雪降る街の怪物 1
「単発の悪夢か」
誰かが、夢の中でそう言った。
けれどもその声は、すぐに遠くなる。
「彼女が見ている夢と混ざり落ちる。すぐに回収に行かなければだね」
そう言ったのは、誰だろう。
泣きたくなるような優しい口付けが落ち、胸の奥がざわめいた。
とろとろたぷん。
そんな音を立てて降り積もる夜闇に、ネアは、小さな部屋の中で目を覚ました。
青白い夜の光を届ける筈の窓辺はべっとりと暗く沈み、寝台の横にあるテーブルの上の夜水晶のランプに灯る光だけが、その暗闇をぼんやりと切り取っている。
「………寒い」
ぽそりとそう呟き、ネアはぎりりと眉を寄せた。
どうやらこの夜は、思っていたよりも長く暗いらしい。
おかしな夢を見ていた気がするが、どんな夢だったのかはもはや思い出せず、馨しい薔薇の香りとおとぎ話の森の香りが残っている。
あまりにも素敵なので、その夢の中のその残り香をもう一度吸い込もうとしたが、上手くいかずに悲しくなった。
とは言えもう、目を覚ます時間だ。
一人暮らしなのをいいことにぐぅと唸り声を上げ、渋々と毛布から抜け出すと、もこもこした室内履きを引っ掛け、火の鉱石を投げ込んである鉄のストーブに向かう。
何はともあれ、これを点けなければ寒くてかなわない。
眠るまではストーブを焚いていた筈なのに、寝台から見渡せるような小さな部屋は、既に冷え切っていた。
ぶるりと体を震わせ、ストーブに向かいながら紅茶の缶に残っていたティーバッグの残数を考える。
(ミルクティーを作れるかしら………?)
保冷庫の中にはまだ牛乳が残っていた筈だし、砂糖壺にも砂糖が残っていた筈だ。
それは即ちミルクティーが飲める事に他ならず、ネアはにっこりと微笑んだ。
表情があまり動かないネアは、よく何を考えているか分からないと言われるのだが、こちらをご覧あれというくらいに家の中ではよく笑う。
何しろここはネアの安全な籠の中なので、心を動かしても何の支障もない。
しかし一歩外に出れば、そこは身寄りのない人間にはとても厳しい毎日で、おまけに、型通りではないネアという人間は、どう足掻いても異端という扱いであった。
そうしてみんなの輪から追い出された人間は、あまりの生き難さに表情も強張ろうというものだ。
気難しさや淡々とした振る舞いでしっかりと身を守らねばあっという間に心がくしゃくしゃになってしまうので、この家の中だけのネアは、外の世界では秘密なのだった。
細長い鍵のような形をした水晶の棒をぐりりと動かして火鉱石を動かすと、ぼうっとストーブに火が入る。
ぱちぱちじわじわと火が伝う音を聞きながら、ネアは、篝火の祝福石を砕いた釉薬を使った特別なケトルをストーブの上に載せた。
はふと息を吐きストーブの火が赤くなるのを眺めていると、やがて、ケトルがしゅんしゅんと音を立てる。
布巾を持ち手にかけてストーブの上から持ち上げ、ティーバッグを入れたマグカップにとくとくと注いだ。
煮出して作るミルクティーは先に牛乳を入れたいが、ティーバッグとなると話は別だ。
繰り返し繰り返し、最低でも五回は使うティーバッグを、牛乳に漬けてしまう訳にはいかない。
最後に砂糖をふた匙入れて丁寧にかき混ぜると、ネアのお気に入りのミルクティーとなる。
僅かに水色がかるミルクティーの表面が、美味しいミルクティーの印だと言われていた。
これはもう、ミルクティーを飲み慣れていなければ分からない感覚で、美味しい最初の一杯を淹れた時に、ああ、確かにこれは水色がかって見えるなと思うだろう。
今淹れている紅茶は最初の一杯なので、その素敵な印に会えるのだった。
「………ふぁ」
美味しいミルクティーを飲み、毛皮で裏打ちされた分厚い上着を羽織って一息吐く。
一人暮らしのいいところは、声を出しても出さなくてもいいところだ。
そして今日は少しだけ、言葉に出して思考したい気分である。
「…………真っ暗な夜がずっと続くけど、さすがに今日は買い物に行かなくては」
そう考えかけ、ふと、なぜ真っ暗な夜が続くのだろうと考えた。
けれども、そんな事は考えるまでもなく、ここが夜の街だからに他ならない。
雪深く夜の長い街は、この季節もまだ、一日の殆どを夜のまま終える。
長い夢のような暗闇の底に沈み、ここで暮らす人々はほんの僅かな陽光を尊び生きているのだ。
夢の中のどこかは、どんな夜の色だっただろうかと考え、ネアは唇の端を持ち上げた。
そちら側は、夜がとても明るかったような気がする。
(こんなにいい気分で目を覚ましたのだから、幸せな夢だったのは間違いない。明日も続きを見られたらいいのに…………)
だから今日は、とても幸せな一日だ。
子供の頃ならいざ知らず、大人になれば、生きていると夢すらも思い通りではないのだと知るだろう。
よく分からない夢を見る事も多いし、よりにもよってという嫌な夢を見る事もある。
だから、覚えてはいなくてもいい夢を見たのであれば、それはもうとても幸せな目覚めなのだった。
ネアは、この夜の街で一人で暮らしている。
身寄りはなく、友達もいない。
そんな寂しい人間にとって、眠りの中の夢が素敵なものかどうかは、他の誰かよりは大切なことだろう。
(コートは、一番暖かい物を着ていこう)
外は恐らく雪が降っているに違いなく、買い物に出掛ける為には、コートをしっかり着込まねばならない。
欲しいのはパンと卵と、もし安価な物を見付ける事が出来るのであれば、ベーコンかソーセージを。
あの手の加工肉は、スープに入れてもよい味となるし、ほんの少しでも満足感がある。
そしてネアは、卵とベーコンが買えた日には、その二つを贅沢に挟んだサンドイッチを作ると決めていた。
そんなサンドイッチに憧れながら、かこんと音を立ててランタンの中に放り込まれたのは、小さな三等級の星屑だ。
もっと上等な住居区画に住む者達は一等の星を持っているが、ネアの稼ぎではこのくらいが限界なのだ。
しかし、この暗い夜の街を歩くには、星屑を入れたランタンか魔術の火がなければどうしようもない。
魔術の素養のないネアにとって、三等級とは言え、この星屑は生命線である。
「買い物を終えて帰ってくる迄、この暖かさが残っているといいのだけれど………」
そろそろ出かけないと、雪が激しくなってからでは厄介だ。
ネアは、帰って来てからもまた使うカップはそのままに、やっと部屋をほかほかにしてくれたストーブを消した。
マフラーをと思い、部屋のどこにもない事に気付く。
そう言えば、手持ちのマフラーは、大雨の日に落として駄目にしてしまったのだ。
そんな事を思い出して悲しくなりながら、ネアは、分厚い靴底が冷たさを軽減してくれるブーツを履き、家を出た。
かつかつこつん。
まるで誰もいないような靴音が、細長い石造りの共同住宅に響く。
黒いインクに沈むような夜に買い物に出掛ける者はやはり少なく、多くの者達は、ほんの僅かな光の差し込む正午を目指して外に出るのだろう。
とは言えネアは、僅かな陽光を求めて外に出る人々が精一杯の社交を楽しむ正午が好きではなく、夜間にかかるような仕事に従事する者達が活動する、真夜中の買い物が好きだった。
どちらにせよ暗いのでと、この街では、深夜を少し過ぎたところまで殆どの店が開いている。
なのでネアが起き出すのは、いつもそんな時間だった。
(……………あれ、)
二階の部屋に暮らすネアは、外に出るときは大抵階段を使う。
細長い階段を降り、建物を出ようとしたところで、ネアは、玄関ホールの古めかしいステンドグラスを嵌め込んだ扉の前に、誰かが立っている事に気が付いた。
それは、見た事のない背の高い男性で、淡い砂色の髪を、黒いリボンで一本の三つ編みにしている。
シングルボタンの灰色のコートはカシミヤのように見え、すっきりとした縦長の縫製だ。
襟元のステッチを見せる上品で優美なデザインからすると、老舗のテーラーか有名なメゾンの仕立てなのだろう。
ネアの暮らしている共同住宅は、決して最下層のものではなかったが、とは言え、一等区画の邸宅ではない。
それなのに、そんな区画から迷い込んだような男性が、玄関ホールのぼんやりとしたシャンデリアの灯りの下に立っているのは、奇妙な光景であった。
「……………ああ、良かった」
おまけにその男性は、こちらに気付き顔を上げると、そんな事を言うのだ。
目を瞬き、思わず後ろを振り返ってしまったが、やはり彼の視線の先にはネアしかいないらしい。
また少し眉を寄せ、どうやらネアを見てそう言ったらしい男性に視線を戻す。
「……………私を見て、そう言われたのでしょうか」
「成る程、そのような仕様なのかな。これは困ったね」
「随分と礼儀正しくていらっしゃるようですが、私は、あなたを存じ上げないのですが」
ネアは、休日に自分の時間の配分を崩されるのが大嫌いだ。
ましてや、よく分からない見ず知らずの誰かと、親し気に会話を弾ませる嗜好はない。
そんな人間にとって、初対面の男性に親し気に話しかけられること程、得体のしれない事件はなかった。
このような相手は、愛想良く受け流すのは難しそうだと判断して、皮肉混じりにそう言えば、こちらを見た男性は困ったように淡く微笑み、成る程と、また呟いた。
(……………恐ろしい程に、美しい人だ)
男性にそんな表現をしたことはなかったが、ひやりとするような美貌の男性である。
だがそれは、木漏れ日の下に咲く艶やかな薔薇のような美しさではなく、月光の下で青い光に包まれる夜の森のようなどこか排他的な美しさであった。
そんな美貌を持つ男性だが、こちらに向けた親し気な微笑みは上品で落ち着いている。
小さく頷いたのは、何への理解を示したものだろう。
「礼儀正しくあるべきだというのなら、そうしましょう。ここはそのような場所で、君を怖がらせてしまうのは不本意ですからね」
「……………話し方を変えられても、私は、あなたを存じ上げませんので、なぜ突然話しかけられているのだろうかと、引き続き不審には思うでしょう。どなたかと、お間違えではないのですか?」
「おや、聞いておりませんか?今日は、私と過ごす予定ですよ、ネア。……………私は、こちらでそう義務付けられたあなたの案内人のようなもの。そうなっている筈ですからね」
「……………案内人?」
それは、不可思議な不思議な言葉であった。
困惑して目を瞠り、案内人という言葉を心の中で噛み砕く。
すると、ぼんやりとした意識の端に、何やらそれで良かったような気がするという奇妙な確信が生まれた。
(あれ、……………何か、大切なことを忘れていたような気がする)
ふと、どこかでとぷんと闇が揺れる音がした。
だが、そんな音が聞こえる筈もないので、気のせいだろう。
その瞬間に、目の前に立つこの男性を、どこかで見た事があったような気がしたのも不思議でならない。
これだけの美貌なのだから、会えば忘れる筈もないのだ。
もしかすると、穏やかだが、どこかきっぱりと親しげな謎めいた微笑みのせいかもしれない。
「或いは、相棒のようなものという言い方も出来るかもしれない。一緒に仕事をする予定でしたが、忘れてしまいましたか?」
「……………仕事。…………あなたと?」
「ええ。そのポケットにある、指示書を御覧になっては?今日から、私と共に行動するようにという伝達があった筈ですから」
そう言われて、ネアは、コートのポケットを見た。
扉の前に立っている男性は、まるでそこに、大事な書類が入っているかのように視線を向けたのだ。
そう言えば、職場の上司からそんな指示書を受け取っていたような気がして、ネアは、慌ててポケットの中に入っていた白い紙封筒を引っ張り出した。
“指定日より、ディノ・シルハーンと共に行動するよう命じる”
封筒の中の指示書には、そんな飾り気のない文字が並んでいた。
ふと、こんな封筒は初めからポケットに入っていただろうかと考え、とは言え自分以外の誰が受け取るのだと首を振る。
幸福な夢に溺れすっかり心を緩めてしまったのか、仕事の指示書を見落としていたのは失態であった。
(指示書、…………仕事………)
考えれば、ふわりと浮かび上がる記憶がある。
それはまるで、振り返る度に用意される後出しの記憶のようにも思えたが、まさかそんな奇妙なものの筈もなく、ここはネアにとっての見慣れたいつもの世界なのだ。
自分は余程あの夢に侵食されていたのだなと心の中で苦笑し、ネアは、背の高い男性に視線を戻した。
「ごめんなさい。指示書にはまだ目を通していませんでした。それに今日は、まだ休日なのだとばかり」
「であれば、私が今日派遣されたのは、顔合わせのつもりなのでしょう。………失礼、どこかへ出かけられるおつもりでしたか?」
「いえ、……………そう大した用事では。食料を買いに行こうとしただけでしたから」
「では、その買い物に付き合いましょう」
「……………あなたが?」
思ってもいない提案に、思わずそう返してしまったのは当然だろう。
一人上手のネアは、仕事仲間に、私生活にまで踏み込んで欲しくはないと思っている。
今日が顔合わせだというのなら、気持ちを仕事用に切り替えるばかりなので、とてもではないが、出会ったばかりの相棒と食料品の買い出しになど行きたくはない。
だがここで、悲しい事件が起きた。
ネアのお腹が、ぐぅと音を立ててしまったのだ。
ぱっと両手でお腹を押さえてしまったネアに、ディノという名前らしい相棒は綺麗な水紺色の瞳を瞠る。
その驚きがあまりにも無防備過ぎて、ネアは、なぜだかむしゃくしゃした。
こちらは、起き抜けで買い物に行くところだったのだ。
空腹で何が悪いというのか。
「……………食事がまだでしたか。であれば、どこかで食事を済ませてしまいましょう」
「今月は、外食が出来る程の余裕がないんです。どこかで適当に何かを買いますから、どうかお気になさらずに」
「この街は暗くて冷えるでしょう。今夜は雪も降っていますから、どこか温かな店にでも入った方がいい。ゆっくり挨拶をしたいので、食事代は私が引き受けましょう」
「いえ。初対面の同僚に、そのような事をしていただく訳にはいきません。私とあなたは、友人ではないのですから」
「であればこれは、私の我が儘として受け取って下さい。あなたには、早急に何かを食べさせた方が良さそうだ」
くすりと笑ってそう言われ、ネアは、たいへん毛並みが良さそうな同僚をむっと睨みつける。
そうしてしまってから、誰かを睨むような事をしたのは初めてだと気付き、少しだけ途方に暮れた。
すいと差し出されたのは、紫がかった灰色の上等な手袋に包まれた美しい手で、それをまるで、舞踏会へエスコートする紳士のようにネアに向けるではないか。
(……………磨き上げられた革靴に、新品のような毛艶のある、素晴らしい仕立てのコート)
淡い砂色の髪はランプの光を紡いだようで、宝石のような水紺色の瞳には長い睫毛の影が落ちる。
襟元から覗くのは、華美さはないが物が良さそうな白いシャツだ。
シルクでもないのに僅かに濡れたような艶のあるシャツ地は、神父服のような独特の意匠である。
不思議な男性であった。
言葉通りにただの案内人にも見えるし、聖衣を脱いだ聖職者にも見える。
だが、ぞっとするような手慣れた雰囲気もあり、為政者のようなずしりとした我が物顔の高慢さも垣間見えた。
装いは最上級の品物だが、鼻につく主張や華やか過ぎる装飾はなく、長い時間をかけて財を溜め込んできた一族の嗜好のように見受けられた。
両親の仕事に同行してあちこちを渡り歩いたネアなので、そのあたりの審美眼は磨かれている。
本物の貴族の社交用の舞台服以外の装いは、思っていたよりも地味で、けれども震え上がるような値段のものが多い。
(この区画の人間ではないのだろう。……………一等区画出身だろうか)
そう考えると、よりにもよってそんな人種と組ませた上の意向には腹が立ったし、到底気が合うとは思えない相棒とこれからの時間を過ごさねばならない事への不安もあった。
だが、一番腹立たしいのは、何が最良なのかを充分に理解しているというような微笑みを浮かべ、穏やかな目でこちらを見ているディノだ。
突然、日常の中に踏み込んで来て主導権を握られた以上、どうも面倒そうな相手だぞという印象がじわじわと広がってゆく。
ネアは、こうして、ぐいぐいと我が物顔で引っ張られるのがとても苦手なのだ。
それが、穏やかな物腰を演じる、慇懃無礼な見ず知らずの人物ともなれば尚更に。
「あなたは、誰も彼もが思い通りになる事に慣れているのでしょうか」
「そうでしょうか。以前にも、そう言われた事がありますが、………今回については、そうするのが合理的だからかもしれません」
「合理的という面に於いては、ここで挨拶を済ませ、早々に仕事に取り掛かる事こそではないのでしょうか?」
「おや、あなたは休日なのでしょう?であれば今日は、顔合わせ程度のものでしょう。…………ところで、同居人はいらっしゃいませんね?」
「………質問の意図が読めませんが、一人暮らしです」
何かを確認する為の問いかけだったので素直に答えると、ディノは、どこか安堵したように頷いた。
どうしてそんな反応をするのだろうかと眉を持ち上げると、飄々とした口調で、そのような人物がいるという面倒が少なくなるのでほっとしたと言うではないか。
「……………私は、同居人との問題を仕事に持ち込むような真似はしません」
「これは、あくまでも私の嗜好ですよ。………さて、近くにお気に入りの店はありますか?私は、この街には不慣れですので、案内していただけると助かります」
「……………でしょうね。あなたは、どう見ても一等区画の住人だ」
「おや、そう見えますか?」
また、どこか困ったような微笑みを向けられ、ネアは重々しく頷いた。
もしかするとこの男性は、下層の居住区画に自分が上手く合わせたつもりでいるのかもしれないが、であれば、その準備はいささか不足していたと言わざるを得ない。
頭の上から爪先まで、上流階級の彩りではないか。
「店選びはあなたに任せましょう。ここでは、入り込んだ以上、街そのものに私が合わせてゆく方が無駄がないようだ。出来れば、これからの事についても、色々と教えていただけると助かります」
「ええ。それは勿論、お話ししますが……………、仕方ないですね。あなたのその微笑みは、引き下がるつもりがないというものでしょう?」
「そうですね。私との会話はどこでも出来ますが、まずは、あなたに何かを食べさせなければいけませんから」
まるで保護者気取りの言葉ではないか。
むぐぐっと眉を寄せて見つめると、ディノは、どこか悲しそうに微笑んでみせる。
間違いなく、ネアなどが太刀打ち出来ないような経験豊富さであるし、どこからどう見てもこの新しい相棒は善良ではない。
だが、観念してゆっくりと階段を下り、近くまで歩いてゆくと、不思議なくらいにその気配が身に馴染んだ。
差し出された手を取らずに横に並ぶと、では、傘は私が持ちましょうという斜め上の返答がなされる。
ぎょっとして横に立っているディノの顔を見上げてしまうと、唇の端を僅かに持ち上げて微笑んだ彼は、どうしようもなく優雅で、けれどもぞくりとするような邪悪な生き物に見えた。
「雪が降っているのなら、各自傘を持って歩くべきなのではないでしょうか?」
「あなたは、傘を持ってきていらっしゃらないようですが?」
「……………む。……………忘れて来たようです。部屋に戻って……」
「それほどの無駄はありませんよ。幸いにも、私は傘を持っていますし、この傘は二人でも充分に使えます」
「それはあなたの傘であって、私の傘ではないので是非に個別運用としましょうか」
「これからもずっとそのように?まさか、とんでもない」
「そう呆れられる理由が、さっぱり分からないのですよ………?!」
とうとう声に困惑が滲んでしまったネアに、ディノは、ふわりと微笑んだ。
まるで当たり前のように片手を取られ、ネアは、不本意さに足踏みしたくなる。
(でも、……………これは彼なりの礼の尽くし方だ。一等区画では、女性はエスコートされるべき存在なのだから)
とは言えこれからは、仕事の相棒でもあるので、毎回、こんなことをされていては堪らない。
こんなやり取りこそ仕事の邪魔になるではないかと考えかけ、ネアは、ふと大事な事を忘れているような気がした。
(……………私は、どんな仕事をしていたのだったっけ)
「食事を終えたら、調査の為に街を歩いても?」
「……………調査」
「ええ。それが、我々の仕事でしょう?」
不思議そうにそう言われ、ネアは、それはそうなのだけれどと頷く。
なぜ、一瞬自分の仕事を思い出せなかったのかは不思議だが、ネア達は調査員なのだ。
多分何かの、そして、そう決まっている筈だった。
「ええ。……………そうでした」
「そのようになるのが、この場所ですからね」
「……………何か言いましたか?」
「いえ、独り言ですのでお気になさらず」
扉を開けると、凍えるような空気が頬に触れた。
真っ暗なインクに沈むような夜の街にはしんしんと雪が降り続けていて、歩道沿いの街灯がその暗闇を切り取っている。
人通りは少ないが、完全には無人ではない大きな街の夜だ。
ばさりと音がして、青い傘が開かれた。
濃紺なのかもしれないが、街灯の明かりを透かして青く見える。
「どうぞ、こちらへ」
「…………いや、さすがにそこまでは」
「必要のない遠慮で体を冷やすのは、相棒としても得策ではないでしょう。それに、舞踏会では、初対面の男女でも、もう少し親密に過ごしますよ?」
「ここは舞踏会の会場ではありませんし、我々は仕事の相棒でしかないのですから、適切な距離感こそ、今後のために必要で………っ?!」
ここでネアは、ひょいと片手を取られ、その手を自分の腕にかけてしまったディノに目を瞠った。
わなわなしているネアを一瞥し、ディノは薄く微笑む。
これは手慣れているぞと半眼になっていたネアは、指先を温める体温と、滑らかなコートの手触りに少しだけ心を奪われた。
(……………あ、)
ふわりと漂うふくよかで清しい香りは、おとぎ話の森のような素晴らしいもの。
幸福だった夢の中で追いかけた残り香によく似ていて、ネアは思わずくんくんしてしまう。
ゴーンと、どこか遠くで大聖堂の鐘の音が聞こえた気がして、深い夜の向こうを見つめたが、さすがにこの暗さでは何も見えなかった。
「それで、我々はどちらに向かえば?」
「………ここを真っ直ぐに進んで、二つ目の角を曲がると、赤い看板のリストランテがあります」
「では、そちらに。………ネア?」
「………っ、ランタンを持ち直していただけです。顔を覗き込むのはやめていただきたい」
「ああ、夜歩きには必要なものなのだそうですね。ですが、今後、私と一緒にいる時は必要ありませんよ」
「あなたは、一等星か魔術の火をお持ちなのでしょうが、私はそうではない。帰り道に暗闇を歩くのは不便なので、そうもいきません」
「おや、私が、あなたを家までお送りしないとでも?」
さくさくと雪を踏み歩きながら、ネアは、にっこりと微笑んだディノを暗い目で見上げた。
不思議なことに、なぜか歩幅が合うのか、こうして共に歩いていても少しも不快感がない。
まさかこちらの歩き方に合わせているのだろうかと思えば、成る程、かなり器用な御仁らしい。
「それは、仕事の相棒としての範疇を超えています。私は、これ迄も一人で逞しく生きてきたので、安心して現地解散としましょう」
「たかが送り迎えではありませんか。その上でそうも警戒されると、もう少し親密に振る舞ってもいいという提案なのかもしれませんね」
「…………なぬ」
もう一度わなわなしたネアにくすりと笑い、ディノは、気負わずに私を利用して下さいと付け加えた。
優美で上品な振る舞いに対し、その眼差しの鋭利さにはどこか心惹かれるものがある。
まるで、この街の雪の夜のよう。
そう考えてしまい、ネアは、ぎくりとした。
これでは、すっかり彼の術中ではないか。
誘導するような言葉選びを受け、ただの同僚に過ぎない相手に対し、踏み込んで考え過ぎている。
「不用心ですからね。ここは、とても深い眠りの底の気象性の悪夢なのだから」
「失礼、………何か仰いましたか?」
「いえ、独り言ですよ。ここを曲がればいいのかな?」
「ええ。ところで、今回の調査対象はどのようなものなのでしょう?新規の任務依頼の内容は、まだ聞いていないのです」
「特別な魔術異変のある、扉を探す事となります」
そう告げて、ディノは、少し考え込むように遠くを見た。
こちらを見る時よりも排他的な眼差しに、ふと、本来のこの人物は、とても酷薄な人なのではないかと思う。
であればこの愛想の良さは、ただの演技なのだろうか。
「ただ、その情報の活用は早い者勝ちなので、他の誰かと、競い合う必要があるかもしれませんね」
(……………え、何の調査なのだろう………?)
そんな調査は、今迄になかったような気がする。
思わず怪訝そうにしてしまったネアに、ディノが微笑んでこちらを見た。
「なので、私があなたの相棒になりました。補助要員も、追ってこちらに到着するでしょう。これは、とても大切な任務ですからね」
その微笑みをどこかで見たような気がして、ネアは首を傾げた。
それもまた、とても大切なものだった気がしたのだ。
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