」



髪の毛の話が終わらないからか、アルテアはそそくさと部屋に戻ってしまい、ネア達もそれぞれの部屋への帰路に就く。



ぱたんと音がして振り返ると、そこには、部屋の入り口の壁灯の消えた静かな大浴場の入り口があった。

きっと、あの扉の中に入れば、暫く使われていない空っぽの大浴場があるのだろう。


またのんびりとお湯に浸かれますようにと願いつつ、ネアはその場を後にした。




なお、その日の夜には、実はまだ万全ではなかったアルテアが悪酔いする悲しい事件が起きたが、それでも髪の毛を元通りに出来たのは、他の魔物達の予測より丸一日程早かったらしい。


リーエンベルクの中には、素晴らしい入浴時間を約束してくれる、不思議な大浴場がある。












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