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星と月と雨のテーブル



「元気そうね、弟子」

「師匠!」



ネアはその日、特別に貸し切りとなったシュタルトの湖水メゾンのレストランで、かつては共にあわいの街で戦ったにゃわなる師匠達と対面していた。


本日のグレーティアの装いは、上着の袖口から覗く美しく繊細なレースがたっぷりとしていて、はりはりとした厚手の絹の上着は上品な艶がある。

つるつるぴかぴかではない、しっとりとした艶の僅かにざらりとした質感の上着は、成る程お洒落上級者のものに違いないという感じであった。


しかし、腰の部分をぎゅっと細く絞った上着から視線を下に下げたネアは、おや、ドレス姿ではないぞと目を瞬いてしまう。

よく見ればいつものお鬚もなく、僅かな目元の皴具合といい、少し華やかめな装いがお気に入りの素敵なおじさまがそこに立っていた。



「……………師匠が、師匠じゃない……………?」

「まったく、あんたは……………。一応は領主様とお父様の正式な会談なんだから、身綺麗にしてきたのよ。私だって、自分の我を通すべき場面と、相応しい装いくらい考えられるんだから」

「そう言われてみれば、ラエタでもそうでした」

「そうでしょう。……………あらやだ、本職だわ」

「……………む。ヒルドさんが……………?」



なぜかにゃわなる師匠から本職疑惑をかけられた森と湖のシーは、目が合ったグレーティアに優雅にお辞儀をしてくれた。

やっぱり何度見ても綺麗な妖精だわとにっこりしたグレーティアに、隣に立っているウェルバは、最古の妖精種の一氏族ではないかと目を瞬いている。



「本日は、ウィーム領まで来ていただき、申し訳なかった」


そう切り出したのは、この会の主催のエーダリアだ。

銀髪に鳶色の瞳のエーダリアに対し、淡い金髪に水色の瞳のウェルバとでは身に持つ色彩はまるで違うのだが、どこかに僅かに似た気配があるのは、二人が魔術師だからなのだろう。


「構わぬさ。今の私はどこにでも行けるし、このメゾンの葡萄酒は美味いと、息子からきいておる。それにお主はもう、私の大事な友人だ。そして、私が暮らすこの国の魔術師長でもある。私も似たような立場であったから、お主の気苦労も分かるものだ」


柔らかく微笑んだウェルバにそんな事を言われてしまったエーダリアは、目元を染めて少しだけおろおろしたが、すぐに段取りを思い出したようだ。

既に面識のあるグレーティアとは違い、この二人は今日が初対面だ。

ネアもそうであったが、ウェルバの幼い容貌とこちらを見る理知的で穏やかな水色の眼差しには不思議な柔らかさがあって、ついつい心を委ねてしまいたくなる。


ずっとこの人を示す言葉は何だろうと考えてきたネアは、今日になってやっと似合う響きを見付けた。

窓の外の静かな霧雨は、なんてウェルバに似合うのだろう。

今は美しい湖に降る霧雨であるが、ウェルバの色彩を例えるのなら、黄金の麦畑に降るやさしい雨のようだとでも言えばいいのだろうか。

間違いなく、収穫間際の雨はいかんと麦農家には叱られてしまいそうだが、何となく、そんな慈愛の深さなのである。



そんなウェルバと向かい合ったエーダリアは、今日は淡い水色の盛装姿で、それは多分、格式ばった装いをしたというよりも、エーダリアなりの大魔術師との食事会への礼儀と意気込みなのだろう。

相手がウィーム領主だからと、ドレスではなく男性貴族のような装いで来てくれたグレーティアとよく似ている心の伝え方なので、グレーティアがエーダリアを気に入っているのも分かるというものだ。


ウェルバとの正式な顔合わせの前に、何度かウィームを訪れてエーダリア達と会談を重ねていたグレーティアは、すっかりエーダリアを気に入っている。

領主としては、いざという時の決断力があるかどうかで僅かな失点と話していたが、その要素については、ダリルを代理妖精にしているので充分に補われているそうだ。



「ムガルを置いてきてくれて良かったよ。ほら、話が進まないからさ」


先に椅子に座ってしまい、そう微笑んだノアに、グレーティアがそうねと頷いている。

一人だけ座ってしまっているノアに呆れたような目を向けるにゃわなる師匠は、ネアが思っていたよりもずっと、お作法に厳しいのだ。


「それは私も同意だわ。ムガルを置いてくる代わりに、テイラムまで留守番させなきゃいけなかったのは、ちょっと可哀想だったけれどね」

「仮にも貪食だ。食事会の為に出掛けると伝えておいて、よく置いてこられたものだな」

「あの二人は、何かと張り合うから丁度いいのよ。テイラムがお留守番なら、ムガルもお留守番。そう決まっているし、テイラムを連れて出掛けるなら、前から約束していた二人だけでのウィームの歌劇場での観劇の約束を果たさないといけないわ。あいつは、それが我慢ならなかったみたいね」

「……………成る程な。ムガルが取引に応じた訳だ」

「そういうこと。……………そう言えば、あなたには、あの日の授業の効果は出ているのかしら。弟子はそれなりに研鑽を積んでいるみたいだけど、あなたは、…………どうも変化が見えないのよね」

「……………は?」


グレーティアと話しているのは、ノアとアルテアだ。

ネアと一緒にグレーティアとの出会いを果たしたアルテアは言うまでもないが、ウェルバが地上に戻ってからは、その人となりを見極める為に、何度か会いに行っているノアも、すっかり打ち解けた様子である。


今日のこの席にアルテアが同席しているのは、グレーティアと顔見知りであるのと同時に、選択の魔物が、古い時代の魔術に明るいひと柱だからなのだそうだ。


本日の食事会は、参加者にとってはただの顔合わせの舞台に過ぎないが、エーダリアがこの国の魔術の長である以上、ある程度は魔術に纏わる話題も上がるだろう。

友人同士の顔合わせに近しいものとは言え、望まざるとも、公式な懇親会としての役割も持たせなければならない食卓なので、そのような場で触れられる魔術の話には、統括の魔物の監視も入るらしい。



(……………それは、エーダリア様が、ただの友人としてではなく、ガレンの長の立場として、一度ウェルバさんに会っておかなければいけないから)



なのでこの最初の食事会は、ただの友人として気の置けない時間を過ごすという訳にはいかない。

きっと少しの気詰まりはあるだろうが、この時代に生きている筈のないウェルバがヴェルクレアに住まいを置くにあたっては、どうしても必要な手続きでもあった。


なので、そんな堅苦しさを思えば、個人的な文通こそを先に始めておいて良かったのだろう。

出会い方というのは、意外に後々の関係に尾を引く事が多い。

ましてやウェルバは、定められた時間の猶予しか持たないのだから、形式ばったやり取りから徐々に距離を狭めるのではなく、早々に友人になってしまうに限る。


そのウェルバは、着席前の挨拶を交わしながら、ネアの隣に立った魔物を見て目を瞬いた。

勿論、部屋に入って来た時にも目にはしているのだが、あらためて見てみたところ、また少しだけ驚いてしまったらしい。


だがすぐに、何かを察したかのような優しい目になったウェルバに、ネアは心の中だけでにっこりした。

やはり、ウェルバはこちら側なのだ。


エーダリアのように、ルドヴィークのように、このネアの大事な魔物をただ恐れず、しっかりと向き合えば、ディノの瞳に浮かぶ表情や、少しだけ落ち着かずにネアに三つ編みを持たせている姿から、何かを感じ取ってくれる。


(でも、……………ディノとは多分、もう既に会ってはいるのではないかな)


であればその時のこの魔物は、擬態をしていたのかもしれない。

ネアがそう考えたのは、エイコーンの一件で、ウェルバ達と様々なやり取りがあったのを知っているからだ。


また、入浴時間にふらりと姿を消しているディノが、アルビクロムを訪れていたのかなと感じた夜もあったので、ウェルバとも直接話をしたのかなと考えていた。



「おお、あなたがこの子の伴侶か。あの日は、塔の中に留まれずにすまなかった。本来であれば、私がダーダムウェルとしてあの場に残り、あなたにこの子を託して終わりであったものを」

「あわいの中で、この子に知恵を授けてくれて………有難う」


それでも、初対面として振舞ったのか、このように会うからこそ、この会話になったものか。

僅かに躊躇い、けれどもしっかりお礼をいってくれたディノに、ウェルバは目を丸くする。

だが、万象の魔物と聞いて驚いていたあの頃より落ち着いているのは、アルビクロムまで人となりを何度も観察に来た塩の魔物のせいで、僅かなりとも白さへの耐性が出来たのだろう。


「救われたのは、我々の方だ。……………あれはどうしようもなく、罪の底の物語であったが、物語の運命を書き換えた子供に出会えたお陰で、私は、最後の時間を愛する者達や新しい友人と過ごす事が出来る」

「……………私からも、あらためてお礼を言うわ。…………ネア」

「はい」


あの時とは違う本当の名前を交換して、こうして交わす言葉にネアは微笑んで頷く。


リンジンの事件程に胸が潰れそうな思いをした出来事はなかったし、今でも時折、夢の中で、遠くに聳える緑の塔と、その下の広場で足元に散らばった失せ物探しの結晶を見る事がある。

別れを告げたウィリアムの表情や、うつ伏せになった終焉の魔物にかけた真っ白な布のはためきも。



けれども、あの日の悪夢のような出来事と同じ盤上には、共に過ごしてくれた仲間の存在もあるのだった。

こちらの世界に来てから様々な人達に出会ったが、ネアがぼすんと抱き着いて甘えられるような包容力を持つ知り合いと言えば、やはりこの二人である。


そんな旅と冒険の仲間からお礼を言われたのだから、まずは慎んでお受けするのである。

確かにあの物語が過去の罪に起因するのである以上、ネアがここで謙遜してしまえば、魔術の作法にも反するからだ。


「けれども、あのような物語のあわいだったからこそ、私が出会ったのがグレーティアさんとウェルバさんだったことに意味があったのでしょう。私もまた、お二人に出会わなければ、細い糸の先のような唯一の救いの先には向かえなかったかもしれません」

「そうね。あの日、あの場に揃ったのが、私とあんただったからこそ、運命を変えられたのだと思いましょ。ムガルはちょっと余計だったけど、あわいの旅の間は役立ったわ。それもこれも、弟子があの魔物を餌付けして下僕にしてくれたからよ」

「ふふ。とても暫定的な下僕でしたが、きっとあの方も、師匠やウェルバさんの長い旅には必要な僕だったのでしょう。そう言えば、この前も、アルテアさんにチャタプを作って貰ったのですよ。あんなに怖い思いをしたのは初めてでしたが、美味しい思い出も持ち帰れた冒険でした」

「チャタプか!それなら今度、特製のチャタプを作ってやろう」

「まぁ。特製チャタプなのですか?」

「……………浮気」

「おい、余分は増やすなよ」


ネアはすかさず制止をかけてくる魔物達にぐぬぬと思ったが、そんな様子に気付いたらしいウェルバがおやっと目を瞠り、得心気味に微笑むと、エーダリアに特製チャタプのレシピを伝授するのであれば誰だろうと尋ねている。


「であれば、……………アルテアだろうか。リーエンベルクの料理人宛てで預かってもいいのだが、恐らくネアにとってはその方がいいのだろう」

「まぁ。では、アルテアさんが、再現してくれるのですか?」

「やれやれだな。お前に任せておくと、肉を入れ過ぎるだろうしな…………」

「む……………。それは、冤罪なのですよ。全ての具材を少し多めに…」

「おお、それはやめておいた方がいいぞ。チャタプには、黄金比という特別な具材配分があるのだ」


ウェルバにそう言われてしまい、強欲な人間はくしゅんと頷いた。


使い魔にはもっと中身を増やしても吝かではないと言えるのだが、こちらはチャタプの本場の国のお人なので、そんなウェルバが黄金比と言うのであれば、是非にそれを食べておかねばならない。



「ウェルバ、ヒルドは初めてだったな。……………彼は私の師で、…………家族なのだ」

「おお、何度も話を聞いておる、森と湖のシーよな。お初にお目にかかる。豊かで古い森と祝祭の湖、そして海と宝石の魔術の気配だのう。グレーティアは我が子だから贔屓目になるのは如何ともし難いとしても、こんなに美しい妖精を見るのは久し振りだ」

「ヒルドと申します。今日はお会い出来るのを楽しみにしておりました。……………そう言えば、先日は、布端の魔術をエーダリア様に教えていただいたそうで」

「ヒルド……………」

「…………ははぁ。さては、何かしでかしたな」


ヒルドの微笑みは冴え冴えとした美麗さであったが、話の中身が分からないネアにも、ウェルバが教えた魔術が何かとんでもない事をしたぞと気付けるようなものであった。

だが、エーダリアが弁解する前に、アルテアもすっと目を細めた。


「おい。単純な生活魔術だが、それは、もうこの時代には残っていないものだ。二度と表には出すなよ」

「……………ふむ。そうであったのか。階位の高い魔術は控えておるが、なかなか難しいのう」


椅子に座りながら首を傾げたウェルバに、その区分を伝えたのはディノだ。


「通常のものと同じ配分の命や魂の付与に類似したものや、修復の魔術領域、運命を直接操作する魔術は禁術となっている。後は、魂の置き換えもかな」

「成る程、それで布端の魔術がそこにかかるのだな。人造精霊はどうだろう?」

「既に在るものを、そのまま模して造らなければ問題ないよ。魂の複写に近しい行為については、恐らく君であっても行動に制限がかかる筈だ。使わないではなく、使えないようになっている」

「ふむ。という事は、それが行える場合は、実際には成功していないのだろう」

「そうだね。布端の魔術は、道具類に疑似生命を与えるものだ。その品物の中に派生を助けるのではなく、隷属としての命を作り与える事は、例えそれが一時的なものでも少し危うい」

「承知した。以降は控えよう。……………ふむふむ。捲れた寝具の端を直すばかりの魔術でも、禁域の端にかかるとは面白いのう」


ネアは、ウェルバに禁術の説明をしているディノを、まじまじと見つめてしまった。

窓からの淡い光に煌めく真珠色の髪の毛の影が落ち、水紺の瞳の艶やかさは、はっとするように透明だ。

魔物らしい眼差しに、その王に相応しい静かな声に、伴侶でありながら思わず見惚れてしまったのだ。


「……………ネア?」


だが、本人は、隣の席の伴侶が目を輝かせて見上げてくるので、少しだけ恥じらってしまったようだ。

少しだけおろおろした後、伴侶は前菜を狙っているのかなと、杏とクリームチーズを載せた小さなサラミを、優雅な手つきでそっと分けてくれた。


「むぅ。このまま貰ってしまいますが、今の凝視は、ディノのお皿の料理を狙っていたのではないのですよ?今の時代から失われた魔術の話をしている私の魔物が、何だかとても素敵だったからなのです」

「ずるい……………」

「またしてもその謎活用に入りましたね!」


そんなディノをじっと見ていたのは、何もネアだけではない。

ウェルバは勿論、魔術師らしく目を輝かせて頷いていたし、エーダリアだって僅かに姿勢が前傾になってしまい、ヒルドに叱られていた。

けれども、この二人の反応こそが、まさに魔術師らしいと言うのだろう。



「……………それらの、失われた魔術の目録を持つのが、塩の魔物だと聞いておる。実はな、このような場を設けられるまで、胸の中にしまっておいた事ではあるが、幾つかの魔術が間違いなくその中にあるかどうか、どこかで確認をさせて欲しいと思っておるのだ」

「お父様……………?」



突然そんな話を始めたウェルバに、グレーティアが目を瞠った。

驚いているグレーティアの方を見ると、少年姿の父親よりずっと大きくなってしまった息子を見上げ、ウェルバは、どきりとするような優しい父親の目をした。


ああ、よくグラストがゼノーシュに向ける瞳だと思えば、ネアは、その温かな愛情の手触りに唇の端を持ち上げる。


二人の悲しい過去を知っているだけに、こんな風に寄り添えている姿を見るのは何だか嬉しい。

また会えると信じていた父親と漸く再会したグレーティアの喜びと安堵は、いつかの、突然家族を奪われたネアの落胆をも僅かに癒したのだ。



「あの時代からこちらに渡った私だからこそ、その責務を果たさねばなるまい。歴史に名を残しはしなかったが、この目で見ていて、なかなかに危うい術式だと思った新興魔術が幾つかある。もし、あの術式がその場では錬成完了となっておらず世に出ていなくとも、その魔術が時間の水で希釈されておらぬのなら、目録に名を連ねる事を検討して欲しいのだ」

「へぇ、そういうことか。…………そう言えば君も、王族だったね」

「そうだ。故に、わが友の立場も分かっておる」

「……………ウェルバ」

「はは、そのような顔をするでない。私はお主よりずっと年上なのだぞ。国の魔術機関の長として、いつか私の存在が望まぬ形で明るみに出た場合の備えをしておかねばなるまい。この成果であれば、管理は人間の手を離れていたが、国にとっても益となる取引きであったと主張出来よう」


(……………あ!)


ウェルバの言葉で、ネアは、ダーダムウェルの魔術師が、なぜ突然こんな話を始めたのかを理解した。

ここは一つの国であり、エーダリアはその国で魔術の領域を治める責任を持つ者だ。

また、元王族としての立場や責務も、どうしても残ってはしまうだろう。


そんなエーダリアが、表には出さずとも、ガレンの長が会談をして居住を許可したという記録を残しておくからには、その上で何か事件が起こった際の駆け引きに使えるよう、ヴェルクレアとしての益を作っておく必要があるのだ。


それをウェルバは、この時代では認識されていないかもしれない魔術の危険を、そのような失われた魔術を管理する塩の魔物に収めたという形で示してみせた。

なぜ議会承認やより広域の判断を仰がなかったのだと責められても、その秘匿を塩の魔物が望んだのだと言えば、ウェルバの管理は人間の領域を外れる。


この場には統括の魔物も同席しているのだから、体裁は完全に整っている。

よって、秘儀という体質を持つ魔術だからこそ、秘密を強いられていたので報告が出来なかったが国益を得られるような契約であったと、完全な事後報告とする事が可能なのだ。

ガレンエンガディンが、人知れず、国や国民を守る為の魔術の取引きの場に立ち会っていたというだけの話になったという、その瞬間であった。



「それなら、今でも構わないよ。ただし、固有魔術の名前に触れるものについては、魔術暗号での確認にしようか。名前そのものが魔術式になっているものもあるからね」

「おお、では是非に」


全てを飲み込み快諾したノアに、ウェルバが安堵の表情になる。

ネアとしては、失われた魔術の目録をノアが持っているという事も初耳であったのだが、そう言えば以前、ネアが死者の国に落ちた際に、その中に入れるような死者の薬を作れると話していたのは、やはりノアであった。


また、ノアが魔物として持つ道具が魔術書なのだとしたら、書物程に目録に相応しいものはない。

記録の魔物というものもいるにはいるが、魔術そのものの原初を司るノアだからこそ、管理するに相応しいものなのだろう。


(……………あ、でもエーダリア様が驚いていないのは、さては知っていたのだわ……………)



仲良しではないかと頷いていたネアの前に、会話の合間の合図を受け、給仕が持ってきたお皿が、ことりと置かれる。


まずは、シュタルトのメゾンから、食前酒の作り立て葡萄酒がふるまわれ、料理人からの挨拶の一品として、小さなジャガイモパンケーキが出された。


もっちりむちむちの小さなジャガイモパンケーキのようなものの上に、生クリームのようにきゅっと絞った、淡いピンク色の燻製鮭のクリームが乗っている。

上にはちょびりとフェンネルが載せられ、その鮮やかな緑とピンク色のクリームの対比が美しい。


絶対に美味しいと確信したネアはまずは半分をいただき、作り立て葡萄酒の瑞々しい果実の味わいと共にむふんと酔いしれた。



「……………おいしいです!」

「可愛い……………」

「あら。確かに、もの凄く美味しいわ。どこか素朴だけど、上品だし香りもいい。これ、うちでも再現出来ないかしら…………」


ぱくりとパンケーキを食べ、グレーティアが笑顔になる。

葡萄酒を一口飲み、ウェルバもおおっと目を輝かせた。


「……………これは美味いのう」

「お父様って、こういう果実味のある葡萄酒、好きよね」

「ああ。昔はよく、収穫祭前にこのような造り始めの葡萄酒を飲んだものだ」

「シュタルトでは、冬の系譜の葡萄酒の他にも、この時期から作り始める春の祝福を宿した葡萄酒も多いのだ。秋摘みの葡萄酒もあるが、珍しいのはこの時期のものだと言われている」


領主らしくエーダリアが説明すれば、グレーティアも葡萄酒を飲み頷いている。


「私は、もう少し重い方が好きだけど、お父様とテイラムが大好きな味ね。……………ただ、この状態の葡萄酒だと、完全に封をしない方がいいんじゃない?エシュカルと同じで、流通は難しそうね。アルビクロムには入ってこないのかしら?」

「店で出すものと、メゾンで限定販売するものに限られるそうですよ。宜しければ、帰りに何本かお持ちになられては如何ですか?」

「ええ。是非そうさせて貰うわ。テイラムが喜ぶもの」

「……………グレーティア、ムガルにも買っておいてやるのだぞ」


ウェルバにそう言われ、グレーティアは少しだけ遠い目をしていた。

買っておいた方がいいことは分かっているのだろうが、あまり気は進まないようだ。


ネアは、淡く微笑んだヒルドの視線の落とし方から、きっと既にお土産の葡萄酒は用意されているのだろうなと考え、心の中だけでにんまりする。


(きっと、食事の中で二人が好む葡萄酒があれば、それをお土産にするようにと手配済なのだろうと思う)


また、グレーティアであれば、そのような準備がある事くらいはお見通しだろう。

渡す側も受け取る側も、大人の社交に慣れたさらりとした佇まいである。



次に出て来たのは、キッシュや自家製ハムの前菜の一皿で、ネアは、ウェルバが、こちらの時代で暮らし始めてから苦労したことなどを披露するのを聞きながら、食前酒と交代で現れた湖水メゾンのシュプリを楽しんだ。


ハムは厚めに切られており、炙りで食べるそのままの部位と、葡萄酢でいただくさっぱり部位と、脂の多い部位を夜明かりの蜂蜜で濃厚にいただく部位との三種類という素晴らしさであった。


もう一品はむっちりとした一口ケーキのように切られた新鮮なチーズで、そのただの一欠けらのチーズの佇まいが、飾り気のない料理たちを、どこか素朴な一皿に見せている。

しかしネアは、この素朴そうな面立ちのチーズが、たいそう珍しいもので、実はなかなかに高価であることを見抜いていた。


(豪華さを主張せず、温かくて寛げて、けれども心を尽くした料理。エーダリア様の好きそうなものばかりだわ……………)


続くスープが古典的なグヤーシュだったので、ウィームらしい料理を中心に構成されているようだ。

葡萄酒にチーズにハムと来ているので、グラタンやパイなどもあるかもれない。



「さてと。この辺で済ませておこうか。…………君が気にかけている魔術の話を聞くよ」

「……………では、最初の魔術だ。これは、林檎と盃の魔術の、七式寄りと言えばいいだろうか」

「ああ、犠牲と愛情の系譜かな」

「サハーンの戯曲で言えば、十七節になる」

「うん。それなら目録にある。災厄と狂乱を司るし、ろくな魔術じゃなかったね」

「では、死者に擬態する為の、水薬はどうだろう」

「うん。それもこちらにあるよ」

「祝祭の朝に産まれる、その祝祭の子を使った円環と悪変の魔術がある。犠牲の魔術と成就にあたるのだろうか。巡礼者達を生み出す為に最初に構築された術式だが、原初の理論は実現不可能であった。その焼き直しになるが、祝祭の贄から生み出される怪物の錬成がある」

「……………あー、それは、ちょっと後で話し合った方がいいかもね。シルとアルテアもだけど、ウィリアムとグレアムもいた方がいいかな」

「その原初の形の術式は、この世界の魔術の理では不可能とされている。ただ、可能なだけ薄めた魔術が叶うのであれば、そちらも取り除いておいた方がいいだろう」


ネアが、何か困った物が産まれかねないのだなと思いながら聞いていると、説明を引き取ったディノがこちらに視線を戻し、サン・クレイドルブルクの悪夢の中の成果物は、同じような目的で白夜の魔物が作ろうとした結果、生み出された魔術的な廃棄物である可能性が高いと教えてくれた。



「まぁ。あのカードの中にあったものも、そうだったのですね……………」

「祝祭の王であるクロムフェルツが自ら回収したということは、彼が、祝祭の庭で葬るべきだと判断したくらいには危ういものだったのだろう。私達が気付かず、彼が回収してくれていなければ、後の時代に大きな災厄を招いたかもしれない」

「うん。祝祭っていうのは、この世界の魔術の理の上での特異点でもあるからね。非ざるものが現れ、ここではないどこかに繋がるとか、叶わない筈の願いが叶う特別な日っていう世界周知が、魔術の理を塗り替える日なんだ。今のところ、怪物がいてもいい季節の祝祭は夏至祭だけだから、イブメリアは困るかなぁ」


その夏至祭の怪物については、ネアも見た事がある。


「……………あの、花輪の塔の上にいた奴めですね」

「そうそう、そんなの。夏至祭については、あわいの向こうからのお客って認識だから、まだいいんだよ。ただ、イブメリアは、再生や生誕を司る祝祭でもあるから、そこで間違いがあるとさ、この世界には存在しない筈の生き物が派生するかもしれないって訳」

「……………そうなのだ。だからこそ、あの若い魔術師達は、祝祭魔術の力を借りて、その唯一の到達者にならんとした。私も悪変を取り込んだ故、強くは言えぬが、可動域や固有魔術を上げる為のそれと、全く未知のものに生まれ変わるそれとではまるで違う」



とは言え、その目論見は成功しなかったようだが、そんなものを目指した者達とウェルバの間には、どんな因縁があったのだろう。


遠い目をしたウェルバが、彼等が道から外れたのは、一人の愚かな王族が、全ての季節と生誕の祝福と終焉の守護を持つ祝祭の怪物を作りたいと言い出したことが発端だったと教えてくれる。


宴の席での事だったし、さすがにそれは荒唐無稽なおとぎ話であったが、その中の一つの要素であっても充分ではないかと言い出して研究を始めたのが、後に、熊の手や虎の尾など、様々な会派に分岐する巡礼者達なのだそうだ。



「……………エーダリア様」

「………い、いや、後学のためにだな」


話の内容がずしりと深くなると、ついつい、しっかりと手帳を出してメモを取りたくなったのだろう。

もそもそとメモをしていたエーダリアはヒルドに叱られてしまったが、苦笑したウェルバが、その気持ちはわかるぞと頷いているので、今日は味方がいるようだ。


(……………おや?)


シュプリのグラスにそっと触れ、ウェルバが小さく微笑む。

当代第一席の魔術師は、葡萄酒も一杯いただいていたが、この、雨の日の葡萄畑の祝福が煌めきとなって宿るシュプリが気に入ったようで、引き続きこちらを飲んでいた。



「先程のチーズには、星の祝福が入っておったな。そしてこの料理は…………、」

「……………ああ。月食み牛のパイなのだ。却って無作法かとも思ったが、古いしきたりではそうするのだと聞き、料理人に頼んでみた」

「懐かしいもてなしを久し振りに受けた。……………我が家でも、この子が時々、同じようにして料理を揃えてくれるのだが、そこはまぁ、家族なのでな。……………こうして、友人からふるまわれると心が弾むものだ」

「私も、こういうもてなしは好きよ。魔術師とは色々あったお父様と、いつの間にか仲良くなっていて驚いたけれど、こんな気遣いを出来るような魔術師なら、そりゃお父様も仲良くもなるわね」



星と月、そしてその日の天気を反映した料理や酒をテーブルに揃えるのは、今はもうないラエタという国に於いて、親しい友人や親族などへの振舞いだという印だったのだそうだ。

公式な宴席などでは、それらの揃えがあるかないかで、相手と自分の距離を測る事も出来る。


その古い作法を、エーダリアはノアから聞いたという。

また、ネアがラエタの悪夢から持ち帰った本にも、似たような記載があったそうだ。



(今日は霧雨が降っているから、雨の祝福のあるシュプリにしたのだわ…………)



「……………いつか、ルドヴィークと三人で食事でもしたいのう」

「ああ。……………いつか、きっと」

「はは。楽しみがまた一つ増えたな。統括の魔物には、チャタプの作り方も教えないとだ」

「アルテアさんが、頑張って覚えてくれる筈です!」

「……………言っておくが、俺はこいつの専属料理人じゃないからな」

「ふむ。私の食卓は、リーエンベルクの料理人さん成分が多いので、どちらかと言えば、アルテアさんは、お料理上手の魔物さんという認識でしょうか…………」

「あ、アルテアが使い魔なのは知っているから、話して平気だよ」

「では、お料理上手な使い魔さんですね!」

「やめろ」



最後に出てきたのは、硬めに立てた生クリームを添えたチョコレートケーキで、中には杏のジャムが入っている。


小さめである代わりに満足感のある美味しいケーキを食べながら、最後はただの仲良しの輪のようにお喋りをし、短い顔合わせの食事会は終わった。


魔術的な結びや凝りが出ないようにと配慮され、制限時間があったのが残念であったが、楽しい時間にすっかりほくほくしていたネアは、別れ際にグレーティアから、何とも上品な淡いパステルカラーの縄を五本も貰ってしまい、ぴしりと固まってしまう。



「にゃわ……………」

「ああ、でも彼には駄目よ。彼はこっち」

「……………ほわ。アルテアさん用には、紫の縄が授与されました」

「おい。こちらを見るな。俺は関係ないだろうが」

「終焉の魔物は、これでもいいかなと思うのよね」

「わーお。黒い縄とか、かなりの玄人感だよね。……………僕、このラベンダー色のでいいや」

「ぐるる…………」

「何か、魔術的な道具なのだろうか……………」

「……………ぎゅ。魔術的な興味がありましたら、エーダリア様にどうにかして栞の魔物さんの祝福を引継ぎたい所存です……………」

「…………っ、そちら用か!」


ネアに渡された縄が何用かに気付いてしまったエーダリアは、僅かに目元を染めて、お主はこっちだなと手招きをしたウェルバの方に避難してしまうではないか。


合計七本の縄を手にしたネアは、ふるふるしながら足踏みする。



「にゃわ、……………にゃわりません!」



精一杯そう主張したネアは、その縄はどこかに結んだりするのかなと首を傾げていたディノに気付き、命綱などにする用途のものだと慌てて説明してしまい、うっかり、有事の際の縄での捕獲運用を後押ししてしまったのだった。







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