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常夜の檸檬と美味しくない焼き菓子



「サン・クレイドルブルグか!どうりで強引に取り込まれた訳だ」


そう呟いた友人に、アレクシスは遠い目をした。

はらはらと雪が降り、春を迎えたウィームの装いでは凌げない寒さだ。


悪夢の中の気配に気付き急ぎこちらを訪れたので着替える時間がなかったが、友人の挙げた地名を踏まえ、見合った上着を魔術金庫から取り出した。



「……………俺のせいで、この悪夢に取り込まれたと言っていなかったか?」

「はは、勘違いだったようだな。…………で、素材探しに行くと話していたが、何目当てだ?」

「常夜の檸檬だ」

「……………あれか。……………であれば、サン・クレイドルブルグの郊外だと思われがちだが、中心地にある自然公園の直売所でも売っていた筈だ」

「……………妙に詳しいな」



古い友人にそう言えば、にっこりと微笑んで頷かれた。

これは答える気がない時の表情なので、アレクシスは、やれやれと肩を竦めておく。



淡い砂色の巻き毛に緑の瞳のパーヴェルは、ザハの菓子職人だ。


美麗だが柔和という、いい父親にでもなりそうな容貌だが、実際のところは、菓子作りにしか興味がない過激な趣味人である。

人並みに恋愛はしたようで、ウィームに移住してから四回婚約したが、パーヴェルの過激な生活を危ぶみ、皆いなくなってしまった。



元はどこぞの王宮の出だと聞いているが、食事の作法を見る限りは、ロクマリアからロクマリア周辺の国の高位貴族、もしくは王族だったのだろう。


ザハの料理人達の経歴にはおかしな偏りがあり、どういう訳か、古い時代のウィーム王家の血が、他国の王家を経由して戻されてくる傾向にあるようだ。

旧ウィーム王家の血筋は食への拘りが強い者が多く、数々の料理人を輩出しているので、案外、アクス商会あたりが裏で手を回しているのかもしれないが、とんでもない給仕もいるようなので定かではない。


尤も、パーヴェルに関しては、アレクシスが見抜けたのは、彼が身に付けた作法や料理の仕方からの履歴くらいのもので、血筋云々はネイアの言である。

あの友人はなぜか、猟犬のように血筋や履歴を嗅ぎ分けてしまうのだ。


アレクシス自身も様々な評価を受けるが、個人的に、ネイア程、その欲求や標的が食用の獣だけに向いていて良かったと思う友人はいない。


彼の肉屋から質のいい肉を仕入れられなくなるという理由もあるが、もし彼が他の職業に適性を見出した場合は、ウィームでは、禁忌に近しい程の凄惨な事件が起きていたかもしれないではないか。


あの友人は、根っからの狩人だ。



凍えるような風が吹き抜け、夜に覆われた街を見渡した。

アレクシス達が落とされたのは、街の中心地を見下ろす高台の教会の前で、その奥には、墓地が広がっているようであった。


魔術領域を広げ、体感気温を調整する。

ちらりと隣を見て友人も中に入れると、パーヴェルがほっとしたような顔をした。



「ふむ。………死者の領域か。この時代は、埋葬方法が違ったな」

「アレクシス、そっちの界隈の材料はやめておけ。悪夢だろうが何だろうが、友人を、墓荒らしにするつもりはないぞ」

「墓土があれば充分だ。ほんの僅かな墓土でも、その魔術特性でしか育たない植物がある」

「だとしても、客に飲ませるスープに入れてくれるなよ………」

「知らないのか、古い魔術の宿る墓土で育てた栗の木は……」

「あああ、知りたくない!やめろ!!」



わぁっと声を上げて両手で耳を塞いだパーヴェルの道具は、ザハの厨房と、小麦粉と卵にバターと砂糖。


革新的な菓子も作りはするが、彼は、ウィームの伝統焼き菓子をより美味しく作る事に執念をかけている。

毎年、ハツ爺さんが欠かさず買う王様ガレットは、彼が一人で焼くものだ。


常に新しい食材を探しているアレクシスとは違い、パーヴェルの扱う食材は、保守的なのだろう。

その代わり、気に入っていた干し葡萄の仕入れが出来ずに三日も寝れなかったりするので、固定の材料に固執することでの生き難さもあるのかもしれない。



アレクシスは、耳を塞いでいる友人から離れ、墓地の入り口で墓土を採取すると、深い深い夜の奥を眺めた。


墓土と言っても、墓地の境界内であれば問題ないので、さすがに墓周りの土は取らない。

あれだけ嫌がっていたパーヴェルも、こちらの魔術調整から外れると体感気温が戻るので、慌てて付いてきた。


「…………墓土の回収はこれでいいな。先程話していた、庭園に案内してくれ。その土地の中をくまなく歩くのも好きだが、悪夢となると時間制限があるだろう。先に用事は済ませておきたい」

「気象性の、おまけにこの時代のこの街に落とされて、それしか気にしない人間はお前くらいだろうな………」

「スープの材料探し以外に、気にするような事があるのか?」



そう返せば、パーヴェルは、はぁっと息を吐き、アレクシスが渡したコートを羽織りながら肩を竦めた。


いつどんなあわいに入ってもいいように、様々な衣服を魔術金庫に備えてある。

毛皮で裏打ちされたコートを一着貸し出すくらい、何の問題もないのだ。


雪国用のブーツを差し出すとそんな物の予備もあるのかと呆れていたが、幸い、足の大きさの誤差については、編み上げの紐をきつく結べばどうにかなる範囲であった。


ざくりと踏み込んだ雪の質は、ウィームと同じようにさらりとしているが、どこか乾いているような不思議な質感である。

そこでふと、これだけ雪が積もっていても、空気がぴりりと乾燥していることに気付く。



「……………それと、ここにあるのは、白樺の魔物の証跡だな。本人がいれば、髪が欲しいんだが」

「是非にやめてくれ。その場合、一般人の俺は、どの待合室にいればいいのか分からないだろう」

「この代の白樺の採取は、今はもう難しいんだぞ」

「おい、怪訝そうに言う内容じゃないからな?明日の焼き菓子用に、果実酒を仕込んであるんだ。時期を逃したらどうしてくれる」

「そちらも大概じゃないか。この前も、通勤路に落ちていた祟りものを、水路に捨てただろう」

「…………水の系譜のものだ。水路に放流しても問題ない」

「どうだろうな。妹経由で、ギルド長が頭を抱えていたと聞いたが」

「であれば、別の事案だろう。あれっぽっちの理由でそんな大袈裟な事になるものか」




しれっと言ってのけたパーヴェルには、こんなところがある。



普通に会話していると、妙に一人だけ常識人ぶるのだが、焼き菓子が絡むと由緒正しい狂乱者だ。

さすがに顧客になり得る者達はその対象から外しているものの、菓子類の中でも特に気に入っているウィームの伝統焼き菓子を作る日に彼の行く手を遮ったものは、全て、正当な報復として排除されてしまう。


ギルド長は、飲食店関係の旧王家の特徴持ちは、狂犬が多過ぎるとぼやいているようだが、アレクシスの場合は、基本的に、スープの材料にしか手を出さない。


このあたりは、食肉にならない獲物はあまり好まないネイアも同じ区分なので、二人で、その枠に入れられるのは不本意だと話している。



(……………常夜の檸檬が手に入ったら、ネアにスープを作ってやろう。ディノもこちらを訪れているようなら、二人分だろうな)



念の為にカードを開いてみたが、まだ連絡はない。

だが、このような事件が起きた場合、あの運命の魔術の希薄なアレクシスの可愛い娘は、何かと巻き込まれがちである。


アレクシスやパーヴェルのように、特別な癒着なく迷い込んだ場合はまだいいのだが、悪夢の内側に癒着する形で入り込んだ場合は、通常の魔術洗浄では足りないだろう。


その時の為の、スープなのだ。



「……………なぁ、白樺の魔物の証跡魔術は、どう使うんだ」

「スープにもなるが、一番いいのは燃料だ。木の系譜の魔物達の魔術はいい火を熾す」

「となると、樫の木もか……………」

「魔術の木や、時間の座の木なども悪くないな。………だが、先代の白樺は、海の食材を使うスープの燃料が一番合う」



系譜でも資質でもないその相性の理由は、アレクシスにも分からない。

だが、不思議と相性のいい材料が決まってくるのだった。



「どこからどこまでに、どう疑問を呈すればいいのか分からなくなったが、お前が美味いと感じたのなら、まず間違いなく美味いんだろう」

「今度、飲んでみるか?お前に必要な資質があるとは思えないが、少なくとも味はいい」

「……………白樺の魔物は遠慮しておく。…………それより、夜しかない時代のサン・クレイドルブルグにしかない野菜も買っておいたらどうだ?この時代は、どちらにしろ明るくならないならと真夜中に働く者達も多かった。時刻的に真夜中だが、店はやっているぞ」

「そうか。お勧めの商店はあるか?」

「……………いや、さすがにそれはわからん」



パーヴェルは、街の地図は頭に入っているくせに、市井の野菜が買える店などには詳しくないようだ。


明らかにこの土地を知り過ぎているパーヴェルの案内で、教会のある高台から、淡い橙の光を灯した街灯の並ぶ道に出る。

先程より白樺の魔物の気配が濃くなった場所があったが、残念ながらすぐに途切れてしまい、溜め息を吐いた。


集められた魔術証跡でも事足りるとは言え、出来れば備蓄に回せるだけの量が欲しかったのだが、優先順位があるので仕方ない。



街中には、こんな時間でもあちこちの店に明かりが灯り、歩道を歩く人々もちらほらと見かけられる。


周囲の景色を見れば、パーヴェルは、迷うことなく商店の集まる通りに向かっているのだろう。

どうやらこの友人は、偶然展開されたこの悪夢と、随分と親しいようだ。



(この時代についても、いつ材料集めに行くようになるか分からなかったので学んではあるが、思っていたよりも人々の暮らしは安定しているようだな…………)



ふと目を引く看板があった。

アレクシスたちが歩く歩道沿いにある店のもので、優美な縁取りの赤い看板に白抜きの文字で、白磁の皿と書かれている。


飲食店のようだが、どのような料理があるのだろうと考え店の外観を見てから看板に視線を戻すと、先程まで、白磁の皿と読めた看板の文字が、見知らぬ文字になっていた。



「…………この店が、悪夢の起点になっているようだな。没頭感を出す為に食事をしていくという方法もあるが、悪夢とは無縁でいくか?」

「当然、悪夢とは無縁でいくぞ。この時代のこの年号には、高位の魔物数柱絡みの、きな臭い魔術戦争があった筈だ。詳細は知らないが、とにかく、大勢死んだ」



その年代に違いないという情報は、どこで仕入れたのだろう。


墓地かもしれないし、街中に貼られたポスターかもしれないが、周囲の景色や別の判断材料から答えを得ている可能性もある。


例えば先程、パーヴェルは、白樺の魔物の証跡がなぜあるのかを気にしていなかった。

であれば、サン・クレイドルブルグに白樺の魔物が現れた事は、予め知っていた可能性が高い。



「……………ほお」

「……………言わないぞ。……………と言うより、証跡を辿られるような言葉の全てを放棄して祖国を捨て、夢だった菓子職人になったんだ。説明は、しないというよりも出来ない」

「成る程、承知した。お前が話せないのなら、適当に想像を巡らせておくさ」

「念の為に言うが、その想像の主役をスープにはするなよ」

「スープが出てこないと、ちっとも面白みがなくなるだろう」

「いや、意味が分からないからな………。ああ、あの店は、食料店じゃないのか?この辺りに、色々と店が集まっている記憶だったんだが、間違っていなかったようだな」



灰色の毛織のコートの襟を立て、寒そうに首を竦めながらパーヴェルがそう笑う。


可愛い娘夫婦もそうであるが、誰にだって、複雑な足取りや思いがけない過去があるものだ。

それがこの友人の場合は、雪と夜のサン・クレイドルブルグだったというだけで。

だからアレクシスは、その背景まではさして気にしない。


ウィームの民であれば、皆そうするだろう。

それはウィームの民の気質であるのと同時に、ウィームの歴史故でもあった。



「懐かしいものがあるのなら、お前も、何か買っていけばいいんじゃないか」

「ああ。………そう言えば、買い物にはサン・クレイドルブルグ独自のもの以外に、ロクマリアの硬貨や紙幣も有効だが、祝福結晶や金製品、黎明の系譜の食材との交換も推奨されていた筈だ。大抵の店で扱いがあると聞いていたので、支払いはそちらでも出来るぞ。……………サン・クレイドルブルグは、黎明を失った事で、価値の在処が変わったんだろうな」

「金製品は、系譜を問わないのか?」

「問わなかった筈だ。………黄金は、太陽の光を思わせる輝きだと言われ、サン・クレイドルブルグでは最も値を上げたものの一つだ。黎明の魔術系譜の品物は、やがてこの地の夜に食われていくが、金製品は変化しないからな」

「そうか。……………念の為に、サン・クレイドルブルグの硬貨も収集していたが、足りなくなった場合は、金貨や金製品を交換に出そう」

「……………アレクシス。そこで、とうの昔に流通しなくなった硬貨を当たり前のように持っているというのは、だいぶおかしいからな?」


大真面目にそう言うので、アレクシスは眉を寄せた。


「その程度の備えはしておかないと、スープの材料も買えないだろう」

「そうか。怪訝に思った俺が愚かだった………。突発的な訪問でも、常に用意はあるんだな……………」

「ほら、店に着いたぞ。お前も、普通の人間ぶるのはそのくらいにしろ」

「俺が、普通の人間以外の何だって言うんだ。ただの菓子職人なんだぞ……………」

「ザハの水晶のオーブンを盗もうとしたどこかの国の王族を、消息不明にしておいてか?」

「ザハの職員以外の者があのオーブンに手をかけた以上、生きている価値はない。砂糖一粒分もだ」



それもだいぶ一般的ではない筈の信念なのだが、アレクシスは、やれやれと苦笑しただけで何も言わずにいた。

アレクシスだって、スープ用の調理器具に手を出されたなら、その相手は抹殺するだろう。



ぎいっと重たい扉を開く。


温かな空気が失われないよう、スライドさせて内側に引き込む造りの二重扉を開けて店内に入ると、鮮やかな刺繍の美しいエプロンをした女主人がこちらを見て短く頷く。


タイルの床には一定間隔で絵付けのあるタイルが貼られ、ウィームで言えば薬品店のような内装だ。

店主の前には大きな円筒形の夜鉱石のストーブがあり、火の鉱石を投げこんで薪を燃やしているようだ。


火箸のような鉄の棒があり、その奥には、古びた敷物を寝床に、大きな灰色狼が丸まって眠っていた。

あちらも店番なのだろうと考え、まずは野菜類から見て回る。



「黎明の系譜の野菜もあるな。……………蕪、いや、茄子に近いものなのか。これは買って帰ろう。この野菜は見た事がないな。……………これと、これと、……………この調味料も興味深い」

「野菜は、三個ずつなんだな……………」

「ああ。試作品を作り、必要であれば育てるからな」

「……………普通は、買って帰った野菜を、そう簡単には増やせないんだぞ」

「それで、どうやってスープを作るんだ?」

「もう嫌だ…………」



籠いっぱいの食材を持って会計に行くと、大口の買い物客に機嫌を良くした女主人は、休暇かねと尋ねてくる。

気難しそうに見えたが、案外お喋り好きなのかもしれない。

時間を作って沢山スープを作ろうと思っているのだと言えば、頷いて、温かなスープ程に心を温める物はないと同意してくれた。


このような土地では手に入り難い品物も購入したので、会計はそれなりの金額になったが、持っていた硬貨で充分に足りたようだ。

おまけに、たまたま入荷したところだったらしく、常夜の檸檬も購入出来てしまったので、パーヴェルの話していた直売所にも行くつもりとは言え、もしそちらに辿り着けなくても問題はなさそうだ。



であればやはり、この街でもスープの一杯くらいは飲んでゆくべきだろう。



紙袋に商品を入れてくれた店主に礼を言い、店を出ると、先程よりは雪がしっかり降り始めているようだが、傘くらいは何本か備えがある。

とは言え、まだどうにか傘を差さずとも歩けるくらいの降り方だろう。


そのような部分では、アレクシスだけでなくパーヴェルもウィームの住人だ。

どの程度の雪であれば体を濡らさずに歩けて、どのような降り方になったら、すかさず傘をさすべきかは熟知している。



「焼き菓子を買ったのか」

「ああ。箱詰めの量産品で、…………ずっと昔に美味しそうに見えて買った事があるが、死ぬほどまずかった焼き菓子だ。……………少し懐かしくなってな。まぁ、感傷だろうよ」

「そんな夜もあるだろう。少し冷えたな。先程の店で、スープでも飲んでいかないか」

「……………お前が展開しているふざけた精度の魔術領域のお陰で、俺は少しも寒くないんだが、それは本当に冷えたのか?それとも、スープを飲む為の呪文か何かなのか?」

「雪の日に外を歩いたら、何よりもまずはスープだろう」

「いや、焼き立てのパウンドケーキと熱い紅茶だな。それは譲れん」

「スープだ」



二人で散々議論してから、このやり取りは前にもやったなと気付き同時に言葉を収めた。

確かあの時は、二刻は議論し通しで、ネイアが焼いた肉を食えと仲裁に入ったような気がする。



買い物は許容するが、食事をするほどの時間はないと駄々を捏ねるパーヴェルを強引に引っ張り、先程の白磁の皿という店に入った。


ぼんやりと光が滲むような店内の照明は少し暗すぎるような気もするが、お仕着せの給仕はこの階級の街並みに合わない端正な佇まいで、軽い食事だけでも構わないだろうかと尋ねたアレクシスをじっと見つめると、何かに納得したかのように微笑んで頷いている。


だが、その視線がパーヴェルに向けられると、ぎくりとしたように見開かれるではないか。


半身後ろにいたパーヴェルがどんな表情をしたのかは分からなかったが、刹那の瞠目の後、給仕は深々と頭を下げた。



「王都の店に勤めておりました頃も、終ぞ御目通りする事が叶わなかったお客様とは、今日は不思議な夜ですな。ですが、これ以上は何も申しますまい。そのような日も、きっといつかはあるのでしょう」



感慨深くそう呟いた給仕にとって、パーヴェルは、どのような存在だったのだろう。


だが、王族もかくやという丁重な扱いを受け、個室に通されそうになったので、そこばかりは、スープと軽食くらいしか摂らないのでと言い、普通の席に通して貰った。



布張りの椅子は古びているが座り心地は良く、テーブルのクロスには皺ひとつない。

いい店だなと考え満足していると、テーブルに置かれたメニューを、友人がそっと取り上げる。


それはまるで、何かを悼むような仕草であった。



「この店は、懐かしい場所なのか?」

「いや、ここは初めてだ。……………その代わり、サン・クレイドルブルグの牛肉とサワークリームの煮込みは久し振りだな。ウィームの伝統料理にもよく似たものがあるが、こちらは、ウィームより酸味が強い」

「クリームと牛肉のグヤーシュのようなものか。俺の娘婿が好きなんだ。一口貰って構わないか?」

「……………恋人ともやった事はないが、まぁいいだろう。試食程度なら好きにしろ。………それと、いい加減、勝手に娘と娘婿を増やすのはやめろ」



だが、あれだけ渋っておきながら、メニューを開くと喜々として注文を始めたパーヴェルに、アレクシスは料理名を読み上げて貰わねばならなかった。


悪夢の起点としての魔術の現れがあり、どうやらこの街の文字が読めなくなってしまったらしいアレクシスに対し、パーヴェルはその話をした後でも問題なく読めているようだ。



気象性の悪夢は、親和性を高め迷い込んだ者達を取り込みながらも、獲物から様々な感覚の焦点を奪う。

なので、悪夢の中にいるのかどうか分からない時は、遠くの建物が全てぼやけて見えないか、やけに周囲が静かで、聞こえる筈なのに聞こえない音がないかを確かめればいい。


そして、既に本来の文化や国名が失われた土地を再現する悪夢は、悪夢の核となった人物の記憶に触れる場所にさしかかると、そこから文字が読めなくなると言われていた。


それは、ここが正しい順路であるという道標でもあるのだ。



(人間以外の者達の悪夢に触れる場合は、また違う反応が出ると言われているが、今回の悪夢は人間らしい色や温度がある。お陰で、街の再現性が高く、買い物や食事にも支障がない)



「ところで、呑気に食事をするくらいなら、帰り道の目星は付いているのか?」

「ああ。先程の教会から見えた、中央駅だという建物の中だろう。先にこの悪夢から出た者がいたようだな。印付けの魔術の気配がある」

「……………それが分っているのなら、頼むから、他の魔物達に遭遇する前に帰らせてくれよ」

「食事を終えて、お前の話していた常夜の檸檬を買ってからな」



テーブルに届けられたスープからは、丁寧な調理を思わせるいい香りがした。


贅沢を言えば、この種のスープには隠し味で祝福林檎の朝露を入れるのがいいのだが、この土地ではあまり馴染みのないものなのかもしれない。


綺麗に磨かれた銀のスプーンを手に取り、最初の一口を飲む。



(…………ああ、いい味だ)



技術的な面では足りないものも多いが、料理人は、少なくとも自分の料理を愛し、その作業から手を抜かない人物だ。

パーヴェルが客だからというだけでなく、日々の経験から窺える料理の癖は誤魔化しようがない。



「檸檬はもう買っただろう?」

「庭園のものとで、質が違うかもしれないだろう」

「………いいか、この時代にあったとされる魔術戦争には、仮面の魔物も参加している。噂によれば、終盤では白夜の魔物の影もあったらしい。くれぐれも用心してくれ」

「白樺と仮面は、魔術証跡を貰いたいくらいだが、……………白夜は面倒だな。回避出来なくはないだろうが、現れる前に食材を集めきらないと、買い付けの邪魔になる」

「いいか、アレクシス。基準が凄くおかしい」

「そうか?」



じんわりと染み込むような温かいスープを、丁寧に、けれども冷めない内に。

悪夢の中の雪降る街の夜は、不思議なくらいに穏やかであった。



(仮面の魔物も厄介だが、あの魔物はどちらかと言えば最も理性的な魔物の一人だ)



相手や獲物を見て対応を変えるので、アレクシスのような料理人や職人を積極的に損なう事はしない。

また、自分にとって煩わしいものは迂回してゆくことのできる魔物だ。



“悪夢の中に、君の気配があったようだ。サン・クレイドルブルグ中央駅の手荷物預かり場に、ノエルという名前でイブメリアカードが預けられている。それが出口になっているよ。…………それと、こちらに戻ったら、ネアの為に悪夢の魔術の剥離用にスープを作ってくれるかい?”



もう一度開いたカードには、娘婿からのメッセージが届いていた。

微笑んで快諾の返事を送ると、出口の情報に感謝する。



“それと、君と共にいるであろう料理人は、サン・クレイドルブルグ旧王家の王子だそうだ。もし何かあれば、彼が多くの手段や知識を有しているだろう”




そのメッセージを読み、向かいの席でサワークリーム煮込みを食べている友人を見つめる。

王子としての姿を想像してみたが、菓子職人としての姿しか想像出来なかった。



(成る程。配色的にはロクマリアかと思っていたが、併合されたサン・クレイドルブルグの王家か………)



くすりと笑ったアレクシスに怪訝そうな顔をした友人は、その後、公園近くにあった菓子店でやや狂乱しかけ、幾つもの焼き菓子を購入した。

公園から駅へと向かう道中で白樺の魔物とその配下に遭遇したので、燃料の備蓄も増えそれなりに充実した時間だったと言ってもいいだろう。




カードを開く時、深々と悪夢の中のサン・クレイドルブルグに向かって頭を下げた友人の目には涙が浮かんでいたが、けれども彼はウィームで菓子職人になる為に、ここにある多くのものを捨てたのだろう。



そんな土地を再び訪れる事が出来たのだから、悪夢も時には粋な計らいをするようだ。










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