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雪降る街の怪物 3



ネアが目を覚ましたのは、高級ホテルのような調度品に飾られた美しい部屋だった。


灰色がかった紺色の壁に、寒色系の花柄の布を張った椅子が置かれているが、椅子の枠組みの木に精緻な装飾があり、ずしりとした重厚感がある為に不思議と女性的な雰囲気はない。

書棚やチェストなどの飴色の木の家具は、揃いで作られた物だろう。

一部が結晶化していて、この区画の住人が手に入れられるような物には見えなかった。


であれば、一等区画の住人の隠れ家、或いは国外からの亡命者や、中流階級の区画を選んだ酔狂な人外者の工房あたりだろうか。


一応は仕切られているが、開いた扉の向こうに居間のような空間も見えるので、工房という響きではあるものの、住居一体型の空間のようだ。


魔術師の多くがそうであるように、工房に入ると籠もりきりになってしまうような人物だったのかもしれないが、設備の調った厨房などを見ていると、理性的な人物の手で、綿密な計画の上で作り込まれた部屋だという感じもする。



部屋を暖める火の魔術の匂いと、花の香りがした。

こんな香りに包まれたのは、離宮に滞在している貴族を訪ねた一度きり。

胸の中を安堵で明るくするような、手入れのされた堅牢な住まいの香りであった。



(これだけの家具を揃えられるのであれば、郊外に屋敷を構えられた筈だ。でも、この工房の持ち主は、街の中心地の広い部屋を借りて、工房兼住居に改築している…………)


目を瞬き、ここはどこだろうという風に周囲を見回しながら、抜け目なく情報を集める。

驚くべき事に、窓からは中央駅を望む景色が見えた。


今はもう駅舎を閉じる時間だが、街のシンボル的な建物の一つなので、建物自体は照明に照らされている。

ここは夜の街だが、隣接する土地との兼ね合いがあるので、鉄道の運行時間は定刻通りとなるのだ。

とは言えこの時間も、貨物列車は動いている筈で、ネアの家からも時折、ごろごろという蒸気魔術の列車の走る音が聞こえた。



(サン・クレイドルブルグの一等地だわ。古くから住んでいる住人が立ち退かない限り、このような部屋が空くことはないだろうし、それすらも稀なくらいの物件だ)



おまけに工房という事は、常用の家ではないということだ。

市民階級の富裕層には、そんな贅沢な使い方が出来る土地ではない。

また、調査員であるネアですら、この区画に魔術工房があるのは初耳であったので、噂にならずにそんな事が出来るのは、やはり、政府や軍部絡みか人外者あたりだろうか。


そう言えば、ロガス氏を引き抜こうとしていた人外者の話が出たが、その人物は、どこでロガスを知り、どこで打診が行われたのだろう。

サン・クレイドルブルグに滞在していて彼の噂を聞いたのであれば、この地に今も工房を構えていても不思議はない。



(それは例えば、こんな工房なのかもしれない)


そう考えながら小さく息を吐き、強張った背中をぐいっと伸ばした。



「気分はどうですか?問題がなければ、話しておきたい事があるのですが、構いませんか?」


そう声をかけたのは、襟元を僅かに寛げてはいるものの、不思議と硬質な雰囲気も保っているディノだ。


これだけ色めいた親密さを滲ませながらも、少しの隙もなく品行方正という気にもさせられるのは、彼が、親し気な微笑みの割に酷く排他的な目をしているので、僅かな装いの変化にどきりとするような変化を感じさせるのだろう。


全てが計算づくだとしたら手に負えないが、こちらとの間に引かれた境界の深さは、本人が意図してのものではないような気がする。


そうか、彼は随分と危ういのだなと思えば、なぜだかその不安定さに心惹かれた。



「………ディノ、私は寝台から下りたいのですが、そこをどいて貰えませんか?このような場所で仕事の会話をするのは、同僚として適切だとは思えません」

「酔い潰れた相棒を気遣うという意味では、適切なものかもしれませんよ?」

「……………ご迷惑をおかけしたことは、先程も謝罪しました。その上で、この悪ふざけを続けるようであれば、私はあなたとの仕事を考え直さなければなりません」

「とても紳士的な、介抱の範疇ですよ。私は、あなたを脅かすような振舞いには及んでいませんし、あなたの尊厳を損ないもしていない。こうして寝台の端に座っているのは、あなたがまだ本調子ではないからでしょう」

「…………っ、既に酔いは醒めています!……………む、」



むっとしてそう主張したところで、ネアは、視界がくらりと翳ったような気がして動きを止めた。

そろりと視線を上げると、さもありなんという表情で頷くディノがいて、いっそうにむしゃくしゃする。



「体を休める事に罪悪感を覚えるようであれば、私が、届いたばかりの追加の調査資料を読んであげましょう。それとも、言い訳の必要がなくなるよう、もう少し親密になってみますか?」

「つ、ついかの!追加の資料の内容を教えて下さい!是非に!!」



ふっと微笑みを深めたディノの、あまりにも邪な誘惑に、それが悪ふざけと言われた事への意趣返しだと分かってはいても、ネアは、慌てて話題を変えなければならなかった。


この相棒の胡散臭さはもはや言うまでもないが、それ以前に、ネアはこのような駆け引きが苦手なのだ。

苦手な分野で手練れを放り込まれてしまい、既に対処法を探しあぐねている。


こちらを見て微笑んだディノは、ぞくりとするような美しい男性だ。

それなのに、手を伸ばして、その頭を撫でてやりたくなるのはなぜだろう。



「では、そうしましょう。報告書の内容を共有した後は、あなたはもう少し休んで下さい。どちらにせよ、早急に動けるような状態にはないので、普段の生活とは活動時間を入れ替えて貰う事になりますが、朝になってから調査を開始しましょう」

「…………その報告書には、まだ具体的な情報が上がってきていないのですか?」

「いえ。サン・クレイドルブルグ中央駅の周辺と、議事堂に魔術証跡があるという報告がありましたが、どちらも、この時間は閉鎖されています。同じ目的で動く者がいる可能性が高いので、時間外で施設を開けさせるような、目立った行動は控えた方がいいでしょう」


憎たらしいくらいに落ち着いている相棒に眉を寄せながら、ネアは、その提案に頷いた。


サン・クレイドルブルグは、軍の力の強い、即ち、組織力の高い土地だ。

目に留まるような行動は、すぐに軍部に、或いは軍部の者が通じている政府要人に報告が上がり、様々な派閥で共有される。


そんな国の枠組みとは対照的に自由な気風もあり、個人の私生活がその報告対象になる事は余程の事をしない限りはないが、提示された公共の場所をディノのような相棒と訪れるとなると、これから先の調査は、到底周囲に伏せておけるようなものではない。


こちらが行動を起こすのと同時に、ディノが政府の要人であったとしても、軍部の要人であったとしても、その反対側の組織の諜報員に情報が流れるだろう。



「……………ですが、場所まで絞り込めるとなれば、そちらにも優秀な調査員がいるのでは?」

「残念ながら、彼等はこの土地での活動が不可能なんですよ。ですので、扉そのものを見付けるには、我々が動くしかない。加えて、……………恐らくその扉を見付けられるのは、こちら側の陣営では、あなただけでしょう」

「私だけ……………?それはもしや、先程、私が狙われるようにも取れるような発言をしていた事と、関係がありますか?」



そう尋ねたネアに、三枚重ねの白い報告書を畳みながら、ディノは頷いた。


その報告書を読んでくれるのではなかったのだろうかと怪訝に思い、目を向けたが、びっしりと書かれている文字は、ネアには読めなかった。

あのリストランテのメニューと同じだと思えば、何かが引っかかるような不思議な違和感がある。



「ここであれば、誰かに会話を盗み聞かれる事もないでしょう。……………先程より踏み込んだ説明をさせていただいても?」

「ええ、勿論です」

「今回の任務への参加者は、悪夢の内側と外側に分かれています。私のように、悪夢が下りた時にその外側におり、悪夢の定着後に任務に参加した者では、恐らく探し物は見付けられない」

「私は高位魔術師ではありませんが、………そのような線引きは、いつもあるものなのですか?」


魔術調査に際し、そのような除外条件があったという事例は、これまでに聞いた事はない。

だが、ディノの説明では、まるで今回のゲームには、破れないルールがあると言わんばかりではないか。



「これが、実現する悪夢だからこそですよ。………悪夢を展開した者は、既に亡くなっている。その人物が思い描き生み出した悪夢の中に収められた、この街の中だけに正解があり、外から来た我々は、あなたの補佐は出来ても部外者にしかなりません」

「……………この街の中だけに……………?」

「ええ。現段階で、あなたと同じように元々悪夢の内側にいて、この悪夢にとって重要な役割を果たしかねない者達は、あなたを含めて三人、もしくは四人だと考えられています」


その説明に、ネアはおやっと首を傾げた。

食事をしながらの会話の中で、ぼんやりとした事件の輪郭を掴んでいたつもりだが、そちらの筋書きと少しの相違が出てきたのだ。


「…………ここは、悪夢の中なのですか?私は、てっきり、悪夢がサン・クレイドルブルグの外側にあり、その中に重要な人物が閉じ込められているので、解放の手伝いをして欲しいという任務だと思っていました」

「いえ、この街は今、気象性の悪夢の傘の中にあります。そして、周囲を覆った悪夢を晴らすには、この中に閉じ込められた者達の誰かが、ロガンスキーが扉として定めたものを見付け、ここから出る必要がある」


示された任務の詳細な内容にはひやりとしたが、曖昧なまま呑み込んでいた背景が漸く馴染んだ。

なぜ自分でなければならないのだろうと考えていた理由のパーツが、ぴたりと嵌ったのだ。



「成る程、悪夢の中から対象者を救出する為の出口を確保する任務ではなく、悪夢そのものの出口を開き、悪夢を晴らす事が任務なのですね」

「正確には、どちらの認識も合っていますよ。我々の任務には、あなたをこの悪夢から救出するという目的も含まれていますから」

「それが、必ずしも私である必要はあるのでしょうか?あなたの言い方では、条件的な一致ではなく、私という個人を特定しているように聞こえます」

「……………その理解をいただくには、ここから説明をした方がいいでしょう。……………推測するに、この悪夢の基盤となった事件には、勝者と敗者がいました。そしてロガンスキーは、その勝者の側だった」



どうやら、調査報告書を畳んだのは、その内容を頭に入れたからであるらしい。

文面をそのまま読むというのではなく、自分の言葉で説明してくれるようだ。



「そしてこの悪夢は、その当時の状況が、出口探しの条件として踏襲されていると見做すべきでしょう。彼は、何らかの事情でその当時に戻りたいと願い、死の縁で自分の願いを悪夢という形で展開し、その再現を図った。その結果、この街には、ロガンスキーの記憶にかかる強制力が働いているような状態です」

「……………となると、私が狙われるのは、私の配役が、ロガンスキー本人だからですか?」



こんな時は、真正面から尋ねるのがいいのだろう。

だからネアは、回りくどい駆け引きはせずに、ディノに疑問をそのままぶつけた。



「ええ。あなたは、偶然にもその駒の位置に立ってしまった。……………そして、気象性の悪夢は、実現する悪夢でもある。となれば、悪夢の中のかつての競合相手が、この勝負で競り勝つのはロガンスキーであるという事を知っている可能性すらある」


それは、悪夢だからこその理不尽さであった。


悪夢の中で起こる事は、過去に起こった出来事そのままとは限らない。

ロガンスキー本人しか知り得ない事を他の誰かが知っている可能性もあるし、当時はその場にいなかったような敵が、悪夢というものの気紛れで現れる可能性さえある。


ネアのように、実在の人物がその配役を背負わされる事もあれば、本来はこの街に居ない筈の何かが現れる可能性すらあり得るのだろう。

何でもありの出口争奪戦になると知り、胸の中の不安がじりりと大きくなる。



(……………参ったな。さすがにこれは、話が大き過ぎる……………)


通常、ネアは、大き過ぎる背景を持つ任務を、依頼人だけの視点や発注からは受けないようにしている。

自分の目で依頼の背景を探り、依頼主の言い分が正しいかどうかを判断してから、任務を引き受けるのだ。


だが、ここはもう既に悪夢という閉鎖的な魔術現象の中で、前述の理由があれば、ディノは、ネアをそう多くの人物には接触させないだろう。

分が悪いにも程があるぞと考え、どうにかして、馴染みの情報屋に接触出来ないか考えた。


或いは、この男から離れてみるだけでもいい。

一人で、サン・クレイドルブルグに何が起きているのかを調べるだけでも、意味がある筈だ。



「つまりは、当時、他に誰がその事件に関わっていたのかを早急に調べる必要があるのでしょう?王立図書館に行けば、何か情報を得られるのではないでしょうか?或いは、こちらの社内での競合案件ではないのならという前提付きですが、私の上司に話を聞いてみてもいいかもしれない」

「難しいでしょうね。ここはもう、悪夢の手の内です。この場所こそが、当時のその時であるという改変が働いている以上は、当時の記録は残っていないでしょう。今、この時に起こっている事ですからね」

「…………まさか、時代が、巻き戻っていると仰りたいのですか?そんな筈はありません。街の様子がおかしければ、さすがに私も気付き…………」



言いながら、ネアは、こちらを見ている相棒の眼差しの中に答えを見付けた。


(………あ、)


多分、もうネア自身も、何某かの浸食を得ているのだ。

この時代に馴染み、いつもの日常だと信じて疑わないどこかに、悪夢が重ねただけの景色がある。



「……………残念ながら」


無言で見上げたネアが答えを必要としていると気付いたのか、ディノが肯定する。

何てことになったのだろうと深く深く息を吐き、ネアは、もう一度頭を抱えた。



(この私が、……………もはや私ではないかもしれないと言うのだろうか)



そう考えるのは、どれだけ恐ろしい事だろう。

ぞっとして膝を抱えたのは、寝台の上にそのような姿勢で座っていたからだ。

ネアが不安を覚えている事に気付いたのか、ディノが座り直して、こちらに体を寄せる。


「いいですか、あなたの慰めは必要ありません。……………ただ、真実だけを教えていただければ」

「どうでしょうか。往々にして、このような場面では、真実の方が扱い難いものですよ」


そんな返答にどれだけの答えを隠しているのか、彼は気付いていないのだろうか。

思わず、薄暗い部屋の中で光を孕むような水紺の瞳を正面から覗き込んでしまい、ああ、この男は、そんな答えを知った上で、問うているのだと理解した。


それはまるで、雪食い鳥の試練のように。

そんな真実であっても受け取れるのだろうかと問いかける、人を破滅させたことのある生き物の眼差しだ。



「……………少しだけ、心の整理をする時間を下さい。………それと、幾つか質問をしても?」

「ええ。お好きなだけどうぞ。答える事が難しい質問については、その理由をお伝えします」

「あなたは、今回の事件の中で、かつてのロガンスキーの代わりに私を勝たせることで、悪夢を晴らそうとしている?」

「ええ。扉を最初にくぐるのがあなたで、この悪夢は、本来の形通りに終わるべきだと考えています」

「あなたの所属はどこなのです?」

「……………そうですね。領主に近しい立場、或いはどちらの意味でも、玉座に近い立場というところでしょうか」

「政府側ですね。……………であれば、軍部を警戒しなければならないとなると、かなり厄介だ」



ネアとしては、この相棒が、政府側よりも軍部側であって欲しかった。


黎明を奪われたサン・クレイドルブルグでは、より大きな情報網を持つのは軍部であるし、中央を離れない政府側の要人達よりも、軍部の方が、この土地に深く根を下ろしている。


本来であれば、政府と軍が対立をするような事もないのだが、とは言え、今回の一件は、この国が一枚岩ではないという話でもあるのだろう。

ネアのような立場までは下りてくることがない、国の暗部にも関わる仕事であった。



「……………見当がついている競争相手、もしくは、その可能性がある相手を知りたいです」

「軍部側では、マラート大尉にアクス商会の職員が補佐に付いています」

「……………最悪だ。アクス商会だって?!………誰よりも敵に回したくない」

「軍の諜報部では、ヤロスラフ中佐と彼が雇った魔術師……………とされていますが、白樺の魔物ですね」

「……………もしかして、まだ続きますか?」

「ええ。最後にもう一人、エフフローシャ子爵令嬢と仮面の魔物の組み合わせです。ただしこちらは、当時の仮面の魔物の行動経路が押さえられているので、回避が可能だとお伝えしておきましょう」

「寧ろ、よくその中で、ロガンスキーは勝ち抜きましたね?!」

「彼は、真昼を司る妖精の王族の血を引いていたと言われています。真実を見出し、夜の中で答えを探すには、これ以上ない燈火役だ。だからこそ、彼の相棒だった人物は、名の知れた調査員ではあっても、一介の調査員でしかなかった彼と組む事に、僅かな勝機を見たのでしょう」



(そうか、では、ロガンスキーも只者ではなかったのだ)


そう考えると、どうしようもなくどこにも行けない人間でしかない自分は、そんな恐ろしい相手と、どう競い合えばいいのだろう。

ましてや、この思考や記憶に既に悪夢の翳りがあるのなら、ネアが武器だと思っているものですら、武器ではないかもしれないではないか。



「……………失礼、」

「……………っ?!」


それは、突然の事だった。

ふっと視界が翳り、ネアは、長い睫毛の影がどんな色をしているのかを、吐息が触れそうな近さで目撃する事になった。


顎先にかけられた指の感触に、唇に触れた淡い温度。

呆然としている間に体を僅かに離し、ディノは淡い微笑みを深める。



「な、……………な、なにを……………」


頬に血が昇り、すぐ近くにいる相手を突き飛ばすよりも、ぶるぶると震えてそう言うのが精一杯だ。


「今のあなたの足元があまりにも危ういので、悪夢に取り込まれないように祝福を。このようなものは、意識がない時よりも、授かったと認識している時に得た方が効力を得ますからね」

「という事は、……………さてはあなたは、人外者ですね?」

「さて。今はまだ、お話し出来ないのでご容赦下さい。我々は皆、悪夢の中の駒です。そこから逸脱するような振舞いで、あなたの側を離れる訳にはいきませんから」



ディノが体を離したので、じりじりと寝台の上を座ったまま後退り、ネアは、ヘッドボードにごつんと背中をぶつけた。

不思議そうにこちらを見ているディノを視線で威嚇してみたが、心の中にふと、おかしな衝動が沸き上がる。



(……………触れたいと思ったのは、私なのだ。私だって、あの三つ編みに触れてみたかった)

(……………えええ?!)



あんまりな思考に呆然としてから、ネアは、それが自分の考えにしては不自然な事に気付いた。


確かにネア自身も目の前の男性を美しいとは思っているが、現状は胡散臭いと感じる度合いの方が大きい。

それなのに、なぜここで、その三つ編みに解れてみたいというとんでもない思考が浮かび上がるのだろう。



「もう一つ!ロガンスキーは、彼と組んだ人物とは、どのような関係だったのでしょう?」


ネアの質問の意図に気付いたのか、ふっとディノが微笑みを深める。


それは人間を唆す悪しきもののようで、本当に彼を信じてもいいのだろうかと考えた。

けれどもネアは、とっくに気付いてしまっていたのだ。


(……この部屋に置かれている本や、新聞……………どの文字も、私には読めない)



そんな事があるだろうか。


先程のメニューといい、報告書といい、全ての文字が読めないだなんて、あまりにも奇妙だ。

であれば、その理由は、確かに悪夢の浸食を受けているからなのだと考えた方が辻褄が合う。



「本人達の認識は確認のしようがありませんが、恋人同士に見えたという情報があります。全てが終わった後、彼の相棒は彼に求婚したが、彼はこの街から立ち去った」

「であれば、恋人同士ではなかったのでは?」

「かもしれませんが、私の友人によると、政府の高官であったその相手がなぜ自分を望んだのか、彼は、最後まで理解しようとしないまま立ち去ったように見えたそうです」

「……………ああ、……………ああ、成る程。色々腑に落ちました……………」



その説明を聞き、ネアは、げんなりした。


先程の自分の思考を踏まえても、ロガンスキーは、どう考えても相棒に惹かれているとしか思えない。

だが、同時にそんな思いを嘲笑うような諦観もあって、それはまるで、初めての恋のように不格好であった。



(そうか。……………成る程。私も大概のものだけれど、その御仁は、相当拗らせていたと見受けられる。大方、相手の女性を愛していたくせに、求婚が本心だとは思えないとか怖気付いて、彼女の前から逃げ出したのだろう……………)



であれば、死に際に見た夢が悪夢だったのは、つまりそういう訳なのだ。

ロガンスキーという人物にとって、それは、自分の人生に齎された宝物を自ら捨てた日だったに違いない。


成る程、そんな未練に最後に触れてしまったのなら、悪夢にもなろうというものだ。



(であれば、私の思考は、自分の相棒に無意識に惹かれていた、ロガンスキーの感情に左右されかねないと覚えておこう。……………そしてディノは、恐らく、そのことに気付いている)


その上で、そんなネアの感情の揺らぎを利用しているのであれば、かなり厄介な相手になる。

やはり、どこかで一度、ディノから離れて自分で情報を集めた方が良さそうだ。



「……………彼等が関わった事件については、何か分かっているのでしょうか?あなたには、ロガンスキーの事件に於いて、随分と多くの情報が既に集まっているようですね」

「有体に言えば、その争奪戦に関わった一人が、私の友人です。……………ですが、彼はこの地で行われている事に気付き、目の前で死んだ参加者の名前を奪って途中から参戦したに過ぎない。参加者達が奪取しようとしていたのが、大きな魔術の成果物である事は察していましたが、残念ながらそれが何なのかまでは知らないそうです」

「…………宝物が何なのかを知らずに、宝探しに参加していたのですか?」

「そういう気質の者なのですよ。彼にとっては、暇潰しでしかなかったのでしょう。……………そして、勝者にしか、成果物の名前は明かされませんでした。だが、ロガンスキーとその相棒は、恐らく、手に入れた成果物は破棄している」

「……………となると、どう考えても、相当にまずい物でしょう。あなたは、扉か魔術書の形をしているだろうと話していましたが、そのあたりは特定出来ているのですね?」

「ええ。それは、何かに通じる道であった。そこまでは判明しています」



だとすれば、この悪夢から出て行く為にくぐったその道の向こう側が、思っていた場所とは違うという事もあるのではないだろうか。

これまでの話を聞いていると、その入り口に放り込まれるのは、ネア一人ではあるまいかという気もする。





ざあっと水音がして、きゅっと蛇口を閉めた。

すっかりげんなりして、ネアは、鏡の中の自分を見つめている。

やっと一人になれたのは、工房の中にある浴室での事だった。



(……………青灰色の髪に、鳩羽色の瞳……………)


決して華美ではなく、だが、ネアは自分の顔を気に入っていた。

ああ、これは自分だと感じ、その瞳の奥を覗き込む。



この浴室には、小さな窓がある。

その大きさであれば、ネア一人くらいは抜け出せるし、今迄には、もっと狭い窓から脱走したこともある。

様々な魔術調査を行うこの仕事は、ディノの言うように、決して楽な商売ではない。

こちらだって、様々な経験を積んできているのだ。



(ここを出て、自分で自分の情報を整理するまで、あの男とは距離を置こう)



ずっと一人で生きてきたのだし、そのくらいの自由を得る力は持っている。

どちらにせよ、一人で眠るべき寝台の周囲や、部屋の中に、誰かの気配があるのはとても落ち着かない。



冷静になるために一度顔を洗いたいと言い、浴室に一人にして貰った。



この扉の向こう側に戻れば、例え、明日の朝に調査の為に外に出たところで、ディノから逃れて一人になるのは難しいような気がする。

それに、このような場合は、まさかこんなところで逃げ出すとは思わなかったという、少し無理があるくらいの段階で離れるのがいいのだ。


今なら、彼もさすがに、ネアがこの窓から逃げ出すとは思っていないだろう。


それに、もしそれが何らかの選択の過ちで、この妙な事件に巻き込まれたまま命を落とすのだとしても、それもまたネアの人生だ。

この手の中に誰かを迎え入れる事がなかった代わりに、ネアはずっと自由でもあった。



(……………だから)



そう考えた時に突然、ネアは、わぁっと声を上げて暴れたくなった。

子供のように声を上げて泣いて、本当に欲しかったのはそんな人生じゃないと叫びたくなった。


よく分からないけれど、そちらを選ぶのは絶対に駄目だ。



そんな事をすれば、きっと自分は一生後悔する。




「ディノ!!」


咄嗟に声を上げてその名前を呼ぶと、勢いよく浴室の扉が開いた。

焦ったような表情をした美しい相棒の姿に、ああ、こんな顔もするのだなと少しだけおかしくなる。

そして、彼がすぐに来てくれた事に、なぜだか胸が痛くなるくらいに安堵した。



「……………何か、ありましたか?」

「私が、ここから逃げ出さないようにしておいて下さい」


そう言えば、こちらを見たディノが小さく息を呑む。

その無防備な表情に、なぜだかまた、胸が苦しくなった。



「私は今、とても脱走したいんです。ですがそれは、……………多分、後で後悔するような事になる。直感としては、ここから逃げ出してあなたから距離を置き、一人で冷静に今回の問題を俯瞰するべきだと考えています。……………でも、それは悪手だ。……………多分、とても宜しくない」

「……………ええ」



顔を洗った洗面台に手を突いたまま、ネアは、動かずにいた。


体を起こし、背筋を伸ばしただけでもこの覚悟が変わってしまいそうで、堪らなく怖かったのだ。

そんなネアを脅かさないようにゆっくりと歩み寄り、ディノがそっと強張った体を抱き締めてくれる。



「……………その、腕を掴むなり、………その程度の拘束で構わないのですが?」

「補充要員が来れば、あなたを悪夢から剥離する事が出来ますよ。……………その時に、これで良かったのだと、分かるでしょう」

「さては、まだ隠している事がありますね?」

「ええ。ここが悪夢である限り。………もう少し早い時間の合流を見込んでいましたが、彼は彼なりの判断で、……………先に不安要因の排除を優先したようだ」

「………どこかで、何か、とても物騒な事が起きていますね?」

「かもしれません。………さて、顔にクリームは塗りましたか?それが済んだら、温かい紅茶でも飲みましょうか。朝までゆっくり眠れば、この夜の中に留まるにせよ、悪夢からは距離を置けるようになるはずです」



抱き締められたまま、ネアは、浴室を出た。


しっかりと体に回されたディノの腕に、どこか切実なものを感じた時、ネアは、悪夢の中での分岐を一つ間違えずにやり過ごせたのだと思えた気がした。




あなたとは違い、私は逃げないのだ。

多分この人は、私にとって最初で最後の宝物だから。










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