226. 食事の後は捕まえます(本編)
ほかほかと湯気を立てる牛コンソメのスープには、小さなクネルが入っていた。
グヤーシュと並び、クネル入りのスープもウィームの伝統的な料理である。
小さなサラダにはいつものように、ひと手間加えた焼き茄子や揚げ野菜などが加わり、酸味のあるドレッシングの味わいを引き立ててくれていた。
チーズたっぷりのキノコと鶏肉のパラチンケンに、トマト煮込みを盛りつけた前菜の一皿にも、今日ばかりは温かな料理が多い。
怨嗟の火が灯るに相応しい仄暗い日となる火の慰霊祭では、夜になると温かな料理は食べられなくなる。
その代わりに、昼食迄の食事では温かい料理が好まれるのだ。
「火の慰霊祭の日のお料理は、伝統的なウィームのお料理が多くて大好きなのです」
「……………今年は、クネルのスープなのだね」
「む。ディノは、お昼もグヤーシュが良かったですか?」
「このスープも好きだよ。………でも、クネルはどうしようかな……………」
「ふふ。そう言えばディノは、スープの中のクネルの食べ方を、試行錯誤中なのですよね」
「うん………」
スープの中にぷかりと浮かぶクネルの食べ方は、人それぞれだ。
あんまりなことさえしなければ、特別にクネルの食べ方という作法がないからなのだが、これがディノを悩ませていた。
ディノは、ノアのように真っ先にクネルをぱくりといただいてしまう先行型と、ネアのように、前半と後半でクネルを分割していただくバランス型とで、どちらを選択するのか悩んでいるようだ。
他のスープにも具材はあるのだが、一個から二個のクネルがぽこんと入った牛コンソメのスープは、クネルの数が控えめなだけに慎重を期するらしい。
そして、温かな前菜とスープの後は、毎年のお馴染みである、さくさくシュニッツェルの登場である。
「うん。シュニッツェルだ」
「香草バターソースがあります!」
「おい、弾むな……」
「やっとの解放なのですから、お料理への喜びくらいは自由に示せるべきなのではないでしょうか?」
「全くその通りだな」
「ぎゃ!シュニッツェルとお砂糖を並べて食べるのは、やめるのだ……………」
グラフィーツの、いつものお皿ではないが小皿で砂糖もちょっぴりいただく方式は、エーダリアも慄かせたようだ。
怖々とそちらを見ているウィーム領主は、けれども、他人の食事風景を凝視してはいけないと気付いたのか、すぐに視線を戻し、僅かに目元を染めている。
「グラストさんとゼノは、まだ街に残っているのですか?」
「ああ。負担をかけてしまっているが、空の上の怨嗟が落ち着くまでは、街での対応を続けると話していた。今年は、ネイアもいるので目としては助かっているが、その分、怨嗟の炎が多いからな」
「そういう意味では、イブリースじゃなくて、オフェトリウスで正解だろうね。ドリーだけなら火の系譜では済むけれど、戦乱や終焉の系譜は今回はまずいかな」
「今日程のものになってしまうとやはり、そちらの系譜の方は影響が出てしまうのですか?」
「ウィリアムであれば終焉や収束の役割も持つが、火薬は開戦の質も持つ。あいつの気質も含め、王都に置いて来るしかないだろうよ」
そう告げたアルテアは、普通に食事が出来ているようだ。
ディノにこっそり調べて貰ったが、グラフィーツも、特に影響が残るような損傷はないらしい。
怨嗟への対応をした時には僅かな負傷もあったと予想されるが、アルテアのような見て分かる程の影響が残らなかったのは、グラフィーツの魔術の資質が、怨嗟の階位を下げるのに向いているからなのだとか。
(………美味しい!)
牛肉を薄く伸ばし、衣にするパン粉を細かく細かくしたウィームのシュニッツェルは、何個でも食べられてしまいそうな美味しさだ。
揚げたてのさくさくで、今年のソースは三種である。
デミグラスソース的なものと、酸味のある葡萄酢の濃厚なソースに加え、初お目見えの香草バターソースは、つけるとシュニッツェルの衣の色との対比も美しい。
はふはふといただくお皿の付け添えには、マッシュポテトを使ったグラタンと、シンプルな、ほうれん草のバターソテーが並んでいた。
焼き立てのパンに、バターソースの組み合わせも素晴らしいではないか。
ネアは、お皿の上の料理をぺろりといただいてしまい、美味しいものを美味しいままに楽しめる、家族の無事を噛み締めた。
とは言え、食事中の会話はやはり慰霊祭周りの不穏な話題が続くが、こうして共にテーブルを囲んでいる限り、大事な家族が失われる事はない。
そう考えていた折りの事であった。
「……………失礼」
ヒルドが魔術通信端末を手に席を外し、ぴりりとした空気が漂う。
ネアが、お代わりしたシュニッツェルを切ろうとしたまま息を詰めていると、ややあって戻って来たヒルドが、そんなネアの様子に気付き、安心させるようにふわりと微笑んでくれる。
「グラストからの連絡でした。………空の上の怨嗟は、無事に鎮められたようですよ」
「……………っ、………そうか!負傷者は?」
「ヨシュア様のご尽力のお陰か、街に影響が出る事はなかったようです。国王派の被害は未確認ですが、ゼノーシュの確認では、大きな怪我を負った者はいないようだと」
その怨嗟を焼き払ったのは、ドリーであったらしい。
ドリーの持つ炎は、色を持たない無色の劫火だ。
その炎を使えば一瞬で焼き尽くせてしまうので、地上に被害が出ることもない。
だが、今回の怨嗟は大きく獰猛な凝りの竜になっていたので、徐々に力を削いでゆき、最後にドリーの炎で焼き尽くすという作戦が必要だった。
そうして怨嗟の凝った竜の力を削ぐ段階では、途中から加わったリドワーンがかなり活躍したそうなので、エーダリアは、あらためてその功績に相応しい対応をしなければなと口にしていた。
「今年の秋の予防接種に、僕の妹が連れて行くだけでいいんじゃないのかな」
「……………解せぬ」
「やめておけ、癖になるぞ」
「ありゃ。アルビクロムの勉強会に出たアルテアが言うと、言葉が重いなぁ……………」
「言っておくが、俺はその区分じゃない。お前の方が適性があるようだが?」
「僕は、その程度でそんなに騒がないってだけだよ。まぁ、色々と嗜んだのは事実だしね」
「ネイ。食事の席に相応しい会話だとは思えませんが?」
「ごめんなさい………」
叱られているノアを見てくすりと笑い、ネアは、綺麗になったお皿の上にナイフとフォークを置いた。
(……………そうか。終わったのだ)
そう考えると、胸の奥に遭った僅かな痛みのような不安も剥がれ落ちて、心無しか、窓の向こうも先程よりは明るくなったような気がする。
エーダリアもほっとしたのか、明らかに顔色が良くなっている。
デザートは焼き立ての葡萄のタルトで、素朴な美味しさと焼き立ての香ばしさが、安堵も手伝って一層に美味しく感じられた。
食事の前にミルクティーを飲んでいたからか、ここでは紅茶ではなく、メランジェを添えてくれるあたりが、リーエンベルクの料理人の心憎い計らいだ。
(………さて)
そして、メランジェを飲み干してカップを置いたネアは、深く深く息を吐いた。
ネアには、これから大事な任務があるのだ。
ちらりと確認すると、他の者達も食後のデザートまで終えているようだ。
アルテアとノアは席を立ち、窓の方に外の様子を見に行っている。
タルトのお代わりもなくすっと立ち上がったネアに気付き、振り返ってこちらを怪訝そうに見た使い魔は、直後、素早く移動した人間によって拘束されるとは思いもしなかっただろう。
ててっと走ったネアは容赦なく距離を詰めると、目を瞠ったアルテアの腰にがっしりと手を回し、選択の魔物を捕まえてしまった。
「そしてここで、アルテアさんを捕獲しますね!」
「……………は?」
「明らかに、瞳に力がありませんし、お顔の片側の表情が少し鈍いのです」
「………っ、おい、……………シルハーン!」
「思っていたよりも、損傷が深いのかな。………グラフィーツ、何があったんだい?」
ご主人様を追いかけてきたディノも、ネアの意図を察したのだろう。
そう問いかけたディノに、ナプキンを使う必要もないくらいに優美な所作で食事を終えた砂糖の魔物が、淡く微笑んだ。
白紫の髪の毛を後ろで結んでいるグラフィーツは、ディノやアルテアと並ぶと僅かに背が低いのだが、その代わり、容姿的にはそちらの二人よりも落ち着いた雰囲気がある。
砂糖を食べて大興奮する様子も知っているので意外でもあったが、造作としては、ネアのよく知る他の魔物達よりも僅かに大人めの造りなのだ。
これは目元に皴があるというような年齢を重ねた印があるのではなく、面立ちとしての比較なのだろう。
なお、ノアについては、どうしても銀狐姿が浮かんでしまって採点にならないので、他の魔物たちとの比較が上手く出来ずにいる。
ここにヒルドが入ると、そもそも妖精は魔物よりも華奢なので、体型的な差異からの印象の差が出てしまうので更に比較が難しい。
「空から落とされた怨嗟が凝った火の障りが、リーエンベルクに住む女子供を……………まぁ、残虐さの常套句に近い言葉で処理すると言いましてね。俺の方でも、非常に不愉快な言葉があったので一方を剥いでいる内に、アルテアは、もう片方の怨嗟を崩していたのですが……」
「ありゃ、もしかして、角って対で落ちてきたのかい?」
そう問いかけたノアにネアも驚いてしまったが、そんな思わぬ事情を明かしたグラフィーツは、ゆっくりと頷く。
どこからともなくお皿を取り出し、銀のスプーンを手にしたので、ネアは、アルテアを拘束しながらもさっとディノの影に隠れた。
「一対二本だな。空の上の連中には、この国の王経由で苦情は入れておく。焼き切るようにして落とされていたとなると、角を落としたのは、増援として送り込まれた火竜だろう」
「………だろうな。ドリーであれば、落とす部位なんぞ出さないだろう」
「対のものだったとは思わなかった。だから、魔術の輪郭が少し歪だったのだね………」
「まぁ、角を削いだのは、判断としては間違ってはいませんけれどね。凝りの竜の場合、その個体にとって損なわれたくない部分を削ぐのが有効ですが、火竜のような気位の高い竜の場合は、大抵が角か翼でしょう」
グラフィーツは、ディノに対する時だけ敬語になる。
それが新鮮なのか、エーダリアはじっと会話の往来を目で追っていた。
ノアは席に戻り、メランジェのお代わりを貰っているようだ。
「まぁ。では、竜さんを見付けた場合は、そこを重点的に滅ぼせばいいのですね?」
「滅ぼす前提なのはやめないか。…………今のは、悪変や狂乱した個体の力の核を分散させる手法だ。普通の竜を狩る際にそのような事をすると、却って狂乱してしまうかもしれないのだぞ?」
「なぬ………」
エーダリアに窘められたネアは、成る程、凝りの竜と普通の竜とでは違うのだなと頷きつつも、腰に手を回してしがみつき、捕獲した使い魔のこめかみ付近を執拗に見上げていた。
こちらに来てくれたディノも、ネアが気にしている部分を診てくれているので、じっと見つめられたアルテアは既に諦観の表情であった。
ノアが人の悪い微笑みを浮かべているせいか、居心地が悪そうだ。
「ってことは、今回はグラフィーツの方が上手くやったってことかな」
「俺の、災いと祝福の質とは相性がいい。今回の怨嗟は、沈んでいた海の底で何か余計な物を取り込んだようだ。古い世界層のものが混ざると、俺の方が対処がしやすい……………が、どちらかが一人で遭遇すれば、もう少し厄介な事になっただろうさ。そして、あの騎士一人で遭遇していれば、間違いなく命はなかった」
「…………っ、」
その言葉はいっそ冷酷な程で、エーダリアが肩を揺らす。
ヒルドは何も言わなかったが、ゆっくりと頷いた。
二人と行動を共にしていたアメリアは、すぐさま隔離結界の中に放り込まれたらしく無傷だったが、何も出来なかったと項垂れていたようだ。
「……………成る程。海の底で、他の怨嗟を取り込んでいたのだね。本来なら相性のいいドリー達が、空の上のものへの対処に時間がかかったのは、そのせいなのだろう」
「へぇ。だからオフェトリウスを手配したのかい?」
「こちらを見るな。駒の選別はあの男の独断だぞ。元々あいつは、違う世界層への対応に長けている。ヴェルリア王族としての継承知識があるんだろう」
その言葉から、オフェトリウスをウィームに同行させたのがこの国の王様だと知ったネアは、悪夢の日に出会った人の事を考えた。
羊飼いなのだと微笑んだあの男性は、違う世界層のものの扱いに長けているという理由だけで、世界の向こう側を見ていた訳ではないのだろう。
もう一度会いたい誰かを探す為に、そちら側を見定める目を育てたのだという気がした。
「……………そしてアルテアさんは、相性が悪かった為に、髪の毛がなくなってしまったのです?」
「いいか、その言い方は二度とするな。そもそも、毛先が欠けたくらいだろうが」
「この部分を短くすると、印象が変わるものなのですね。……………こう、成果を上げることと最先端のお洒落が大好きで、つんつんしているけれどあまり面白みのない男性という雰囲気に変身です……」
「おい…………」
「わーお。僕の妹が容赦ないぞ…」
「むぅ。いつものアルテアさんには、もう会えないのでしょうか………?」
「怨嗟の浸食があるといけないので、自分で裁ち落としたのだろう。魔術洗浄をかけて取り込めば、すぐに元通りになると思うよ」
魔術汚染のあった部位を切り離しただけの一時的な措置だと知り、ネアは、ほっとした。
だが、いつもの使い魔がイメージチェンジしてしまったというだけでなく、初めて聞く措置でもあるので、やはり心配になってしまう。
「いっぱい食べて力をつけて貰えるよう、ジッタさんのオリーブパンを与えてみましょうか」
「アルテアに……………」
「おい、こいつが余計な事をしないように押さえておけ」
「或いは、一億倍くらいにした傷薬を、頭皮にかけてみます?」
「悪変させるつもりか。絶対にやるな」
「ぐむ………」
ネアは、大事なちびふわ使い魔が減ってしまったのでとても落ち着かないのだが、良かれと思って提案した治療法は全て却下されてしまったので、へにゃりと眉を下げた。
すると、こちらを見て微笑んだノアが、思いがけない事を教えてくれる。
「ほら、前にシルも、自分を削っていた事があるよね。あんな感じだよ。ウィリアムなんかは、魔術浸食があると、腕とかでも容赦なく切り落としてるよね。……………でもまぁ、あれを造作もなく再構築するのは、ウィリアムくらいかな……」
「まぁ。あの方法は、他の魔物さんはされないのですか?」
「造作もなく可能とするのは、シルとウィリアムくらいかな。僕やアルテアでも可能だし、平気なふりも出来るけど、半日くらいはぐったりするね。再構築の対価として、ごっそり体力を持っていかれる感じ。どれだけの消耗があるかどうかはさて置き、完全な再構築そのものが可能なのは公爵位くらいまでだよ。………それと、グラフィーツみたいに、失った部位を他の魔物に取り込まれると、再生は難しくなるかな」
そんな話を聞くと、ネアはわなわなしてしまったが、ふうっと息を吐いたグラフィーツ曰く、戻せない訳ではないが、義手がとても気に入っているので敢えてそのままにしてあるらしい。
「わーお。ってことは、あれも仕掛けなのかな?ほら、手を取り込んだ方の」
「いや、使えなくはないが、面倒なので使わんさ。それに、俺はこの義手が気に入っている。お前が心臓を取り戻さないのと同じようなものだ」
「僕の場合、この心臓は使い勝手がいいだけで、気に入っているって訳じゃないけどね………」
「なるほ………にゃぐ?!」
しかし、何という会話をしているのだろうと呆れていたネアは、その隙に乗じてご主人様の手から逃れようとしたアルテアに鼻を摘ままれてしまい、怒り狂わねばならなかった。
もがむが暴れて、本調子ではなさそうな使い魔はひっくり返して仰向けにしてしまい、しっかり押さえ込んだ上でディノを振り返る。
「制圧しました!」
「……………アルテアを狩るなんて」
「うむ。こうして押さえておりますので、何か必要な措置があれば、今の内に全部やってしまいますね」
「おい!お前の情緒はどうなってるんだ!!すぐに上から下りろ!!」
「うーん。削ぎ落して戻すつもりなら、戻す際に配分が分からなくならないように、今のままがいいんじゃないかなぁ……………」
「………そうなのです?」
ノアの言葉に驚いて振り返ると、こちらを見た義兄が、魔術調整について教えてくれる。
どうやら、裁ち落としたままの方が、元に戻すときに手間がかからないようだ。
「ってことだから、今日いっぱいくらいは、面白みのない男でも我慢してあげるといいと思うよ」
「………無理をしないよう、縛って寝かしつけておくべきでしょうか?」
「やめろ」
「浮気…………」
「俺は、そろそろ帰りたいんだが……………」
どこか遠い目をしたグラフィーツにそう言われ、ネアは、慌てて立ち上がった。
その際、使い魔が逃げないようにしっかりと手を握っておいたところ、アルテアは嫌そうにしながらも一緒に立ち上がってくれる。
「グラフィーツ、来てくれて有難う」
「……………いえ。俺としても、この地を荒らされるのは我慢がなりませんので。それと、確かにアルテアは、外には出さない方がいいでしょう」
「おい、グラフィーツ……」
思わぬ意見に顔を顰めたアルテアに、けれどもグラフィーツが見たのはネアの方であった。
「運命や偶然が助けた者には、物語の作法で満願成就の結びが生まれる。それを祝福と災厄の両面から拒絶出来る俺とは違って、正攻法の魔術隔離では、構築式の展開に時間がかかった。………その怨嗟に触れたアルテアは、表に出すと火の怨嗟を集めるようになる。今日が終わるまではしまっておくといい」
「まぁ。絶対にお外には出しません!」
ピアノの先生でもあるグラフィーツから、少し先生風の口調で忠告を貰ったネアは、この使い魔を逃がすものかとふんすと胸を張った。
ディノとノアも僅かに目を瞠ったので、そのような影響がある事には気付いていなかったのだろう。
「ありゃ、……………そう言えば、そんな物語の作法があったっけ」
「もしかすると、竜の荷馬車の物語本ではないか?あの本にも確か、強い風が吹き上げ、その風に攫われて橋を渡ると、運命が変わる描写があるのだ」
「………おや。竜に纏わる本なのだね。であれば、今回の怨嗟は、成就との結びが強いだろう。その結びに引き落とされないように、怨嗟に触れた髪を切ったのかい?」
「……………多少の結びが出来ようと、その程度で俺が損なわれる訳もないだろうが。……………なんだ?」
「もし、今日お外に出たら、ダリルさんに頼んで、小花柄のちびふわにしてしまいますよ?」
「やめろ……………」
提案した制裁方法が良かったのか、アルテアがうんざりしたような顔になりつつも大人しく椅子に座ったので、ネアは凛々しく頷いておいた。
グラフィーツはこのまま帰るらしく、捕縛中の使い魔の手は離せないものの、ぺこりと頭を下げてお見送りの気持ちをしっかりと伝えておく。
こちらを見て一つ頷いたグラフィーツが立ち去る姿を見ていると、一人で外に出て大丈夫だろうかと心配になってしまったが、こちらの魔物は外に出ても問題ないのだった。
「ネア。私達は、夕刻近くになったら街の見回りに出るが、お前は、くれぐれもここを出ないようにしてくれ」
「はい。私も含め、アルテアさんもお留守番枠に入りましたので、こちらでお家を守っていますね」
「……………ああ。そうだな。私達の家はお前に預けよう」
「エーダリア様達は、もう少しでも休めるのですか?もし、お手伝い出来ることがあれば言って下さいね」
「暫くはこちらにいられるだろう。………ヒルド、連絡はあっただろうか?」
「半刻以内にこちらに来られるようですよ。………ファリエル公爵がこちらに来られるのは、初めての事でしょう。本来であれば、もう少し準備をしておきたかったのですが」
どうやら、リーエンベルクにはお客が来るらしい。
ネアは、望まないお客の場合は追い返すのも吝かではないと目を細めたが、慌てたエーダリアの説明によると、ヴェンツェルとオフェトリウスと共に、そのファリエル公爵とやらが、火竜の王子の怨嗟がウィームに現れた経緯について説明に来るらしい。
「国王派の筆頭貴族だよ。僕の呪いのテーブルの上にいる人間だから、悪さは出来ないから安心していいよ」
「ふむ。それなら安心です!」
「ファリエル公爵もそうなのか……………?」
ノアが口にした呪いは、ヴェルリア王家を呪う塩の魔物の呪いだろう。
ネアは、その領域が、語られているようにヴェルリア王家の者だけが対象という訳でもないのだと、予めディノから聞かされていたが、エーダリアは驚いたようだ。
「そりゃそうだよ。現王家くらいじゃ、王族を切り捨てられたらお終いだ。呪いそのものは、一応、ヴェルリアの人間の全てにかけてあるんだけど……」
「ぜ、全部なのか……………?」
「そうそう。でも、悪さをした途端に捕縛出来る程の対象ってなると、王族から順に高位貴族って感じになるけれどね。後は、あの土地での政治的な階位と魔術的な階位、因果の関係での抽出を拾ってるくらいかな。でも、いざという時にヴェルリア丸ごと呪えるようにはしてあるから、高位貴族については事前に分かっていれば、糸を手繰り寄せやすいよ」
「………そこまでだとは、さすがに私も思いませんでした」
呆然としたようにそう呟いたヒルドに、ノアは魔物らしい眼差しで笑う。
けれども、大事なリンデルを指に嵌めている今日のノアは、ほんの少し前までは、火をじっと見つめる事も出来ない魔物だったのだ。
「引っ張り出す時に他の糸も千切れるから、このくらい掴み易いのが来ないとあまり使わないけどね。そういう訳で、ファリエル公爵は安心して迎え入れていいよ。でも、あの人間は、自分や自分の家族が僕の呪いに触れている事は気付いているだろうし、今の王が、第一王子の筆頭後見人として内々に指名しているくらいだから、僕がうっかり糸を引っ張るような粗相はしないと思うけれどね」
「……………アイザックの贔屓の客だ。必要もなく揺さぶるなよ」
「わーお、そうなんだ。僕としては、別にあの公爵はそんなに嫌いじゃないんだよね。護衛官の火竜は大嫌いだけど」
「ふむ。きりんさんで滅ぼしておきます?」
「や、やめないか!イグナシオは、ドリーの友人なのだからな」
「………その竜さんは、きりんさんを免除しますね」
「浮気………」
「これはもはや直感ですが、ドリーさんのご友人なら、悪さはしないでしょう」
「そんな竜なんて……………」
ネアがドリーの友人を贔屓したので、ディノは少し荒ぶったが、イグナシオという竜は、誤って火竜に生まれた水竜と言われる程に、他の火竜達とは気質の違う御仁であるらしい。
真夜中の座の正時に生まれた竜であるらしく、僅かにではあるが、夜の系譜の資質を有しているそうだ。
「武力を誇示するというよりは、政治に関わる事を好まれる方ですね。ネイは火竜を好まないでしょうし、統一戦争時にも存命ではありましたが、現在の王都ではウィーム派と言われています」
「あいつは、ウィームのインク狂いだからな。インク工房保護の為に、戦後は、ウィーム貴族に成りすましてあちこちの工房を支援していたくらいだ」
「おや、何か拘りがあるようだとは思っておりましたが、あの方はインク贔屓でしたか」
「ほわ、また特殊な人だという気がします………」
ネアがそう言えば、こちらを見たアルテアが、どこか暗い目をして、もし遭遇するような事があれば、決してインクの話に相槌を打ってはならないと言い含めてくる。
聞けば、イグナシオは、自分と同じようにインクを愛する伴侶を探し続けているらしく、竜らしい大雑把さで伴侶かな疑惑をかけてくるのでたいへん危険なのだとか。
「その方は、インク工房の方を伴侶にすればいいのでは………?」
「残念だが、作り手と使い手は違うという持論持ちだな」
「ますます面倒そうな予感がするので、ぽいしておきますね。そもそも、私の中では、ドリーさん以外の火竜さんは、一部の方の印象からとは言え、どちらかと言えば全体的に嫌いという区分なのでした」
「……………わーお」
「ご主人様……………」
「ディノ?なぜ、羽織りものになってしまったのでしょう?私はもう、大丈夫ですからね?」
ネアは、統一戦争の悪夢の中で起きた事を思い出させてしまったのだろうかと思ったが、どうやら魔物達は、冷酷な人間が、いとも容易く火竜そのものを嫌いの区分に仕分けた事が怖かったらしい。
老獪で残忍でもある魔物達が、なぜそんなところで怯えてしまうのかは分からないが、ネアは、そのような大きな仕分けを大事な魔物には適用しないと、慌てて約束してやる。
火竜全般を嫌っているノアまで怯えてしまうのが、たいへんに解せない思いではないか。
カーンカーンと、教会の鐘の音よりも軽い音が響いた。
また、ウィームの街のどこかで火の手が上がったのだろう。
とは言え、先程までとは明らかに外の暗さが違うので、ここから先は、いつもの火の慰霊祭に戻ってゆくのかもしれない。
「グラフィーツさんが帰られた時よりも、随分と周囲が明るくなりましたね」
「うん。まだ火の手が上がるような事もあると思うけれど、既に慰霊祭の魔術が結ばれている以上、後はもう、ゆっくりと鎮まっていくばかりだと思うよ」
そう言ってくれたディノに頷き、ネアは、いい加減手を離すように申請してきた使い魔には手綱をつけて捕縛を続けておいた。
その内にヴェンツェル達がリーエンベルクにやって来たので、ネア達は部屋に戻っている事にしたのだが、連行された使い魔は文句を言っている内に、長椅子でくたりと眠ってしまった。
(久し振りに、ヴェンツェル様にお会いしたかったけれど……………)
今日はやはり魔術の因果や証跡が危ういというので、ネアが外客棟に挨拶に行くことはない。
噂のファリエル公爵がどんな人物なのかも、分からないままだがそれでいいのだろう。
「インク大好きな竜さんは、いらっしゃらなかったのですね」
「凝りの竜の討伐には参加したそうだから、ウィームには来ていても、リーエンベルクに立ち入ることを避けたのだろう。ここにはノアベルトがいるからね」
「むむ。それをご存知の方でしたか………」
「エルトの問題があった時に、リーエンベルクには、元々こちらを訪ねていたドリー以外の火竜は、我々の許可なく立ち入らないという誓約を立ててある。その誓約魔術を結んだのはノアベルトなんだ」
「…………そのエルトさんは、少しお気の毒でしたね。あのちびこさなので、体に負担がかからないといいのですが………」
「竜の宝にした者との魔術の相性がいいから、大丈夫ではないかな」
ウィームには、火竜から花竜に転属したエルトがいる。
前の魂の欠け残りを抱くエルトは、様々な試練を経た後、今はウィームに暮らす花の魔術師と共に暮らしているのだが、今回の大きな火の怨嗟に触れて大激怒で暴れまわり、熱を出してしまったらしい。
ちいさな体で、何とか大事な竜の宝と、共に暮らすその兄を守ろうとしたようで、先程、その経緯がエーダリア達の下に届いたのだ。
この後の話し合いの席で、ドリーにもその報せがあるらしく、ドリーはきっと、愛する者の為に頑張った小さな花竜を、帰りに見舞ってゆくのだろう。
「アルテアさんも、……………早く元気になるといいですね」
「物語の作法に対抗したのであれば、髪を切ったという事以上に体力を削ったのだろう。……………グラフィーツがこちらに残ってくれたのは、アルテアを外に出さないように伝える為かもしれないね」
「先生の忠告に則り、使い魔さんはしまってしまうのですよ」
「……………アルテアなんて」
「ディノは大事な伴侶なので、こうして椅子にしておきます。……………不思議ですね。先程迄、あんなにもずっとはらはらした筈なのに、まだ、午後のお茶の時間にもなっていないなんて。けれども、空がずっと明るくなったので、大きな山場は越えたのだという気がしてしまいます」
「これからはもう、いつもの火の慰霊祭の夜なのだろう。……………ノアベルトは、どうやって寝台に上げるのかな」
「……………む」
ネアはここで、火の慰霊祭恒例の、ノアとの雑魚寝を思い、手綱で繋いでおいたアルテアを見つめた。
ノアはいつも、銀狐になって同じ寝台で寝るのだが、さすがに今日はアルテアもいて危険過ぎるので、個別包装にして人型のまま一緒に寝るしかないようだ。
「アルテアはどうするんだい?」
「……………むぅ。ちびふわにして、リードをつけておきましょうか。四人で並んで寝てもいいのですが、私は、睡眠環境を割と重視する派なので……………」
「ちびふわに……………」
しかし、居眠りから目を覚ましたアルテアは、魔術的に危うくなり兼ねないので、今夜はちびふわにしてはならないと宣言した。
ディノとノアが首を横に振っているので、本当は大丈夫なのかもしれないが、身を損なったばかりの使い魔の主張なので、ネアは受け入れておくことにする。
その夜は大きな事件もなく、ネア達は、リーエンベルクの会食堂で冷たい晩餐をいただいた。
日付が変わる頃に、くしゃくしゃになったウィリアムとグレアムがリーエンベルクを訪ねてくれたので、そんな二人にも泊まっていって貰えば、いつの間にか終わった慰霊祭の日がゆっくりと幕を引く。
そうしてまた、賑やかな一日が始まるのだ。