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予防接種と毛玉戻り 1




薄曇りのその日、ウィームには、獣型の生き物と生活を共にする者達の全員が、大きな試練を強いられる日がやって来た。


恐らく、多くの者達が同じような思いで朝を迎えたのだろう。

勿論、中には予防接種をものともしない個体の家族や飼い主やご主人様もいて、そんな誰かにとっては、普段の人とさして変わらぬ一日なのかもしれない。


だが、少なくとも、ネアにとってはそうではなかった。

あれだけ試行錯誤したのに、何となく不穏な気配を感じ取り、足元で疑いの眼差しで足踏みしている銀狐にとってもそうだろう。

今年もまた参加してくれるアルテアは、そんな銀狐の様子を見て、こちらを責めるような目をするのはどうかやめて欲しい。


何しろ、ネア達だって沢山頑張ったのだ。

それでも今年の銀狐は、今日が予防接種だということを忘れずにいただけだし、塩の魔物な筈のネアの義兄なのだから、本来はそうあるべきなのだろう。



「おい……………」

「むぐ。我々は力の限り戦いました。エーダリア様だって、昨日は耐久ボール遊びをやってくれたのですよ?」

「ほお。その結果がこれか。それと、尻尾のブラッシングがいまいちだぞ」

「それは、……………昨日はブラッシングの途中で事件が起こり、作業が中断されてしまったからですね。上手い具合に気持ちが別方向を向いたので、その流れのまま、刺激せずに今日を迎えて貰おうと思っていたのですが、残念ながらそうもならず……………」

「やれやれだな……………」



呆れ顔で溜め息を吐いた本日の使い魔は、シンプルな白灰色のセーターに、そちらよりほんの少し色を暗くした白灰色のパンツ姿である。

一見同系色なので地味にも見えるが、さらりとしたウール地のパンツは、縫製のステッチがくすんだ赤紫色で何ともお洒落なのだ。

よく見れば、ポケットの形も変わっている気がするし、何しろ全体的に形が綺麗な仕立てである。


装いに合わせたのか、髪色は黒髪に擬態しており、前髪を上げて襟足をちび結びにした選択の魔物は、素敵な仕立てだが抑えた印象の装いで、こなれた感じを出そうとしているお洒落上級者のように見えるかもしれない。

だが、これから共に予防接種会場に向かうネアには、どこまでも予防接種に特化した装いに見えた。



予防接種の日は、最終的には荒れ狂う銀狐を抱き上げる事になるので、服についてしまう抜け毛などを気にしている余裕はなくなる。

よって、このくらいの色合いの装いの方が楽なのだろう。


何しろ、ネアとディノも同じような色合いの服装であるし、予防接種会場には、毎年、連れて来る獣たちの毛皮の色と同じような色合いの装いの者達が多い。

服についた抜け毛を取るという意味では毛色が目立つ服装もありだが、今日ばかりはそんな悠長なことは言っていられないのだ。



「さて、お出かけしましょうか?」

「……………うん」

「…………ボールは使ったのか?」

「今日はもう、ボールでもどうにもならない警戒ぶりなのですよ…………」


ネアがそう言えば、当然であると訴えるかのように、お気に入りの青色のリードをつけた銀狐は、すっかりけばけばになってムギーと鳴いた。

お散歩に行こうと持ち掛けリードを装着するまではご機嫌であったのに、やって来たアルテアを見た途端に何かに気付いてしまったらしい。


アルテアの言うように、こちらの手際がまずかったという事も言えるかもしれないが、アルテアの登場そのものが引き金になっている可能性もあるではないか。

ネアは、念の為にもう一度、お外でボール遊びをしましょうかとボールを取り出してみたのだが、じりじりと後退りして尻尾をけばけばにしているので、もはや、銀狐の中では疑惑を確定させてしまっているのだろう。


「……………もう、誤魔化しはきかないだろうな。このまま出掛けるぞ」

「は、はい!」

「……………うん」


かくして、毎年、予防接種に連れていかれる友人の姿にしょんぼりしてしまうディノも頷き、今年最初の予防接種のお出掛けが始まった。



しかし、いつもの予防接種会場でネア達を待ち受けていたのは、思わぬ事件だったのだ。




「……………くそ、飼い主は誰だよ」

「ほわ、地獄絵図です……………」

「湖水魔術だから、シュタルトの竜かな……………」


リーエンベルクを出て暫くした後、決して穏やかな道のりではなかったものの、無事に予防接種会場近くまでやって来たネア達は、あまりにも惨い事件現場にいた。


ばっしゃんばっしゃん水飛沫が上がり、そこかしこから、獣の声や人間の怒号が聞こえてくる。

思いもしなかった光景が広がり、ネアは、へにゃりと眉を下げた。


予防接種会場の近くまでは、概ね例年通りだったと言えよう。

とは言え、今年は銀狐が出掛ける前から不穏な気配に気付いていたので、ムギャワーと荒れ狂う銀狐をアルテアが小脇に抱いての道中となったが、いつもの予防接種会場に面した広場に何とか到着し、泣き叫ぶ患者たちの声にますます銀狐も狂乱するあたりまでは、多くの同胞たちが経験する騒動とさして変わりはなかった。



しかし今年はそこに、誰かが連れていた使い魔の竜が、大きな水溜りを作ってしまうという事件が重なったのである。



幸いにして、獣医師たちのいる予防接種の本会場には影響がなかったものの、その魔術が展開されたここは、会場手前の広場だったので、丁度その辺りに差し掛かった者達が、一斉にその水溜りの中に落ちる羽目になった。


ネアも巻き込まれたが、すぐさまディノが抱えてくれたことと、ディノが足元に透明な足場を作って水に落ちないようにしてくれたので事なきを得ている。

残念ながら、その対応が間に合わなかった使い魔は水溜りに落ちてしまったものの、深さとしては成人男性の腰くらいまでなので、人間より身長の高いアルテアが沈んでしまうことはなかった。

しかし、問題は銀狐である。


じゃばんとアルテアが水に浸かってしまい、跳ね上がった水飛沫がかかったせいで、驚きと恐怖のあまり暴れに暴れてアルテアの腕からすっぽ抜けてしまい、ぼしゃんと水の中に落ちたのだ。


勿論、選択の魔物はすぐに銀狐を水の中から拾い上げたのだが、ずぶ濡れでムギャワーウォウウォウという、謎の遠吠え混じりの叫び声を上げびしゃびしゃの尻尾を振り回しているので、もはやそこだけでも既に阿鼻叫喚と言わざるを得ない光景ではないか。


おまけに、被害者はアルテアだけではないのだ。

大型の使い魔やペットを引き摺りながら歩いていた人達も突然の水溜りにじゃばんとやられ、先程までも充分に酷かった周囲の様子は、今や、戦場に劣らぬ凄惨なものになった。



「……………竜さんの予防接種は、秋なのでは……………」

「あれは、人型を持たない獣に近しい竜なんだ。種族的には、ボラボラの予防接種というよりは、こちらの獣用の予防接種が必要な種族なのだろう」

「そうなのですね……………」

「湖の顕現を行えるくらいだから、随分と高位な個体だね。そのような意味で、制御にも手間取ったのかな…………」

「狐さんとさして大きさが変わらないくらいの竜さんが、まさかこんな大惨事を引き起こすとは思いませんでした」


ディノと話しながら、ネアが広げているのはバスタオルである。

よくあちこちに旅に出る羽目になるネアは、こんな予備品も金庫に詰め込んであるので、水溜りではなく顕現されたちび湖であったらしい場所から戻ってきたアルテアを迎え入れる為の準備をしておく。


「しかし、なぜ湖などを出現させたのです?」

「……………予防接種に行きたくないからかな」

「……………むぅ。……………確かに、問題の竜さんは、ちび湖の真ん中で暗い目をして鎮座しています」


ネア達の視線の先では、狐風の造作だが尻尾と羽は立派に竜という水色の生き物が、世界を呪うような暗い目をして小さな湖の真ん中の水面に座っていた。

飼い主かご主人様と思われるご老人が、何やら一生懸命に説得しているが、どこか厳しい面持ちで首を横に振っているので、交渉には時間がかかりそうだ。


そんなちび湖に浸かってしまっての大騒ぎは勿論の事、水棲の資質を持つ生き物達は、この湖に逃げ込めば予防接種を回避出来るかもしれないと、何とかそちらに飛び込もうとしていたりもする。

今度は、それを阻止しようとする者達との大いなる戦いが、水辺となったあちこちで勃発していた。



「……………くそ、……………予防接種の副反応に繋がらないようなら、あの竜の階位ごと引き落としても良かったんだがな……………」

「むむ、アルテアさんがお戻りです!ささ、バスタオルはこちらですよ」

「……………おい、お前は暴れるな!」


ネアが渡したタオルで簡単に顔を拭くと、すぐに銀狐を包む用に使うのが如何にもアルテアらしい。

この魔物の酷薄さや残忍さしか知らない者達がいれば驚愕するだろうが、線引きの内側に入れた相手に対しての面倒見の良さを、ネアはよく知っているのだ。


とは言え、そんな艶麗な使い魔の顎先からぽたぽたと落ちる雫は、何も頭まで水に浸かった訳ではなく、びしゃびしゃの銀狐が大暴れをするせいなので、こちらをどうにかしなければ、アルテアが体を乾かすどころではないのも確かだ。


そんな銀狐は、ムギャムギャ暴れていたところをタオルに包まれてしまい、今は虚無の目になっている。



「……………寒くないかい?」

「水気を飛ばすくらいは、問題ないだろう。……………ったく」


銀狐を案じたディノに溜め息を吐いたアルテアは、すぐに自分も銀狐も魔術で水分を飛ばしてしまい、ふうっと息を吐いた。


ネアは、これはもう、予防接種が終わった後はどこか素敵なお店で何かを奢らねばならないと、ブルーベリーと花蜜のチーズケーキのお店と、紅茶と杏のシフォンケーキのお店を脳内に並べておいた。

勿論これは、ネア自身がとても行きたいので予め予定していた訳ではない。


「……………む。そして、あちらに来ているのは封印庫の魔術師さんでは」

「おや、そのようだね」

「まぁ。……………ちび湖をしゅんと消して、颯爽と去ってゆきました」

「彼等の扱う魔術は封印魔術なので、このような対応には長けているのだろう」


広場での騒ぎを聞きつけてきたのか、恐らく善意で手助けをしてくれたに違いない封印庫の魔術師が、帽子の羽を揺らして帰っていくのが見える。

頭を下げている領民達もいるので、誰かが助力を頼んだのかもしれない。


ネアも、あまりにも惨い事件が早々に解決してくれた頼もしさに、すっかり胸を熱くしてしまった。



「……………他の連中がここで足止めをされている間に、会場に行くぞ。この後の並びになると、余計な騒動に巻き込まれかねん」

「はい。シヴァルさんのいる会場に向かいますね!」



ネアは、ちらりとちび湖のあった方を振り返り、重々しく頷いた。


この湖事件に巻き込まれた獣たちは、すっかり気持ちが昂ってしまい、普通に連れて来られた獣たちよりも大暴れしているのだ。

飼い主や主人たちも、水中の格闘ですっかり消耗しており、何か次なる事件が起こるとしたらそのあたりかもしれないなという不穏な気配もある。



(そちらの人達が並ぶ前に、予防接種を済ませてしまうつもりなのかな……………)


アルテアのように一瞬で水気を飛ばしてしまえる者もいるが、そうではない者達は、どこからか話を聞いてタオル類を持ち込んでくれた人達や、会場の見回りをしていた街の騎士達からからタオルを借り、何とか体を乾かしているところだ。


ぐったりとした様子や暗い眼差しになった者達も多く、中には、日を改めて出直そうと帰っていく者達もいる。

大型の獣たちがびしょ濡れで暴れているせいで、そんな獣たちが跳ね飛ばす水飛沫を浴び、小さな平ぺた猫のようなものを連れたリードを持ったまま、虚無の眼差しになってしまっているご婦人もいた。



「………あの竜さんは、ご主人にお尻を叩かれて、けばけばになっています」

「叩かれてしまうのだね……………」

「毛皮のせいか、面立ちのせいか、どことなく狐さんに似ていますね……………」

「うん……………」


だが、邪悪な目で観察をすれば、ちび湖の出現によって接種会場入りが遅れている者達が大勢おり、今の内に素早く並んでしまえば、待ち時間が短く済むかもしれないのも確かであった。

そう考えたのは選択の魔物も同じようで、第二会場に到着すると、ネア達には植え込み沿いで待つように言いつけ、素早くシヴァルの受け持つ列に向かう。


お久し振りのシヴァルに挨拶をしたいような気持ちもあったが、ネアは、ここは大人しくアルテアの判断に任せようと、今年も列の外での待機とさせていただくことにした。



「……………来年も、使い魔さんは予防接種に来てくれるでしょうか」

「ノアベルトは、いつ言うのだろうね。……………次の予防接種の前には言えるかな…………」

「今年は漂流物などもあるので、あまり不安定な時期の告白ではないといいのですが………」

「うん。……ノアベルトが………」

「まぁ。今年は列の進みが早いですね。もう順番になりました!」



前に二組しか並んでいなかったお陰で、銀狐の順番はすぐにやって来た。


魔術で乾かして貰っているものの、バスタオルに包まれた銀狐が虚無の眼差しで大人しくなっていたので、アルテアはそのまま抱いていったようだ。

木製の診察台の上に下ろされバスタオルをずらされた銀狐は、そこで漸く、自分が注射を打たれる瞬間であると気付いたらしい。


ムギャワーという凄まじい悲鳴が響き辺りは騒然としたが、すかさずシヴァルが口元をひょいっと押さえてしまったので、銀狐はむぐっとなっている。

アルテアも首元と尻尾を押え、ぶすりと注射針が刺さるのが分かった。


後はもう、けばけばで涙目になった銀狐は再びバスタオルに包まれ、シヴァルから証明書類を貰ったアルテアは、足早に診察台を離れるばかり。



(早い!もう終わってしまったのだわ……………)


「ここに至るまでに大きな事件がありましたが、予防接種は何とか無事に終わりましたね!」

「……………うん。ノアベルトが……………」

「ディノ、これで狐さんなノアが踊り去ってしまう危険は回避出来ますので、安心して、ケーキを食べに行きましょうか」

「ケーキを食べに行くのかい?」

「はい。ちび湖に落ちたアルテアさんを労わる為なのですが、一度、着替えの為などにリーエンベルクに戻ってからの方がいいかどうか、お聞きしてみますね」

「うん。…………おや」

「にゃぐ?!」


そんな話をしていたネア達は、ぶおんと空を舞ったものに気付き、思わず目を瞠った。


何が起きたのだろうかと、事態が呑み込めずに呆然としてしまったが、どこからともなく物凄い勢いで走ってきた街の騎士が、宙を舞った誰かを受け止めている。

空から落ちてきた誰かも受け止めた側の騎士も、揃って地面に倒れ込んだが、魔術軽減などで衝撃は抑えてあるのだろう。

周囲の者達が声をかけ助け起こしているが、幸い、怪我などはないようだ。



「……………こうなる事が分かりきっていたから嫌だったんだ。早々にここを出るぞ」

「ほわ、……………アルテアさん、狐さんの予防接種を、有難うございました。……………そして、まさか今飛ばされてきたどなたかは、獣医師さんなのです?」

「水に触れる事を嫌がらない生き物も多いが、毛並みが濡れるのを極端に嫌がる種族も多いからな。その不快感を抱えたまま注射針なんぞ向けられてみろ。あれは、未熟な医師と飼い主側の不手際だ」

「……………む。飼い主さんと思われる方が、地面で死んでいます」

「死んでしまったのかな……………」


合流したアルテアが見ている方に視線を向けると、ひっくり返った診察台と、怒り狂う大型の狼のような生き物の足元で、地面に倒れている飼い主と思われる男性が見えた。


どうやら、手綱のようなものを引っ張って牽引していたらしいのだが、獣が暴れ、飼い主がばたんとうつ伏せで転んでしまい、慌てて手綱を押さえようとした獣医師が、振り回されて放り投げられたという構図のようだ。


この第二会場はまだ若い獣医師たちが多いのだが、先程の水難事故現場からは第一会場よりも近い。

そのせいで、飼い主もこちらに駆け込んでしまったのかもしれず、放り投げられ騎士に助けられた獣医師は、まだ若い女性のようだ。

真っ青になってぶるぶる震えているので、この後の作業継続は可能なのだろうか。


残念ながら、シヴァルの位置からは最も離れている場所なので、会場の見回りをしていた他の騎士達が、わぁっと向かってゆき、何とか取り押さえた隙に近くにいた獣医師が素早く注射を済ませたようだが、それに気付く様子もなく大暴れが続いているところを見ると、最早、注射が終わったからといって収まるような段階ではないのかもしれない。


「あの獣さんは、水が嫌いなのですね……………」

「毛織の獣だ。あいつらは、雨に濡れる事すら嫌うからな」

「ふむ。毛織の獣さんというお名前を聞くと、確かに、あの湖事件はむしゃくしゃしたでしょうね……………」

「……………こちらに来るかい?」



アルテアの腕の中からディノの手に移された銀狐は、ムギャムギャと狐語で何かを訴えている。

前足でたしたしと胸を叩かれ、ディノは、おろおろしながらも狐姿の友人をそっと撫でてやっていた。

アルテアが注射を打つまでを引き受け、その後はディノが慰めるという分担が固まってきたような気がするだけに、ネアは、今後も選択の魔物が銀狐の予防接種に付き合ってくれることを祈るばかりだ。


「アルテアさんは、この裏通りにあるチーズケーキのお店か、香辛料屋さんの近くにある老舗カフェでのシフォンケーキの、どちらがお好きですか?」

「……………両方とも、新作のケーキがメニューに載ったばかりの店だな」

「き、きのせいなのですよ。あるてあさんがびしゃびしゃになったので、ねぎらうためのおちゃかいなのです!」

「ほお。…………俺が不用だと言えば、このままの帰宅になるだろうが、それでもいいのか?」

「むぅ。入浴したいなどのご要望もあるかもしれませんので、その場合は、私の作り置きパウンドケーキになりますが、そちらでもいいですか?」

「……………チーズケーキの店にしておいてやる。それと、パウンドケーキは、持って帰るから一切れ包んでおけ」

「なぬ……………」


ネアは、アルテアが持ち帰りのお菓子まで欲するということは、これは相当お疲れだぞと思い、首飾りの金庫から疲労回復薬と加算の銀器を取り出してみせたが、それを見たアルテアは、厳しい顔をして首を横に振った。

なぜかディノもふるふると首を横に振っているので、体力回復ではなく、甘い物の方がいいということなのだろう。



「……………っ、もうあまり猶予がないな。ここを出るぞ」

「さては、またしても荒れ狂う獣さんが出るのですね。急ぎ離れてしまいましょう」

「…………先程の獣だね」

「ああ。あいつは、逃げる際に分裂するからな。気付いた騎士達は、隔離結界は敷いたようだが、その騒ぎに巻き込まれるのは御免だ」

「何が起こるのだ……………」


はっとしたように先程の毛織の獣の方を見たアルテアがそう呟き、ネア達は足早に会場を後にした。


封印庫前広場を抜けて隣接している公園広場に差し掛かると、街の騎士達が、これから半刻の間、会場を封鎖すると、やって来た者達に説明している。

暫定的に、数人の獣医師がこちらに診察台を移して予防接種は続けられるそうだが、会場の中に残っている人達はどうなるのだろう。



「ネア、リーエンベルクにも連絡を入れておくといいと思うよ。ゼノーシュに依頼が入るかもしれないからね」

「はい。……………何やら大事になりそうですが、私達が、こちらでお手伝いをする必要はありません?」

「……………お前はやめておけ」

「うん。ネアはやめておこうか……………」

「何が起こるのだ……………」

「騎士達が半刻の間会場を閉鎖するつもりなら、ゼノーシュに連絡が入るのはその後からだろう。それまでにはリーエンベルクに戻るようにしておけ」

「は、はい!では、大急ぎでチーズケーキのお店に向かいましょう!……………狐さんも、チーズケーキでご機嫌を直して下さいね?」


バスタオルの下からけばけば尻尾が見えたのでそう言えば、そろりとこちらを見た銀狐が、涙目でこくりと頷いている。


すっかりふわふわに乾かして貰っているので濡れた痕跡は残っていないが、それでも、ただでさえ心に負担のかかる予防接種の日に水の中に落ちたのだから、相当に悲しかったのは間違いない。



ネア達は、公園のある広場を出てその外周をぐるりと回るように歩き、小さな路地にあるカフェに入った。

この日は予防接種帰りのお客が多いので、テラス席はあと二席だったが、何とか滑り込み安堵の息を吐く。


会場が封鎖されるのであればと、近くのお店に時間を潰しに来るお客もいるかもしれないので、今の内に入店出来たのは幸いだった。



「失礼ですが、予防接種会場で、何か騒ぎでもありましたか?」


美しい手彫りの肘掛けのある椅子の上でくしゃんとなっていたネアは、突然、横のテーブルのお客から声をかけられ、慌てて背筋を伸ばす。

しかし、振り返った先に居た白灰色の髪の男性を見て、ぱっと笑顔になった。


「まぁ、グレアムさんです!」

「おや、ここにいたのだね」

「ええ。先程まで、ここで友人と会っていたのですが、何やら魔術封鎖になるらしいという声が聞こえてきましたので」

「……………お前はどこにでもいるな」

「はは、アルテア程ではないと思うが」


そう微笑んだのは、夢見るような瞳をした犠牲の魔物で、とは言え今日は、瞳や髪色の輝きを抑えて、僅かながらではあるが擬態をしているようだ。


ディノが、突然現れた湖のことと、恐らくはそこで毛皮を濡らしてしまったらしい毛織の獣が暴れていると話せば、どこか得心気味に頷いている。

グレアムが一瞬だけあまりにも遠い目をしたことに気付いたネアは、あの会場や、その中にいるシヴァルはどうなってしまうのだろうかと、ぎりぎりと眉を寄せた。



「毛織の獣さんは、どうなってしまうのでしょう……………」

「ああ、ネアは知らなかったのか。毛織の獣は、敵に追い詰められると細かく分裂して逃げる習性があるんだ。毛玉戻りと言われていて、小さな小鳥の雛くらいの毛玉のような姿になる」

「……………まさか」

「ああ。話に聞いたような混乱状態にあるのなら、間もなく、そうなるだろうな。騎士達が会場を封鎖したのも、分裂して逃げ出す個体がいないようにしたのだろう」

「ゼノに依頼が入りそうだというのは、その毛玉化した獣さんを探す為だったのですね…………」

「範囲を狭めた結界も含め、何重かに結界を張るだろうが、それでも回収出来ない個体が出そうだからな。……………あの中には、他にも獣たちがいるし、獣医たちの持ち込む道具類もある筈だ。毛玉戻りは、一個体がかなり小さくなるので、色々な所に隠れてしまうんだ」



ネアは、グレアムが教えてくれた内容を少しだけ想像してみたが、あの会場いっぱいに小鳥の雛くらいの大きさの毛玉が散らばり、隠れたり逃げたりしてゆく毛玉たちを捜索をする大変さを思った瞬間、すぐさまその想像を打ち切った。


魔術的な探索を行うのかもしれないが、現場にいる人達の数や花壇や樹木などの存在を思えば、想像を絶する面倒な作業になるのは間違いない。



やがて、ネア達のテーブルにチーズケーキが届く頃、どこからか、ワオーンという遠吠えが聞こえてきた。


魔物達だけでなくディノの膝の上にいる銀狐も遠い目になったので、今頃、封印庫前広場の会場のどこかでは、ちび毛玉とその回収に入る騎士達との戦いが始まったのかもしれなかった。











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