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悪夢とミルクティー 4




「お帰り、ネア」



戻ってきたリーエンベルクの転移の間で、ネアは、ディノにぎゅっと抱き締められた。

この部屋にはいないエーダリア達は、とても恐縮していたが、ネア達の部屋の寝室に残っていて貰っているそうだ。



「よーし。じゃあ僕は、一足先にそっちに戻っていようかな」

「うん。有難う、ノアベルト」

「僕の大事な家族だから、頑張っちゃうよね。…………あと、アルテアも見付けたけど、まだ調整があるから手を出さないで欲しいってさ。あちらは無事に解決したみたいだから、シルの介入で慌てて逃げたんじゃない?」

「先程、返事が来たよ。王都での調整が落ち着き次第、……こちらに来るそうだ」



ああ、成る程ねと頷き、ノアは、転移の間を出ていった。


エーダリアとヒルドが二人だけでいるのが心配なのだなと思えば、危うい悪夢の訪れがあったからこそ家族で同じ部屋にいた筈なのに、そちらは大丈夫だったのだろうかと心配になってしまう。



「ディノ、私は、よりにもよってという時にあちらに迷い込んでしまったのですが、私のお家や家族は大丈夫でしたか?」

「あの後、特別に大きな被害は出ていないよ。…………どこも怪我はしていないね?」

「はい!王妃様の精霊さんのような怖い気配がしたのと、どこかアルテアさんのような雰囲気の、海の方から来た怖い女性に出会いましたが、途中からはミカさんがいてくれたので、すっかり安心していました」

「まだ夜が明けきらない内だったので、ミカが、私が作った道から君がいた場所に有している夜を足掛かりにしてそちらに行ってくれたんだ。条件を満たさないものは外側から入れないようにしてあったから、もう少し時間がずれていたら打つ手がなくなるところだった」

「……………ほわ」



そう聞けば怖くなり、ネアは、素直に魔物の持ち上げに応じる事にした。


無事でよかったと生真面目に頷いたミカにもう一度お礼を言い、そんな真夜中の座の精霊の部屋のある外客棟を経由して戻る事にする。


相変わらず窓の外は暗かったし、元王宮であるリーエンベルクの廊下もそれなりに天井も高い。

先程までいた場所と大差ないのだが、それなのになぜかネアはとても安心してしまった。


部屋までの道中では、ミカを交えて先程までの王都の話をしながら、暗い暗い気象性の悪夢に包まれたリーエンベルクを歩く。



「森蛾も厄介そうな生き物のようだが、彼女に接触したのは、恐らく魔物だ。あのような場所で、こちら側の世界層のものが擬態を続けるのは容易な事ではない。だが、僅かに擬態をしている気配もあった」

「であれば、そちらの世界層の中での高位のものだろう。…………この国の第一王子を気に入っているのであれば、既に邂逅を持ったものなのかもしれないね。月と海の円環の扉からあちらに渡る者は少なくないし、そこがあわいなのか橋の向こうなのかは判断が難しいが、そう簡単にこちらに渡れる階位の者ではないのが幸いかもしれない」

「来訪者ではなく、気象性の悪夢が映し出した影のようなものだったのかもしれないな。確かに、そうそうこちらに現れるものではないだろう」

「そうだね。……………時系列的には、森蛾達が先だろう。あの王子は赤を有しているし、森蛾の獲物に選ばれる事を懸念したのかもしれないね」


そんなディノの言葉に、ネアは、あの女性がヴェンツェルに向ける執着は、ここで共に暮らす魔物達の与えてくれる愛情のようなものであったのかもしれないと気付かされた。

異質さや、応酬で感じた気紛れさのせいで見逃していたが、それはネアが目にした一面に過ぎない。



「だとすれば、ヴェンツェル様にその方の事をご存知かどうか尋ねてみるといいのかもしれませんね」

「どうなのかな。……………心を傾けられていることを知るのは、必ずしも良い事ではない。そちら側の生き物について知見があるのなら、君が出会った人間に委ねておく方が賢明かもしれないよ。……………ただ、エーダリアやヒルドを介して、ドリーには伝えておいた方がいいだろう」


そのようなものなのだろうかと首を傾げたネアに、その世界層の生き物達の価値観が分からないからなのだと、ディノは教えてくれた。

同じ世界に暮らしていて、姿形はよく似ているがまるで違う人間と魔物のように、場合によってはそれ以上の乖離が隠されている生き物なのかもしれないではないか。


安易に近付きその境界を越えてしまえば、渡った橋の向こう側はまるで違う世界かもしれない。

また、その手を取り言葉を交わすだけで、想像もしないような対価を取られる可能性もある。



「……………私は、そこまで考えていませんでした。なのであの時、王様は物凄く焦って私の手を掴んだのかもしれません。積極的に関わりたい方ではありませんが、助けて下さった事には感謝しなければいけませんね」

「以前にグラフィーツが、この国の王は君を損なわないだろうと話していた。君の話を聞けば、君の持つ何某かの資質が、その人間にとって失い得ないものの象徴なのかもしれないね。そのような符号は望んで得られるものではない便利なものだけれど、重なるものを持つからこそ、その仕掛けの中に呼び落されたのだとも言える」



ネアはふと、あの建物は仕掛け罠のようでもあったけれど、人間は、檻を閉じ込め捕らえるばかりではなく、大事なものを保護する為にも使うのだと思い出していた。

とは言え、そんな気付きに言及すると、ネアがそんな場所に招き入れられたことの方が問題になるかもしれない。

狡猾な人間は、着地したばかりの問題を敢えて引っ掻き回す危険は冒さず、その可能性をぽいと捨てた。




「……………ベージ?」


ここでミカ達の使っている部屋に着き、折角であれば挨拶をと友人を探しに向かったミカが、残念そうな顔をしてすぐに戻ってきた。


「書置きがあった。悪夢が定着したので、騎士棟の方へ助力に出ているそうだ。君に会えたら喜んだだろうに」

「まぁ。もうそちらに向かって下さったのですね。とても残念ですが、朝食の時にご挨拶するようにします」

「ああ。その前に会えたら、君達が部屋まで来てくれたことを伝えておこう」

「一刻程で、朝食にするそうだ。君も同じ時間でいいかい?」

「ああ。リーエンベルクの食卓に着く機会などそうそう得られるものではないので、楽しみにしていよう」


部屋の前でディノに朝食の時間を教えて貰い、ミカは嬉しそうに微笑む。

書置きによると、悪夢が落ち切ったので、ベージは騎士棟で騎士達の見回りに参加してくれているらしい。

まさかのヴェルリアまでの出張となったミカは、暫く部屋でゆっくりと寛ぐそうだ。


ミカを部屋まで送ったのは、お礼も含め王都での話をしたかったからだが、ベージにも会えるかなと思っていたので、狡猾な人間は少しだけがっかりした。

部屋の前で別れ、自室に戻る為に元来た廊下を少し戻る。


「ディノ、一緒にミカさんをお部屋まで送ってくれて、有難うございます」

「うん。彼の視点でも話を聞いておきたかったからね。……………ごめんね、ネア。私が君を迎えに行きたかったのだけれど、君が落とされた場所は随分と特殊な魔術で絞られていて、夜を辿ってミカの為の道を開くのが限界だったんだ……………」


二人きりになったからか、そう言ってしょんぼりした魔物を見上げ、持ち上げられたままでいたネアは、こつんと額を合わせる。

小さな声で頭突きと呟いたディノに、安心させるように微笑んだ。


「でも、ディノがミカさんに私のお迎えをお願いしてくれたのでしょう?そのお陰で、私はこんなに早く帰ってこられたのだと思います」

「……………うん。でも君は、私の名前も呼んでくれたのに……………」

「ディノ」

「……………ネア?」

「はい。先程の代わりにもう一度呼んでしまったので、ギモーブを一個下さい。ディノは私の伴侶なので、帰って来たばかりの私を甘やかしてくれる権利があるのですよ?」

「……………かわいい」


魔物は少し恥じらってしまったが、ネアのお口に木苺のギモーブを押し込んでくれた。

甘酸っぱい美味しさをむぐむぐしつつ、ネアは、気になっていたアルテアの件を尋ねてみる。


「アルテアさんは、……………私のせいで、森蛾さんに何かをされてしまってはいません?」

「現状では、君のせいで損なわれたものはないだろう。ただ、元々、多少の損傷を許す覚悟でその生き物の獲物役を引き受けたようだ。……………なので、君にそのことを知らせたくはなかったのだと思う」

「むぐぅ……………」

「彼が、君があの場に呼び寄せられてしまったことで何かを損なうのであれば、……………これからなのだろう。王都での調整を終えてこちらに来るのは、…………不本意でもあるようだ」

「……………けれども、私が荒ぶるといけないのでと、こちらに来てくれるのですね?」

「うん。望ましくはないけれど、彼も慣れようとしているのだろう。…………どう言えばいいのかな、……………不本意な状態を共有することを、かな」



少し悩むように語られた言葉に、ネアはゆっくりと頷いた。



アルテアは、元々は野生の魔物だ。

今でも、契約という鎖はかけられても自由そのものを手放すつもりはないに違いない。

そんな魔物が、今回の傷はこの程度で、それを受けるしかない状況だったのは他に方法がなかったからなのだという報告の為にこちらに立ち寄るのだから、それはもう、さぞかし不機嫌に違いない。


ネアがあの場面に立ち会わず、何も知らなければ、詳らかにする必要はなかった無様さだろう。


であれば確かに、選択の魔物がネアのせいで何かを損なうのはこれからなのだった。

アルテアは、春告げで重ねてしまった新しい契約を損なわないようにする為に、そのような関わり方にも今暫くは耐えることにしたのだろう。



「折角来てくれるので、もし怪我などをしていたら、傷薬をえいっとやってしまってもいいのですか?」

「飲ませてしまうのかい?」

「…………あれは塗布用のものだとは知っているのですよ。ですが、それを知らずに飲ませてしまった時に素晴らしい効果を見せましたので、加算の銀器の効果を反映する為にも、多少は我慢して飲んでいただくしかないのです」

「ご主人様……………」

「まぁ。ディノが震えてしまわなくても、今回はアルテアさんだけが服用すればいいのですからね。……………もしや、ディノも怪我をしていたりするのです?」



はっとしたネアに鋭い目で見つめられてしまい、びゃっとなった魔物は、慌てて自分が無傷であることを証明しなければならなかった。

どこも怪我していないと懸命に説明する魔物を手厳しく質問攻めにしながら部屋に戻ると、目を丸くしてこちらを見ているエーダリア達がいる。



「ネア、無事で良かった。……………な、何かあったのか?」

「エーダリア様、ヒルドさん、ご心配をおかけしました。……………ディノが不審な様子を見せたので、聴取していたのですよ」

「怪我なんてしてない……………」

「むぅ。治してしまったものを、隠してもいません?」

「……………うん」

「ありゃ、凄い疑われてるぞ……………」


ディノにとっては幸運な事に、そこには、証人になってくれる家族がいた。

それぞれに証人になって貰い、漸く恐ろしい伴侶から解放された魔物は、へなへなになってノアの後ろに隠れてしまう。


「むぅ。なぜに怪我をしていないのに怯えるのだ……………」


捕まえようとしても隠れてしまうので、足踏みをしたネアに声をかけたのはエーダリアだ。


「……………あの方が、何か無理を言わなかっただろうか?」

「エーダリア様?……………ええ。最初の条件通り、一杯のミルクティーを所望されただけでした」

「そうか。……………良かった」


ほっとしたように微笑んだエーダリアに、ネアは、あの小さな部屋で過ごした時間と交わした会話を思い浮かべる。


ネアにとってはこの国の王様でしかない人だが、エーダリアにとっては実の父親なのだ。

エーダリアの幼少期は特殊な環境下であったので、関わりという意味ではそのような執着はないと聞いているが、どのような会話を持ったのかは気になるだろう。



「ずっと昔に王様が王子様だった頃、ここではないどこかの話をしてくれ、同じ魔術師さんに師事した、兄弟子さんがいたのだそうです。その方が振舞ってくれた紅茶を、あの方はずっと忘れられずにいたのでしょう。思っていた以上に、大事に飲んでいただいたように思います」

「……………父上が、……………魔術師に」


目を瞬き、途方に暮れたようにしているエーダリアに、隣のヒルドが気遣わし気な表情になる。

なのでネアは、人間というものはちょっぴり複雑ですねという目をしてみせ、でもその人は、あなたとはまるで違うのだとは言わなかった。



(一度は、同じ魔術師という領域に立ったのだとしても、……………王様はもう、羊飼いになったのだ)



理解し合えないという事にはならないが、並び立った時に足元に伸びる影は、きっとまるで違う形をしているに違いない。

近しいのかもしれないと期待をすれば、その相違はエーダリアを傷付けるだろうか。

だが、僅かな懸念を抱えたネアに安心させるように微笑み、エーダリアはいつもの表情に戻った。



「……………その兄弟子という人物は、灰色の瞳をしているのかもしれないな」

「まぁ、そうなのですか?」

「ああ。お前を迎え入れ、その報告で王都に上がった時、……………あの時は、便宜上ではあるがお前が一時的に私の婚約者でもあったので、手続きが完了したという報告に上がった事がある。……………お前についての報告書を見たあの方が、灰色の瞳かと言われたのを、今でも印象深く覚えているのだ。その時は、…………国の歌乞いが、王都で持て囃されるような配色ではないと失望されているのかと思った。……………だが、アリステルの事があった以上は、それはむしろ喜ばしい特徴だった筈なのだ」

「もし、身体的な特徴の何かが、その方の面影に重なったのであれば、ますます紅茶を強請られた理由が腑に落ちたような気がします。……………ですが、私があの方にお会いすることは、もうないでしょう」



ネアがそう言えば、エーダリアもしっかりと頷いた。

このあたりは、双方共に、どのようなことがあれ、中央には出来る限り関わらないという意見で一致している。


「すまないな。お前に、想定していなかったような駆け引きを強いた」

「あら、エーダリア様についてはもう家族なので、そうして謝っていただく必要はないのですよ?」

「そうなのか……………?」


王様の事が嫌いではないのだとは言うまい。

先程の邂逅だけで判断をするには複雑な人であるし、エーダリアもヒルドも、ネアなどより余程深くバーンディア王を知っている。

二人がどのように交わり、どのような思いを抱いているのかを想像しただけでも、安易にネア自身の浅はかな感想を伝えられる相手ではない。


「はい。今回の事は、悪いのは森蛾めだったのですし、あの方には危うい場面で助けてもいただきました。そして、うっかりそちらに迷い込んでしまった私は、その間に家族や大事なお家に何もなくて良かったと、心から安堵してしまうばかりなのです」


しかし、ネアがそう微笑んだ途端に、エーダリアとヒルドが不自然に視線を彷徨わせたではないか。

すっと瞳を細めて追及の姿勢を取ったネアに、ヒルドが、ミカがこちらを離れる時に、ディノが守護を引き取る際、小さな隙間が出来たのだと教えてくれた。


「……………ディノ?」

「ご主人様……………」

「誰かが怪我をしたという被害ではありませんので、ご安心下さい。ですが、庭園の設置されていた水盆が倒れましたので、この悪夢が収まったら戻しておく必要はありそうですね」

「……………ぎゅわ」


ネアが、それはやはり自分のせいでもあるのだと眉を下げると、魔物達は、途端におろおろし出した。

エーダリアまで途方に暮れてしまい、それもこれも強風のせいであって、倒れた石造りの水盆を直すだけなので大した被害ではないとヒルドが説明する様子を、三人で縋るように見ている。


ネアは、水盆そのものが壊れていないことと、まだ残っている雪の上に倒れたので無事だったことを知り胸を撫で下ろした。


「ですが、私も一因には違いありません。エーダリア様、皆さん、ご迷惑をおかけしました」

「いや、お前が無事に戻ってくれたのが何よりだ。それに、海からやって来る者達の情報を持ち帰ってくれた。その情報の価値で、充分に相殺されるではないか」

「む。そう聞けば、私はとても身勝手なので、すぐに調子に乗ってしまうのですよ?」

「いずれ、兄上とも、今日の事を話す必要があるだろう。……………その時に、お前が出会った女性の話をするかどうかは皆と相談してからだが、ガレンの長としても、………弟としても、そのようなことを知っておけて良かった」



とっぷりと闇に沈んだ悪夢の中で、エーダリアがそう呟く。

バーンディア王の思わぬ願いを知って考えることもあるだろうが、とは言え、エーダリアにとってより近しいのは、兄であるヴェンツェルの方なのだ。


ネアが出会った女性については、今後ダリルを交えて協議するという。



「まぁ。ダリルさんも交えてなのですね?」

「ええ。恋情の類が絡む場合は、彼の意見を取り入れておいた方が良さそうですからね」

「ほわ……………」

「あれ?そっちの界隈なら、僕もそれなりに力になれるけど?」

「おや、最近も刺されておりませんでしたか?」

「ありゃ……………」



そんな話をしていると、ディノとノアがすっと視線を交わした。

それが何を意味するのかを察し、慌てて立ち上がったネアを、ディノがもう一度持ち上げてくれる。



「エーダリア、アルテアがこちらに到着したようだ。いつもの客間を使うそうだ」

「ああ。何か必要なものがあれば言ってくれ。悪夢の中に入っているので、手に入らないものもあるだろうが、動かせるものは遠慮なく使ってくれて構わない」

「寝台と、夜の軽食でいいそうだよ。……………ネア、アルテアの様子を見に行こうか」

「は、はい!」



もう一度部屋を出る事になるが、ディノが一緒であるし、悪夢はもう渦巻いてはいないので大きな危険はないという。


部屋を空けることへの心配はなくなったが、まだ朝なのに、必要な食事が晩餐だけと告げた選択の魔物は、一体どんな状態にあるのだろうか。

不安のあまりにぐむむとなりながら、ディノの肩にしっかりと掴まると、こちらを見たディノが、安心させるように頬を寄せてくれる。



「肉体的な損傷ではなく、魔術的な中毒状態に近いらしい。……………盃の毒を飲まざるを得なかったのだろう」

「も、森蛾めは、激辛香辛料油をかけて燃やします……………」

「ご主人様……………」



だが、残念ながらそんな森蛾達はもう、海の向こう側に戻されてしまったようだ。

海からの訪問者達は、元々、夜が明けるまでの時間しかこちらには居られなかったらしい。



「月の円環が消えて門が閉じた後もこちらに残っていると、やがては消えてしまうからね」

「……………そう聞いた時に、私もそうなのかなと思ったのです。ディノが私を練り直してくれたのは、私が、この世界の者ではなかったからでもあるのですか?」

「そのような理由もあるよ。この世界のものではないと消えてしまうのは、規格や仕様が違うせいで、認識や理に弾かれ、更にはこの世界そのものの魔術で繋ぎ留められないからでもある。歌乞いとして万象である私に紐付けておけばそうはならないと思ったけれど、それは想定でしかないものだ」

「だから私は、慎重に準備を重ねてくれたディノのお陰で、この世界でただのネアになって、こんなに元気で幸せに過ごせているのですね」

「……………ずるい」

「その言葉が、どこにかかってくるのか謎めいています……………」



リーエンベルクの内部は、多くの権限を得ても尚、転移だけでは移動しきれない場所もある。

なので、まずは転移で外客棟の入り口に行き、そこからは徒歩でアルテアの部屋に向かう。

外からのお客を入れる外客棟では、有事の際に限定的に魔術を開かない限りは、転移の制限があるのだ。


今はもう見慣れてしまった経路を辿り、やっと辿り着いたアルテアの使っている部屋の扉をノックすると、どこか投げやりな声が返された。



「……………勝手に入れ」


それはつまり、立ち上がるのも億劫だという状態なのだろうか。

不安で胸がぎゅっとなりつつディノに床に下ろして貰い、一緒に部屋に入る。



(……………暗い)



悪夢が落ちているのに明かりを点けていない部屋は、酷く暗かった。


僅かな青い光が部屋に置かれている家具などの輪郭を浮かび上がらせているが、度々この部屋を訪ねていなければ、どこかに足を引っかけて転んでしまいそうだ。



「目に影響が出ているようだね。部屋の灯りは点けずにいようか」

「はい。……………私も、……………目に不調が出た事がありました。その時は、とても怖かったのですよ。……………アルテアさんは大丈夫でしょうか」



皆までは言わなかったが、ネアもまた、煽った毒杯で体調を崩した事がある。


そこまでするつもりはなかったのに、素人配分のせいで一度心臓が止まったが、幸いにも傷付きながらももう一度動いてくれた。

そんな経験を持つネアが勝手に心を寄せるのは、毒の熱や痛みに飲み込まれて落ちた、暗い暗い闇の色を知っているからだ。


部屋の暗さにいっそうに不安になってしまい、けれども、ネアはそれ以上の泣き言は言わなかった。

ここでネアがめそめそしても何の役にも立たないし、幸いにもこの手の中には、ディノの傷薬もある。

ネアが自分の不安ばかりを訴えても仕方がない。


ディノには周囲の様子が見えているのか、しっかりとエスコートして貰いながら寝室に入ると、ぼうっと淡い光が宿るように、寝台に横になっているアルテアの姿が見えた。

とても弱っているのですぐに労わるべきなのだが、ネアは、暗闇でも魔物は少し見えるという事にまず驚いてしまう。



「……………アルテア、機能的な影響が出ているのは、目だけかい?」

「毒のせいだろう。……………発熱と発汗、……………頭痛は僅かだな。目は、一時的なものだ。対価として受け流す為にあえて処置はしないが、この程度の症状であれば説明も付く」

「うん。では、傷薬を飲ませるのはやめておこう。……………ただ、ある程度時間を置いても復調しなければ、その時には飲んで貰うことになるかもしれない」

「おかしいだろ。……………あれは塗布薬だぞ」

「一万倍なのですよ……………」

「おい……………」


少しだけ苦し気な息で、アルテアがこちらを見た。

手を伸ばされたので近付き、そっと指先に触れる。



「……………お前は、何も取られていないな?」

「はい。私も海の方から来た方に出会いましたが、王様が割って入って下さいました」

「……………くそ、他にもいたのか。……………」


何か言葉を続けようとしたのだろうが、ふうっと深い深い息を吐き、僅かな沈黙が落ちる。

ネアは、汗に濡れた前髪を持ち上げておでこに触れ、ああ、魔物もこんな風に体温を上げるのだなと考えた。


「……………森蛾がお前を呼び寄せたのは、お前との繋ぎがあると、俺をこちらから持ち去れないからだ」

「むぅ。愚かな虫めなのです。アルテアさんは私のものですよ」

「虫は、……………嫌いだったんじゃないのか」

「蛾も嫌いですので、今度出てきたら、激辛香辛料油をかけて火をつけてくれる……………」

「……………お前な……………」



ネアに触れた時には僅かに開いていたようだが、アルテアはすぐに目を閉じてしまった。

恐らくは、閉じていた方が楽なのだろう。

ネアは、ディノに手伝って貰って冷たい水に浸したタオルを絞り、ぐったりしている使い魔の汗を拭いてやった。


体を起こせるほどにはまだ復調していないようなので、顔や首周りだけだが少しはすっきりするだろう。

思っていたよりも不機嫌そうではなかったが、その不快感を示すだけの余裕もないのかもしれない。

多少は煩わしそうにしていたが、世話を焼く手を振り払うだけの力もなかったのか、すぐに眠ってしまった。



「……………む。このまま眠ってしまいました」

「アルテアなんて……………」



体を横向きにしたアルテアに、頬に添えた手のひらを枕にされてしまい、ネアは途方に暮れた。

ディノが少し荒ぶっていたが、目を覚ましたら一番嫌がりそうなのがアルテア本人なので、眠っているアルテアの様子を見ながら、慎重に引き抜いてゆく。



寝台の横のテーブルに水差しとグラスを置き、何かを口に入れたくなった場合に備え、状態保存の魔術でディノに冷たさを維持して貰いつつ、葡萄ゼリーも置いておいた。

作ったのはアルテア本人であるが、熱が出ている時の葡萄ゼリーがどれだけ有難いのかは、ネア自身がよく知っている。



その後、朝食の席でもアルテアの話題が少し出た。

竜は怪我をしたりすると一人でどこかに籠りたくなるらしく、ベージが、看病されるのはなかなかに擽ったいものだと苦笑して教えてくれた。

ミカはリーエンベルクの朝食が気に入ったようで少し感動していたようなので、ネアは、あれだけ美味しい物を作る真夜中の座の精霊王ですらこの反応なのだと、ふんすと胸を張った。



悪夢が明けるのは、早くても明日の朝になるという。

完全な被害報告が入るのはそれ以降になるだろうが、強風が収まり、安全な遮蔽空間の中にいれば、長い夜を過ごすのと大差ない。


昼食にはハジカミを使った災害料理がいただけると知り、ネアは、ベージとミカに、そちらのメニューの素晴らしさも解説しておいた。



幸いにもアルテアは午後には復調したので、ネアは隙を見て傷薬を飲ませてしまうことに成功する。

不調が残るといけないのでと言えば盛大に顔を顰めていたが、森蛾を引き受ける際に、壊したりしないようにリンデルを外していたと聞いたので、せめて傷薬は飲むべきであった。







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