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鈴蘭と苺のジュース





聖女の回収で訪れた山間の集落には、鈴蘭の群生地があった。



背の高い木立の並ぶ森の中に咲き誇る鈴蘭を眺め、けれどもこの花は、あの小瓶と同じような香りはしないのだと小さく笑う。


だが、唯一の恩寵がいない世界でも、こうしてその残照めいた欠片があれば、心は動くものだ。

それを愉快に思いながら、育てていた聖女を捕まえて砂糖にした。



わぁと響く悲鳴に、誰かの慟哭や怨嗟が重なり、譜面の上で音を重ねる音楽のように聞こえてくる。

とは言え、この身を災厄にしてみせたのはやはり、お前達なのだ。



あの魔術師が、或いはグラフィーツの恩寵が、魔術の素養など欠片もなくとも、どれだけ見事にこの災厄を祝福に変えたことか。

最高位の呪いと信仰を司る者の執着というどうしようもない暗闇の中で、開けた箱の中に最後に残ったのは希望ではなかった筈だ。


それでも彼等は、そうして残った魔物と共に過ごし、誠実で強欲に祝福を掴み取ってみせた。



そのような者達を見てしまうと、やはりこれは賞賛には値しない稚拙さと言える。




「俺は選択ではないが、魔物は、質のいい選択が好きなものだ。その点、これはどうだ?到底、質の良い選択とは言えまい」



そう呟きながら、踊るような足捌きで剣を構えた男達を砂糖の山に変えてゆく。

翻る騎士のケープに、どうっと倒れ臥し、砂糖になる者達が作る白い山。

聖女が現れ、その力の扱い方をこちらに問いかけた時にはもう、自分でその権利を売り渡したくせに、そんなことにも気付かずに愚かに激高している男達の何と惨めな事か。


聖職者の服装をしていれば誰もが善良だという保証など、どこにもないだろうに。

それどころか、信仰の庭程、人ならざるものが潜んでいる場所もないだろう。




喪われた者の名前を呼んで、子供のように慟哭する者達がいる。


確かに今、この集落は、心の支えとし、厄介な妖精除けや精霊への対処の全てを任せきりだった便利な使用人を喪ったばかり。

とは言え、この集落で聖女と呼ばれた女が、今、彼女の名前を呼んで慟哭している者達が死んだとして、彼等と同じように泣くのかどうかは疑問なものだ。


少なくとも、聖女と呼ばれたあの人間は、自分が生まれ育った土地で便利な道具にされていることを理解していたし、それ故に、たった一人の愛する男以外、その心を動かすものはなかったようだ。

そして、その男を男の伴侶から奪い取ろうとして、自分を砂糖やシロップに変える魔物に助けを請うてしまった。



愛する者を喪った者達の慟哭を聞いても、その響きに心を動かされることはない。

これは人によりけりだが、グラフィーツは、自分のものと他者のものを明確に切り分けて考える質だ。

それが誰のどんな場面に似ていたとて、自分のものではない絶望には、少しも心を動かされなかった。



そうして心を貸してやるものなど、もう、さして多くはない。


だが、それはグラフィーツに限らず、元々、魔物というのは多くがそのようなもので、どれだけ慈悲深いとされる者でもさして変わりはない。




慟哭を掻き分けて歩き、面倒なものは砂糖にして回りながら、はらりと散り落ちた淡い水色の花びらに顔を上げた。



(雪薔薇か………)



僅かに似た面影かと目を凝らしたそこには彼女の欠片はなかったけれど、特段失望する訳でもなく。

また、一部の恩寵や愛する者を喪った魔物達のように、グラフィーツは、こうして見付ける獲物の中に、再び彼女のような者が現れる事もまた、期待してはいない。


彼女の面影は自分の都合で探すし、彼女と同じ者は、所詮彼女ではない。

グラフィーツは、あの呪いを背負って生まれ、あの日のあの場所で出会った彼女がいいのだ。

同じ魂や心を持ったところで、環境が変われば同じ者にはなりようがないので、その魂がどこかで再編されるのだとしても、それを追いかけようとも思わない。




「おい、向こうの連中は煙草の素材用だ。無駄に荒らすなよ」



こつりと杖を鳴らし、そこに現れたのはアルテアであった。


濃い灰色のスリーピース姿で、珍しく、帽子にかけたリボンが長い。

それはどの国の装いだったかと考え、一つの国の名前に行き当たる。

どうやら本日は、そちらでの手入れだったらしい。


「畑の肥料はもう充分なので、お好きにどうぞ。ただし、こちらの腑分けの邪魔をされるようであれば、シロップにでも変えてしまうかもしれん」

「俺の方で選り分けておく。………食事や収穫の最中のお前程、ろくでもないものはいないだろうな。……………そのおかしなはしゃぎ方をやめろ」

「これはこれは、選択らしくない我が儘だ。……………はぁ。シロップはいまいちだが、今回は上質な砂糖だな。………この美味さとなれば、味見はしても、皿に盛り付けて食べるのはまだやめておくか。ご主人様を見ながらの方が、間違いなく美味い」

「……………おい、あいつを香辛料代わりに使うな」

「相変わらず狭量なことで」



肩を竦めると、魔術の繋ぎを剥ぎ取り、収穫したばかりの獲物の一部を、今度はシロップに変えた。


煙草に出来る部位もありそうだが、残念ながら、グラフィーツ好みの煙草向きの獲物ではない。

少し悩んだが、砂糖を上質な部分と、中から低階位の砂糖の部分に分け、質の劣る部分は畑の肥料にすることにした。


隣では、グラフィーツが砂糖の山に変えてしまった護衛騎士の間を縫い、剣を構えたり魔術詠唱を行う貴族の男達を手際よく無力化し、素材として解体しているアルテアがいる。

この魔物もまた、見出した唯一を、他の何かに置き換える事を望まない魔物なのだろう。



思えば、あの界隈はそうした者達が多い。



犠牲も雲も、喪った伴侶の代わりに誰かを寄り添わせる事は未だになく、その不在を受け入れながら、新しい生き方を見出した者達なのだと思う。


グラフィーツもまた、自分の心や記憶に残る恩寵の形や、その額縁となった子供の向こうに見える恩寵こそを新たな糧として、やはり同じように、空いたままの席は埋めずに生きてゆくに違いない。

代用品で満足出来る者達の執着を軽んじる訳ではないが、見付けた恩寵に向ける思いが違うのも確かだ。



森の奥に咲いていた鈴蘭を思い出し、今夜は、あの香水をつけてどこかの劇場に赴いてみようかと思うくらい。

好みに合う演目がなければ、ウィーム中央の街並みをただ歩くのもいいかもしれない。


在りし日に、彼女とそう過ごしたように。

或いは、彼女が好むような夜として。




「……………くそ、これははずれか。煙草の素材にもならないとなると、無駄打ちだったな」

「ほうほう、……………この人間は酷いものだな。魔物ですら欺く程に取り繕い生きておき、実のところ中身は空っぽか。素材に変換すれば、内側の資質こそが大事になるからな。……………うん、美味い!」

「………いいか、砂糖を食いながら俺の隣に並ぶな」

「そう言えば、俺の弟子が、ヴェルリアの箱に落ちたと聞いた」



バーンディアからネアに紅茶を淹れて貰ったことを自慢され、グラフィーツはその事件を知った。

ヴェルリアにある、あの箱の建築には確かに携わったが、グラフィーツの恩寵とその伴侶を食らった呪いを回収した今、そちらに招かれるものの中にはもう、グラフィーツの気にかけるものはいない。

そう思い注意していなかったのだが、まさかネアが落とされるとは思わなかった。



「…………お前の愛弟子が、回収に走ったようだぞ」

「愛弟子かどうかは議論の余地もあるが、そうもするだろう。……………ご主人様は、あの男の探し人によく似ている。造作でもなく気質でもなく、だが、喪った者を探し続ける者には、限りなくよく似て見える筈だ」

「ほお。お前が、あいつを窓にしているようにか?」

「さてな、かもしれん。だが、ああいう人間はしつこいぞ。自分なりの希釈がある以上、積極的に関わる事は好まないだろうが、あの箱に入ったというただそれだけで、俺の弟子を贔屓にはするだろう。………それは悪意でも作為でもない筈だが、ノアベルトあたりが壊さないよう、程よく利用するといいさ」

「だとしても、あれはお前の獲物だ。こちらで調整までしてやる謂われはないな」

「ははは、統括様がおかしなことを仰る!」

「その妙な言い方をやめろ………」




成る程、アルテアは自分によく似ている。


この身も魂も、全てをくれてやるが、それが必ず男女の情愛かと言えばそうではなく。

グラフィーツの唯一は、どこまでもどこまでも、恩寵というその言葉に尽きた。

勿論、彼女が望めば何でも与えたし、自身の恩寵を伴侶として娶る行為は、たった一人のその相手をより深く抱え込む為には最適と言える。


だが、そればかりではないのだ。


恩寵は恩寵であるが故に、それ以外のどんなものにだって成り得てしまい、それだけで充分なのだ。

したがって、有り余る執着の幅や方向をどのように振り捌くのかは、恩寵を得た魔物次第と言えよう。



どうしようもない程に、諦めざるを得ない程に残忍に、それだけがたった一つの特別となる。



その存在や在り方が、齎される何かやその言動が、恩寵となるからこそ、彼等は歌乞いなのだろう。

恋情や情欲の愛などを成就させずとも、他のどんなものにも劣らないだけを満たす、唯一の存在なのだ。




(そのような意味では、……………アルテアは、俺と同じ側だな)



ふと、そんな事を考えて得心した。

それが分かっていれば、言動が読みやすい部分も多い。



例えばこれが、リーエンベルクに歌乞いを持つ見聞の魔物であれば、あの魔物は、思っている以上に狭量なものだ。


契約の人間の部下となる他の騎士達が、自分よりも多くのものを得る事はないと知った上で、彼等の存在を許容している。

それ以上となり得る存在や、自分が欲する感情を損なう相手を見極め、そのようなものは丁寧に剪定して回る姿は、より一般的だとされる恩寵への執着の形なのだろう。


レイラもそちら側であるし、鹿角の聖女と呼ばれる女もその嗜好であった。

最近では、野咲きの白薔薇あたりもそちらだろうか。



(シルハーンも歌乞いの魔物ではあるが、あの契約は、どちらかと言えば、互いを生かす為に繋いだ命綱のようなものだったのだろう。ネアに自分を差し出して繋がせる事で、空っぽだった彼女の手の中に、潤沢な選択肢を与える為のもの。加えて、自分を所有させる事で、彼女に立ち去られないようにする為の手立てなのだろう)



望みもしないものに飲み込まれ、魂の端までを書き換えられる本来の歌乞いの魔物とは少し違うものの、そちらもまた、恩寵には違いあるまい。

予め手を差し出していても、歌に請われた魔物は全て、魔術の理の上で歌乞いの魔物となる。



そして、グラフィーツがあの子供の為に誰かを選べと言われたのなら、やはり万象をこそと思っただろう。

あの子供と同じものなら他にも選択肢があるが、あの子供を生かす為の正解は、実はここにも多くはなかった。



例えばここにいるアルテアとて、ネアがシルハーンを得ていたからこそ、今の最終分岐を選んだに過ぎず、こちらに呼び落とされたばかりのネアが手を取れば、あまり望ましくない結末に転がり落ちた筈だ。

それは恐らく、一人の魔物の心に長らく残る傷跡となっても、幸福とは違う顛末に違いない。



(それが終焉と塩ならば、彼等はいずれ彼女を壊しただろうしな。…………唯一、可能性があるとしたら雲だが、あれの持つ霧雨たちとの絆は、何も持たないあの子供に多くを諦めさせ、委縮させたかもしれない)



そう考えると、恐ろしい程に細い糸のような可能性だったが、こちらの世界で飾り木を見上げてその美しさに感嘆し、それこそをと望んだ瞬間から、ネアは、イブメリアの子供となった。

贈り物を得る祝福を齎すクロムフェルツの愛し子が、より良い贈り物を受け取れない筈もないのだろう。


また、こちらの僅かな思い入れもそこに重なるのであれば、あの子供はきっと、災いと祝福の使い分けで仕損じる事はあるまい。



終焉も選択も塩も、春闇や或いは真夜中の座さえも。

あの子供にとっての良き隣人とされる殆どのものは、本来はとても多面的で、関わる面には災いも祝福もある。


よくもそこから器用に祝福だけを選び取り、見事に守護を厚くしたものだと感嘆する子供の、使い魔となった魔物がここにいる。



「……………何だ」

「いや、それは俺が持ち帰ろうとしていたのだが、……………成る程、先に印をつけておかれたらしい」



アルテアが手をかけたのは、砂糖にしてしまった聖女の縁者である女だったが、よく見れば、既に、その魂には選択の獲物の焼き印が入っていたようだ。


持ち帰って駒にでもするのかと思えば、煙草用だったのか手早く処理されてしまい、また僅かに、終焉の気配が強くなる。


グラフィーツが行う収穫は、この身が司るもののお陰であまり終焉の庭を騒がせる災厄の質を帯びないのだが、選択が成すものはあくまでも選択なので、顛末としての終焉が強く香る。


このままいくと、終焉を招きかねないと考え、砂糖の回収を急ぎ済ませてしまった。



「お前が収穫を早めなければ、こちらの収穫を急ぐ必要もなかったんだぞ」

「そりゃあ、申し訳ない。だが、そちらの収穫の後だと、砂糖の味が落ちるのでね」

「だろうよ。……………まぁ、煙草としては、この騒ぎの後の方が味は良くなるんだがな。重ねての収穫となると、面倒な奴が現れかねない」



グラフィーツと同じことを考えていたのか、アルテアがそう呟いた時だった。



(………っ?!)



ひらりと視界の端に揺れた白いケープに、ぎょっとして振り返る。



「おや、それが分かっているのであれば、資材の回収を控えめにするべきでは?」



いつからその場にいたものか、先程まで行われていた宴の席にひっそりと座っていたのは、穏やかに微笑む終焉の魔物だ。


同じ振り返り方をしたとなると、アルテアも気付いていなかったのだろう。

この、終焉の雑踏に紛れる特性は、本当に厄介なのだ。


その場に生者がいなければ不可能な特性だと聞くが、成る程、死とは生の中に当たり前のように紛れ、そして見落とされるものでもある。

広間の中に僅かに生き残る生き残り達の気配に紛れ、いつからかこちらの作業を見守っていたらしい。



「やれやれだな。この大広間の中だけだろうが。国そのものには手を付けていない。放っておけ」

「とは言え、ここにいたのはこの国の第二王子と、それ以下の高位貴族の子供達でしょう。国の防衛を司る聖女はいなくなり、今後、この国が大きく傾かないとは言えない筈だ」

「ああ、それについては問題ない。この国は土壌がいい。次の世代の聖女は既にいる」



グラフィーツがそう補足すれば、白金色の瞳をこちらに向けたウィリアムが、僅かに目を瞠ったような気がした。



「……………次の代も、既に機能しそうなのか?正直なところ、聖女なしで国の防衛を維持するのは難しい。聖女という旗印が欠けると、国が纏まらなくなる可能性もある」

「すぐに機能するし、俺は、次の代には手を出さない。このような畑では、質のいい砂糖を作る為に、収穫は一世代置きだ」

「……………であれば、騒ぎはこの広間の中に留めてくれ。言っておくが、俺は今日は忙しい」

「明日は、俺の弟子と砂風呂に行くからだな」

「……………おい、聞いてないぞ」

「アルテアに報告する必要もないでしょう。以前からあった約束ですよ。……………それと、モレロの王女が、あなたを探していましたよ。面倒な人間に気に入られましたね」

「あの辺りも手打ちだな。そろそろ合成獣でも作っておいた方が、おかしな選民思想で周辺国を侵略することは防げるかもしれないぞ?」



その問いかけに反発することはなく、ウィリアムが顎先に手を当てる。


「……………合成獣一匹と、その材料とするのは王女までということで手を打ちましょう。くれぐれも、あの界隈で戦争や内乱を引き起こさないようにして下さい。アイザックあたりが、喜々として参入しかねない」

「……………まぁ、するだろうな。あの辺りの人間の気質は、アイザック向きだ」

「強欲で高慢、残忍で狡猾なくせになぜか短絡的。ははぁ、まさに欲望の魔物好みだな」



そう言ったグラフィーツに、ウィリアムがこちらに視線を戻した。

にやりと笑って見せると瞳を細めたので、ひらひらと片手を振っておいた。



「俺は手を出す理由がない。あの国は、聖女を必要としないからな」

「ならいいが。……………アルテア、この国の第三王子には手を出さないようにして下さい」

「ほお?終焉の気配があると思ったが、お前のお気に入りか?」

「いえ、俺はもうウィームで充分ですよ。ただ、この国の第三王子は終焉の子供の気配がある。死の精霊の誰かのお気に入りだと、後でこちらの仕事に響きますからね。あなたも、相手がナインだったりしたら面倒でしょう」



その指摘にアルテアは肩を竦めて見せたが、恐らく、あの精霊の嗜好ではないだろう。

どちらかと言えば、静謐や音楽あたりの好みだなと考え、次代の聖女を上手く育てるには充分な階位だと頷いた。



(次にこの国に来るのは、少なくとも二十年後というところか。……………次の代の聖女も好みでなければ、もう少し寝かせるという選択肢もある。何しろ、畑はここだけではないからな……………)



収穫を終えて荷物をしまうと、その場に終焉と選択を残して転移を踏んだ。




(さて…………)




今日は、これからの時間をどう過ごそう。

思案のために向かったのはザハで、入店して間もなく、ネアとシルハーンもやって来た。

こちらに気付くとシルハーンが眉を持ち上げたので、首を振り、会の手配ではなく偶然だと伝えておく。




「折角のお茶の時間ですので、何か食べますか?」

「ケーキを食べて行くかい?好きなだけ食べていいよ」

「あら、今日は、いつもより多くお仕事を頑張ってくれたディノを労う為のお茶なので、ディノが好きなものを注文していいのですからね?」

「…………ずるい」

「ケーキ類でもいいですし、軽食用のサンドイッチなどもあります。私は、期間限定の苺ジュースにすると決めましたので、オリーブとチーズのおかずサレと組み合わせる事にしましょう!」




そんなやり取りが聞こえてきて、ふと、自分の恩寵も、苺ジュースを好んでいたことを思い出した。

柑橘系の果実や木苺は酸味が強いので喉を守る為にあまり飲まないが、苺ジュースは甘酸っぱくて好きなのだと話していた。



手を上げて給仕を呼び、苺ジュースの注文を追加する。



味が鈍るので珈琲は後からにして貰い、まずはその懐かしい飲み物を堪能しよう。

それはとても些細なことであったが、グラフィーツが気分良く過ごすには充分な出来事であった。




(今日は、これでもう満足な気がするな。後は、鈴蘭の花でも買って帰るか………)



ウィームの中央市場では、魔術薬の材料となる鈴蘭はよく売られている。

水仙やニワトコの花と同じように、階位の付かない白い花の一つだ。


カモミールなども含め、階位のない白い花はそれなりにあるが、グラフィーツにとっては特別な花。

彼女が特別に好む花でもなかったが、亡くした姉が愛用していた鈴蘭の香水は、ずっとあの人間の宝物であった。


彼女を手放す前に、店に在庫を取り寄せさせ、ありったけの物を買ってあるので、当分の間は、グラフィーツの屋敷にも残されてゆくだろう。

また、彼女にも好きなだけ持たせておいたのだが、他にも好きなものを注文するようにと言えば、一緒にバーベナの香水も買っていた。


だが、グラフィーツにとっての彼女は、手首につけた鈴蘭の香水に目を瞬き、大人の香りだと生真面目に呟いた彼女のまま。


その思い出の形として、鈴蘭の香水は今も手元に残してある。



グラフィーツが市場で鈴蘭を買えば、心得ている主人が、青いリボンを白いリボンに変えて渡してくれた。

この店との付き合いも五年ほどになり、何も言わずとも察することもあるのだろう。




「おや、…………買い物の日が重なったな」

「…………ああ」




そんな花屋で行き合ったのは、擬態姿の犠牲の魔物だ。


こちらは、林檎の花枝を買うようで、艶やかな深紅のリボンを包みにかけて貰っている。

その理由について問うことはないし、グレアムもそうするだろう。




ただこの花々は、互いにとっての大切な思い出を彩るというだけ。




“先生、ムグリス……は、飼えますか?”




目を輝かせてそう尋ねた恩寵の姿を思い出し、ふっと唇の端を持ち上げた。

お前の額縁は今、そんなムグリスの姿を伴侶に取らせているぞと思えば、やはりこの世界は、今でもとても愉快なのだった。
















明日の更新は「かいぶつは星に祈らない」の幕間のお話となります。

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