予防接種と毛玉戻り 2
「おや、眠ってしまったのかな」
「まぁ。チーズケーキもいただいて、安心してしまったのかもしれませんね」
会話が途切れ、さて店を出ようかなと思ったところで目をやれば、銀狐の姿をした塩の魔物は、ディノの膝の上ですやすや眠ってしまっていた。
毛皮の会の会員の筈であるグレアムが若干微妙な表情なのは、このもふもふが、本来はノアだと知っているからに他ならない。
だが、ウィーム中央の領民の何割が知っているだろうかという繊細な問題に於いて、なぜか疑いもせずに銀狐を純粋な銀狐として愛でているアルテアは、そんな銀狐をひょいと抱き上げる。
今度はネアが少しだけ表情筋に頑張って貰わねばならなかったが、そこは人間らしい狡猾さでぐっと堪えた。
このお店の支払いはネア持ちであるので、ネアがお会計を済ませる。
こんな時に魔物達の対応がいいなと思うのは、理由があってのネアの支払いのものまで、無分別に奪い取っていかない事だ。
それは、一杯の紅茶と美味しいチーズケーキを今日のお礼として受け取ってくれるアルテア然り、伴侶であるディノや、たまたま隣の席にいるグレアム然り。
きっと人間の感覚ではひっくり返って息の根が止まってしまいそうな資産を持っている筈なのに、こんな小さなお支払いでふんすと胸を張る人間を、ちゃんと見逃してくれるのが嬉しいではないか。
(……………だってこれは、お礼で贈り物なのだ)
そんな贅沢を出来ずにいた頃の記憶は今でも鮮明で、大切な人やお世話になった人に適切な挨拶や心配りが出来るようになるということは、ネアにとっては、とても意味のある事だった。
それは多分、美しいと思った花を買える事や、ちょっと奮発して暖かいセーターを買えるという事とはまた違う、相手のいる贅沢さでもある。
さわさわと、柔らかな風が街路樹の枝葉を揺らす。
テーブルの上には、淡いピンク色の野の花が飾られていた。
特別な花ではなく、よく森や公園で見かける可愛らしい花を小さな一輪挿しに生けてあるだけなのだが、それがまた春らしい可憐さで何だか嬉しくなってしまう。
そんな風に心を緩めていたネアはきっと、春の予防接種が無事に終わり、ほっとしていたのだと思う。
だからこそ、これから予防接種会場に向かう獣たちのギャオウギャワンという大騒ぎを聞きながら、ディノの腕の中ですやすや眠る銀狐をにっこり見守れたのだし、ディノが銀狐を抱いているのでと、なぜかアルテアの腕に手をかけることを厳命されながらも、軽やかな足取りで帰り道を歩いていた。
「……………む」
「……………何だ。もう事故るなよ」
「まるで、今日の私が数々の事故に巻き込まれてきたような言い方ですが、そんな事はないのですよ。ただ、………恐ろしい記憶の扉にかかる情報を得てしまっただけなので、見なかった事にしますね」
「銀狐カードか。散財も程々にしておけ。場合によっては、狩り相当の金額を飛ばしてるだろうが」
そこは、銀狐の専門店の前の歩道であった。
残念ながら本日の予定数を終えたのか、今日は予防接種日限定の配布を行なっている様子はない。
勿論その配布目当てでこの道を通ったネアはがっかりしつつ、ふと店頭に飾られた春の限定銀狐カードを見てしまったのである。
ネアは開きかけた心の扉をしっかり閉め、その場から立ち去ろうとしていた。
だが、その話は一度もしたことがない筈のアルテアが、事も無げにその秘密に触れるではないか。
呆然と目を瞠り、そろりとアルテアを見上げると、呆れたような目をしている美麗な魔物がそこにいる。
未だに黒髪にちび結びの擬態のままだが、こちらを見る瞳の色はいつものアルテアのままだ。
「……………なぜ、知っているのです?」
「お前の上司から、あの手の籤ものに過分に入れ込む場合は、心に大きな不安を抱えていると聞いた事があるが、どうなのだろうと聞かれたからな」
「な、なぬ……………。そちらにも、明かしておりません……………」
「店で買えば、店主からギルド長経由で伝わりかねないだろう。或いは、領民や騎士達が見ていた可能性もあるだろ。それでどうやら、お前の精神状態を案じたらしいぞ」
「…………ネア、不安だったのかい?」
「わ、わたしのこころは、とてもすこやかなのですよ!」
「……………まぁ、だろうな。エーダリアには、自分の領域のものに対して執着が強く、強欲過ぎるだけなんだろうと答えてある」
「……………ぎゃふ」
まさにその通りなので、ネアはかくりと項垂れた。
よく考えれば、重なった銀狐カードを何回もトトラに送っているので、郵便舎の職員にも、銀狐カードをどれだけ購入しているのかが読まれている可能性がある。
また、カードを買いに行く度に見かけるご婦人や、目の上に小さな傷のある男性などもいるので、同じような病に冒された人々には、仲間として面が割れている可能性もあった。
「だが、ある程度資産管理は考えておけ。重なったものをさして執着なく手放すくらいなら、それは無駄な出資だ。資金が潤沢ならある程度は余白の内だが、過ぎる程のものであれば手元に残るようなものを買え」
「……………くすん」
続いた言葉もぐぅの音も出ない程の正論で、尚且つ、投資に長けた魔物らしい忠告であった。
ネアは、かつては紅茶すらまともに飲めなかった人間が、どうして稼ぎ始めた途端に銀狐カードにはまってしまったのだろうという恐ろしい現状を振り返り、唇をぎゅっと噛み締めてこくりと頷く。
これでもかなり多くの限定カードを見送っているし、参戦したのはまだ四回だ。
ただし、その四回の挑戦が恐ろしい程に運がなく、購入枚数がちょっぴり洒落にならないだけなのである。
(……………でも、欲しいと思うくらいのカードは全部見送っていて、どうしても欲しい時にしか買っていないのに、一度も当たっていないからなのだ)
だからネアは、きっと籤運は溜め込まれており、今度こそ一発で引いてみせると意気込んでしまうのに、やはり当たらない。
頭に来て何セットか買うともう、その投資額を回収する為に後には引けなくなり、最終的に自己嫌悪のまま敗退による撤収となるのだ。
「……………それなら、エーダリアかグラストに買わせておけ。その手の引きはいいだろう」
「自分で買わないと駄目なのですよ…………。それでは、手に入れた時の喜びには出会えないのです」
「お前の場合、一度も出会えていないがな………」
「……………くすん」
「とは言え、いい傾向だ。……………あまり選択が正確過ぎても、どこかで運命の魔術の均衡が崩れる。支障のない範囲で引きの悪さを残し、その上で土地の収益になるからな」
「……………いい傾向?」
思わずそう問い返してしまったネアは、今だけの限定で、人間の祟りものになれたかもしれない。
だが、ご主人様の表情のあまりの暗さに僅かに怯んだ様子は見せたものの、すぐに呆れたような表情を取り戻したアルテアが、ネアの手元にだけ、一向にお目当ての銀狐カードが現れない理由を推理してくれる。
「ウィームの土地の資質に対し、収穫というテーブルの上でのお前は得るばかりだろう。その点、カードへの支払いは分かりやすい対価になる。土地を豊かにする支払いという意味で、妥当な範囲だな」
「……………ぐ、ぐぬぅ!狩りの報酬だって、あちこちで散財しているのですよ!!」
「それは、言い方を変えれば交換だ。対価という程の線引きにはならん」
(と言うことはまさか、……………私は、狐さんのカードでは永遠に欲しいものを買えないのでは…………)
悲しみのあまりふるふるしているネアを、隣を歩くディノが心配そうに見ている。
だが、アルテアの指摘を否定する様子はないので、ディノの目線で見ても、この籤運のなさは、土地への対価としての支払いになっているという認識なのだろうか。
「いいか、益と不利益もある程度は吊り合わせておけ。おまえが損なわれ難いのと同様に、お前が事故に遭い易いのもそのような天秤でもある」
「……………もし、次のイブメリアの限定カードにも出会えなかった場合、私はそろそろ祟りものになるかもしれないのですが、それでもいいのですか?」
「いや、ならないだろ」
「ご主人様……………」
「な、なるかもしれないではないですか!!」
「ほお。イブメリアの舞台や食事を放棄しても?」
「……………イブメリアは見逃して差し上げましょう!その次の限定カードです!!」
「どれだけ買うんだよ……………」
そう言われたネアは、これでは、自分でもずっと限定カードを引き当てられないと思っているかのようではないかと気付き、ぞっとした。
これはもう世界的な陰謀に違いないので、一度だけザハのお目当てのケーキが売り切れていたくらいの運と引き換えに、早急に改善するべきである。
「………くすん」
「カードが手元に届けばいいだけではないのだものね………」
「ふぁい。自分で買いたいのです。………そして、狐さんは家族なのですから、私にだって限定カードが当たるべきなのですよ………」
「その考えが、注ぎ込む原因の根本だな」
「ぎゃふ!」
世界の無情さに気付き、悲しみに打ちひしがれてとぼとぼと歩いていたネアは、ふと、忙しない靴音に気付き顔を上げた。
その途端、隣を歩くアルテアにひょいと持ち上げられ、むぐっと眉を寄せる。
慌てて肩に手をかけ、乗り物の上での安定性を高めた。
「……………街の騎士だな」
「そのようだね。……………いつもとは様子が違うので、何かあったのかもしれない」
そんな魔物達のやり取りを聞けば、ネアは、慌ててきりりとする。
塩の魔物の筈の銀狐は、ディノに抱っこされたままぐぅぐぅ寝ているが、魔物達が街の騎士の様子を警戒するとなると、何か問題が起きているのかもしれない。
だが、聞こえてきていた靴音の主だと思われる街の騎士は、ネア達の近くをそのまま駆け抜けていった。
無関係であれば一安心かなと思ったところ、はっとしたように立ち止まり、ゆっくりと振り返ってこちらを見るではないか。
まだ若い騎士のようで、ネアを一瞥してから魔物達を見ると僅かに青ざめ、その後、ディノの腕の中の銀狐を発見して、これで間違いないとでもいうかのように、こくりと頷いている。
そして、怖々と歩み寄ってくると、恐ろしい事を告げた。
「…………ネア様とお見受けしますので、情報をご共有させて下さい。実は、予防接種会場から毛玉戻りが一塊脱走しておりまして、注意喚起を出しています。…………このような場合に、…………その、………たいへん事件の誘引性の高い方だとお聞きしていますので、どうかお気をつけ下さい」
そう伝えると、ぺこりと頭を下げて走り去ってしまった青年騎士は、どうやらその脱走毛玉戻りを探しているらしい。
何と不穏な予言めいた忠告をするのだとわなわなしているネアに、アルテアもとても遠い目をしている。
「………ひとまず、リーエンベルク迄送り届けてやる。騒ぎを起こすのなら、その後にしろよ」
「皆さん、私が騒ぎを起こすような言い方ですが、毛玉戻りなど知らないのですよ?」
「シルハーン、近くに気配はないか?」
「……………うん。ただ、あの階位の者の分割体となると、正確に探し出せるのはゼノーシュくらいだと思うけれど、この近くにはまだいないのではないかな。でも、何かに覆われてしまったり、どこかに入ってしまうと気配が掴めない階位のものだね」
「やはりそうか。………遭遇しないようにするしかないな」
「………ずっと不思議だったのですが、分裂した途端に周囲が毛玉まみれになる以外に、その、毛玉戻りさんは何か害を為すのですか?」
ネアは、ずっと不思議だったそんな事を聞いてみた。
先程の騎士は、一塊という表現をしたので、脱走した毛玉は、少なくはないものの全体の内の一部なのだろう。
であれば、通行人を襲ったりでもしない限り、さしたる被害にはならない気がしたのだが、捜索の様子はどこか切羽詰まっていた。
(もしかすると、一匹でも戻らないとあの毛織りの獣さんが元に戻れないとか、悲しい事になるのだろうか………?)
だが、そんな問いかけを受け、アルテアはふうっと息を吐くではないか。
それはまるで、これから、気乗りしないものの恐ろしい過去を語らなければならない人のような、酷く重たい溜め息であった。
「……………いいか、その毛玉戻りは、逃げ隠れする為に脱走するんだぞ?」
「む。であれば、尚更にどこかで大人しくしているのでは?」
「追われていて、安全な隠れ家を探している毛玉戻りの近くを、偶然、無防備な状態で通りかかってみろ。どうなるかの想像は難くないだろうが」
「……………む。…………毛玉戻りさんが」
すぐに想像出来なかったので、ネアは、自分が毛玉戻りだったらと考えてみた。
すると、今すぐにでも、ポケットというポケットを探って、毛玉的な闖入者がいないか確認したいような気持ちになった。
「毛玉戻りは、何も知らない獣や人間に取り付いて、より遠くへ逃げようとする習性があるんだ。いい隠れ家を見付けると、残った個体を呼び寄せてしまう」
ディノが重ねて教えてくれた事に、ネアは目を瞬いた。
最後の説明がとても不穏なので、どうしても確認しなければならない事がある。
「………もう、捕縛されている毛玉さん達は、集まってきませんよね?」
「一匹でも取り逃がすと、そちらに全てが移動出来てしまえるんだよ。何しろ、元々は一個体だからね」
「それはもう、ホラーの領域なのでは……………」
か弱い乙女を震え上がらせるには充分な情報であったが、そもそも、あの狼は毛織の獣なのだ。
毛織物が作り上げられる手間や工程が、毛玉戻りという分割個体を生み出したと言っても過言ではない。
ウィームの織物は、出来上がった状態のままで長く使えるのでそこ迄でもないものの、土地によっては、上質な毛織物は解いて糸を洗浄し、再び新しい織物になったりもする再利用や循環の可能な継承財産だ。
その、解いた物が元通りになるという特性が、取り逃がした毛玉戻り一匹の元へ、他のすべての毛玉戻りが集まってしまうという現象に繋がるのだとか。
毛織物の再利用については素敵な話だなと思って聞いていたネアだったが、説明の結びでもう一度震え上がってしまった。
「……………と言うことは、アルテアさんが、また毛玉まみれに……………」
「なった事はないだろ」
「あら、近い経験は何度もあるではないですか。脱脂綿妖精だって………」
「いいか、その話は二度とするな」
「むぅ。少しだけ心の傷になっています。………ディノ?」
「……………脱脂綿妖精のようになってしまうのかな」
「まぁ!すっかり怯えてしまいましたので、早くリーエンベルクに戻りましょうね」
「ご主人様……………」
脱脂綿妖精がとても苦手なので、すっかりしおしおになってしまった魔物に、ネアは、早めの避難こそが肝心であったのだと真っ直ぐに前を向いた。
リーエンベルクの敷地内に入ってしまえば、排他結界によって外部からの侵入は難しくなる。
街の騎士達が捜索をしている中で申し訳ない事ではあるが、部外者は、早々に避難させていただこう。
三人は顔を見合わせ、静かに頷き合うと、足早にリーエンベルクを目指した。
もしその時に失念している事があるとすれば、毛玉戻りという名称から思い描ける、その形状についての考察であったのかもしれない。
「つ、着きました!もうこれで、毛玉の危険とはおさらばです!!」
「……………うん。遭遇しなくて良かったね」
「お前なら絶対に引き当てると思っていたが、普通に帰れたな……………」
それは、予防接種後の銀狐を慮り、後少しだからと転移は使わずにリーエンベルクに帰ってきたネア達が、正門を入り、安堵の息を吐いた瞬間の事だった。
たまたま敷地内の警備で近くを通ったらしいゼベルが、ぺこりと会釈をして通り過ぎようとした直後、物凄い形相でこちらを振り返るではないか。
何事だろうかと驚いていると、こちらに全速力で走ってきたゼベルが、びゃんとなって立ち尽くしているディノに飛びつき、何やら、ディノが抱えている銀狐のあたりでもしゃもしゃしてから、今度は正門の方へ走って行った。
アルテアに持ち上げられたままだったネアには見えなかったが、一体何が起きたのだろう。
あまりの唐突さにネアが呆然としていると、門の方では、わぁっと声が上がった。
放り込めだの、放り投げろだの、何やら大騒ぎしている騎士達を振り返り、ネアは、一言も発せないまま立ち尽くしている魔物達の表情をそっと窺う。
「……………な、何があったのでしょう?狐さんをもしゃもしゃしていました?」
「……………ノ……………狐が、毛玉戻りを一つ、咥えたまま眠っていたようだ」
「……………は?」
「ボールと間違えたのかな……………」
「狐さんが、……………ボールと間違えて………」
ネアはここで、そのお口の中にいた毛玉戻りは、果たして生きているのだろうかと不安でいっぱいになったが、魔物達は違う理由で慄いていたようだ。
すぐに、安堵の表情でゼベルがこちらに戻ってくると、先程の毛玉戻りは、仲間を呼んでもいいように大きな遮蔽布の袋に投げ込んで封をしてあると教えてくれる。
ネアは魔物の王様と第三席の魔物がいても気付かなかった危険を見つけてくれたゼベルに、慌ててお礼を言った。
「ゼベルさん、気付いて下さって、有難うございます」
「いえ、今のは、エアリエルが気付いて教えてくれたんですよ。銀狐の口の中だったので、魔術追跡や確認も出来ませんし、呼吸で漏れる僅かな気配に気付けたのは、エアリエルだからでしょう。毛玉戻りは、以前も、女性の結い髪の中に紛れて隠れていた事があるんで、なかなか巧妙なんですよ。危ないところでした」
「……………有難う」
ディノからもお礼を言われ、ゼベルは少しだけ照れたように笑うと、では、あちらの毛玉戻りの返却について話をしてきますねと門の方へ戻ってゆく。
危うく、毛玉の大群をリーエンベルクの中に呼び込んでしまうところだった魔物達はすっかりよれよれになっているが、気持ちよく眠っていたところを、いきなりゼベルに口をこじ開けられた銀狐も、涙目でけばけばになっている。
ネアは、ばくばくする胸をそっと押さえ、じわじわと実感が湧いてきた恐怖をなんとか鎮めた。
「隠れていたのかな………」
「……………と言うより、狐さんがボールと間違えてお口に入れたというのが、正しいのでは…………?よく見えませんでしたが、ゼベルさんが手にしていた物は、ちびボールめいた、鮮やかな青色の毛玉でしたものね……」
「……………食べてしまわなくて、良かったね」
「その場合は、狐さんのお腹の中に仲間を呼んでしまうのですか?」
ネアがそう考えたのは、前述の話からすれば当然の流れだが、そんな事を考えたネアに魔物達は震え上がってしまったようで、なぜかとても繊細になった高位の魔物達の手で、ネアはすぐに部屋に戻された。
騎士達からの報告があり、銀狐を案じて部屋を訪ねてくれたエーダリアによると、毛玉戻りは、うっかり食べられてしまった場合はそこで消滅となるので、お腹の中で増えたりはしないのだそうだ。
捕食されただけ本体の大きさは縮むが、三分の一以上失われなければ、一個体に戻れるらしい。
そんな説明を聞かされていたネアは、何だか背筋がもぞもぞしてきたので、毛織の獣の話はそこで終了とさせて貰う事にした。
「毛織り獣さんは、ちょっと苦手かもしれません………」
「うん。………分裂してしまうからね」
「ふぁい………」
「…………暫く部屋にいる。パウンドケーキは、夜でいいだろ」
「む、………本日はお泊まりなのです?」
「報酬を忘れるなよ」
その日は、パウンドケーキの報酬もあったのでアルテアはリーエンベルクに泊まったのだが、ネアの記憶では、パウンドケーキを包んで持って帰る予定だった筈だ。
これはもう、うっかりどこかに潜んでいるかもしれない毛玉を自宅に持ち帰る事を恐れ、一人にならずに済むリーエンベルクに留まったのではないだろうか。
その晩、予防接種も無事に終わってご機嫌になった銀狐は、何度か遊んで貰おうとボールを咥えて走ってきては、ディノとアルテアの動きを止めていた。
毛玉戻りは、予防接種会場にいた獣医師の持っていた敷物入れの中で大集合してしまい、入れ物をばりんと壊して転げ出たところを捕縛されたそうだ。
幸いにも、その頃には毛織りの獣の晩餐の前のお散歩時間になっていたらしく、予防接種はそう言えば終わったのだったと思い出した獣は、すっかり落ち着いてわふわふと飼い主の周りを走り回り、お散歩を強請っていたという。
ネアが見た時には死んでしまっているかのようだった飼い主は、強打した顔面を騎士達の持っている傷薬で治癒して貰い、会場の人達に頭を下げてから、ご機嫌になった毛織りの獣に引き摺られるように散歩に行ったそうだ。
たいへん不可思議な生態の毛織りの魔物は、代々受け継ぐ毛織物を持つ一族の元でのみ、派生する獣であるらしく、財産の祝福を持つ益獣なのだそうだ。
大事にブラッシングしてやり、水に濡らさなければ今回のような事はないが、予防接種の時期については過去にも何度か分裂して脱走したようなので、街の騎士達が手慣れているのはその為だろう。
ネアは、財産の祝福と聞いて少しだけ興味を惹かれたが、一個体が分割するという特徴がどうしても苦手だったので、毛織の魔物は飼わなくていいという結論に達した。
よって、毛織物は解いて再利用はせず、綺麗な状態の内に状態保存の魔術をかけて使い続けてゆくことにしようと思う。
同じ部屋で暮らす魔物にそう伝えれば、ディノも、重々しく頷き、同意を示してくれたのだった。
明日5/17の更新は「かいぶつは星に祈らない」の幕間のお話となります。




