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雪降る街の怪物 4



「やぁ、目が覚めたか」

「……………どちらさまですか?」


目を覚ますと、夜の街らしく暗い部屋の中に、一人の見知らぬ男性がいた。

ネアは、昨晩の事を思い返しながら、じりりと眉を寄せる。

そして、体を起こした寝台の横を見て、仰天した。


「……………まだほぼ初対面!!」

「……………おや、起きたのかな」


さすがに毛布を別にするという良識はあったようだが、そこにいたのはディノだった。


ジレを脱ぎシャツだけになった姿はどこか無防備で、それでもまだ不思議な気品のようなものがある。

気だるげに瞬きをしてこちらを見た瞳の鮮やかさに、ネアは抗議しようと口を開いたまま言葉を失った。


ここで気の利いた嫌味でも言えれば良かったのだが、慣れない展開に、あわあわと体を起こすのが精一杯である。



「ああ、そうか、まだだったね」


そんなネアを見て、ディノは何かに勝手に納得しているようだ。

視線を持ち上げ、ネアを驚かせた男性に気付くと、小さく頷く。


紹介されるだろうかとそちらを見たが、ディノは、ただその男の方を見ただけだった。



「外の様子はどうだい?」

「白樺は退場させました。アクスは、少し厄介ですね。階位が下がる分、警戒心が強い。この中でどれだけアイザックの影響があるかという問題に加え、組織力という意味ではあちらに軍配が上がります」



(……………軍部の要人に、このような人がいただろうか)



いつの間にかこの工房の中にいたのは、背の高い一人の男性だった。


サン・クレイドルブルグ領固有の意匠である漆黒の軍服姿ではあるが、なぜか、この人物が身に纏うと見た事もないような艶やかさとなるらしい。


ディノのような美貌とは、また趣きを変えた美しさだ。


紹介はされないが、感じが悪いという訳でもなく、こちらを見ると人好きのする表情でにっこり微笑んでみせたが、経験上、ネアは、こんな笑い方をする人間の方が壊れている事をよく知っている。


そして、この男性には、冬は冬であるとでもいうべき、ひやりとするような暗さと断絶の気配があった。



(穏やかに微笑んでいても、普通の人間とは全く違う。……………この男は、随分と多くのものを殺し、それに押し潰されないだけの精神を持つ人なのだろう)



正直なところ、決して関わり合いにはなりたくない人種なのだが、よりにもよって、今は同じ部屋にいる。

そして、気のせいでなければ、この男性は先程、白樺の魔物をこのゲームから退場させたと言わなかっただろうか。


じっと疑わし気な眼差しを向けていると、軍服の男は苦笑し、ディノが気付いたように振り返る。




「ネア、彼は私の古い友人です。警戒をする必要はありませんからね」

「警戒する必要のない人が、白樺の魔物をどうこう出来るものでしょうか」

「では、君に対してはとても無害なので、警戒する必要はないと付け加えましょう」

「はぁ………」



時計を見れば、夜のようにとっぷりと暗いが、模範的な時間であった。


善良で一般的な人が起き出すに違いないという時刻に、ネアは、顔を洗いたいが、昨日の今日では警戒されるだろうかと考える。


軍服の男性は、紅茶でも淹れましょうと一度退出し、寝室には真夜中と大差ない静けさが戻った。



(……………いや)



ボーンと、どこかで鐘の音が聞こえる。

この音は駅の近くにある古い教会のもので、柱時計のような独特な音がするので、時計の教会と呼ばれていた。


そして、街の喧騒や生活音が聞こえておらずとも、ああ、街が目を覚ましているなという流動的な気配があって、久し振りの感覚に耳を澄ました。


黎明に呪われた街にも、朝の気配というものはあるのだ。

異端な人間として真夜中に居を移したネアが、久し振りに触れる朝の空気だった。



くあっと欠伸をしていると、こちらもまだ寝台の上にいたディノと目が合う。

こちらを見ている時だけ小さく微笑み、けれどもディノは、解いた髪を見つめ小さく息を吐いている。

それはまるで、三つ編みにしたいのだがどうすればいいのか分からないというような仕草に見え、ネアは、なぜかひどく動揺した。



美しく長い髪は、腰くらいまではあるだろう。

澄明で硬質なものから紡いだような砂色の髪には、緩やかに弾むような癖がある。

ふうと息を吐き、諦めたように髪の毛をそのままにしたディノに、ネアは思わず声をかけていた。



「もしかして、自分で三つ編みに出来ないとか……………」

「…………出来はしますよ。ですが、あまり整ったものにはなりません」

「それは、出来ないというのではありませんか?……………髪くらいであれば、編んであげましょうか?」

「……………いいのですか?」

「昔はよく、弟の髪を編みましたから。それに、……………昨晩は、迷惑をかけました。思うところもありますが、そればかりは変えようがない事実です」


ネアがそう言えば、こんなに美しいのに、長い髪を三つ編みにすることも出来ないらしい相棒が、淡く微笑んだ。


「迷惑だとは、思いませんよ。……あなたが私を呼んでくれなければ、困った事になったでしょうから」

「私は、あまり自分の顛末に拘る人間ではありませんので、そちらの確信が正しいものだといいのですが」

「すぐに分かるでしょう。……………ウィリアム、頼んでもいいかい?」

「ええ。あまり癒着が長くなると、悪夢その物に深入りし過ぎますからね」



ネアとしては、さて三つ編みにしてやろうと寝台から下りようとしたところだったのだが、なぜかディノは、こちらの部屋に戻ってきた軍服の男に声をかけた。

髪の毛は後でいいのだろうかと首を傾げると、こちらを見て、少しだけ困ったように唇の端を持ち上げる。



「君の提案はとても魅力的なのですが、先にこちらを優先してしまいましょう。ネア、彼に、あなたと悪夢との癒着を剥がして貰うつもりですが、構いませんか?」

「……………それは、私の意識を、ロガンスキーから引き離すという事でしょうか?」

「ええ。彼は死者だ。そして、悪夢の核でもあります。引き剥がしたところで役割は変わりませんが、そのままにしておいて良い影響が出るとは思えない」



(……………成る程。それもまた、尤もな提案だと言えるだろう)



だがネアは、調査員でもあった。

昨晩は、あの後、滅多に手に入らない高級な茶葉を厨房で発見し、紅茶を淹れると、また少しディノと議論した。


この悪夢の傘の中のサン・クレイドルブルグで起きている事はあまりにも現実離れしていたが、説明されたことを受け入れて早急に作戦を立てる必要もある。


ネアが警戒していたのは、他の参加者達の顔ぶれの邪悪さであった。

躊躇いで磨耗する時間が惜しい程、厄介な相手ばかりではないか。


だからこそ、幾つかの自分の優位性を考えたのだ。

いや、生き残る為に考えざるを得なかった。



「ですが、私がロガンスキーと分離されることは、今後の調査の上で、不利にはなりませんか?」

「君は、…………その部分が気になるのですね」

「ええ。多少、悪夢の核となった老人の思考に浸食されているとはいえ、私が調査員である事は変わらないでしょう。であれば、多少の危険が伴うのであれ、私は調査員として思考します」

「……………であれば、その心配はないと答えましょうか。確かに、ロガンスキーの思想や嗜好が重なる事で得られる物もあるでしょうが、そこから分離されたあなたの意見の方が、我々には有用に思える」



ディノがそう説明した時、ネアは、少しほっとしてしまった。


もしここで、理由の説明がなかったり、あなたの身を案じていますなどと胡散臭いことを言われたら、ネアは、この分離術式にかけられることを拒絶しただろう。


だがディノは、ネアにはネアなりの矜持と、やり方があることをきちんと理解してくれた。

当代のサン・クレイドルブルグの一等調査員が優先するのは、自身を生かす事ばかりではないのだと。



(勿論、不愉快な思いなどはしたくない。理不尽な目に遭う事や、恐怖や苦痛は以ての外だ。……………とは言え、普通に暮らし、当たり前のように生きてゆく人達からは弾かれた私だからこそ、この仕事には誇りもある。……………これはもしかしたら、私が私であるという事への矜持かもしれない)



ネアは調査員だった。

この街、随一の。

そして、それしか肩書きを持たない、他には何もない人間であった。



ことりと寝台の横の机に置かれたカップには、温かな紅茶が淹れられている。

顔を上げると、また微笑みかけられたので、お礼を言っておいた。


見ず知らずの男が淹れた紅茶ではあるが、彼は飲むことを急かしはしなかったので不安を覚える事もない。

濃い紅茶にたっぷりの牛乳を入れてあり、ネアの飲み方と同じだ。



(でも、本当は酒に漬けた氷砂糖や、ジャムを入れて飲むのも好きだ)



この工房にいる間にそれらの楽しみを得る事も可能だろうかと考え、ネアは小さく苦笑した。

昨日の食事や、この工房に置かれていた紅茶の銘柄のせいで、すっかり思考が贅沢になってしまった。

やれやれと思いながら、目の前の相棒に意識を向け直す。



「……………あなたはやはり、人外者ではないのかもしれない」

「おや、どうしてそう思われましたか?」

「違っていたら気を悪くしないで貰いたいのですが、人外者はもっと、身勝手で無尽蔵なものでしょう。今のあなたの説明のように、私の望んだ回答を探り、それに応えるような事はしない筈だ。ここが私を欺く為の交渉のテーブルならまだしも、どちらにせよ、私があなた方の意向に沿うしかない現状では、無駄な気遣いになる」

「案外、そうではないのかもしれませんよ。………人間でも、人間ではなくても、特別なものには特別な選択をします。それが、私にとってはあなただったのかもしれない」

「はは、そんな馬鹿な。私は楽天家でもありますが、さすがにそうは思いませんよ。出会ってから、まだ半日も経っていないでしょう」



がさりと音がして、ネアははっとした。

どうやら、黒髪の軍人が軍帽をテーブルに置いたらしい。

随分と絵になる人だなとそちらを見ていると、気付いて微笑んだ瞳は白金色であった。

黎明の光に似た色相だが、なぜだか、もっとずっと暗く感じてしまう。



「さてと。シルハーンからの依頼もあったので、まずは、悪夢からの剥離を済ませてしまおう」


そう言いこちらに歩いてくると、ウィリアムと呼ばれた男は、寝台の横に椅子を置き、そこへ腰かける。

随分背が高いなと思い、ネアは少しだけ悔しくなった。


平均身長にしかならなかったが、もう少し背を伸ばしたいと考えていたのだ。

これはネアなりの身勝手な拘りだが、もう少し長身であった方が、孤独というものが似合った気がする。



「何もここで行わなくても、あちらの部屋に移りますよ。と言うか、私はそろそろ寝台から下りたいので…………」

「いや、こちらの方が適切なんだ。…………俺の扱う魔術の領域に於いて、寝台は特殊な意味を持つからな」

「……………あなたの持つ、魔術領域?」



(悪夢から引き剥がすというくらいであれば、夢などの魔術系譜だろうか。……………であれば、そちらの系譜の人外者は獣の姿や女性の姿を取る事が多いと聞いているけれど、…………思っていたものとは随分違うな)



だが、寝台という場も必要なのだと聞けば、頷かざるを得ない。

悪夢という資質を考えると、確かにそうだなと思えるので、説明としての不足もないからだ。



「手をこちらに預けてくれるか?」

「ええ。それだけでいいのですか?」

「ああ。……………今回は、ある意味、俺の領域の核で良かったんだろう。お陰で、剥離の作業を引き受ける事が出来た。……………ネア、これから俺が三つ数える間だけ、目を閉じていてくれ」

「承知しました」



手を預け、目を閉じるとなると少しの不安もあったが、今迄この工房でぐうぐう寝ていて今更だろう。

そう考えて腹を括ると、ネアは目を閉じた。




暗闇の中で、はらはらと雪が降っている。




真っ暗な街の向こうには、橙の灯りを宿した街灯が立ち並ぶ。

煙の匂いと、夜に響く列車の運行音。

街を行き交う毛皮のコートの人々に、軍服の男達。


砂色の三つ編みの、慇懃無礼で皮肉屋で、けれども外面ばかりはいい美しい女は、いつだってこの手をぐいぐいと引っ張った。




(……………あ、)




暗い暗い夜の底で、はらはらと赤い花びらが舞い落ちる。

小柄な青年が墓地の中の一つの墓に手向けたのは、真っ赤な薔薇の花束だった。



瞼の裏側の暗闇の中で、もう一度目を閉じる。




雪の日の夜に玄関ホールに立って、隙のない青い瞳でこちらを見ていた彼女。

浴室の窓から逃げ出した事で、競合相手に捕縛され、あわや殺されるところであったという大怪我を負わされた時に、腹を立てた彼女と酷い口論をしたこと。


出会ってからひと月後の夜に、あのレストランで食事をして、もう一度彼女の屋敷に泊まった。

そこで、彼女のとある真実に触れたロガンスキーに、真っ暗な部屋で酷く疲れたように、けれども暗がりで燃える篝火のような目をしていた彼女は、息が止まりそうなくらいに美しかった。



“……………ご推察の通り、私は、名前のない王族の一人でした。妾腹であった為に中央からは疎まれ、記録に名前を残す事すらなかったものの、このサン・クレイドルブルグの離宮で育てられた。……………だからこそ、私はやはり王族でもある。名前のない私を快く迎え入れてくれたこの領の領主に恩もある。………であれば、斜陽の時代に掘り出された悍ましい魔術の障りを、この地で開かせる訳にはいかないと考えるくらいには、愛国心やこの土地への執着があるのでしょう。……………心までは預けてくれなくてもいい。そのようなものが手に入る者は稀なのだと、私も君もよく知っています。……………だが、どうか力を貸して欲してくれませんか。ロガンスキー、君は、私の手のひらに残された最後の希望なんです。私には、君でなければならなかった”



こちらを真っ直ぐに見つめてそう言った彼女に、ロガンスキーの心はくしゃくしゃになった。



ああ、最高で最悪だ。

ただでさえ手持ちの少ない人生だったのに、とうとう、自分の手に入らないものに恋焦がれるようになってしまった。


それでも多分、自分は、彼女の願いを叶える為に、どんなことでもするだろう。

一刻も早くこの騒動を終わらせ、彼女が憂う事なく元通りの場所に戻れるようにする為だけに、この手で成し得る事は何だってするだろう。



もう一度二人の道を分かち、互いをあるべき領域に戻し、もう二度と、この熱病のような思いに踊らされないように。



この惨めで孤独な男の全力で以って、あなたの手のひらに、最後の希望とやらを授けて差し上げよう。

あなたを、こんな場所から早く追い返す為には、何だってする。



(……………ああ。……………ああ、そうか、この人は)




その願いは、当初ネアが思っていたものとは、随分と違っていた。


多分、ロガンスキーは、彼女の元から立ち去った事を後悔はしていなかった。

それは矜持で、そして彼の信念で、彼女に対する敬意でもあった。

彼にとっての彼女は、泥の中で輝く宝石のような、気高く美しい王女であったのだ。



だから、その後にもう一度彼女の招聘に応じようとしたのは、人生の相棒として駆け戻ろうとしたのではなく、何か抜き差しならないような問題が新たに起こり、彼女が切迫しているのではないかと考えたからだ。


だから、彼が後悔したのは、彼女の手を取り伴侶にならなかった事ではなく、彼の人生の中に授けられた唯一の宝石を、伴侶となってでもいいから、最後まで守り切れなかった己の愚かさこそだったのだ。



ずっと傍に居れば良かった。

あなたの手を離さなければ良かった。

でもその思いは、あくまでも、美しい三つ編みの王女の騎士として。



(でも、勿論、それは愛だった)



彼は彼女を狂おしい程に愛していたし、散々抵抗した後に、最後にはそれを認めた。

その思いを受け入れる迄の二か月の間に二人の関係が色々と拗れていなければ、ロガンスキーの中には、一人の男性として、愛する女性の手を取るという分岐もあったのだろうか。



だが、王女は最初、ロガンスキーを利用する為に近付いた。

そしてロガンスキーは、彼女の王族としての覚悟に心を動かされ、一人の男ではなく騎士となった。

狂おしい程に愛していても、彼女は彼が初めて手にした宝石で、その美しさに打たれた彼は、彼女を心から敬愛していた。



でも、それはもう、一人の死者が持ち去ったもの。



ネアから引き剥がされたのは、悪夢でもあったが、限りなく終焉の領域の接触でもあったのだろう。


これはきっと、死者の懺悔でもあったのだ。

そして、彼が振り返らずに気付かないままであった、その靴跡に咲いた鮮やかな薔薇のようでもあった。


そこに咲き誇る薔薇の美しさに気付いたなら、彼は、もう一度一人の男として彼女の元へ駆け戻ったのかもしれない。





「……………まぁ。…………ここは、引き続き悪夢の中なのですね」


ぱちりと目を開き、ネアがそう言えば、こちらを見ていたディノが、くしゃりと顔を歪めた。

手を預けていたウィリアムも、ほっとしたように息を吐いている。



「ディノ、……………こちらに来て貰って、ぎゅっとしてもいいですか?」

「……………うん」



もそもそと体を寄せた大事な魔物の腕の中に収められ、ネアは、しっかりと抱き締められた。

昨晩の浴室で踏み留まれたのは、ネア本来の心の動きだろう。


あの場で踏み留まれなければ、悪夢は、かつてのロガンスキーと同じ運命を用意していたのかもしれない。

軍の要人に捕縛され、情報を引き出すための尋問を受けるのは、ネアにはさすがに荷が重い。


しっかりとしっかりと抱き締められ、胸の中から深い深い息を吐いた。



「………ロガンスキーさんは、孤独で身勝手で、けれども高潔な方でもあったのでしょう。私とは大違いなのですよ。…………私は、私の大事な魔物が王様でも、絶対に私以外の誰にも渡したくありません」

「言っただろう。君ではない誰かの手を取るつもりはないよ」


その言葉に、それはロガンスキーの愛した王女の言動を模して言われた事なのか、或いは、ディノ自身のものだったのかを少しだけ考えた。


けれども、嬉しそうにこちらを見ている美しい魔物がやっと安心している様子を見て、まずは、髪の毛を梳かして三つ編みにしてあげようと唇の端を持ち上げる。



「むぐ。……………げふん!」

「ネア、紅茶を飲んだ方がいい。サン・クレイドルブルグは、空気が乾燥しているんだ。起き抜けで何か飲まないと、喉を傷めるぞ」

「ウィリアムさんも、来てくれたのですね。悪夢を剥がしてくれて、有難うございます!」


微笑んで頷いたウィリアムから、紅茶のカップを受け取り、こくりと飲む。

初めましての銘柄だが、ロガンスキーが大興奮していた茶葉だけあり、やはりとても美味しい。

ネアの好みを知っているウィリアムは、お砂糖も入れてくれていた。



「ぷは!………喉が元通りになりました」

「これで一安心だな。今回は、ロガンスキーが死者だったお陰で、俺で事足りた。今回は、アルテアはこちらには入れないからな」

「こちらに来られない事情があるのですか?もしや、自分との対面は望ましくないのでしょうか?」

「いや、自分がもう一人いる事に気付かれると、却って興味を引きかねない悪手となるからだと話していた。選択の魔物の抑止力という意味では、俺の方が適任だったらしい。確かに、アルテアが後方支援をしてくれるのなら、こちらに入るのは俺の方がいいだろう」



実は、今回の悪夢については他にも適した者がいた。

ノアとバーレンである。


しかし、この悪夢の外側となるウィームも、現在は単発の悪夢の中だ。

死者が招いた悪夢という稀なものへの対処を行うにあたり、ノアはやはり、エーダリア達の側に必要だった。


また、バーレンは頼めば手を貸してくれるだろうが、仮面の魔物や白樺の魔物といった者達に対処するだけの力はさすがにない。

ダナエの力を借りるのは、ここが冬のサン・クレイドルブルグである以上不可能なので、バーレン一人に預けるには不安がある。



「加えて、ここは夜の強い土地だが、真夜中の座の系譜の管理ではないんだ。夜の潤沢な土地というものではなく、どちらかと言えば致し方なく夜しかないという状態だからな。それに、土地の管理という意味では白夜の魔物の領域内にあり、それを真夜中の座の精霊達が嫌ったという理由もある」

「なので、今回はミカさんでもなかったのですね」

「ああ。ミカ程の者の手を借りれば、さすがに白夜にも気付かれる。……………まぁ、この悪夢はサン・クレイドルブルグの中だけで完結しているようだから問題ないだろうが、核となった人間が、クライメルを知っていて、それを顕現させる可能性もなくはないからな」

「ロガンスキーさんは、そやつのことは知らなかったようですよ?とても優秀な方ですが、人間の生活領域からはみ出さなかった方のようですね。……………だからこそ、王女様を相棒に高位の人ならざる者達と競り合った日々は、…………あの方にとっては、あまりにも非現実的だったのでしょう」



ウィリアムとそんな話をしながら、ネアは、少しだけこわこわしている目元や、鼻の頭を指先で擦った。

少しかさかさしているので、ウィリアムの言うように、この土地はかなり乾燥するのだろう。

かなり降雪量は多いが、確かにさらさらとした粉雪で、水分という水分は全て凍ってしまうような気がする。



「ディノ、髪の毛を梳かしましょうか」

「……………うん。……………何か、怖いことや、不安な事はないかい?」

「むぅ。…………思考を異性寄りに引っ張られたというのは、可憐な乙女には由々しき事態ですが、それも少しずつ薄らいでいっているようですので、もう大丈夫そうです」

「……………え」

「ロガンスキーさんは、煙草を吸う方でした。対する私は、自分の喫煙は好みません。また、男性でしたので、…………何というか、視線が少しそちら寄りなのですよ。私は、ディノの三つ編みを解いて指先を絡めたいと思ったのは初めてですし……………まぁ、儚くなってしまうのです?」



ネアは、いつもの自分との違いを説明しようとしたのだが、ディノはなぜか、目元を染めてふるふるしているではないか。


そんなこちらの魔物も、ロガンスキーの相棒に合わせて口調や髪色などを変化させていたに違いないが、ネアだって、あの色気は反則だと物申したい部分もある。



「そしてディノは、なかなかに手慣れていました」

「……………虐待する」

「あの様子で夜会などに出たら、それはもう、悪さをしたい放題だと言わざるを得ません!ちょっぴり素敵でもありましたので、なぜだか少し悔しいのです。………またやってくれるのなら、この悪夢仕様のディノと、一緒にお食事に行ったりするのも吝かではないのですよ」

「虐待……………」



ディノは恥じらっているだけだったが、ネアは、どちらかと言えばそちらの方が本来の理想に近い雰囲気であったロガンスキーの悪夢仕様な伴侶は吝かではないのだと、巧妙に伝えておいた。


勿論、普段のディノはいつものままがいいのだが、またどこかで擬態などの必要があった場合は、今回の擬態の雰囲気を使っていただければと思うのだ。



首飾りの金庫の中にある、どこかに落とされた時用の道具一式の中からブラシを取り出し、ディノの真珠色の髪の毛を梳かしてやりながら、おや、擬態が解けているぞと目を瞬く。


ウィリアムは黒髪の擬態のままでいるようで、ネアは、毛皮をたっぷり使った黒い冬用の軍服に、赤と白のサッシュ姿の終焉の魔物は、とても素晴らしいものだと重々しく頷く。


恐らくそれがサン・クレイドルブルグの軍服なのだろうが、溜め息を吐きたくなるくらいにウィリアムによく似合っていた。



「悪夢から剥離して貰っても、扉探しは続行なのですよね?」

「うん。ウィリアムと私がいれば問題はないと思うけれど、出来るだけ、こちらのアルテアとは遭遇しないように進めようと思う。食事をしたら、サン・クレイドルブルグ駅で捜索を行おうか」

「はい。………食事は、材料があれば私が作りましょうか?」

「いや、今回は俺が作ろう。…………サン・クレイドルブルグの一般家庭にある食材や、調理道具は、扱い方が少しややこしいんだ。俺は、ここに三年程暮らしていた事があるからな」

「まぁ。ウィリアムさんは、こちらに暮らしていたのですね!」



聞けば、ずっと夜でだいたい冬のこの国が落ち着く時期があったと知り、ネアは、その間の終焉の魔物に何があったのかまでは問わずにいた。


街の雰囲気を掴むには短い時間の外出であったが、ネアもこの街は嫌いではなかったが、とは言え、ウィームを知ってしまった以上はそちらに軍配が上がるし、暮らすならという質問であれば、他に幾つもの地名が先に挙がる。



(ここは、生き易い土地ではないのだろう……)



そんな土地で生まれ育った王女は、どんな人だったのだろうか。


ロガンスキーの記憶の中の姿は、どこか世慣れた風で、だけれど真摯で、聡明で凛々しい大人の女性であったが、彼が見ていたのはその一面に過ぎないのだろうとネアは考えている。


ずっと昔に生きた人の人生にそこまで心を寄せる事もないが、この悪夢の中で、ディノがその女性の役回りを演じていたと思えば、少しだけ他人事ではない部分もあるのだった。




「……………ディノ?」

「三つ編みを持っているかい?」

「……………ふふ。では、ディノの三つ編みを借りますね。顔を洗って身支度を整えたいのですが、何かあるといけないので、付いてきてくれますか?」

「……………うん」



つい先程までの飄々とした物言いはどこへやら、べったりとくっついたままの魔物は、ネアの提案に目をきらきらさせ、嬉しそうに頷いている。


やはり、自分の伴侶はこんな表情でなければと思い、ネアは、目が覚めた時に煙草が吸いたくなるという未知の体験ごと、見知らぬ男性の悪夢に触れていた部分をぽいと捨てた。



(けれども、私はやはり私なのだ。他の誰かの思考なんて、欠片も欲しくはない)



珍しい体験だったとは思うし、今回の擬態のディノは好きだったが、大事な伴侶をしょんぼりさせたであろう言動にはむしゃくしゃする。


昨日からとても他人行儀に過ごしてしまった分、ぐっと堪えてその時間を乗り越えてくれた魔物を、これからはたっぷり甘やかしてやろう。



だが、その前に一つ、確認しておかねばいけない事があった。



「それと、昨日の食事で私にグローヴァーを飲ませたのは、わざとですね?」

「……………ご主人様」

「ふむ。酔い潰されてお持ち帰りされたのは、初めての経験でした……………。元々、あのお酒には気を付けていましたが、外で飲まないようにしておきます………」

「うん……………」

「それは確かに、外では飲まない方がいいな……………」

「むぅ……………」



なお、カードに、いつもの自分に戻ったことを書くと、向こう側にいる家族や使い魔はほっとしてくれたようだった。


今回の悪夢は、前回のものが水鉢の悪夢であったからこそ、発生したものらしい。


渦巻くように落ちて来る水鉢の悪夢は、誰かの心の中の悪夢を掘り出し、次なる悪夢の派生を促し易くなる部分があるらしく、カルウィなどでは、あの悪夢が明けた直後に次の悪夢が派生していたのだそうだ。



“目元と鼻の頭の肌がかさかさしていて、指でこしこししたところ、少し皮が剥けました”

“いいか、二度と同じように擦るな。シルハーンにクリームや化粧水を持たせてある。化粧水、クリーム、薔薇の軟膏の順番で重ねてつけておけ”

“お母さんです……………”

“やめろ……”



そんなやり取りに、顔の保湿の手順の多さに慄いていたネアだったが、ディノが出してくれたクリームだけを塗ってもかさつきが改善されなかったので、渋々アルテアの示した三工程を踏むことになった。


なお、ロガンスキーの紅茶の嗜好はたいへん興味深かったので、紅茶にジャムを落としてみたところ、ウィームで飲むより美味しくいただけたのは素晴らしい発見と言えよう。








明日5/8の更新は、お休みとなります。

TwitterにてSSを書かせていただきますので、もし宜しければご覧下さい。

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