春明かりとプール
誰もいない森の中で、満開のライラックの木を見付ける事がある。
星のような形をした花が落ち、木の下は夜空のように彩られるだろう。
そんな木の下にはっとする程澄んだ水を湛えたプールがあった場合は、是非にひと泳ぎしてゆくといい。
星の慈雨と呼ばれるそのプールには、魂や心の滋養となる清廉な水が湧き出ているのだ。
飲むのでもなく触れるのでもなく、なぜひと泳ぎなのかは謎に包まれているが、最初の誰かがそう決めたのかもしれない。
「……………なので、泳ぐのですよ?」
「ネア、…………もう少し待っていてくれるかい?周辺を隔離結界で覆ってしまおう。これは、特異点のようなものだから生き物の派生はないけれど、見付けて集まってくるものがいると危ないからね」
「はい。では、お願いしてしまいますね。そして私は、この恩恵を家族で悪辣に独占するべく、すぐさまノアに連絡します!」
「ノアベルトは、まだ寝ているのではないかな……………」
「では、エーダリア様にします?」
「ヒルドでもいいかもしれないね。……………一度持ち上げるよ」
「まぁ、ふわっとなりました。地面に何かをしてくれたのですか?」
ネアがそう尋ねると、満開になったライラックの木の下にひたひたと揺れる光るような水面よりも美しい目をした魔物が、淡く微笑んだ。
魔物らしい酷薄さと、宝石を紡いだような真珠色の長い髪に花影が落ちる。
この魔物の睫毛の影はいつも、満開の花木の花影や、はらはらと舞い落ちる雪の日の青い影を思わせるのだ。
ネアは、それが大好きであった。
ここは、禁足地の森の中である。
夜明けと同時に、ディノがネアを起こしてくれて、少し変わったものが現れたから見に行くかいと、この大きなライラックの木と、特別なプールの出現を教えてくれたのだ。
水着を持った方がいいと言われ、ネアは、むにゃむにゃしながら、海遊びに行くのかなとバケツまで持って来てしまったが、この見事なライラックの木を見てすっかり目が覚めた。
慈雨と言われるからには雨が溜め込まれたのかと思えば、枯れた大地を潤すような効果を得られるものなので、その名前が付けられたのだそうだ。
「魔術的な土地だから、地中から何かの浸食があるということは少ないのだけれど、念の為に、そちらにも私の魔術を広げてあるよ。これで、プールの周りは安心して歩けるからね」
「はい!ですが、ディノの魔術を使うのは、珍しくありませんか?」
万象の資質は、このような特異なものには、その資質を揺るがすような影響を与える事が多い。
だからこそ、ネアがよくあちこちに落ちたり迷い込んだりしていても、ディノがすぐに介入出来ないという事態になるのだし、それ以外の面でも、最高位の魔物である筈のディノは、その階位故に不自由であることも多かった。
だが今回は、どうやら違うようなのだ。
それが不思議で首を傾げると、ディノは少しだけ嬉しそうに唇の端を持ち上げる。
「うん。この春明かりは、私の系譜のものなんだ。春明かりは、このような質のものだけではないし、同じ気質でも何種類もあるのだけれど、今回、禁足地の森に私の系譜の春明かりが現れたのは、この地に私の魔術祝福が多いからでもあるのだろう」
「まぁ!ディノの系譜のものなのですね!…………こんなに綺麗なものがディノの系譜の特異点だなんて、私の魔物はやはり特別に素敵なのです」
「……………ずるい」
滅多に出会わない伴侶の系譜のものが美しい花木だったので、ネアは、すっかり得意になってはしゃいでしまった。
足踏みをして興奮を示せば、目元を染めた魔物は少し恥じらい、両手で差し出す恋文形式で三つ編みを持たせてくる。
どこからともなく吹いている僅かな風に、はらりと、一輪のライラックの花が散った。
「プールの部分は、素焼きの陶器のような少しざらりとした質感の石材のようですが、これはどのようなものなのでしょう。淡い青緑色でとても綺麗ですね」
「森鉱石を何百年も春明かりで染めると、このような石に育つのだそうだ。簡単に作れるものではないけれど、特別なものという程ではないだろう。花石の一種として、建材に使われていることも多いと聞くよ」
「この質感なのに、森鉱石なのですね……………。深みがあって、僅かに色の濃淡があって、とても素敵な石なので、いつかご縁があれば、私の別宅にも取り入れてみせるのだ……………」
「ご主人様……………」
少しだけ貪欲な目をした伴侶に慌てたのか、ディノが、どこからともなく取り出したギモーブをお口に入れてくれる。
(………おや?)
もぐもぐしながら周囲を見回したネアは、森の中でこんな事をしていると顔を出すことの多い、小さな妖精や獣達の姿が見えないことに気付いた。
おまけに、こんなところにプールがあるのだから、忽然と大きな花木の下に現れたように見える筈であったが、不思議なくらいにこの場所に馴染んでいるではないか。
それなのに、まるで、花盛りの木の下にはプールがあるべきだというような佇まいで、大き目の正方形の石材で組み上げ、優雅な細工のある石の階段が備え付けられている。
ざらりとした石材は、水で濡れてもすぐに乾いてしまいそうだ。
プールの水は触れるのが怖いくらいに青く透明で、星空のようにライラックの花が散り落ちていた。
(……………周囲に森の住人達の気配がないのは、ディノが排他結界を展開してくれたからなのだろうか。それとも、ここが特異点だからなのかしら………?)
「わーお。こりゃ見事な春明かりだなぁ。……………あ、シルの系譜のものなんだ。珍しいよね。いいなぁ、ライラックかぁ」
「ネア様、お声がけいただき有難うございます。………ああ、ライラックですね」
「これが、……………春明かりのプールなのか…………」
そこにやって来たのは、結局ヒルドに連絡をしてエーダリアとノアを連れてきて貰うことにした作戦が功を奏し、あっという間に合流してくれたネアの大事な家族達だ。
まだ夜が明けたばかりの時間であるのだが、慌てて駆けつけてくれたのだろう。
(それもその筈で、……………この春明かりのプールは、とても珍しく、尚且つ恩恵の大きなものなのだ)
ディノが話していたように、一言で春明かりと言っても、様々な種類の様々なものがある。
その中でも今回の春明かりは、見たことのないような美しい花木が魔術特異点として現れ、それに出会った者に何かを授けてくれるという区分の現象となる。
春の春明かりと冬の春明かりが最も祝福深く、夏と秋の春明かりには、決して近付いてはならない。
花木の下に現れるのは必ずしもプールではなく、夏は噴水や水盆などの水場が現れ、秋は小さな薬園や作業小屋が現れる。
冬に現れるのは長椅子や寝台で、春は、このようなプールが一般的なのだそうだ。
「春明かり自体には、選択の系譜も少しあるんだよね。異質なものが現れた時に、それが幸いだと見抜いて手にすることが出来るのか。或いは、違和感のないものが現れた際に、それが災厄だと気付き、回避することが出来るか。魔術特異点だから古い魔術の理に属するけれど、雪食い鳥の試練にも似てるかな」
そう教えてくれたのはノアで、プールの縁に屈み、澄んだ水に指先を浸し、これはいいねと微笑みを深めている。
「私の一族が暮らしていた森には、よく、夏の春明かりの水盆が現れておりました。幼い子供達には、決して近付かないようにと言い聞かせておりましたが、時折、人間の子供が取られてしまうという話を聞きましたね」
「私は、文献の中の挿絵でしか、見た事がなかった。冬の春明かりに、寝台が現れるということも初めれ知ったくらいだ……………」
静かな興奮状態なのか、エーダリアは目をきらきらさせてはいるが、口調は穏やかだ。
ヒルドとノアが顔を見合わせて微笑み、ネアも、存分に喜んでしまうが良いと、むふんと満足の溜め息を吐く。
「さて、泳ぎますね!」
「あ、……………ああ。……………っ、ネア?!」
「む?水着に着替えるので、コートを脱いだだけですよ?」
「ま、待たないか!ここは森の中なのだから、ディノに、目隠しになるものを作って貰うといい。私達もいるのだぞ…………!」
「……………さすがに私も、ここで着替えを終えるような真似はしません。それでは、痴女ではないですか………」
耳を赤くしたエーダリアに叱られてしまったネアは、コートを脱いだだけではないかと遠い目になった。
この季節のウィームには、まだ、森の奥や陽光があまり当たらない場所には、雪が残っていることもある。
今も、夜明けの時間帯は少し冷えるので、しっかりとした毛織のコートを着てきていた。
なので、着替えに備え、まずはコートを脱いでおこうとしただけなのだ。
「ディノ、どこでお着替えすればいいでしょう?」
「併設空間を作ってあげるよ。私の系譜の魔術なので部屋に繋いでもいいのだけれど、あちらには、出来るだけ外部の要素を併合したくないからね」
「はい。では、ディノにお任せしますね」
「うん。……………ネア?」
「……………なんて綺麗なのだろうと、ついつい見てしまいますね。プールの水の色に、星屑のようなライラックの花が散る様も綺麗ですし、きっとプールの中から見上げると、満開のライラックが素晴らしく綺麗なのでしょう」
そのライラックは、どこか畏敬の念に駆られるような大きな木であった。
ごつごつとした枝をしっかり伸ばし、枝が下がるくらいのたっぷりとした花を満開にしている様子は、春のシャンデリアにも、天蓋にも見える。
その花色を映したプールの水がちゃぷりと揺れると、ふぁっと胸の底から甘い息を吐いてしまいそうなくらいに心地よい風が吹いた。
心地が良いだとか、気持ちいいという感覚を得られるのは、ここが祝福を授ける善なる特異点だからである。
「今回はライラックだから、様々な資質が、この花の数だけあるんだ。ライラックの花をよく見て御覧。小さな花の一つ一つが、色合いや形状など、少しずつ違うだろう?」
「まぁ。………淡い紫色のお花で、中央が僅かに水色に染まっているものばかりだと思っていましたが、お花の色合いや、ちょっとした形状に質感まで、一つずつ違うのですね……………」
小さな花を集めて咲かせる花木なので、ネアは、集まった小さな花がそれぞれに違うことは、言われて目を凝らすまで気付かずにいた。
おおっと目を丸くしていると、ディノはなぜ差異があるのかを教えてくれる。
「どれも、系譜の魔術の祝福を糧に咲いたものだ。ライラックを選び咲いたのは、私の魔術の系譜が多様なものだからでもあるのだろう。こうして、様々な色と魔術を宿すので、プールで泳ぐと、頭上の花から必要な祝福を取り込めるようになるよ」
「その祝福は、貰ってしまっていいものなのですか?」
いつもならそんな事はまるで気にしないネアなのだが、今回ばかりは大事な伴侶の系譜のものなので、ライラックの木が折角宿した祝福を授け過ぎで花が弱りはしないかと案じてしまった。
「一輪の花が蓄える花蜜に限界があるように、このライラックの花も、時々、蓄え過ぎた祝福を分け与えてゆく必要があるものなんだ。なので、招かれた客人がある程度の祝福を授かっておいた方が、この花木としては都合がいい」
「ふむ。互いに恩恵を得られる、素敵な関係となるのですね」
「……………浮気?」
「なぜなのだ……」
ネアは、伴侶が特異点に浮気するかもしれないと不安そうにしているディノの三つ編みを引っ張り、作り付けて貰ったお着替え場に入らせて貰った。
予め、プールであると連絡をしてあるので、エーダリア達は、簡単に水着になれるように着替えを済ませてあるらしい。
ノアもいるので、そちらには先にプールを楽しんでもらうことにする。
(ところで、………まだ雪もある森の中で、寒くはないのだろうか)
併設空間の中でえいっと着替え、ディノをへなへなにしつつ、ネアは、とても今更だが、そんな事を考える。
不思議と温かそうな感じがしたのだが、とは言え、ネア達はここに来るまではコートを着ていたのだ。
プールの時間を楽しむというよりは、祝福を得る為のものなので、いざとなれば、寒中水泳的な我慢も致し方ないが、出来れば、心臓がぎゃっとなるような危険は避けられると嬉しい。
事前の覚悟の為にと、ディノに聞いてみる事にした。
「ディノ、……………あの水が物凄く冷たいかどうかを、すっかり失念していたのですが、この季節にお外で泳いでしまっても、大丈夫でしょうか?」
「特異点なので、気温や水温などの状態は、周辺の環境に左右されないから安心していいよ。君が心配したような理由から、あのプールに入らない者も多い。そのあたりも、試練の魔術としてのふるい落としなのだろうね」
「そうなのですね!ディノがそのような事を教えてくれなければ、私は、少し躊躇してしまったかもしれません。でも、頼もしい伴侶がいてくれたので、安心して入ってしまいますね!」
ほっとしてそう言えば、こちらをじっと見つめ、ディノは少しだけ水紺色の瞳を揺らした。
何か不安があるのだろうかと見上げたネアに、柔らかく微笑むと、口付けを一つ落としてくれる。
「むぐ……………」
「春明かりの恩恵を得易いように、祝福として重ねておこう。……水鉢の悪夢の際に、怖い思いもしただろう。この特異点が現れてくれたことで、君が少しでも心を緩められるといいのだけれど」
「だから、私を起こして、ここに連れて来てくれたのですか?」
「心や魂の疲弊や不安は、目には見えないものなのだろう?」
「ふふ。そう考えて心配してくれるディノがいるので、私は、それだけでも元気になってしまうのですが、素敵で不思議なプールで泳げるので、こちらでもわくわくしてしまう贅沢さですね」
ネアの返答を聞いたディノは、嬉しそうに微笑みを深めた。
どこか思案深い魔物らしい美貌が、途端に、はっとする程に幸せそうにきらきらしたので、ネアは、そんな大事な魔物の爪先をそっと踏んでやる。
だが、ご褒美を貰えて嬉しそうに目元を染めた魔物は、ずばんと水着姿になってしまったご主人様に、またしてもずるいとしか言わなくなってしまう。
とは言えそれはいつものことなので、ネアは素早く身支度を調えた。
「お待たせしました。私も泳ぎ……………、むぅ。魔物さんが、増えています………?」
併設空間を出て再びライラックの下のプールの前に躍り出たネアは、振り返った二人の魔物の姿に目を瞠る。
そこにいたのはウィリアムとアルテアで、こちらを見てにっこり微笑んでくれたウィリアムに対し、アルテアはなぜか、すっと目を細めて憮然とした面持ちになるではないか。
「……………いいか、水着では、絶対に弾むな」
「解せぬ」
「情緒もないお前が、自分の判断でどうこう出来る訳がないだろうが」
「水着は、水辺を楽しむ為の正装なのですよ?今回は、この綺麗な景色を損なわない程度に慎ましやかにしていますが、海遊びなどでは、はしゃがずしてどうするというのでしょう」
「やれやれ、アルテアは、いっそうに狭量になりましたね。……………ネア、アルテアは叱っておくから、好きなように楽しんで構わないんだぞ」
「はい!ウィリアムさんも、プール遊びに参加しに来たのですか?」
「ああ。シルハーンが誘ってくれたので、俺も祝福を貰っていこうと思う。この人数だと、浸かるという表現の方が正しい気がするがな」
「アルテアさんは、ちびふわプールでもいいのかもしれませんね」
「何でだよ」
かくして、雪の残る森の中にある素晴らしい花木の下でのプール遊びという、不思議な時間が始まった。
この春明かりに現れたのはプールなので、プールの作法が求められる。
よって、祝福を得るために順番に少しずつ泳ぐという作戦が必要になった。
併設空間を出ても少しも寒くない事が不思議でならず、恐る恐る青い青い水にそっと爪先を浸したネアは、すぐに慈雨と呼ばれるプールの威力を知ることになる。
「……………ふぁ」
「驚く程、心地よいと感じる水なのだ。……………中に入ると、酩酊にも似た不思議な満足感がある」
そう教えてくれたのは、一足先にプールに入っていたエーダリアで、自分の身に起きた事を説明してくれているが、説明しながらもまだ驚いているような無防備な眼差しだ。
その隣ですっかり大浴場で寛いでいるような状態になって伸びているのは、本当に水着を着ているだろうかという疑惑の塩の魔物で、奥で目を閉じてプールに入っているヒルドの羽が淡く光り、まるで花の形をした雪のように、ライラックの花が、ぱらりと風に舞い落ちる。
(ああ、綺麗だな…………)
微かな風が花枝を揺らし、ざわざわという優しい音がする。
花の形状的にひらりと風を含む感じはないが、ぱらぱらと落ちるライラックの花は、どこか、流星雨にも似た花の雨のよう。
こちらは更衣室などはいらず、魔術でさあっと着替えを済ませてしまったウィリアムとアルテアもプールに入り、ウィリアムは、ざぶんと水に頭まで潜ってからぱしゃりと水面に顔を出した。
(砂漠で水浴びをしている時と、同じような感じなのかな………)
そう考えたネアはくすりと微笑み、いざ行かんとプールに踏み出した。
「ぎゃふ?!」
「おっと、思っているよりも深いから、気を付けるんだぞ」
こちらは淑女であるので、ネアとて大人しく入場した筈だった。
しかし、階段からプールの中に下り、そのまま踏み出そうとした途端に体がとぷんと沈んだのだ。
「……………ウィリアムさんがいなければ、ばしゃんと沈むところでした。プールの水があまりにも綺麗なのでそちらに目がいってしまい、中に入るまでは認識し難いのですが、かなり深いのですね………」
「ったく、だとしても足元はきちんと確認しろ。………種族的な体格の差もあるからな。恩寵として成り立つように、様々なものを受け入れる為の大きさなんだろうよ」
「ネアが逃げた……………」
「は!私の大事な魔物は、まだ、何気なく泳ぐという技が出来ないのでした。ディノ、浮き輪を出せますか?」
「……………うん」
もそもそと魔術でどこかにしまってあった浮き輪を取り出したディノは、それで漸く、階段部分から離れられたようだ。
ネアは、他の誰も浮き輪を必要としなかったことで、残念ながらディノ以外は全員泳げるのだと気付いてしまい、ひやりとする。
だが、幸いにもディノは、再び一緒にいられるようになったことでほっとしたらしい。
水が肌に触れるだけで、蕩けるように心が柔らかくなってゆく、不思議なプールだ。
喉が渇いてならない時にごくごくと飲む冷たい水や、ほろ酔いで寝台に潜り込むときのような気持ちの良さに、ネアにも、祝福が肌に沁み込むのが分かった。
ざぶりと泳ぎ、ウィリアムがしていたように一度水に潜れば、水面に浮かぶライラックの花が星空のようだ。
深く息を吐き、浮かび上がってゆく気泡を眺めてから、またざぶりと顔を出した。
「…………まぁ」
「うん。祝福が浸透したようだね」
「す、凄いのですよ!疲労感のようなものが抜け落ちて、とにかく爽快で、おまけにうっとりする程に心地よいのです。こんなプールなら、ずっと泳いでいられるかもしれません」
「そろそろ、上がったほうが良さそうだな」
「ほわ………?」
ネアは、突然そんな意地悪を言い出したアルテアを、怪訝な思いでじっと見つめた。
プールの心地良さを語ったばかりであるし、そもそも、ネアはまだプールに入ったばかりだ。
ざっと遊ばせていただくにせよ、もう少しは滞在して然るべきであろう。
「祝福を得るための特異点だ。お前の可動域となると、過分な摂取は却って不調になりかねないだろうが」
「で、でないのですよ。もっとここであそぶので………… ぎゃふ?!…………むぐるるる!!」
慌てて泳いで逃げようとしたネアは、手を伸ばした使い魔にあっさり捕獲されてしまい、それでも懸命に威嚇した。
だが、同じように泳ぎながらプールに浮いている筈のアルテアの体は、押しても押してもびくともしないではないか。
「っ、………その格好で暴れるな!」
「ず、ずるいです!先に入ったエーダリア様達は、まだ泳いでいるではないですか!!」
「可動域の差を考えろ!おい、ここで足をばたつかせるな!その情緒をどうにかしろ!」
「なぜ情緒なのだ………」
ネアは、ディノならどうにかしてくれるかなと思い伴侶に助けを求めたが、残念ながらディノも、ネアのプール滞在時間はここ迄と考えたようだ。
哀れな人間は、すっかりお気に入りになったプールから早々に出されてしまい、溜め息を吐いているアルテアにタオルでざっと拭かれると、ぽつんとプールサイドに取り残される。
「ぎゅわ………?」
自分の資質の祝福をそうたくさん得なくてもいいディノも一緒に上がってくれたのだが、強欲な人間は、皆が楽しげにプール遊びをする様を外側から眺める羽目になり、たいそうわなわなした。
「わ、私も、もっとプールに入りたいのですよ………?」
「ごめんね、ネア。君はもう、祝福を充分に受け取れているから、これ以上だと魔術酔いをおこしてしまうからね」
「むぎゅう………」
とても心の狭い人間は、仲間達を暗い目で見つめ続けたが、皆はプールの心地よさに心を蕩けさせて楽しんでいるので、こちらで荒ぶる人間には気付いていないようだ。
続いて上がったエーダリアが、そこで漸く荒ぶる家族に気付いてぎくりとしていたが、ヒルドもノアも上がり、最後までプールを堪能したウィリアムとアルテアが上がる頃には、ネアは、羨ましさのあまりにだしだしと足踏みしていた。
「ぐるる………」
「ごめんな、ネア。ついつい、疲れを癒すのに夢中だったみたいだ」
「ぐぬ。………ぬぅ。ウィリアムさんは、毎日お疲れなので、たっぷり遊んでいてもいいのですよ」
「やれやれだな。魔術酔いしないよう見ていてやったんだろうが。………おい、妙なものは取り出すなよ」
「ぐるるる………」
「ったく、後でパイでも焼いてやる」
「ぐる……………じゅるり」
ネア達がプールを出ると、今度は事前に連絡をしてあった騎士達に交代されることとなった。
この特異点が消えるまで、少しでも多くの者達が恩恵を得られるようにするらしい。
階位の低い騎士達はネアと同じように少しの間だけしか入れないが、それでも、騎士達の殆どが思わぬ恩恵を得られたその日の騎士棟は、皆の表情が明るく、とても賑やかであった。
ざぶざぶと泳ぐだけで心地よさにうっとりしたと話す騎士達を恨めしい思いで眺め、けれどもネアも、すっかり軽くなった体にはたいへん満足している。
ふと顔を上げると、どうだったかなという顔でこちらを見ている魔物がいるので、ネアは、とても快調であると示すためにびょんと弾んでみた。
「可愛い………」
「春明かりのプールには、また行きたいです!それに、これからは気候の良い日も増えてくるので、また、ディノのプールでも遊びましょうね。お休みの日にプールサイドでごろごろすると、素晴らしく贅沢な気持ちになるのですよ………」
「うん。………そろそろ、時間なのかな」
「は!アルテアさんの、檸檬パイが焼ける頃合いです!急いで会食堂に向かいますね!」
「沢山動いてる………。可愛い」
「むむ、体が元気いっぱいなので、いつもよりぴょいぴょいしてしまいます……?」
リーエンベルクの中庭にも、沢山のライラックの木があった。
冬ライラックや雪ライラックの見頃がそろそろ終わり、少し深みのある菫色の花を咲かせる、春の系譜のライラックが咲く頃合いだ。
ネアは、またあのプールが現れないかなと、窓から庭園の奥を凝視してみたが、そこにいたのは、まだ冬籠り明けでうつらうつらしている、毛玉のようなチューリップの妖精だけであった。
繁忙期につき、明日4/30の更新は、こちらでのSSの更新となります。
Twitterで本日22時までアンケートを取り、その結果を反映した2000文字程度のお話を書かせていただきますね!




