森蛾の盃と途切れた名前
黒いインクを流すようにゆっくりと落ちてくるのが、気象性の悪夢の常だ。
だが、水盆の悪夢となると、その定着迄の時間に苛烈な反応が現れる。
備えのない土地などでは小さな集落が跡形もなく吹き飛ぶこともあり、嵐を実現させる悪夢だと信じている者達も多い。
(いつだったか、とある街を呑み込んだ高潮も、こんな悪夢が引き金になった)
海沿いの街であったのにもかかわらず、住人達がゆっくりと水位を上げた海の異変に気付くのが遅れたのは、悪夢の落とす闇の帳があったからだ。
結果として大きな街とその土地に付随する流通の要所が失われ、近海に大きな影響を出した事件だった。
その事件を戒めとし、それ以降、大国の各港には、悪夢の際に使われる魔術観測所が設けられるようになった。
ヴェルリアも例外ではなく、この港は、古きよりその備えを有していた場所の一つである。
(だが、………)
渦巻きながら落ちてくる悪夢を見上げ、よりにもよって満月の夜かと眉を顰めた。
引き摺り込まれる訳にはいかない者達がこんな日に海に近付くことはないが、満月の落とした光の環が、あの海の底に眠る港への門を開くのはこんな夜なのだ。
波の具合にもよるが、もしあちらから何かが上がってくるのだとしたら、ヴェルクレア王の設けた関所だけで事足りるかどうか。
その設計に携わったのは砂糖の魔物や見聞の魔物であるが、あちら側からの訪問者の全てが、こちらの世界層の理を有しているとは限らない。
理を違えていれば、設けておいた境界など容易く踏み越えてしまう。
「……………余力は、……………なさそうだな」
「ああ。……………すまない。思っていたよりも飛来物が多いようだ……………」
隣に立っているのは、この国の第一王子が契約をする火竜だ。
ドリーは今、バルコニーに立ち、ケープを風に大きく揺らしている。
薄っすらと光を纏うような魔術の色に、ぼうっと風の中で白い光に包まれて一瞬で灰になったのは、港から飛来した係留用の大きな柱であった。
(海面を撫でるようにして、風が吹き上がり始めている。……………ある程度は選別をかけ、海から上がってくるものについても焼いてはいるな…………)
様子を見に寄ったヴェルクレア王宮では、契約の火竜が既に限界に近付いていた。
本来であればドリーだけに任せるべきではないのだが、海の外あわいの門が開きかけているからか、他の火竜達が怯えて姿を隠してしまっているのだ。
海竜や海の周りの人外者達の姿もないとなると、確実に何かは上がってくるだろう。
とは言え、底から上がって来るもの以前に、境界というものを好む曖昧で雑多な生き物達も多い。
多くは怪物と呼ばれるそれらの生き物を、ドリーは丹念に探し出し、こちらに現れないよう優先的に焼いているようだ。
ふうっと、煙草の煙が闇に流れた。
悪夢に溶け込むような黒髪を揺らし、アイザックが瞳を細める。
どこかから聞こえてくる羽ばたきや囀りに、海の底からの最初の層がこちらに到達したことを知った。
「……………おや、先方は海鴉ですか。では、こちらは私が引き受けましょう。蜂蜜酒に漬けて食べる好事家がおりますからね」
「グリムドールだろ」
「後から上がってくるものの中に、今代にも名前を残すようなものがいなければ幸いですが……………」
「海鴉ということは、魔物の代の前歴だな。最悪、月と夜が上がってこなければどうにでもなる」
「海の魔物は、既に影の国におりますからね」
それは、誰にも理由の分からない理である。
前歴からこちらに姿を現す者が、名前を重ねる事だけはない。
蛇行する河川のような時間軸に、気紛れに重なる世界線。
そのどちらも規則性などないに等しいのに、同じ名前を持つ者が重なる事だけはなかった。
また、絶対に観測されないのが、万象と終焉である。
こちらは世界の重なりという意味で顕現自体が難しいものなのか、絶対的に失われたからこそ、二度と姿を見せないものか。
(影の国に現れる海の魔物や、それに準じる生き物の成れの果てがいる以上、そちらの名前を持つ生き物がここに上がってくることはない)
同じ理由で、前世界の書の魔物があの預言者以外に確認される事もなく、アイザックが取り扱う海鴉が、他の形や資質の海鴉として新たに現れる事もない。
ひと柱の者に対応している間に、別の同じものを司る誰かが顕現しないだけ幸いでもあるのだが、それが暫定的な規則性なのか、或いは何か理由があるのかすら定かではなかった。
だがやはり、最も多くの境界が確認されるのは、最後に繋がりが残った海である。
また、今でも前の世界層の幻影や亡霊のようなものが確認されるのは、やはり海の周りばかりであった。
そこはきっと、対岸なのだろう。
河川や湖のそれとは違い、正体の掴めないもの、或いは誰も知らないものの現れる対岸である。
そして今日は、そんな向こう側からの来訪を助ける風が、よりにもよってこの国の王都に向けて吹いているのであった。
(だが、ヴェルリアの王都は、元々が、そちら側に面した立地があってこそ発展した国だ)
その国ごとに様々な資質を持つ者達が生まれるが、ヴェルリアの王族の中に現れるそれは、渡航者という名前で呼ばれる異能である。
国や土地の質とは別に、各国の王や土地の為政者などには、受け継がれる資質や異能を持つ者達が多い。
例えばヴェルリアであれば、渡りの才能に長けた者達の多さは突出していた。
だからこそ、長年外海からの来訪者を退けていた、森と湖と宝石の妖精達の国を、この国の王でも兵士でもなく王妃が攻略してみせたのだ。
(どちらかと言えば、人間よりはあちら寄りの女ではあるがな……………)
それもまた、海に近く暮らす者達の弊害なのだろう。
長い時間をかけて祝福を取り込んだ一族の子供に、誕生で送られる祝福を強欲に集め過ぎた事で、魂や心が人間の領域からこぼれ落ちる人間となる事がある。
この国の王妃などがまさにそれで、どちらかと言えば海の精霊達に気質が近い。
その残忍さを嫌厭されながらも障りなどをあまり受けないのは、あの人間が、多くの者達にとって目を背けたい歪みでもあるからなのだ。
「……………アルテア」
「ああ。……………何かが出てきたな。船の魔物か」
ドリーには、追いきれないものなのだろう。
名前を呼ぶ声に一つ頷き、そちらの捕捉の為にバルコニーを離れる。
やはり、海に纏わるものが出てきたようだ。
悪夢の中の暗い海面に漂う木の箱のような船を、幾重にも魔術を重ねてかけ、海の底に落とした。
ゆらゆらと月光を蓄えるように、暗い海の底には賑やかな港街が見えた。
この様子を人間達が見たのなら、実現する悪夢が、誰かの記憶にあるどこかの港を映しているのだと思うだろう。
だが実際には、眼下にある港は、この世界のどこにもなく、なかった場所なのだ。
「……………やれやれだな。オフェトリウスがもう少し動けるとましなんだが」
魔術を束ねた煙草に火を点け、そう呟いた。
オフェトリウス程にこのような鎮めに向いた魔物もいないのだが、騎士達を束ねる立場にある以上、さすがにこのような日に好き勝手に動き回る訳にもいかない。
多少の自由はきくにせよ、王宮や王都の外周で海から上がってくる者達の対処だけをするには無理があった。
また一つ、こちら側のものではない存在が手を持ち上げるのが見え、大きな波の立つ海面に立ち、それを沈めていた時のことだ。
ざあっと響いた羽ばたきに眉を寄せ、近くで海鴉を集めているアイザックの方を振り返る。
だが、同じようにアイザックもこちらを見たので、どうやら同時に不可思議な羽ばたきを耳にしたらしい。
二人の間には、風にうねる海面とその下に浮かび上がるここではないどこかへの扉があるだけで、今対処したもの以上に、形のあるものが動く気配はない。
(……………となると、視認出来ないものか。……………或いは、夜や闇に紛れる特性を持つ者)
「この方向に飛び去ったとなると、王宮の方ですね」
「……………くそ。直線上は、あの王子の部屋か。……………アイザック、続いて上がって来る海羊は譲ってやる」
「おや、その場合は、正式な委任状などを交わした方がいいのでは?」
「どうせ素材になるんだろうが」
それだけを言い残して浅く転移を踏むと、悪夢で揺らぐ境界のせいか足場の悪さに閉口した。
降り立ったヴェンツェルの私室では、何か重たい物が倒れる音が響き、バルコニーには既にドリーの姿はない。
誰かの名前を呼ぶ押し殺したような声に、小さく嘆息した。
「エドラ、こちらに下がれ!」
「で、ですが……………」
「俺が……………」
「お前では無理だろう。そいつらは、森蛾だ。欲しがるのは瞳の方だからな」
「……………そんな」
部屋の中には、森蛾の羽を模した丈の短いドレスを着た女達が、無言でヴェンツェルを囲んでいた。
全員で十三人おり、それぞれの手に古びた金の盃を持っている。
中央にいるヴェンツェルは既に膝を突いており、すぐ近くには、代理妖精の一人がうつ伏せに倒れていた。奇妙に体が捩じれているので、もう死んでいるのか、或いは息があっても僅かな命だろう。
獲物を定めた森蛾には、こちらの世界にはない魔術の理が敷かれる。
こちら側の魔術で駆除するには、今はもう廃れた古い魔術が必要なのだ。
(だが、その対処法を持たないのも当然だ。……………本来であれば、海の門から出て来るようなものじゃない)
ではなぜ、そんなものが海から上がってきたのか。
確かな所は調べてみないと何ともいえないが、恐らくは、この悪夢の派生理由そのものに何かがあるのだろう。
そして、海から来るものしか警戒していなかったこの国には、森蛾の対処は伝わっていまい。
「……………くそ、一つ貸しだぞ。俺としても、こちらに倒れられると厄介だからな」
苦い思いでそう言い、はっとしたようにこちらを見たドリーに頷きかけてやる。
幸い、ヴェンツェルの有力な代理妖精達の姿は揃っているので、床に倒れているのはそれ以外の者だろう。
指先からざあっと灰になってゆくその様子を見て、床に蹲った人間の王子の目に、微かな絶望が揺れた。
ぱしんと手を打つと、森蛾の一人がこちらを見た。
目隠しをされた顔がこちらに向けられ、子供のような仕草で首を傾げる。
そうすると、その隣の森蛾が、そしてその隣が。
十三人全員がこちらを向けば、ぞろりと囲いが溶けた。
「っ、早く魔術洗浄を!!」
飛び込んだドリーがぐったりとしている契約の子供を抱き上げ、代理妖精達が忙しなく走り回る。
悪夢の定着前に気を抜くなと言いたかったが、こちらとしては、森蛾の輪が閉じる前にしなければいけない事があるのでそんな忠告をする間もなかった。
転移ではなく、併設空間を備え付けるようにして道を開き、とは言え完全に空間を閉じないように、この王宮内にある適当な部屋を借りた。
古い時代に作られ放置されている兵士の詰め所のような場所のようだが、邪魔が入らずに、悪夢の魔術の揺らぎがない場所が望ましい。
黴臭い空気に眉を顰めた後、魔術でざっと部屋を清め、囲まれても動きやすい位置にある椅子を選び、腰を下ろした。
森蛾を退ける為には、毒杯の内の一つは飲む羽目になりそうだ。
どのような効果があるか分からないが、恐らくは目に影響が出るのは間違いないので、立ったままでいるのは得策ではない。
森蛾たちは、大人しく並んで付いてくると、無言のまま周囲を取り囲む。
差し出された盃にはなみなみと葡萄酒が注がれており、香りとしては悪くないので、これを祝福に転じるようなやり方もあったのだろう。
とは言え、その手法はもう、こちら側の世界には残っていないのだ。
かたんと、どこか遠くで扉の閉まる音がした。
部屋の中は静かだが、目隠しをされている筈の森蛾達の視線を瞳に感じる。
アルテアが有している森蛾の記録は、赤系統の瞳に集まる、夜と森に属する生き物で、夏の祝祭や火を扱う祝祭に生まれ落ちるということくらいだ。
篝火の光を宿す赤い瞳を手に入れると、森蛾は夜の系譜の精霊に成るのだそうだ。
前身であるこの状態では魔物だというのだから、そちらの世界層はやはり理が違うのだろう。
「青い輪に宿るもの。赤い輪で辿るもの」
暫くして落とされた問いかけは、違う世界層らしい響きであった。
硬質な少女の声音ではあるが、不思議と、森蛾のどれかが口を開いたという感じはしない。
まるで、この場にはいない誰かが為した問いかけのようで、静かな部屋にその声の余韻が揺れた。
(…………そもそもが、こちらの世界には答えのない問いかけだ。知りようがない)
ちりりと熱を持った片目にうんざりしながら、多少は取られても、持ち去られた先で朽ち果てるように魔術調整をかけ、また、その為に使う対価の魔術に触れられるのは、こちらの魔術の表面だけにしておいた。
表層を抉られたとしても、一定期間の状態維持を対価として全ての影響を削ぎ落せるようにしておくこの手法は、犠牲の魔術の領域を借りた独自のものだ。
暫く待ち、答えがないと知ると、目の前に盃が一つ置かれた。
自分が、流れるような仕草でその盃を手にしている事に気付けば、成る程、そうして毒杯を呷る事にも魔術的な強制力を持つらしい。
ふうっと息を吐き、手にした盃の葡萄酒を飲み干す。
香りも味も一級品だが、飲んだ矢先から喉を焼くのはいささか低俗な毒とも言えた。
ぐっと瞼を押さえ付けられたように瞳に圧がかかり、少し取られたなと考え、溜め息を吐く。
(……………しかも、減っていくのではなく、空いた盃は補填されるのかよ……………)
ここで予想外だったのは、十三の盃には、常に葡萄酒が満たされるということだった。
先程飲み干した筈の盃には、いつの間にかまた、なみなみと葡萄酒が注がれており、盃を差し出した筈の森蛾の手の中に戻っている。
その森蛾から次の森蛾に入れ替わるように、取り囲んだ女達がゆっくりと歩を進めた。
だが、盃を差し出した森蛾が、こちらを見て首を傾げているので、思ったように奪えないことには気付いたらしい。
葡萄酒の循環がほぼ無制限であれば悩む必要もないだろうと言いたかったが、森蛾なりに、何か不満があるのだろう。
ばさばさと、大きな羽を打ち鳴らすような音が聞こえたのはその時だ。
これまでにない動きに警戒を強めながら、毒に焼かれた喉などの治癒を図る。
ある程度の治癒を重ねてかけても、対価として設定された瞳への負荷は変わらないままだが、こちらは我慢するしかない。
完全に取られたという状態になった時も、瞳を丸ごと奪われないようにしてあった。
見る為の機能を一時的損なうようになり、正常な状態を奪ったという認知を、森蛾達に収穫として誤認させる為の術式だ。
「リボン」
不意に、そんな言葉がどこかから聞こえた。
眉を顰め様子を窺ったが、先程の問いかけとは何かが違う。
「だめ、結ばれているもの」
「宝石」
「興味がないわ」
「ドレス」
「それもあんまり」
「食べ物」
「嫌な臭いがするわ」
「素敵な音楽」
「どうしてかしら、音楽が聞こえないの」
「楽しいダンス」
「なぜ、あの子は踊れないのかしら」
「家族はいない」
「ええ、家族はみんな殺されてしまった」
「名前を呼んでみる?」
「名前が見付からないのはどうしてかしら」
「ブラシを持っているわ」
「ああ、ではブラシにしましょう」
「大事そうに持っているもの」
「ええ、ブラシがいいわ」
「でも不思議、どうして名前が途切れているのかしら」
「まるで贄みたい」
「神様の庭の子供みたい」
(……………まさか、)
不思議そうに首を傾げた森蛾達と、交わされた言葉にはっと息を呑む。
どういう経緯でそちらに繋げたのかは分からないが、挙げられた言葉の中に、どう考えても一人の人間を示すような要素が幾つかあったのだ。
「っ、」
(森蛾の帰り道を残す為に、ここは遮蔽していない!)
慌てて立ち上がり、周囲の全ての道を閉ざす為の魔術を組もうとした時の事だ。
わっと、吐き出され荒れ狂う本流のような音楽が溢れた。
(…………音楽?!)
思わず目を瞠り、立ち上がりかけた姿勢のまま動きを止める。
部屋いっぱいに溢れた音楽は、ありったけの聖歌を一斉に掻き鳴らしたような悍ましいものだ。
それが聖なる領域のものであるからこそ、狂って歪んだ産声のように鳴り響く。
そして、次に落ちたのは、耳が痛くなるような冬の静寂。
真っ白な雪の上に誰かが下り立ち、けれどもその外周には夏の夜の祝祭の輪がリースのように広がっている。
そこは夜で、恐らくは聖域か聖堂の中で、けれども、あるべきものはもう失われていた。
祝祭と災い、そして冬と夏。
相反するものが重なり合い、息が止まりそうな程の静謐ばかりが残る。
「向こう側のもの」
「祝祭の子供」
「聖餐としての音楽」
「でももう一つ」
「でももう一つ」
「……………ネアンバーレ」
(……………っ!!)
そのままの響きは知らないが、ネアンというものは、この世界でも終焉を示す言葉である。
万象と終焉の名称は大きく変わらずに残ったと聞いているので、森蛾の属する世界層でも、それは終焉の領域の呼び名なのかもしれない。
その響きがこの世界で震えた事に気付き、どこか遠い場所で、ウィリアムが怪訝そうに顔を上げる様子が見えたような気がした。
万象のシルハーンが祝福を示すものであるのに対し、基本、終焉のこの名前は忌み名なのだ。
だが、今のアルテアに、そちらに気を向ける余裕はなかった。
いつの間にか、部屋の中には奇妙な聖域と雪と夏の祝祭が現れていて、そこには、一人の少女が立っていた。
ごとんと音を立てて、ブラシが床に落ちる。
ブラシを取り落とした少女が、はっとしたように足元を見た。
森蛾達はそのまま立っていたが、さざめくような恐怖の感情が伝わってきた。
そんな森蛾達に気付いてこちらを見ると、はっとするような水色と菫色の虹彩模様のある青い瞳を瞠り、けれども足元に落ちたブラシを拾おうと体を屈ませた少女は、雪のように白い髪をしていた。
(……………あれは、)
あれは、誰だろう。
声を上げるのが遅れたのは、この悪夢か、或いは森蛾達の呼び寄せの手法が、ここにはない筈の古い魔術の道を通ってしまったからに違いない。
そしてその要因が、ここにある筈のないその姿を見せたからだろう。
だが、その指には見慣れた指輪が嵌められていて、贈ったばかりの薔薇の軟膏の香りがアルテアを我に返らせた。
「拾うな!!」
拾えば、こちらに呼び落す為の魔術が完成してしまう。
森蛾たちはもう、限界だ。
手を伸ばして掴み取った獲物が、自分達の手に余る階位を持っていたのだ。
そんな壊れた魔術に引き落とされたとなれば、この王都のどこに放り出されるか分かったものではない。
だが、彼女がこちらに繋がっていたのは、そう声を上げる迄であった。
もう動きを止めるには遅かったのか、落ちていたブラシを拾った瞬間に、そこに立っているのはネアであった。
ほんの一瞬だけ、この世界から切り離された別のものとして認識され、実現する悪夢が描いて見せたものは、やはりこの世界にはないものなのだろう。
ふっと掻き消えるように見えなくなったネアを案じながら、ああ、あの人間は、こちらの世界に落とされて初めて、与えられた名前を切り捨て、人間になったのかもしれないと考える。
どさどさと音を立て、森蛾達が、床に倒れてざあっと崩れてゆく。
恐らくは、ネアを召喚したことで何某かの禁忌に触れたのだろうが、それを成したのがこちら側の万象の禁忌ではなく、あちら側の終焉に属する災いであるのなら、こうなるのも当然と言えた。
(……………成る程な。であればこそ、あいつをこちらに呼び落すのは、シルハーン以外では在り得なかった)
そうして得られる確信に高揚感を覚えたが、この部屋の状況としては最悪ではないか。
ネアが王都のどこに落とされたのかを追おうとしても、森蛾達の残骸から立ち昇るあまりの毒混じりの鱗粉に、遮蔽結界を解く訳にもいかない。
また、幸いにも森蛾は滅びたが、どうやら二巡目の問いかけに入りかけていたらしく、次の毒杯を飲めと魔術が訴えかけてくる。
その魔術の輪から爪先を引き抜くべく、時間をかけて、何重にも細かな術式を重ねてゆかねばならなかった。
“……………アルテア?”
「シルハーンか。……………あいつはどこだ?」
“ミカが迎えに行ってくれた。どうやらこの王都には、この世界層ではない者達を集積する為の施設魔術があるようだ”
「……………ああ、バーンディアの鳥籠だな。目当ての迷い子がいるらしいが、そちらに引っかかったか。であれば、他のどこよりも安全ではある訳か」
“君は、大丈夫かい?……………森と夜の古い魔術だね。篝火と祝祭も少しあるかな”
「……………ここから出るには、三日はかかるな」
“問いかけをするものはもういないようだ。……………澱だけであれば、私が払ってしまおう。目を閉じているといい”
「っ、……………おい?!」
ざあっと、また強い風が揺れ、床石から古びたテーブルから、その全てが一瞬で書き換えられた。
部屋の中に満ちていた毒が消え失せ、そもそもここにあった筈の、埃っぽい部屋すらその面影をなくす。
「……………おい、払ったというよりも、書き換えだろうが」
既に答えはないが、寧ろ、こんな状況になったものを放置していける筈がないと、頭を抱えそうになった。
立ち上がり、万象の気配や土地の再生の気配を引き剥がすべく魔術を編もうとしたが、ずくりと痛んだ瞳の奥に小さく呻き、もう一度椅子に座り込んでしまう。
無様な限りではあるが、この程度の損傷は、想定済みだった。
予想外だったのは、こうして磨耗している姿を、ネアに見られたことだ。
「……………うんざりだな」
であれば、ある程度の整理をした後に、リーエンベルクに身を預けざるを得ないだろう。
そう考えただけで不愉快になったが、そもそも、こうしてまた呼び落されたばかりのネアが、ミカに保護されたところで、本当に無事なのかどうかも、確認しておかねばならないことを思い出した。
舌打ちをし、指先を動かして杖を取り出す。
床を打ち、音の魔術で最初の一層を引き剥がしながらふと、薔薇の軟膏の香りがしたことを思い出した。
「……………ったく。やれやれだ。……………まともな顔の手入れをした褒美として、今回はあいつが納得するような形で歩み寄ってやる。……………契約を増やしたばかりだからな」
そう呟き、じわりと滲んだ額の汗を手の甲で拭った。
ハンカチを取り出そうとして、外してあったリンデルが収めておいた場所にあるかどうかを確かめる。
森蛾を引き受けると決めた時に外しておいたので、もう一度それを指に戻すと、酷い頭痛は少し和らいだ。
森蛾の処理よりは余程楽だったが、それでも骨の折れる作業を終えてリーエンベルクに向かうと、手早く服を脱ぎ、熱で朦朧とする意識のまま寝台に腰かける。
ノックの音が聞こえる前に寝台に入っておかなければいけないのは、なかなかに難儀な課題であった。
明日4/24より、4日から5日間ほど、別作品の更新となりますので、こちらの更新はお休みとなります。
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