夜の音楽と賑やかな寝台
「まるで、この世界に一人きりみたいだ」
そう呟いて微笑み、お気に入りのピアノの曲に耳を傾ける。
真夜中は美しい彩りで、祝祭の日に相応しい蝋燭の炎の色が、庭の木立の向こうから覗く外の世界の誰かの家の窓から見えていた。
その温かな色の向こうにはその家の家族がいて、そこにいる誰かは一人ではないのだろう。
あんなに沢山あった希望が一つずつ地面に落ちてばらばらに砕け、今はもう、見上げた夜空に輝く星はないのに、あの窓の向こうに居る誰かの空には、まだ綺麗な星が瞬いているのだろう。
体は重く、いつだってそこかしこが痛く、胸はすぐに悲鳴を上げる。
思うように動けず、吐息は細く、眩しい夏空を見上げる事も昔から出来ない。
一般的だと言われるよりも遥かに陽光に馴染めない瞳を持って生まれたのは、生まれながらに背負った小さな災いであった。
「私は、どうして、この世界で上手く生きられないのかしら」
そう呟き小さく溜め息を吐いた。
生まれつきのものも、自分の責任で背負ったものも、体に宿した苦痛や不具合は、誰かの救済を得るには目立ったものではなく、けれども普通に生きようとするには重たい足枷になる。
普通であると声高に主張する程に身の程知らずではないが、普通であることを強いられて必死に追いつこうとする日々は、これからどれだけ続いてゆくのだろう。
すっかり疲れてしまってゆっくり眠りたいのに、毛布に包まって心が静かになると、明日が来ることが怖くて堪らなくて眠れないのだ。
本当はテーブルの上に花を生けたいし、夕食を食べるだけの余裕がないのなら、牛乳と砂糖を入れた温かな紅茶を飲んで、バタービスケットが食べたい。
それは、ほんの僅かな間しか得られなかった怖くない日々の中で見付けた大好きなものなのに、自分の心を立て直す為にそんな楽しみから力を借りる事も、もはや出来なくなっていた。
空っぽのお財布と、誰も手を貸してくれない重たい荷物。
テーブルの向かいの席はずっと空っぽで、ストーブを点けられなくて寒いねと話しかける相手もいない。
不公平だと、誰に訴えればいいのだろう。
その不均等を引き剥がすべく戦った訳でもないのに、そう嘆いてもいいのだろうか。
強いて言うのであれば、自分を生かす為の努力をずっとしてきたが、そんなものは誰の目から見ても理解されるような苦労ではない。
世の中には、そんな努力などせずとも、生きていたいと望んでいられる人達の方が圧倒的に多いのだから。
(……………怖い)
生きているのは、とても怖い。
もう二度と目を覚まさず眠れるのであれば、死後の世界も生まれ変わりも、やり直しも救済も何もいらないのだけれど、そんな幸運が訪れる事もないらしい。
お気に入りの本の頁を捲る間や、公園に咲いた美しい薔薇を見て微笑むその間だけ、小さな幸せを噛み締めて、本を閉じて薔薇から目を逸らせば、また怖さを噛み締める。
ずっとずっと怖かった。
親族たちがばらばらといなくなってゆくのはなぜだろうと感じた日や、大好きなユーリが他の子供達のようには生きられないのだと知り、他の家族のように一緒に海に遊びに行くことは出来ないのだと知った日から。
小さな手を握り締め漠然とした不安を抱えていた子供は、その予兆のままに、全てを毟り取られて一人ぼっちの荒れ果てた家に暮らしている。
この世界に魔法はなく、やはり運命は、少しも平等ではなかった。
(怖い……………)
ずきずきと痛む胸に小さく息を吐き、体を丸めて寝台に潜り込むと、なんとか眠ろうと考えた。
そんな夜に思い浮かべるのは、妖精のいる森で、美味しい料理や誰かにおはようという朝のこと。
ぱらぱらと雨粒のように降り注ぐピアノの音楽の中で、幸せな事を考えながら目を閉じて恐怖を追い出さなければ、また体が上手く動かないままに明日を過ごす羽目になるだろう。
多分、こうして今も生きているのは、希望を信じているからではなく、仕方がないままに佇んでいるような怠惰さに他ならず、もし死後の世界があった場合に、大切な人達を余計に悲しませるのが嫌だったからだ。
自分の心を生かす為に復讐をした、その責任を取る為だ。
でも、本当にそうだろうか。
こんなにも怖くて堪らないのに、息を潜めて苦痛を堪えながらも生きているのは、まだどこかで、諦めきれずに誰かを呼んでいるからではないのだろうか。
(おいで、おいで……………)
「……………ネア」
夢の中で体を縮こまらせていたネアは、そっと優しい手に揺り起こされた。
ふにゅりと口元を歪めて目を開けば、そこはもう、あの大好きで悲しい自分の部屋ではなかった。
天蓋のカーテンの彩りに見える窓の向こうには、こんな日でも暗いばかりではない、夜の光がこぼれている。
「……………ディノ?」
心配そうにこちらを覗き込んでいるのは、水紺色の瞳を持つ美しい魔物だ。
就寝時はいつも三つ編みを解いており、その姿がどこか、出会った夜の人ならざる者らしい美貌を思い出させた。
ネアは寝台に横たわっていて、ディノはその隣で寝ていたようだ。
今は僅かに体を起こし、ネアを起こしてくれたらしい。
「何か、怖い夢を見ていたのかな」
「……………もしかして、魘されていましたか?」
「そのような事はなかったけれど、君が、とても怖がっているような気がしたんだ」
そう言われ、ネアは小さく息を呑んだ。
何か、この大事な魔物を安心させてやる言葉を探そうとして、ふと、そんなことをしなくてもいいのではと考える。
「……………ディノ。怖い夢を見て、怖かったです」
「うん。………もう、そのような夢を見なくてもいいよう、祝福を増やしておくかい?」
「ふぁい。………ここに来るまでは、ずっと怖かったのですよ。…………不幸なばかりではありませんでしたし、私は、自分に甘く我儘な人間でしたが、お金を貯めて美味しい物を食べられて幸福だと思う日も、それでもずっと怖かったです」
「ギモーブ…………を食べるかい?」
「もう歯磨きをしてしまったので、手を繋ぐか、ぎゅっとしてくれるといいと思います。……………そして、私がぎゅっとして貰った後は、今度は私がノアをぎゅっとしますね」
「……………ノアベルトなんて」
それでもディノは、おずおずとではあるが、体を起こしてネアを腕の中に入れてくれた。
大事な魔物にしっかりと抱き締めて貰い、ネアは、ふくよかな夜の森のような馨しい香りを胸いっぱいに吸い込み、夢の中で開いてしまった心の中の扉をしっかりと閉め直す。
ぱたんと音が聞こえるようで、ばりばりに強張っていた心が漸く緩んだ。
(ああ、……………これでまた一つ、あの夜の記憶にも、今日の思い出が重なった。今がどれだけ幸せでも、私を育てたあの日々とその中で感じた恐怖や悲しみはずっとなくならないだろう。………でも、こうして、あの夜の思い出の上に今日の思い出を重ねてゆけるのだわ)
そんな贅沢さに目の奥が熱くなったが、今度は、きっと同じように、今は幸せでもなくなりはしない過去を抱えている大事な家族を抱き締めなければならない。
そう考えたネアは、ディノの腕からもぞもぞと出てくると、反対側を向いて、すやすや眠ってはいるが、どこか苦し気な息を吐いたノアをえいっと抱き締めてしまった。
「ん………」
すると、震えるように睫毛を揺らし、はっとする程に鮮やかな青紫色の瞳がこちらを見た。
眠そうな様子が微塵もないのでまるで起きていたようにも見えるが、深い眠りから唐突に目覚めた人らしい、僅かな困惑の気配がある。
そしてノアは、ゆっくりとこちらに視線を向けた。
「……………ありゃ」
「まぁ。起こしてしまいましたか?」
「…………うん。でも、何だか目を覚ました方が、幸せな気がしたんだ。念の為に聞くけど、これって夢じゃないよね?」
不安そうな声に、ネアは小さく微笑む。
こちらに手を伸ばして、そこにいるだろうかと不安になってくれる家族がいることに、こんなに喜んでしまうのは意地悪だと分かっていたが、それでも今夜は堪らなく嬉しかった。
ネアが眠っていても、不安や恐怖に気付いて安心させてくれるディノがいて、ネア達に居て欲しいと望んでくれるノアがいるのだから、からからに乾いていた心は、今や、上等なクリームでたっぷりと潤されているようなものだ。
それに、こんな風にどこか痛ましいまでの安堵を滲ませるのだから、ノアは、またあの日の夢を見ていたのかもしれない。
「ええ。私もディノも、傍にいますからね?そして、お隣にはアルテアさんもいます」
「……………わーお。それはあまり思い出したくなかったかな」
「まぁ。…………では、こちら側で眠っている、ウィリアムさんと交換します?」
「ええと、シルとネアの間ならいいけど、それ以外の場所は断固拒否するよ」
「あらあら、今夜は、私もディノとノアの間に入りたいので、戦いになりますよ?」
「それじゃあ、お兄ちゃんが我慢しよう。こっち側に僕の妹がいるから、それだけで充分に幸せだしね」
火の慰霊祭の夜であった。
ちらりと時計を見れば、時刻は真夜中を一刻程越えたあたり。
街の見回りを終えたエーダリア達も、今は自室で就寝している。
就寝後に無事に日付が変わり、今はもう、一年で一番暗い火の慰霊祭の日ではない。
それでも、この夜が明けるまでは、ウィームの街を松明を持った者達が、見回っているのだろう。
かつて、この地で多くの命や希望を奪って明けた夜を思いながら、日付が変わっても、どこかに怨嗟の火が残らないようにと、寝ずの番をしてくれている人達がいる。
リーエンベルクでも、前夜から今日の朝にかけては厳重な警備が敷かれ、夕刻前に休憩に入ったグラスト達とゼベルが、真夜中過ぎから夜明けまでの任務に戻ってくれていた。
「ぎゅふ……………」
そんな夜に、この強欲な人間は、伴侶に抱き締めて貰い、尚且つ義兄を抱き締めてしまうのだ。
今夜は火の怨嗟のせいで少し冷えるからと、冬の始まりに使っていた毛布が再登場している。
滑らかでむくむくのその質感に触れ、天蓋から落ちるカーテンは、ずっとこんなものが欲しかったのだと思うような繊細な美しさだ。
季節によって模様替えが入ったりもするのだが、今は灰色がかった水色に菫色の繊細な花枝の模様があるカーテンがかかっている。
そして、今夜のリーエンベルクには、随分と沢山のお客がいた。
そのせいで、日付が変わり火の慰霊祭の日が終わると、リーエンベルクには、僅かな魔術調整が敷かれ、お客達の影響が出ないように調整されている。
とは言え、ネアとエーダリアが揃っていれば、この土地の魔術基盤は安定するらしい。
それが、聞いたばかりの二王家の運用に重なるからなのかどうかは不明だが、これだけの人外者が揃っても揺らがないのは、この地が、古くから祝祭の祝福を受けた豊かな土地だからなのだそうだ。
(隣の部屋にはグレアムさんがいて、寝台のあちら側にはヨシュアさんがいる。リドワーンさんはご友人達と一緒に過ごすそうだし、怨嗟のせいで冷気が戻るからと街を見ていてくれたベージさんは、夜明けまでには季節の温度が戻ってしまうので、氷竜さんの国に戻ってしまったけれど……………)
例年とは違う深い怨嗟の発露があったせいで、ウィーム中央には様々な人外者達の助力があった。
ウィリアムやグレアムのように、駆け付けてくれようとしたのに間に合わず、仕事明けですっかりのくたくたで、来るなりばたんと眠ってしまった者達もいる一方で、ヨシュアのように、沢山働いて疲れたのでここに泊まるのだと主張した者もいる。
そんな、思いがけない程に大勢の知り合いが今は同じ屋根の下にいるのだと思えば、ネアはもう、少しも寂しくはなかった。
「ふふ。アルテアさんとウィリアムさんは、すっかりぐっすりですね」
「もうさ、その二人を隣に並べたらいいんじゃないかな……」
「どうせならもう、グレアムさんもこちらに入れば良かったのにと思ってしまいますが、私も基本は一人上手なので、嬉しいけれど寝台は一人で使いたいという気持ちもよく分かるのです」
「そこはさ、個人の嗜好が大きいよね。アルテアも本来はそっちだと思うけど、今日は僕の妹が捕まえちゃったからなぁ……………」
夜半過ぎにリーエンベルクに駆けつけたウィリアムとグレアムは、火の慰霊祭には間に合わなかったものの、あまりにも疲弊しているのでと、エーダリアがこちらに泊まってはどうだろうかと提案してくれた。
ウィリアムは自分の部屋を持っているが、グレアムはそうではないので、気を遣わずに体を休められるようにエーダリアから提案してくれたのだろう。
ネア達が、火の慰霊祭の特別仕様でノアと一緒に寝ることと、今夜は使い魔を見張らねばならないのでそんな魔物も一緒に寝るようにしたことを知ると、ウィリアムは自分もこちらで寝ると主張した。
こんなにも疲弊しきっていても駆けつけてくれたウィリアムだけを仲間外れにすることは気が引けたので、ネアは、ディノにお願いして寝台をちょっぴり広げて貰い、皆で並んで眠れるようにしたのだ。
どうせならとグレアムも誘ったのだが、あまりにも刺激が強いので眠れなくなるかもしれないことと、元々、誰かと寝台を分け合うのは苦手なのだということだったので、今は、以前はディノの寝室だった、隣の部屋で休んで貰っている。
外客棟の客間でも良かったのだが、ヨシュアまでもがこの部屋にいるのに、グレアムだけがそちらの部屋にいるのは何だか寂しいではないか。
元々はディノが使っていた寝台だと聞くと、なぜかグレアムは少し動揺していたが、魔術で身綺麗にするよりも実際に入浴したい派のウィリアムが入浴を終えてこちらに戻る際に隣の部屋を覗いたところ、ぐっすり眠っていたらしい。
「………綿犬さんは、またしても舌をしまい忘れているので、明日の朝にお口がむがっとなるのでは……………」
「あれってさ、シルが貰った雲の寝台だったのにね」
「とは言え、今日は………もう昨日になりましたが、とても頑張ってくれたヨシュアさんでしたので、褒めて貰う為にこちらに泊まりたいというくらいであれば、いいのかもしれません。人型だった場合は、違うお部屋にいて欲しいですが、綿犬なら気になりませんし」
「ま、僕としても、この寝台にヨシュアまで入れるのは反対だから、あの姿でここに来たのは正解だと思うけどね」
イーザからは本当に申し訳ないと連絡が入っていたが、火の慰霊祭で雲の魔物がどれだけ力を貸してくれたのかを知るエーダリアやヒルドは、今夜は是非にどうぞと快諾していた。
その際に客間を貸した筈なのだが、寂しがりやの雲の魔物は綿犬姿でこちらで寝ることを望んだのだ。
「……………ふと思ったのですが、ヨシュアさんは、へなへなになる時に綿犬さんでいる事が多いような気がするのです。もしや、あの姿が真の姿だということはありませんよね?」
「ヨシュアが……………」
「ありゃ。シルが本気で心配しちゃうから、やめようか。…………ヨシュアが使うこの獣への擬態はさ、体の構築魔術を小さな入れ物の中に収まるように変換させるというよりも、全体的に機能低下をさせるやり方の擬態なんだよね。だから、消耗もしないし、体を休めるのにも向いているんだと思うよ」
「ほわ……。という事は、機能的にも綿犬さんに…………?」
「うーん、思考能力はさすがにそのまま残しているだろうけれど、能力的なものは確かにかなり下げているのかな。その代わりヨシュアは、変化を質とする雲の魔物だから、擬態やその解除には長けているんだ。だからこそ、あんな擬態方法が可能なんだけどね」
そんな雲の魔物な綿犬の眠る雲の寝台は、ネア達の寝台の横にある机の上に置かれていた。
これは元々寝台の両脇にある机の一つで、いつもはランプや水差しが置かれているのだが、上の物を別の場所に移し、今夜だけは雲の寝台を設置してある。
時折、すぴすぴきゅふきゅふしているのは、寝言なのかもしれないが、とても愛くるしい。
「…………起こしてしまったせいで、眠れなくなっていません?」
「うん。……………大丈夫。何だか、こんな真夜中に家族に囲まれていて、幸せなだけ。…………さっきはさ、…………眠っていた筈なのに、リーエンベルクの正門前にいたんだよね。リーエンベルク前広場には何もなかったから、きっとあの日じゃないんだろうけれど、辺りは昼間なのに酷く暗くて、僕は一人で、どこかに火の気配がずっとあるんだ。……………火の慰霊祭だったのかな」
そう教えてくれたノアは、すいと手を伸ばしてリンデルを見上げている。
真上に伸ばしたノアの手に光るリンデルはネアにも良く見えて、きらきらと輝いた。
(……………きっとノアには、こういう物も必要だったのかもしれない)
ネアがそう考えたのは、ネア自身が、真夜中にふと目を覚ました時に、ここは本当に夢ではないのだろうかとディノの指輪を確認したことがあったからだ。
自分の持ち物として触れられる確かな家族の証は、必要な時に必要なだけ触れられる心のお守りでもあるのだろう。
「……………アルテアがさ、晩餐の後に少しリンデルを気にしてたから、きっと、かけた守護の層がひび割れたりしたんだろうね」
「なぬ。一応、注文したお店に交換用のリンデルを預けてあるので、守護としてしっかり使って貰ってもいいのですが……………」
「それでも僕は、守れる限りはこれがいいなぁ。最初に貰ったリンデルは、やっぱり特別だから。………アルテアも、きっとそうなんだろうね。ウィリアムだってそうなのかもしれない」
「ふふ。ディノもね、最初のリボンはとても大切にしてくれるのですよ」
「……………あのリボンは、ずっと使うかな」
「きっと僕達は、それを得る為に随分と時間がかかったからなんだろうね。……………はぁ。何で僕、隣にアルテアが寝てるのに、こんなに安心出来ちゃうのかなぁ……………」
そんな事をとても不思議そうに言うノアを見ていると、たくさん撫でてたっぷり寝給えと言いたくなってしまったが、こんな夜だからこそ、目を覚ましている間にその喜びを噛み締めるのもありなのかもしれない。
ネアは、もぞりと動いてディノとノアの間に気持ちよく収まると、個別包装信者とはいえ、こんな夜くらいはみんなで並んで寝るのも素敵なのだと微笑んだ。
勿論その為には、体がぎゅっとならない程度の間隔を取れる大きな寝台が必須なのだが、それを叶えるだけの贅沢さも、この世界の魔術にはある。
ネアは、比較的庶民向けの魔術付与の商品にすら、小さめの寝台を大きく使える素敵なものがあると知り、この世界に来たばかりの頃に憤然としたことがある。
椅子のクッションをふかふかにしてくれる魔術や、寝具にお日様の香りを付与する魔術などは比較的安価なもので、ざざんと風にさざめく葉擦れの音や、優しい雨音を宿したピローケースなども売れ筋商品なのだそうだ。
こちらに来て、贅沢ではなくなった物も多い。
妖精の姿を見るのは日常的であるし、ウィーム中央は花々の多く咲く美しい土地だ。
生まれ育った世界で憧れたそのような光景が当然のものとなり、代わりに失われた光景は、今のネアにとってはどれもさして惜しいものではない。
部屋に音楽を流したままにしておくには、どうしても音楽付与の魔術や音楽の小箱のようなものが必要で、魔術の動きを止めて静かにしていたいと考える者にとっては、音楽か魔術の静寂かの取捨選択が必要となる。
けれども、今のネアにとっては、隣で眠っている家族の僅かな呼吸音を聞いている方が素敵な事なのだ。
だから、静かな夜はいつだってあのお気に入りのピアノ曲に勝る心地の良さで、こちらに来てからは、不安や悲しみに心がぎゅっとなる夜があっても、怖さばかりに苛まれる事はなくなった。
「ノアも……………む、寝ている」
「おや、眠ってしまったのかい?」
「ええ。今度は、幸せそうにぐっすりです。私達も、そろそろ眠りましょうか?」
「うん。……………お休み、ネア」
僅かに体を起こしたディノが、頬に口付けを一つ落としてくれる。
「これでもう、怖い夢は見ないよ」
「はい!家族とお喋りをして心がすっかりふかふかになったので、残りの夜は、きっと素敵な夢を見られる筈なのですよ。………でも、もしディノが怖い夢を見たり、急に不安になったりしたら、どうか私を起こして下さいね。ディノにだって、もうずっと私がいるのですから」
「……………虐待した」
「解せぬ」
なぜだかディノは少し涙ぐんでしまったようだが、ネアがこてんと頭を寄せると、幸せそうにもぞもぞしていたので、ネアはすっかり安心して眠ってしまった。
けれども、その眠りの安らかさのせいで、助けを求める一つの声を聞き逃してしまったようだ。
翌朝、なんだか周囲が騒がしいなと思い目を覚ますと、憮然とした面持ちのアルテアをディノとグレアムが救出しているではないか。
どうやら、寝惚けてアルテアに抱き着いてしまったらしいノアを、そんなアルテアから引き剥がしているらしい。
なかなか剥せないので、ばたばたしていたようだが、すぐ隣で眠っていたネアは、気付かずにぐうぐう寝ていたようだ。
「……………ん………何かあったのか?」
「……………むぐ。ノアが、寝惚けてアルテアさんを抱き締めてしまったようです」
「……………大丈夫そうだな、もう少し寝かせてくれ」
途中で、ウィリアムも少し目を覚ましたが、そのような事態であれば問題なしと判断したのか、幸せな二度寝に入ってしまう。
ネアも、時計を見てもう少し眠れるかなと思い、ぱたんと枕に頭を預け直した。
「……………おい」
「むぐ。そちらには、救助要員がお二人もいるではないですか。……………二度寝は大事なのでふよ」
「そもそも、どうして俺の隣にこいつが寝ているんだよ」
「……………む。そう言えばアルテアさんは、お隣の部屋で寝たところを、逃げ出さないようにと秘密裏にこちらに移設したのでした………?」
「……………よし、これで離れたな。アルテア、もう動いて大丈夫だぞ」
「ノアベルトがアルテアを……………」
「まぁ、ディノはしょんぼりなのです?ノアはもう少しこちら側に寄せて貰って、もう少し眠りませんか?グレアムさん、手助けして下さって有難うございます。まだ早い時間なので、どうぞグレアムさんももう少し休んで下さいね」
「いや、シルハーンが声をかけてくれて良かった。さすがにこれは、アルテアが不憫だからな」
くすりと微笑んでそう言ってくれたグレアムは、短い眠りでもすっきりと目が覚めたようだ。
きっと寝覚めのいい方なのだろうと考えて尊敬の目を向けていたネアは、その後、思わぬ事実を知る事になる。
いつもより遅い安息日の朝食迄にはまだ時間があるからと、もうひと眠りしたグレアムは、その後、なかなか目を覚まさなかった。
こちらは普通の寝覚めで、気軽にグレアムを呼びに行ったヨシュアが泣かされて帰ってきたので、ウィリアムが慌てて起こしにいったものの、ディノが声をかけるまでは起きずに、ひと悶着あったようだ。
ディノが声をかけるとさっと目を覚ますので、寝覚めの相性のようなものがあるのかもしれない。
なお、ノアは自分がアルテアを抱き締めてしまったと聞いても、ちょっと驚いているだけだったので、いきなり抱き締められてとても心が損なわれたらしいアルテアは、朝食の間中ずっと暗い目をしていたのだった。
明日の通常更新は、お休みとなります。
こちらにて、2000文字くらいのSSを書かせていただきますね。




